ミステリを超えて――『神よ憐れみたまえ』(2)

「終章」では黒沢百々子は、還暦になっている。そこから、両親の事件が解決したのち、今に至るまでを回想している。
 
百々子はそのあとすぐに結婚し、北島百々子になる。肉親が自分を愛するがゆえに殺人を犯す、という事態に堪え切れず、身近にいる男に救いを求めたのだ。そしてピアノを教える仕事をするようになる。
 
百々子はまた、妊娠を二度経験するが、二度とも流産した。それが夫との距離を生み出す。

「結婚以来、北島の私に向けた性的な執着は日を追うごとにさらに強くなっていった。時に獣のようなふるまいをすることすらあったが、それは何も彼にその種の性的興味があったからではない。私を抱くために寸暇を惜しんでいた彼は、文字通りの獣と化してしまっていたのである。
 子供を作る、というのは行為の結果に過ぎないことになった。」
 
夫は限りなく百々子の体に執着し、自分は百々子がいなくなれば生きて行けないと、わなわなと泣き出す「演技」が始まった。

「口先だけの薄っぺらい科白だったが、私は真摯に受け止めているふりをした。その裏で、馬鹿な選択をしたものだ、と内心、つくづく後悔した。」
 
その後もぎくしゃくしたやり取りがあり、百々子は結果的に北島と離婚する。
 
そして彼女は養子をとる。彼女の両親が惨殺された後、世話になった一家の娘が、出産と同時に死んで残された子供の「律」を養子にする。

それを機に、百々子は函館の一軒家に移り住む。
 
その後、還暦になるまで、百々子は仕事においても、私生活においても、充実した日々を送ってきた。
 
そうして徐々に変調をきたしていったのだ。

「人と会っていても、話の途中から、目の前にいる人の名前や自分とのつながりがわからなくなることがしばしばあった。十年も前からよく知っていた人ですら。」
 
ピアノを弾くことは何の支障もなかった。しかしたまに、指がかってに鍵盤の上を動いているだけ、ということがあった。

「自分の脳はその動きにまったくついていっていない、という、奇妙な感覚を覚えることがあった。意識と感覚が乖離している、と言えばいいのか。感覚はあっても意識が淀んでいて、何も理解していない。頭の芯が眠っているのに、身体の器官だけが勝手に動いていて、遠ざかる意識の中でそれを見ている、といったような状態が起こった。」
 
認知症である。60歳を超えたばかりで発症したのだ。
 
終章の後半は、それとの闘いと、それをめぐる考察である。そして最後にこういう文章が来る。

「何もわからなくなった私は、きっと、日がな一日、意味の通じない言葉が編み込まれたタペストリーを愛で続けるのだろう。そうしながら、終始、幸福そうに笑っているのだろう。
 生き抜く、というのはたぶん、そういうことのような気がする。」
 
この「終章」がなければ、それまでのところで、迫真のミステリとして完結していた。両親も犯人も、黒沢百々子も、みなミステリを構成する駒として、布置されていた。

「終章」があるために、黒沢百々子は、生きて呼吸する生身を取り戻し、それとともに小池真理子は、ミステリを超えて、大文字で書かれる文学作品を打ち立てたのだ。
 
(『神よ憐れみたまえ』小池真理子、
 新潮社、2021年6月25日初刷、12月10日第6刷)
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ミステリを超えて――『神よ憐れみたまえ』(1)

書評家の佐久間文子さんが、2021年の3冊で、小池真理子の『月夜の森の梟』を挙げていた。
 
夫の藤田宜永を看取るまでを書いたエッセイ集で、僕は「伴侶を失うということ」と題して、このブログに読後感を書いた。
 
そのとき小池真理子は、10年がかりの書き下ろし小説で苦労しており、そこに夫の死が重なり、大変だったと書いていた。
 
すると成り行きとして、その苦労した小説、『神よ憐れみたまえ』を読まない訳にはいかないだろう、という気になった。
 
車谷長吉流に言えば、そこで因縁ができたわけだが、この因縁は有り難かった。最初に結論を言えば、この作品は何年かに一度表われる大傑作である。

「昭和38年11月、三井三池炭鉱の爆発と国鉄の事故が/同じ日に発生し、「魔の土曜日」と言われた夜、/12歳の黒沢百々子は何者かに両親を惨殺された。/母ゆずりの美貌で、音楽家をめざす彼女の行く手に/事件が重く立ちはだかる。」
 
帯裏の一部を引けばこういうことだ。
 
このうち国鉄の事故は、鶴見駅の近くで起きた、列車の三重衝突によるもので、上下線合わせて死者150名を超える大惨事であった。

「だが、その時、先頭車両に乗っていた乗客たちは誰も、それが鉄道史上最悪となる重大事故が発生した瞬間であったこと……自分たちが乗っていた下り横須賀線に、上り横須賀線の電車が衝突し、中央付近の車両が大破して、さながら地獄絵図のように大勢の死者と怪我人が出ていたこと……にまだ気づいていなかった。」

この事故が、犯人の逃走経路と重なり、事件はなかば迷宮化してしまう。
 
ここまでを読んで、僕はなんとなく水上勉の『飢餓海峡』を思い浮かべた。

個人的な殺人事件と社会的に大規模な事故、その日は雨が降っていたということもある。黒沢百々子の両親が北海道出身というのも、そういう印象を強める。台風の夜、沈没した「洞爺丸」のことが、いやでも思い浮かんでくる。
 
そして全体を読み通してみれば、これはやはり『飢餓海峡』に似て、ミステリという枠には嵌められず、広い意味での文学作品であるのだ。
 
とはいっても、これは倒叙ものの優れたミステリの枠組みを、使ってはいるのだ。きょうだい殺しを扱って、どんなふうに読者を納得させるのか。

実に難物であるが、著者はそこを、力技で堂々とねじ伏せる。そこに到達するまでに、気の遠くなるような時間がかかったに違いない。
 
事件の全貌が明らかになるところで、作品を閉じてもよかったはずだ。そうすれば小池真理子の極上のミステリとして、そういうふうに批評も完結していたはずなのだ。
 
けれども、そういうことにはならなかった。ミステリの部分が閉じられた後で、「終章」が付いてくる。
 
この「終章」こそは主人公を、ミステリの枠組みから取り戻し、もう一度主体として、広い世界で生き直させるものだ。
posted by 中嶋 廣 at 00:14Comment(0)日記

これは読書会を開きたい――『同志少女よ、敵を撃て』(4)

著者はいわゆる「慰安婦」問題も扱っている。「慰安婦」は強制的に売春施設に送り込まれたのか、それとも自らの意志で軍隊に付いていったのか、と言うのが日本の場合。
 
しかし著者は、その前提を問題にする。
 
ナチス・ドイツの軍隊は、スラヴ人と性交し、「人種的にけがれる」のを防ぐために、ドイツ人やベルギー人、デンマーク人などを、売春宿に送り込んだという。
 
ドイツ人女が言う。
「『こんなことだと知っていたら来なかったのに』
 セラフィマは驚愕した。
 そして通訳を頼む赤軍の士官に、彼らの怒りを買いそうな語句を省いて説明した。
 赤軍兵士は動揺をあらわにした。
『つ、つまり奴らは敵地で売春宿を経営して、騙した女を連れ歩いているのか?』
『そんな馬鹿な、十字軍の時代じゃないんだぞ。恥ずかしくないのか』
 男たちにとっては異様なおぞましさと出会ったという思いがあるようだった。」
 
ここは著者の、「慰安婦」に対する正直な思いが、そのまま出ている。強制であろうがなかろうが、「敵地で売春宿を経営して」いるとは、十字軍の時代じゃないんだぞ。
 
強制であれ、自分の意志であれ、売春婦を連れ歩くというのが、信じられないというのだ。

それは、もう一歩突っ込んだところまで行く。

「だが、セラフィマはそれとは別種のおぞましさに震えた。
 人間の尊厳、女性の尊厳を一体なんだと思っているのだ。」
 
私は40年前、新宿の酒場のカウンターで、京都大学の中国文学の教授と、話していたときのことを思い出す。
 
先生は言った。掘っ立て小屋の中に女が1人でいて、兵隊たちはざっと100人が外に並んでいた。小屋に入り、女の体内に射精をするのに数分間。時間がかかって射精できないものは、女の体からなんとか引っぺがした。そういう差配をするのが、先生の役割だった。中国大陸での話だ。
 
先生は深刻ぶっておらず、しかしもちろん笑ってなどいなかった。淡々とそう言う話をし、私も淡々と聞いていた。女の人がどうなったかは聞かなかった。

「売春宿」と言う「宿」は、たぶん将校を相手にするためのものだ。下層の兵隊たちは、明日をも知れず、虫のように、動物のように、ただ射精したのだ。
 
そのとき女が、朝鮮人であるか、日本人であるか、強制的にか、自発的についてきたのかは、問題ではない。そういう「人間」にかかわることは、問題ではない。すべては「人間以下」の出来事だ。
 
全体をそういう目で見なければ、話は始まらない。そしてそういうことに、若者を追い込んではいけない、男も女も。
 
戦争が終わって、セラフィマは考える。

「戦後、ソ連は連邦内にあった最激戦地の二カ国、ベラルーシとウクライナの二カ国を優遇した。国際連合でもこの二カ国は独自の議席を得ていた。半ば独立国家のような扱いは、ソ連の中で破格の待遇と言えた。あのリュドミラ・バヴリチェンコが戦ったセヴァストポリ要塞を擁し、帰属をめぐる諸々の軋轢があったクリミア半島も、一九五四年にロシアからウクライナへ自主的に割譲された。
 ロシア、ウクライナの友情は永遠に続くのだろうか、とセラフィマは思った」
 
本書の刊行が2021年11月25日、ロシアのウクライナ侵攻が2022年2月24日。逢坂冬馬の『同志少女よ、敵を撃て』は、それを予言した本だ。
 
直木賞の候補になりながら、受賞は逃した。直木賞がアサッテの方を向いていることを、如実に示したものだった。

(『同志少女よ、敵を撃て』逢坂冬馬、
 早川書房、2021年11月25日初刷、12月16日第9刷)
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これは読書会を開きたい――『同志少女よ、敵を撃て』(3)

それにしても、戦争は無くならない。もはや地球規模でエネルギーのこと、異常気象のこと、脱炭素文明のことを、一刻も早く考えなければならないときに、相変わらず戦争をしている。
 
アフリカ、中東だけでなく、ロシアもウクライナに侵攻している。しかもプーチンは、姑息にも「戦争」と言わずに、「特別軍事作戦」と称している。
 
日本軍が、「退却」と言わずに「転進」と言っているうちに、原爆を落とされたようなものか。
 
安倍晋三氏が首相のころ、この言い換えを多発していた。南スーダンでの「戦争」を「武力衝突」、「武器輸出」を「防衛装備移転」、以下無数に言い換えて、テレビで見ている限りは、何のことやらわからなくなった。それが付け目だった(そういえば「カジノ」を「統合型リゾート」と呼ぶのもあったが、どうなっているだろう)。
 
安倍晋三氏やプーチンで分かるように、「政治」は特に問題のある人が、携わるものなんじゃないか、とついつい思ってしまうが、そしてそういうこともあるだろうが、「戦争」に関しては、それでは済まないことがある。
 
少女セラフィマは、闘う理由をこう述べる。

「復讐を遂げるという目標によって生きる理由が生じる。そして過酷な戦闘を戦う意義が生まれる。思えば無数のソ連人民の動機もまた、復讐にある。それが国家に基づくものであれ、家族に基づくものであれ、復讐を果たすという動機が、戦争という、莫大なエネルギーを必要とする事業を成し遂げ、それを遂行する巨大国家を支えているのだ」。
 
復讐だけではない。亡くなった父は、天皇陛下を神だと信じているものは、士官学校には一人もいなかった、それよりも父母のため、兄弟姉妹のためを思い、戦争に行ったのだと言った。
 
ついでに言うと、私は、それは結局、父母や兄弟姉妹のためにはならなかった、戦争に行った人間も、みな「犬死に」か「飢死に」だと言うと、父は瞬間、顔を紅潮させて「そうや」といった。きっと子供を前にしているから、嘘は言えないが、しかし認めたくはなかったのだろう。

父にしてみれば、父母や兄弟姉妹を思う気持ちは本物だったろう。戦争は必要だと思ったのだ。ABCDラインを打ち破らねば、みんな飢えて死んでしまう、と。

でもそれは間違いだった。近親者だけでなく、前線で一緒に戦った友も大勢死んだ。痛恨の極みなどと言っては、とても語れるものではない。

戦争に行くことなく、戦争中を生きた人間は、その話をいくらでもすることができる。しかし第一線で戦闘中だった人間は、口をつぐんで語ろうとはしない。

あるいは敵の人間を殺したことが、ネックになっているのかもしれない。そこは聞いたことがないので、人を殺したかどうかを含めて、わからない。

私もこの話はつらくて、二度と持ち出さなかった。

「復讐」はそれよりも、さらに重い話だ。そして「宗教戦争」、パレスチナ問題などは、どこをどうほぐしたらいいか、見当もつかない。
 
戦争に関しては、ここら辺りが人間の条件の限界だろうか、と今は思う。これをどうやったら乗り越えられるのか。
 
乗り越えられなければ、人間という種は、全体として亡びるほかないと思う。
posted by 中嶋 廣 at 09:17Comment(0)日記

これは読書会を開きたい――『同志少女よ、敵を撃て』(2)

以下、印象的なところを抜粋する。
 
ウクライナからやってきて訓練を受けるオリガと、セラフィマとの対話。

「ウクライナがソヴィエト・ロシアにどんな扱いをされてきたか、知ってる? なんども飢饉に襲われたけれど、食糧を奪われ続け、何百万人も死んだ。たった二〇年前の話よ。その結果ウクライナ民族主義が台頭すれば、今度はウクライナ語をロシア語に編入しようとする。ソ連にとってのウクライナってなに? 略奪すべき農地よ」。
 
セラフィマはびっくりして、「そんなこと誰かに聞かれたら、殺されてしまう!」というが、オリガは「そう。私はそれが言いたかった。本当のことを言えば殺されてしまう国に、私たちは住んでいる」。ソ連はそういう国だった。
 
これは日本人が書いた小説である。そういうことを前提にしたうえで、ロシアとウクライナの関係は、そういうことがあったらしい。で、今ではどうなんだろう。
 
ロシアは今、ウクライナを侵略し、ウクライナは国民の5分の1が、国外に脱出している。現象面だけを見ればそういうことだが、それぞれの歴史をたどってみれば、違った面が見えては来ないだろうか。
 
オリガはまた、こうも言う。

「ロシアとウクライナをまとめて奴隷にしようとするドイツに支配されていれば、ウクライナは奴隷でしかあり得ない。『ナチスとともにソ連を倒す』ことはできない。けれど『ソ連とともにナチスを打倒する』ことはできる」。
 
ロシアはかろうじて、ナチス・ドイツよりはましということだ。ウクライナの微妙な位置がわかるだろう。

そしてオリガは結論を言う。

「本当はあなたも気付いているんじゃないの? これは、異常な独裁国家同士の殺し合いなんだと」。

ソ連とドイツ、「異常な独裁国家同士の殺し合い」とは、実に冷静であり、そして肝が冷える。この小説は単純な活劇では、ぜんぜんない。
 
さらに言えば、オリガはたんなる訓練兵ではない。味方をスパイする秘密警察のような役割を帯びているのだ。うーん、ややこしい、けど面白い。
 
また別の狙撃訓練兵、シャルロッタとの対話。

「ファシスト・ドイツは女性を台所に押し込めているし、アメリカの女性はチアリーダーになっている。けれど我がソ連は女性が同等の国だと認めている。機会さえあれば、英雄にも将軍にもなれる。それを実現してみせたいの」。
 
セラフィマは、それは危険な発想だと思う。

「女性も男性と同じく国家に心身を、生命を捧げることができる。国家としてのソ連へ立派に貢献することで国力を上昇させ、そこで価値を認められ女性は輝くことができる。
 確かにそれは、ファシズムが性差別を背景に戦地から女性を遠ざける思想の対極ではあろうし、『男の兵士』のチアリーダーにするアメリカの発想とも異なるが、結局は、より同質性を強いる思想ではないのか」。
 
だから女のために戦うということは、男と同等に立って、男の代わりをすることではない。
 
セラフィマはこう考えるが、しかしまた「女性が徴兵制の対象でない以上、個々の女性兵士が自らの意志で戦争にはせ参じたこともまた事実だった」。
 
このあたりの議論は、なかなかのものだと唸る。アメリカやドイツ、さらに言えば、日本女性の銃後の守り、とは違う立場で、ソ連の女は第一線を戦ったのだ。女たちの狙撃小隊は、その突出した形だった。
posted by 中嶋 廣 at 09:36Comment(0)日記

これは読書会を開きたい――『同志少女よ、敵を撃て』(1)

著者は逢坂冬馬、新人である。去年の11月25日に初刷が出て、12月16日には9刷が出ている。

毎週3回、重版を繰り返していたわけだ。ちょっと信じられないけどね。しかし早川書房は、ずっと昔はケチ川書房と言われていて、その名残でちょっとずつ重版してたのかもしれない。
 
この作品はまた、第11回アガサ・クリスティー賞を受賞している。といっても、これまでどういう作品が受賞したのかわからないので、ウイキペディアで調べてみる。
 
ここまでの10回は、見事に私の知らない作品だった。黒川博行を除けば、ミステリ作品を読まなくなって久しいことが、いまさらながらよくわかった。
 
さてそこで逢坂冬馬の『同志少女よ、敵を撃て』の話だ。
 
第2次大戦中、独ソ戦が激しくなる1942年、モスクワ近郊の農村に暮らすセラフィマは、急襲したドイツ軍が村人を皆殺しにし、射殺される寸前を、ソ連の女兵士、イリーナによって救われる。
 
そこからセラフィマは、狙撃手になる訓練を受け、女だけの小隊で縦横無尽の活躍をする。彼女には、母を殺した敵(かたき)であるドイツ狙撃兵を討つ、という目的があった。
 
大枠の筋を言えばそういうことなのだが、この小説の価値、というか特異な点は、そういうところにはない。
 
とにかくいろんなものが交じり合っていて、この作品は、それこそ読書会を開いて四方八方から意見を聞きたいし、また自分でも言いたい。
 
最初の50頁くらいまでは、ジュブナイル小説みたいな文章で、いやこれは困ったと頭を抱えた。こんな文章を終わりまで読むのか。

しかしそこを過ぎると、きめ細かく落ち着いた文体で、ぐんぐん惹きつけていく。とくに後半3分の1は、頁を繰るのも忘れて没頭してしまった。
 
この小説は武器に関する叙述が非常に細かい。私にはチンプンカンプンだが、そういうところに惹きつけられる人もいるはずだ。
 
そしてチンプンカンプンとはいったが、そこが描きこまれていないと、女性だけの狙撃小隊がリアルではなくなる。
 
この本の際立った特色の一つは、戦時下の女性をどう捉えるか、ということである。少女セラフィマは訓練中に、「私は女のために戦いたい」と言う。それは、ただ戦争に加担して勲功を立てればよい、というのとは全く違う。
 
この本の最後に「主要参考文献一覧」があって、最初に挙げられている本は次の通りだ。

 『総力戦と女性兵士』(2001、佐々木陽子、青弓社)
 『戦場の性――独ソ戦下のドイツ兵と女性たち』(2015、レギーナ・ミュールホイザー、姫岡とし子訳、岩波書店)
 『戦争は女の顔をしていない』(2016、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ、三浦みどり訳、岩波書店)
 
これらの本が最初に挙げられているのを見ても、この小説でいちばん強く打ち出したいのが、なんであるかが解る。
 
もう一つ、通常の戦争小説と違うのは、ソ連軍からドイツ軍を描くときには、ナチス・ドイツは、ソ連を皆殺しにしようとするが、反対にドイツからソ連を描くときには、ソ連軍は人間ではなく悪鬼、鬼畜だということだ。そういうふうに書いてある。
 
戦争とはこういうものなのだ。逢坂冬馬はこの点に関しては、まったくブレていない。
posted by 中嶋 廣 at 09:31Comment(0)日記

ハードボイルド小説の終焉?――『熔果(ようか)』

「あなたが黒川博行を読んでいると、Nやん、どうしてるかなあと思ってしまう。元気かな」
 
妻がしんみり言う。

「新型コロナの騒動が起こってから、新幹線で行き来してないからなあ。電話もかけてこないし、ほんとにどうしてるかなあ」
 
そんな話をして3,4日後に、Nやんがひょっこり顔を見せた。まん延防止措置が解除になったのだ。数えてみると実に3年ぶりだ。

「『熔果(ようか)』、読んだか」
 
挨拶抜きで本の話である。

「読んだ。相変わらず面白かった、けどな……」

「せや、面白かったけど……、ちょっと考えるわな」

「いや、中身はしっかりしてて、ええんや。元大阪府警暴対課の〈堀内信也〉と〈伊達誠一〉の漫才も、例によって快調や。2人とも刑事の職を失敗して、今の肩書はヒラヤマ総業の調査員、それが博多の金塊密輸グループ相手に大暴れするっちゅうのはええんや」

「しかも博多だけやのうて、大阪の半グレグループ、小倉で金塊を強奪される、後ろ暗い被害者たち、それと名古屋の暴力団〈木犀会〉と、西日本を縦横に駆け回る。途中、2人の漫才を挟んで停滞がないのは見事やと思う」

「ただ〈堀内信也〉は前作の終わりに、ヤクザに襲われて死にかけてるやろ。それでリハビリを続けたけど、左膝のしびれが取れんで、どこへ行くにもステッキが離せん」

「CTを撮ったら脊柱管狭窄(せきちゅうかんきょうさく)いうことになってる」

「これは筋の上での成り行きか、それとも黒川博行が、そろそろハードボイルド小説を終わりにしたいんか、どない思う」

「難しいねえ。例えばこういう一節はどないや。

『「一年以上も逃げまわったあげくに、金塊二十キロを騙しとられよった。あいつにはもう、なにも残ってへん。盛者必衰、犯罪者の末路いうのは、そういうもんやで」
「盛者か……。誠やんにそんなころはあったか」
「なかったな。これからもないやろ」
「おれは今里署のころが盛者やったかもしれん。肩で風切って歩いてた」(中略)
「――それがいまは杖ついて歩いている」』
 
こういう独特の陰翳は、黒川博行の小説にはなかったな」

「もっとはっきりしてるんがある。終わりの方、〈堀内信也〉の1日の描写や。

『小腹が空いていたから、天神橋筋商店街でたこ焼きを買い、アパートにもどってテレビを見ていたら、またいつのまにか眠っていた。無為な一日だった』
 
最後が強烈やね。ハードボイルドの主人公が、わざわざ自分の一日を言葉に出して、無為というかね」

「ほんで最後に、こういう一節がくる。

『おれはいったい、なにしてるんや――。ふと考えた。勝っても負けても、うれしくはないし、悔しくもない。どこかしら投げやりな自分がいる』
 
いちばん最後にこんな独白が来るんじゃ、黒川博行のハードボイルド小説も終わりが見えたな。このあとガラッと作風を変えた、大胆な展開があるかもしれん」

「そういう意味では、この『熔果』は、最後まで燃え尽きたということで、異色の作品やね」

「一応そういう結論の出たところで、ほれ、もう新幹線の最終ギリギリや。」

「うん。またちょくちょく寄ってくれ。ほんならな」

(『熔果(ようか)』黒川博行、新潮社、2021年11月20日初刷)
posted by 中嶋 廣 at 09:58Comment(0)日記

ゾッとする話――『賃金破壊―労働運動を「犯罪」にする国―』(2)

この事件は、こういうことを誰が最初に先導したのか。滋賀県警、大阪府警、京都府警……、普段は中のわるそうな府警、県警を、時間差を保って組合員逮捕にもっていく、そんなことが、鮮やかにできるものなのか。
 
著者も一応は考察している。

「つまり、関西生コン事件は、『縮小する経済のなかでの経営側によるパイの独占』と『会社は経営側のものという原則の確立』という企業にとっての二つの悲願、そして、『戦後レジームの見直し』を掲げ、憲法に代表される戦後的平等世界の引き戻しを目指した安倍政権の登場、といった要素の総和が、『関生支部という強い労組』めがけて集中した結果だったのではないか。」
 
まあ元朝日新聞の記者としては、これでたぶん及第点になるのかな。でもやっぱり特定の個人、あるいは特定の集団に迫っていただきたい。そうでないと、消化不良に陥る。
 
もう一つの、この事件が明るみに出てこない、という点。新聞・テレビについてはよくわからない。表に出ないコードがあって、内輪で細かく規制しているのだろう。こちらも、特にテレビについては、普段はそういうものとして視聴している。
 
問題はインターネットである。じつは関西生コン事件は、ネットではそこそこ有名で、僕も聞いたことがあった。
 
それは、簡単に言ってしまえば、「関生支部」は暴力的集団であり、警察まで介入しているというものだ。実際、ネット上では「関生支部=暴力的集団」の情報一色である。そして僕も、人からのまた聞きで、なんとなくそういうふうに納得していた。
 
このうちの動画には、「瀬戸弘幸」が頻出する。ジャーナリストの安田浩一は「(瀬戸は)ネオナチの極右活動家として知られた存在だ」と述べる。
 
瀬戸は安田の追及に、次のように反論している。

「私は大阪広域から紹介された経営者協会と業務委託契約を結び仕事をしたので、その対価として報酬を得たのは事実であり、それは何もやましい事ではない。」
 
そういうわけで、「関生支部」の動画のネット情報は、月70万円で請け負われた仕事だったのだ。竹信三恵子は、「SNS上にあふれる情報発信の一端を垣間見せる」と記している。
 
ほかにも発信者や掲載媒体を見ると、産経新聞や勝共連合が大半だ。露骨に名乗っている場合もあるが、それでは一方の陣営しか取り込めない。そこでたとえば、「Yahoo! 知恵袋」だったり、「サラリーマンの為の成長読本」とか、「恋や仕事を頑張る女性のためのWEBマガジン 地方女子」など、一見そういうのではないサイトも活用する。

「SNS上で拡散される情報が、『なんだか怖そうだから触れたくない』『巻き込まれたくない』という『空気』を形成し、その空気が主要メディアをけん制することになる。SNSという新手の情報空間が、『取り上げにくい空気』を作り出すというわけだ。」
 
関西生コン事件を追ってSNS発信者をたどっていくと、ヘイト集団、右翼がかった出版社、右寄りの大手報道機関、野党攻撃を目指す政権側といった、様々な組織による情報包囲網のようなものが見えてくる。
 
これはよほど心してかからねば、と思う。僕はネットの情報は、見出しは読むけれども、記事の内容は、原則として読まない。特に韓国と中国に関するものは読まない。

中国も韓国も、ここ150年くらい付き合ってきて、特に父の世代は直接に付き合い方を間違えた。相手も限りなく不幸だが、こちらも一生、そういう軛(くびき)から逃れられない。それだけでなく、その子供(つまり僕だ)も、そこから逃れられない。そういう経験を無にはしたくない。
 
そういう目で見ると、ネットの中の中国・韓国などの情報は、インディ・ジョーンズが地下の洞窟を這い回るときに涌いてくる、ゴキブリやヒルやサソリのようなものだ。
 
中国や韓国だけではない。「関西生コン事件」は、氷山の一角に過ぎない。様々な情報包囲網のようなものを、いかにして逃れるか。遮断してはいけない。ではどうやってそれを乗り越えていくのか。いまのところはまったく五里霧中だ。

(『賃金破壊―労働運動を「犯罪」にする国―』竹信三恵子
 旬報社、2021年11月10日初刷、2022年1月10日第2刷)
posted by 中嶋 廣 at 09:23Comment(0)日記

ゾッとする話――『賃金破壊―労働運動を「犯罪」にする国―』(1)

なかなか強烈なタイトルだ。帯には4人の推薦者が、短い文章を添えている。上野千鶴子、内田樹、浜矩子、松尾匡とくれば、編集者の意気込みが知れよう。
 
その中の内田樹の文章。

「恐ろしい話を読んだ。/日本はもう治安維持法の/一歩手前まで来ていることを/この本に教えてもらった。/明日は我が身かもしれないと思う。」
 
著者の竹信三恵子は、1976年、朝日新聞記者の記者になり、2011年~19年、和光大学現代人間学部の教授を務めた。著書に『ルポ賃金差別』(ちくま新書)、『正社員消滅』(朝日新書)、『企業ファースト化する日本』(岩波書店)などがあるが、僕は読んだことはない。
 
事件の構図はくっきりしている。

「大阪、滋賀、京都、和歌山など近畿地区の生コン企業の運転手らが加入する『関西地区生コン支部』(『関生〈カンナマ〉支部』)という労組の組合員らが、二〇一八年の夏以降、ストライキや団体交渉を理由に相次いで逮捕され、しかも、工場のベルトコンベアに乗せられたかのように粛々と、大量に、起訴され続けている」。
 
もちろん僕らが中学で習ったように、「団結権」「団体交渉権」「団体行動権」は、労働基本権として日本国憲法に明記されており、組合活動を抑え込むような大量逮捕など起こりえない、そう思っていた。
 
ところがさにあらず。80人を超える組合員が逮捕され、しかも報道管制が敷かれたかのように、新聞・テレビでは、それはまったく報道されなかった。
 
異様なことはそれだけではない。滋賀県警で組合員が起訴されると、次には大阪府警が出てきて、時間差で、同じ組合員を別の容疑で逮捕し、勾留する。次には京都府警が、という具合で、その組合員はいつまでたっても保釈されず、延々と勾留が続くことになる。それが89人いたのだ。

「逮捕、勾留、起訴→逮捕、勾留、起訴→逮捕……と、際限なく繰り返される。無限ループのような逮捕劇のありさまを知人から聞いているうち、私の頭には、一九三六年に公開されたチャップリンの喜劇映画、『モダンタイムズ』のシーンが浮かんできた。」
 
なんども警察に捕まり、護送、勾留、釈放という、チャップリンの際限のない繰り返し。しかし組合員には、釈放はなかなか訪れない。この事件の逮捕者のうち、最長は勾留644日に及ぶ。刑罰を受けているのと同じことだ。
 
当然、食っていくことができず、「関生支部」を抜けるものが出てくる。取り締まる方は、まさにそれが狙いなのだ。
 
竹信三恵子は、生コン企業の背景から「関生支部」の組合員の取り調べに至るまで、裁判のやり取りも含めて、主要なメンバーのケースを丁寧に記述していく。
 
でもね、これは少し引いてみれば、こういうこともあるかも、と思ってしまう。ついこの前まで、安倍晋三氏が総理大臣をやっていた。そこでは言葉などどうでもよい、まったくデタラメな政治を行っていた。
 
官僚が責任を取らされて自殺したり、教育勅語を学ばせる小学校経営者を、まずくなると、手のひらを返して監獄にぶち込んだり、友達の経営者に大学獣医学部を作らせたり等々と、勝手好き放題をやっていた。
 
この時期、日本は法治国家ではなかった。検察は捜査はしても、安倍晋三氏を起訴することはなかった。法治国家の形骸だけを残したのである。
 
こんなことがなぜ起きるかといえば、もちろん国民がそれを良しとしていたからだ。さすがに過半数とはいわないまでも、とってかわる人がいなかった、と思われていたようだ。
 
そういう目で見れば、労働運動がどこまでも捻じ曲げられて、たんなる暴力団と違わない行為とされることは、いかにもありそうなことである。
 
しかしそれでも、問題は残る。そもそも誰が主導して、これだけ大きなことになったのか。そしてそれが、なぜ表に出てこないのか。
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性と生殖のすべてを疑う――『消滅世界』(2)

第Ⅲ部は実験都市・千葉が舞台だ。そこでは人工授精によって生まれた「子供ちゃん」を「おかあさん」が、いっさいの分け隔てなく、均等に、あふれるばかりの愛情をもって、育てている。「おかあさん」は、若い女性もいれば、中年の男もいる、子供を育てる人間の総称だ。

「子供ちゃん」はみな平等であって、特定の親に属してはいない。ここでは、「家族」が消滅している。

あるいは千葉全体で、大きな一家族なのだ。だからこれは、「楽園(エデン)システム」という実験都市なのだ。

「雨音」はそういう実験に対して疑問を持つ。

「私はうすら寒い気持ちだった。ヒトの子供をまるでペットのように可愛がるだけ可愛がり、責任は持たずに自分ひとりが住む自由な家へと帰っていく。本当に、こんなことで子供たちは自分が『世界から愛される存在だ』と感じることができるのか疑問だった。」
 
しかし夫は、実験都市に魅せられていく。夫は人口子宮で、子供を妊娠することになる。

「実際、夫は実験動物なのだ。だからこうして手厚く保護されているのだと言いたくなったが、胎教に悪い気がしたので口に出すのはやめておいた。
 中にいる子が笑う表情までわかると、夫はうれしそうにお腹を撫でまわしていた。何だか、子を孕んでいるというより、巨大な寄生虫にとり慿かれているかにみえた。」
 
こうして「雨音」はただ一人、孤立していく。
 
こう書いてくると、面白そうではあるのだが、全体としては今一歩の感がある。
 
初めに発想があり、しかしそれが熟してくるまでの時間が足りない。その結果、いちいちの文章が、なんとなく嘘くさい。あまりにもつくりごとすぎる。そういうことだ。

小説は嘘に決まっている。しかしそれは、嘘によってしか描かれない真実なのである。嘘はいいけれど、嘘くさいはよくない。貧乏と貧乏くさいが違うようなものだ。
 
本作に対する私の評価はそういうことだが、そういうこととは別に、この作品は深刻な問題を提起している。
 
2021年の日本人の出生人口は約84万人、これは前年に比べて、約3万人少ない。この分で行くと、あと30年たつうちに、日本人は生まれなくなる。
 
というのは大袈裟な話だ。去年は新型コロナウイルスの感染拡大で、結婚する人の数が減り、また妊娠を控える動きも強まった。しかしともかく6年連続で、出生数は過去最少を記録した。つまり加速度的に、日本人の出生数は減少し続けているのだ。
 
いずれにしても出生数が50万を切ったとき、つまり日本人の消滅が、話題として強く浮上してきたとき、村田沙耶香の世界のうち、いくつかは実現しそうだ。
 
確実な受胎のために、理想的な条件を満たすべく、人工授精が当たり前になったり、夫婦で受胎しない場合には、夫も妻も、相手を変えて、人工授精を何度もしたり、というようなことである。
 
その場合に夫婦の考え方は、セックスから子供へというふうには、ならないであろう。
 
また子供を育てることについても、家庭は最小の基盤としてあるとしても、社会全体で子育てをしなければ、という方向になってくるのではないか。
 
村田沙耶香の小説は、あまりに逆説が多くてうんざりするけれども、しかし発想としては、強烈なものを秘めている。

(『消滅世界』村田沙耶香、河出書房新社、2015年12月30日初刷)
posted by 中嶋 廣 at 10:47Comment(0)日記