養老先生推薦の本――『音楽の危機―《第九》が歌えなくなった日―』(岡田暁生)(4)

最後に音楽を演奏し、享受する「場所」の問題がある。こんなことは、コロナがなければ考えるはずもなかった、と著者はいう。

「これまで一体わたしたちは、どんな場で音楽を聴くことを当たり前と思ってきたか。いうまでもなくそれはホール(ないしそれに類するもの)であるわけだが、わたしはこれを『学校の教室的な空間』と呼ぼうと思う。密閉されたスクエアな空間に詰め込まれた客。四つの壁のうちの一面に設けられた祭壇のように一段高いステージ。それに対面するように置かれる整然と並べられた椅子。」
 
こういう書き方をされると、これは全否定だなと予測がつく。

「ウィーンの楽友協会ホールやミュンヘンのヘルクレスザールなど、十九世紀に作られた典型的なコンサートホールの多くが、こういう構造をしている。〔中略〕こうした整列座りの平土間スペースがホールのメイン空間であり、これが学校の教室(「学校」というものも十九世紀に普及した制度である)や軍隊の隊列とまったく同じであることは注目されてよい。」
 
そういうわけで、これ以後の「音楽の場としての建築」を考えるのだが、この最終章はあまりうまくいっていない。もともとコロナ禍が否定的媒介となって、ああでもないこうでもないと考えるのだから、どうしても抽象的で観念的なものになってしまう。
 
最後に、あるとき「百萬遍〔ひゃくまんべん〕知恩寺」で、扉を開け放ち、僧侶たちがお経をあげるのを、著者は、荘厳な響きに胸を打たれて、聴き惚れる。

「わたしは時も忘れてお堂の外でしばらく聴き惚れていた。それはこういうときに最もふさわしい『音楽』と思えた。こういう営みこそが音楽の原点なのだと強く感じた。」
 
お経については、これも音楽と考えるのは、十分そうだなと思うけど、「件〔くだん〕のお堂のように『閉じているのだけれど、隙間も空いていて、外から中をうかがえる空間』があっていいのではないか?」といわれても、具体的に寺のお堂以外に思い浮かばない。

「密閉空間に少しだけ隙間を穿ち、『閉じているのだが開いている』という風通しの部分、つまり『外』と『内』の境界領域を作ることは、まったく別の表現を切り開く端緒になると思う。」
 
これで終わりにするのではなく、ここからもう一歩進んで欲しかったと思う。せめてお堂以外の例を挙げて欲しかった。
 
とはいえ音楽書という、まったく手を出すことのない本を読んだのは、収穫だった。もちろんこれで私が、考え方を変えるかというと、そういうことはない。なぜなら私は音楽に対して、これという考えを持っていないから。しかし、その考えのない私が、何度も唸るところがあった。YouTubeで現代音楽を聴いたのもよかった。

「あとがき」で著者は、作曲家の三輪眞弘とたびたび話したことを書いている(三輪は「録楽」の提唱者として出てきた)。
 
この人が面白いことを言っている。

「すでに二十年前から、氏〔=三輪氏〕の音楽には生身の人間による音楽行為がやがてオンライン・ネットワーク上の電子情報へと変貌していく近未来を予告しているようなところがあって、今わたしは不思議な既視感を覚えている。現在起きていることをもうずっと前から三輪氏の音楽の中ですでに聴き知っていたような感覚である。」

そうであれば、「音楽とは、人々が集まって一緒にやるものだ」と固く信じている著者としては、次は対談で、三輪眞弘と丁々発止、音楽の未来を論じてほしい。

(『音楽の危機―《第九》が歌えなくなった日―』
 岡田暁生、中公新書、2020年9月25日初刷)

養老先生推薦の本――『音楽の危機―《第九》が歌えなくなった日―』(岡田暁生)(3)

ここで養老さんの話にある、『音楽が終わるとき――時間モデルの諸類型』の出番となる。

「第九」に象徴される「右肩上がり」の夢は、私たちに強固に取りついて離れない。石油がいつまでもあるわけではなく、GDPが永遠に増え続けるわけもないのだが、そこには当分目をつぶる。

「人々が『右肩上がり』の夢をいまだに捨てられないとするなら。その理由の一つは、ふだんから聴いている音楽にあるのではないかと、誇張抜きで思うことがある。もちろん音楽の代わりに映画やスポーツであってもいい。わたしが問題としたいのは、『ただの娯楽だ』と思って消費しているものからの、無意識の刷り込みである。とりわけ『君はヒーローだ』とか『明日は明るい』とか『愛は永遠だ』といったメッセージには気をつけたほうがいい。これらの標語は右肩上がりの時間表象と大なり小なり結託しがちだからだ。」
 
なるほどとは思うが、疑問符もつく。「君はヒーローだ」、「明日は明るい」、「愛は永遠だ」などは、みんな眉に唾をしているんじゃないか。子供用アニメを除いては、あるいは安手のテレビドラマ以外には、ほとんど通用しないだろう。
 
それはともかく、そういう「右肩上がり」の決まりきった完成形をやめれば、次に来る音楽とはどんなものか。
 
たとえば、従来のクラシック音楽の楽譜至上主義を痛烈に皮肉った、アンドリーセンという作曲家の『労働組合』という曲がある。
 
岡田暁生はこれについて、微に入り細を穿ち詳論しているが、残念なことに文字で楽曲は伝わらない。
 
ただ最後に、こういうことが書いてある。

「自分がやっていることの『意味』や『やりがい』がまったく感じられないにもかかわらず、それを黙々と全力かつ全員横並びでやらされ、しかし結果としてものすごいノイズが生じる――この作品は全体主義あるいは官僚主義的なもののグロテスクなカリカチュアだ。」
 
これはよくわかるような気がする。

「アンドリーセンの音楽はひょっとすると、わたしたちのこれまでの生き方のあられもない肖像なのかもしれない。」
 
いかにも現代音楽という感じがしますね。でもまあ、個人的にはあまり聴きたくはないけれど。
 
ほかにもライリーという作曲家の『In C』とか、ジェフスキーの『パニュルジュの羊』など、「思考実験」といえるものが挙げられているが、私にはこれらを要約する力はない。
 
最後に、それら無数の絶望、疑念、困惑は、近代社会の完成され過ぎたシステムが、必然的に惹き起こした自業自得である、と著者は考える。

「『どう進むか見当もつかない時間』、あるいは『スケジュールなど立てようのない時間』とはまた、従来の因習の縛りから完全に自由になれるチャンスだということでもあるはずだろう。そして音楽についていうならば、これは近代の目的論的な時間図式を抜本的に組み立て直す絶好の機会だと、私は考える。」
 
ああすればこうなる、という考え方をご破算にする。まるで養老先生の言うことそのものではないか。
 
本を読んだ後で、アンドリーセンの『労働組合』、ライリーの『In C』、ジェフスキーの『パニュルジュの羊』を、YouTubeで聴いてみる。
 
なにしろ楽曲の組み立ては、やたらと理屈が立っていて、本でその記述を見ると、頭が痛くなる。あんまり聴きたくないな、でもYouTubeにあるのだから、書評する前に一度は聴いておかなければ、というおっかなびっくりの思いである。
 
で、実際に曲を聴いてみる。な、なんと、なかなか面白いではないか。『労働組合』と『In C』は、リズムが表に立っていて、ちょっと単調だけれど、でもいいところがある。

ジェフスキーの『パニュルジュの羊』は、思考実験としては、この3つの中では、いちばん難解なものとして挙げられているが、聴いてみると、かなり面白かった。
 
どれも「第九」の完成形とは、似ても似つかないけれど、でもそれぞれ面白いところがあり、ときにはひねってあって、どれも聴いてよかった。

なんならそれぞれの曲に、詞をつけてみるのも面白いと思う。これはやっぱり、カフカや安倍公房のような不条理系かねえ。いっそ私は、民謡などが、ぶっ飛んでていいんじゃないかと思う。

養老先生推薦の本――『音楽の危機―《第九》が歌えなくなった日―』(岡田暁生)(2)

私たちはコロナ禍の時代に、極論すれば「文化をとるか、衛生をとるか」、という問いを前にしている、と岡田暁生はいう。

「衛生的見地から互いによそよそしく距離をとって客席に座り音楽を聴いたとして、それはなお音楽といえるのだろうか? 仮にPCR検査の陰性証明がビッグイベントのチケット購入の条件になったとして、そのことを人道的に受け入れられるか?」
 
もちろん受け入れられる、と私は思う。ここらへんは、見解の違いという他ない。

「千差万別の考え方があるだろう。だが一つ確かなのは、『危機的状況ではまず肩を寄せ合う』という人間存在の基盤を、全面的かつ世界的に、衛生学的知見に基づいて、この間のわたしたちは放棄させられたということである。」
 
それがどうした、と私は言いたい。人間生きていれば、いろんな局面がある。
 
ただこれが未来永劫、人間のふるまいを変えてしまう、というなら問題は別である。そうでなければ2,3年、あるいは5年くらい我慢しろと言われたって、どうということはない。
 
著者はコロナ禍による自粛期間中、ライブ音楽とメディア音楽の違いが、余計にはっきりしてきたという。著者が、「音楽が消えた」というときに指しているのは、ライブ音楽のことである。

「ステージで客を入れてやってもストリーミングで配信しても『内容』は同じで、ファンのもとへ送り届ける伝達の『手段』が違うだけだなどとナイーヴに信じてはいけない。レストランで食べる食事とテイクアウトが別ものであるのと同じように、音楽と録楽はまったく違うものなのだ。」

「録楽」は録音された音楽で、作曲家・三輪眞弘が提唱した言葉。

「録楽」と「音楽」はまったく違うもので、著者はそれを、テイクアウトと店で食べる食事の違いで分けている。私は食べ物の比喩に弱くて、そういうことだと、なるほどなあと納得がいく。
 
ベートーヴェンとロマン派以降、今日のポップスに至るまで、近代音楽はひたすら愛を歌い続けてきた。

「つまり『愛』とは人を一箇所に集め、かつ、そのバックアップ装置としての家族(ないし家族の萌芽としての恋人たち)の絆を固める近代イデオロギーであり、それを身体的振動として象徴化するのが近代音楽だったのだ」。
 
だから友愛モデルとして、何百人ものオーケストラと合唱の人々が集合する「第九」は、理想だったのだ。
 
ところがそれが、ワクチンの受容しだい、というとんでもない事態を迎えている。ひょっとしてこれは、「第九」が象徴していた時代の終焉なのだろうか、と著者は考え込んでしまう。
 
しかしそもそも、「第九」が象徴していた時代とは、どんなものなのだろうか。

「これまでわたしはしばしばベートーヴェンの《第九》に言及してきた。別に『名曲』だからとか、『好きだから/嫌いだから』などという素朴な理由からではない。暗がりを通り抜けて最後は光の世界へ到達し、そして無数の人々が一箇所に集い友愛の絆を祝福する――こうした《第九》の時間イメージの図式こそ、近代市民社会の音楽的アイコンそのものだと考えるからである。」
 
ここにはすでに、「近代市民社会の右肩上がり」ではない時間イメージが示唆されており、それは斎藤幸平の『人新世の「資本論」』とも、遠いところで呼応している。私はそう思う。

養老先生推薦の本――『音楽の危機―《第九》が歌えなくなった日―』(岡田暁生)(1)

こういう本はまず買わない。

「音楽の危機」、そりゃ大変だ、とは思わない。「《第九》が歌えなくなった日」、これはコロナに関係があるな。でも下火になれば、また復活するだろう。どちらにしても、私には関係ない。
 
ところが、この中公新書が小林秀雄賞を受賞し、その推薦文を國分功一郎や堀江敏幸、関川夏央らと並んで、養老孟司さんが書いている。しかもこれが、痒い所に手が届く、素晴らしい書評なのだ。

「迂闊な話だが、本書をチラッと見たとき、コロナのおかげで現場の演奏ができなくなった音楽家の恨み節かと思ってしまった。読み始めたら、とんでもない、たいへん優れた音楽文化論かつ時間論であった。本書を読了したとき、まことに良い演奏を聴かせてもらったという感があった。」
 
こういう文章で書評されたら、思わずグラッと来てしまう。

「音楽は時間の中を直線的に進行するから、音楽家が時間について敏感なのは当然であろう。文字言語は時間を含まないから、時間を表現する手段としては本質的な欠陥を含んでいる。さらに『音楽が終わるとき――時間モデルの諸類型』の章は傑作で、『右肩上がり』の夢から人々が抜けられないのは、普段聴いている音楽からの刷り込みではないかという示唆には、いわば虚を突かれ、自分の頭がいかに堅くなっていたかを思い知らされた感があった。」
 
そういうことなら、ぜひ読んでみなければなるまいと、私は養老先生にはたいへん弱いのだ。
 
著者の岡田暁生(あけお)は、音楽関係のいろんな本を書いている。著者としては、私が知らないだけで、有名な人なのだろう。大阪大学や神戸大学の教師を経て、現在は京都大学人文科学研究所の教授である。
 
最初にこういうことが書いてある。

「わたしは『音楽とは、人々が集まって一緒にやる、一緒に聴くものだ』と固く信じている。しかし考えれば考えるほど、これまで何千年と続いてきたこの人類の風習に、何か決定的な変化が起きかねない状況が訪れているという予感がしている。」
 
まず「音楽とは、人々が集まって一緒にやる、一緒に聴くものだ」、という信仰告白がある。
 
必ずしもそんなことはない、一人で聴いて、一人で歌って、ということもあると思うけど、ひとまずこれを受け入れないと、話が進まない。

「しかし事態が元通りに復旧したとしても、コロナ禍の数ヵ月の間、世界中で『生』の音楽が『消えた』という事実、そして音楽がなくなるかもしれないという危機が目の前にあったということを、伝えていく意味は大きいと思う。」
 
ふーん、そんなものですかね。一人でも、音楽を聴こうとすれば聴けるだろう。だから私にはピンとこないが、そのまま話を進めて行こう。
 
だいたい交響曲とコンサートは、フランス革命以後に生まれたものであり、それ以前は、村の祭りでみんなが参加して踊るか、あるいは王侯貴族であれば、宮殿に客を招待し、音楽会を催した。

「そもそも『特定の日時に開かれる音楽の集いに、対価を出してチケットを買って参加する』という発想に、すでに民主主義(金を出せば誰でも入れる)および資本主義(金の対価としての音楽経験)とのパラレルがあることは明らかであろう。」
 
なるほど音楽会は、近代になってからのものだったのだ。こういうところは、言われてみればもっともだが、しかし鮮やかな分析である。

なによりも文体――『でえれえ、やっちもねえ』(岩井志麻子)(2)

「大彗星愈々〔だいすいせいいよいよ〕接近」は明治のころ、ハレー彗星の接近に沸き始めた、瀬戸内沿岸の小村の話である。
 
しかしこの村ではハレー彗星よりも、「竹内ヨシの帰還」の方が、もっと不可思議だった。
 
ヨシは13歳で、江戸時代の末期、嘉永6年に神隠しに遭い、それから57年も経って、無事に帰ってきたのだ。しかもその間のことは、何も覚えていない。
 
竹内ヨシの摩訶不思議な話と、ハレー彗星の、76年ぶりの接近が絡まり合って、話は進む。

「結局、ハレー彗星の接近は、大惨事を引き起こさなかった。過ぎてしまえばあっけなく、空はいつもの空に戻った。ハレー彗星は別の宇宙を目指しているのか流されているのか動かされているだけか、いずれにせよ飛び去ったのだ。」
 
そしてその翌日、竹内ヨシは、眠るように息を引き取った。

「『結局、居〔お〕らんなった時期にどこで何をしとったか、謎のまんまじゃな』
『ほんまに、玉手箱を開けてしもうたんかもしれんな』
 すでに天体望遠鏡でも観測できぬ彼方へ、ハレー彗星も飛び去ってしまっていた。」
 
この話は枝葉がいろいろついていて、怪談というよりは、おかしみを含んだ怪異譚である。

「カユ・アピアピ」は、明治から大正、昭和にかけて、岡山から東京へ、そして新嘉坡〔シンガポール〕へと渡っていった、女の一生の話である。
 
題名に取られているのは、こんな植物だ。

「現地の言葉で、炎の木、確かに美しい、燃えているように見える。日本にない樹木。そのものは、たいして目立つ木ではない。
 木が燃えているのではなく、集まってくる蛍の点滅で、燃えているように見えるのだ。」
 
もちろんこれも怪異譚ではあるが、それよりも南方の極彩色の暑い大気が匂ってくる、その文体が圧巻である。

「錆び切った窓の蝶番がぶら下がり、本物の蝶のように羽を動かす。幻か、錯覚か。
 南洋の気温と体の熱に浮かされ、家守〔やもり〕だけでなく毒虫もたかる蚊帳の中で道代〔=主人公〕はうつらうつらと夢を見ている。」
 
岩井志麻子は一時期、アジアの男性たちとのスキャンダルで、週刊誌を賑わせたことがある。その時期に酒場で会ったこともある。根は生真面目な人と見た。
 
そういうこととは別に、『ぼっけえ、きょうてい』と『でえれえ、やっちもねえ』の2つを読んだだけで、まごうかたなく才能そのものである。
 
明治・大正の情事怪異譚を書かせれば、比べるものなく傑出している。なによりも文体が素晴らしい。どうしてこういう才能が生まれるのだろう、と思わず考えてしまう。

しかしそれにしても、私は関西の出身であるが、お隣りのこういう岡山方言は聞いたことがない。本当は岩井志麻子の独創だったりして、とまたも空想してしまう。

(『でえれえ、やっちもねえ』岩井志麻子
 角川ホラー文庫、2021年6月25日初刷)

なによりも文体――『でえれえ、やっちもねえ』(岩井志麻子)(1)

岩井志麻子の短篇集である。「穴掘酒」「でえれえ、やっちもねえ」「大彗星愈々〔だいすいせいいよいよ〕接近」「カユ・アピアピ」の4篇が入っており、どれも面白い。
 
文庫書き下ろしで、装幀に、和装の女がおどろ怪しく舞っている姿が、描かれている。同じものが口絵にも使われていて、「甲斐庄楠音《幻覚》」(大正九年頃)、京都国立近代美術館蔵としてある。
 
思わず『ぼっけえ、きょうてい』を思い出す。あれは本当に面白かった、ぞぞっ、とした。

「穴掘酒」は、明治から大正にかけてのことである。二股かけた不実な男を独占しようとして、もう1人の身籠った女を殺し、刑期を終えた女の語る真相。
 
裁判で、男は人殺しには関わっていないとされたが、それは違う。

「あのとき、私達はかの女の遺骸を前に、鋤焼きの残りを食べて酒を飲みましたね。私が盛んに、穴掘酒じゃと勧めていたのを忘れたとは言わせません。
 あのとき、鍋に刻んだ胎児を入れておきました。貴方も私も、食べていますよ。」
 
これが真相だ。ここから話は、いっそうグロテスクになる。

「これは今だから、打ち明けられることです。貴方が最も切り難い首を切ろうと悪戦苦闘している間、私は背を向けて腹を捌き、胎児を取り出していたのです。
 もしも本当にそれが貴方の子ならば、貴方は我が子を食べたことになるのですよ。ああ、この手紙を読んでいる貴方の顔が目に浮かぶようです。」
 
こうして最後は、男の手紙で締めくくられる。

「改めて貴女に求婚するので、二人きりで会いましょう。誰もいない場所で。誰にも邪魔されない、二人だけになれる場所で。
 たとえば、かの女の葬られている共同墓地で、穴掘酒もよいのではないですか。
 真夜中にあの辺鄙な地にある墓地なら、誰にも邪魔されず二人きりになれます。
  〔中略〕
 繰り返しますが、貴女はこのことを絶対、絶対、誰にもいわず、誰にも知らせず、一人だけで私に会いに来て下さい。約束ですよ。」
 
結びの1行を読むだけで、男が女を手に懸ける様子が伝わってくる。

「でえれえ、やっちもねえ」は岡山の方言で、「物凄く、怖い。とてつもなく、困る」の意。
 
明治期に岡山で、「虎狼痢(コロリ)」が流行ったときに、こう言われた。
 
コレラで家族を亡くした女は、日清戦争に出征しているはずの許婚と再会し、契りを交わすが、それは恋人の姿をとった「何か」だった。
 
やがて男は戦争から帰ってくるが、女は、何ものかと交わったことを言わない。そして生まれた子は、異形のもので、やがて人知を超えた怪異をもたらす。

「全身をくまなく黒い強い毛に覆われ、鼻と口元が極端に飛び出しており、耳が大きく尖って立っていた。横から見ればまさに狐狸か犬、いや、狼だった。
 すでに白い牙が生えていたが、母の乳首を傷つけぬよう巧みに乳を飲んだ。」
 
人と獣の混ざった子が生まれ、それは予言を専らにし、「神々しく愛らしい姿をしている」という話が、広まり始めていた。
 
しかし子供は、コレラであっけなく死ぬ。そのとき亭主が、初めて言うことには、

「いやそれ、わしの子じゃないで」。
 
鮮やかな幕切れが、不思議な印象を残す。

小池真理子の執念――『愛さずにはいられない』(藤田宜永)

小池真理子の回の、「伴侶を失うということ――『月夜の森の梟』」で書いたように、藤田宜永の自伝小説を読んでみる。
 
なにしろ単行本で出たときも、集英社文庫で出たときも、1行の書評も出ることはなく、本人は生前、それがたまらなく寂しい、と言っていたそうだから。
 
それで今度は、一周忌が過ぎたとき、小池真理子が巻末のエッセイを付けて、新潮文庫で再刊したのだ。

新潮社は、情に溺れるということがないところだ。小池真理子は、『月夜の森の梟』がよく売れているときで、ここに小池のエッセイを入れれば、売れるんじゃないか、という読みだったろう。
 
そして僕のような素直な、というかオッチョコチョイな人間が、みごとに摑まえられたわけだ。
 
ということからわかるように、この小説は全体としてはつまらない。しかし、かなり良いところもある。
 
これは藤田宜永が、高校生で同棲していた頃を描いた小説だ。藤田は福井から東京に出てきて、私立の高校に通っていた。文中では明らかにされていないが、それは早稲田大学高等学院である。
 
高校生が大人の目を盗んで同棲するのだから、精神的には狂気に近いものになるし、肉体的には、微に入り細を穿つといったポルノグラフィーに近くなる。そしてそれが、読ませどころにもなっている。
 
藤田宜永はこれを、私小説として書いたというが、それこそ自分を題材に取り、それを昇華した恋愛小説として書けば、第一級のものができたのに、と残念に思う。
 
藤田は仏文出身だから、それこそ『マノン・レスコー』や『赤と黒』を手本にすればよかったのに。
 
この小説を読めば、母親との不幸な関係の原因が解るかと思ったのだか、それはならなかった。藤田は生まれたときから、母親とは犬猿の仲だったようだ。そういうことも、稀れにはある。
 
小池真理子によればこの小説は、400字詰め原稿用紙で約1370枚あるというのだが(巻末エッセイ「不器用な情熱の記録」)、これを3分の1削るだけでも、見違えるようになるはずだ。
 
しかしそのためには、私小説ではなくなるという理解が、著者の方にはっきりなければいけない。ここらあたりは、編集者の力量にかかっている。
 
この本の最後に、「僕」と、同棲相手の「由美子」の、究極の関係を語った箇所がある。

「由美子は今でも僕を必要としている。恋人でもなく、友だちというのでもなく、ただ僕を必要としている。それだけははっきりしていた。」
 
ここを読んだとき、小池真理子が、藤田宜永のこの小説を、是非とも復刊したいといったわけがわかった。
 
小池はこのように書いている。

「元気だったころ、派手な喧嘩を繰り返した。別れよう、と本気で口にしたことは数知れない。でも別れなかった。たぶん、互いに別れられなかったのだ。
 夫婦愛、相性の善し悪し、といったこととは無関係である。」(『月夜の森の梟』)
 
小池はこの自伝小説を読んだとき、自分がもう一人いるような気がしたのではないか。

(『愛さずにはいられない』藤田宜永、新潮文庫、2021年4月1日初刷)

稀代の才人――『銀座界隈ドキドキの日々』(7)

矢崎泰久が編集長をした『話の特集』も、和田誠は企画の段階から深く咬んでいる(だから、というべきか、ギャラはもらっていない)。表紙は横尾忠則、写真は篠山紀信といったあたりから、もう和田誠的世界が満開である。
 
第2号に載せた『暮しの手帖』のパロディ、「殺しの手帖」は毒を含んで傑作である。これは図版が入っていて、毒薬の瓶が5つ並んでいる。

作家とも大勢知り合いになった。野坂昭如、小松左京、筒井康隆、……いろんな話があるが、ここでは植草甚一に触れておこう。あの長いタイトルの由来である。

「植草さんのタイトルのためにぼくはスペースをたっぷりとってレイアウトをすると、これだけ余裕があるならと次の回は長い題名をつけてきた。そこでもっとスペースをとる。植草さんはさらに長い題をつける。そんなイタチごっこのおかげで、植草さんの特徴ある長いタイトル、例えば『グリニッチ・ヴィレッジのコンクリート将棋盤でチェス・ゲームをやって食っていた映画監督スタンリー・クブリックの話などダラダラと長くなりそうだ』といった調子が定着したのだった。」
 
恐れ入りました。植草甚一の、あの長大なタイトルは、和田誠が生みの親だったのだ。
 
その後、和田は、デザイン界の大物が牛耳っている世界に絶望し、また若さに任せて突っ走ってきた体が、異変をきたしつつあった。

「深夜、麻布の自分の部屋に帰ると、急に気分が悪くなり、トイレで吐いた。吐いたものの中に血がまじっていた。酔ってもいたし、びっくりしたせいもあって、ドバッと血を吐いたという気がした。」
 
この時期、和田誠はほとんど毎日、バーボンをストレートで飲んでいた。若い時の粋がりで、サミイ・デイヴィス・ジュニアの影響である。

「会社の仕事をし、夜は会社以外の仕事をする。そのあと飲むから睡眠不足である。若いから平気だったが、身体が知らせたのだろう。」
 
まったく無茶苦茶である。しかし20代、30代のある時期、そういうふうに仕事をしないと、頭角はあらわせない。充実して、充実しきったあげく、そういうことになるのは、まあ仕方がないことだ。
 
さいわい和田誠は胃潰瘍の初期で、会社は休まずに治した。
 
そうして10年経ったとき、ライト・パブリシティという会社を、辞めようと思ったのだ。

「特にきっかけはなかった。何年も前から『俺は広告には向かないデザイナーかもしれない』とうすうす思っていて、それが徐々に『そうだ、そうなのだ』という確信みたいなものになってきたらしい。クライアントの言うことを『はいはい』とききながら、結果的には上手に個性を出すタイプのデザイナーもいる。ぼくはそのへんが下手くそで、クライアントや営業部の同僚と衝突してしまう。」
 
和田誠の才能は、その段階には収まらなかったのだ。そういうことは、後になってみればとてもよくわかる。

『銀座界隈ドキドキの日々』は、大学を出てから10年足らずのことである。それにしてはあまりに中身が濃い。しかもここに挙げたことは、この本の10分の1もない。
 
和田誠には、さらにその後がある。この稀代の才人は、もう少し時がたって、全体像が明らかになってくれば、かなり巨大でユニークで、今とは違って見えてくるはずだ。だから『和田誠の真実 お楽しみはこれからだ』(仮題)を、だれか早く書かないか。
 
最後に蛇足を一つ。僕は、脳出血から2年後に、毎日新聞の井上卓弥記者の依頼で、書評頁に「池田晶子・この3冊」というのを書いた。『新・考えるヒント』(講談社)、『死と生きる 獄中哲学対話』(陸田真志と共著、新潮社)、そして僕が編集した『14歳からの哲学 考えるための教科書』だ。
 
和田誠はそこに、池田さんと僕の似顔絵を、描いてくれた。特徴を摑んだ、ユニークでいい似顔絵だった。亡くなる3年ほど前のことだ。

(『銀座界隈ドキドキの日々』和田誠
 文春文庫、1997年1月10日初刷、2019年10月25日第5刷)

稀代の才人――『銀座界隈ドキドキの日々』(6)

和田誠はグラフィック・デザイナーでありながら、また音楽の才能もあった。草月会館で知り合った、ジャズピアニストの第一人者、八木正生が、「譜面を見せてよ」と言うので、例によってドキドキしながら、作った曲の譜面を持って行った。
 
八木正生はそれに、すらすらとコードネームを書きこみ、ピアノで弾いた。

「自分の作ったメロディが、見事な音楽になって聞こえでくるので、ぼくはまったく感動してしまった。」
 
八木はそのころジャズだけでなく、映画音楽でも忙しくなり始めていた。

「あるとき八木さんは『まこちゃんの曲を映画音楽に使っちゃおうと思うけど、いい?』ときいた。嘘みたいな話である。『いいにきまってる』とぼくは言った。」
 
信じられない話だが、これは高倉健主演、石井輝男監督の東映作品、『親分(ボス)を倒せ』で、新人、三田佳子が、キャバレーの歌姫に扮して歌っている(歌は吹き替えで、本当に歌ったのは後藤芳子)。この曲はさまざまに編曲され、映画の全篇に使われた。
 
絵を描く人は、音楽とは相性が悪いとは、普通に言われることだ。東京芸大でも美術と音楽は、水と油のようにいわれる。目と耳は、どちらかが優位に立って、1人の中でなかなか両立しないのだ。

しかし和田誠に限っては、ジャンルの限界など軽々と飛び越えてしまう。
 
これに関しては、面白い話がもう一つある。
 
ある晩、八木正生の部屋を訪ねると、そこに高倉健がいた。八木のピアノで歌っていたのだ。ジャズピアニストの八木正生は、また『網走番外地』の映画音楽担当者で、高倉健は主題歌をレコーディングするために、練習していたのだ。部屋には3人だけ。

「ぼくは椅子に座ってウイスキーを飲み、すぐそばで健さんは立って歌っている。贅沢なものだ。その夜、健さんが歌っていたのは『網走番外地』と『男の裏町』。何度も何度も歌い、そのたびに八木さんに『すみません、もう一度お願いします』と頭を下げる。真面目で熱心で丁寧な人なんだなと、たいそう感心した。」
 
本当に贅沢だ。ウイスキーを飲みながら、高倉健が立ったまま歌うのを聞いている。
 
しかしこの後、もう一つダメ押しがある。

「『男の裏町』のとき、『十七、八のまだ俺ァガキだった』と歌い、急にぼくの顔を見て『十七、八のまだ俺ァガキだった、と、俺ァまだガキだった、と、どっちがいいでしょうか』ときいたので、ぼくはドギマギしてしまったが、『俺ァまだのほうがいいと思います』と答えたのだった。
 それ以来健さんと会ったことはないが、印象的な夜だった。」
 
今はもう、2人ともいない。
 
1965年1月号からは、『映画の友』に連載することになった。1ページに、短いエッセイと絵を描くことになる。1回目はジョン・フォード一家で、会社から帰って夜なべして描いた。

この連載は、『映画の友』が終刊になる68年まで続いた。これが、『お楽しみはこれからだ』の原型になっている、と今はわかる。
 
また65年に、映画『ブワナ・トシの歌』のタイトルデザインもしている。これは羽仁進監督が、アフリカでオール・ロケした映画で、音楽は武満徹だった。
 
僕は昔リバイバルで、この映画を見たことは覚えているが、タイトルデザインは忘れてしまった。しかし映画は名作だった。今は、こんなところにまで和田誠が、という気持ちである。

稀代の才人――『銀座界隈ドキドキの日々』(5)

1961年に篠山紀信が入社した。和田誠は「シノ」と呼び、すぐに仲良くなった。

「写真部のスタジオにいても彼はおかしな言葉を連発し、カメラマンの中で一人浮き上がっているような印象もあったけれど、飲みながら話をきくとなにがしという落語家に弟子入りしようと思ったほどの落語好きで、ユーモアのセンス横溢し、会話が楽しかった。」
 
ここでもまた、才能は才能を呼ぶ、である。お互いが楽しい、「会話が楽しかった」、という世界が成立している。このステージが大事である。
 
あるとき武満徹を介して、芥川也寸志から直接電話があった。いろんな人に出会ってはいたが、有名な人に直接電話をもらうのは初めてだ。

「ぼくはドキドキして『は、はい』と言った。『ぼく今度、新しい曲をレコードにします。そのジャケットをどうしようか考えていたら、武満徹さんがあなたのことをおしえてくれました。お願いできますか』……丁寧な話し方だった。『喜んでやらせていただきます』とぼくは答えた。」
 
例によってドキドキし、返事もしどろもどろである。しかし、仕事はガッチリ引き受ける。まるでさまざまな才能が、和田誠を中心にして回っているようではある(そういう本だから当たり前だが)。このレコードジャケットも全頁図版で出ている。これも楽しい。
 
草月ミュージック・インでジャズを演奏したのが、ソノシートになり、本とセットにする話があった。その本の挿絵を依頼された。
 
しかし仕事は猛烈に忙しい。そこで会社は違っても、横尾忠則を呼び出し、ちょっと打ち合わせをして、手伝ってくれといった。数日後には、レイアウトが出来上がっていた。

「ぼくがフリーハンドで描いた絵に、横尾君が烏口(からすぐち)でひいた直線を加えて、デザイン的に仕上げた。例えばぼくがライオンの絵を描くと、横尾君はその上に縦の直線を数本プラスして檻に入っているように見せるといった具合。今となっては珍しい共作だが、あのころはどちらもイラストレーターでありデザイナーだったから、どっちの絵をどっちがレイアウトしようと、不思議はなかったのだ。」
 
こういう共作ができたのは、まだ業界が細分化されておらず、混沌としており、2人とも若かったから、ということだけではあるまい。いや、それもあるだろうが、その前に2人の才能が同じ平面にないと、成り立たない話だ。
 
和田誠が、同じ会社の人ではなく、日本デザインセンターの横尾忠則を選んでいることに注意されたい。

けれどもあるところから、デザイナーとクライアントの関係が少しずつ変わり、広告代理店の存在が大きくなっていく。それにつれて、「戦略」「マーケティング」「リサーチ」などという言葉が、頻繁に使われだした(まったく嫌になっちまう)。

「プレゼンテーション」という言葉は、実際の行為を伴うから厄介だった。最初にA案、B案、C案のスケッチを出せと言われる。それをクライアントが選ぶのだという。クライアントが、「マーケティング」や「リサーチ」に基づく「戦略」を立てるというのだ。
 
ここで、和田誠の有名なセリフが出る。

「レストランに入ってカレーライスとハヤシライスを出せ、うまそうなほうを食うから、と言うのと同じじゃないか」。
 
僕は装丁を依頼するのに、「カレーライスとハヤシライスを出せ」と言ったことはない。一緒に仕事をした装丁家、高麗隆彦、間村俊一、クラフト・エヴィング商會、司修、菊地信義、杉浦康平といった人たちに、どちらかうまい方を食いたい、とは言えないし、また言うべきではない。この人たちは、そういう仕事の仕方をしていないし、だから僕は装丁を頼んだのだ。
 
それぞれがそれぞれの立場で、最高の仕事をする、著者も、装丁家も、校閲者も、営業も。その中心で、常にそれらの立場の人と、意見を戦わせているのが、編集者である。編集者が中心にいるという意味は、このことである。

そうして企画は、それぞれの人たちが、自分の信じる方向に引っ張り、全体として気流を含み膨らんでいく、その中心に編集者がいる、ということなのだ。