「雑談」を本にする――『仕事道楽 新版―スタジオジブリの現場―』(3)

スタジオジブリに関連して出てくるのは、徳間書店社長・徳間康快である。最初は何度か事業に失敗して、夜逃げをする。それでもへこたれずに徳間書店を作る。
 
鈴木敏夫は、徳間康快に非常に感謝している。

「あの人はプロデューサーとして、非常に優れていた人だと思います。〔中略〕『ナウシカ』の映画化とジブリ設立の決断、そして難航していた『トトロ』『火垂る』の配給を実現させた交渉力、これはすべて徳間社長のおかげでしたから、彼なしにはいまのジブリはなかったといっていい。」
 
毀誉褒貶ある人だが、スタジオジブリを支えた人なのだ。
 
じつは田中晶子が僕と結婚する前のこと、彼女が近くで見た徳間康快の愉快な話がある。
 
安彦良和が、ギリシャ神話に題材を取った『アリオン』という漫画を描き、それをアニメ映画にするのに、監督もすることになった。

これは『アニメージュ』に連載され、映画も徳間書店が資金を出した。田中晶子がその脚本を描いた(しかし田中は、「ほとんど私は、役には立たなかったけどね」と言う。脚本の世界は、僕にはよく分からない)。
 
難航の末、映画が完成し、パーティーが開かれる。徳間康快がスピーチに登場する。舞台で徳間は、安彦さんを「ヒコサクさん」と言ったという。会場の、堪えた忍び笑いが聞こえてくるようだ。でもそこで点数を下げないところが徳間康快、憎めない人なのだ。
 
ちなみに1986年公開の『アリオン』は、DVDやBlu-rayになっており、いまでもアマゾンなどでは相当な人気がある。
 
戻って、徳間康快に関する鈴木敏夫の話。

「経営者としてはどうだったんでしょうね。お金を借りまくっては事業にどんどん失敗した人ですから。でもこの人の金銭感覚は独特でした。いまも覚えている名文句のひとつは、『金なんて紙だからな』。最初は何を言ってるのかと思いましたよ。でも、そうか、そういう考え方もあるかと思うと、ずいぶん気が楽になりました。
 問題はお金の使い方なんです。『銀行にある金なんてロクなもんじゃない。オレがいいことに使ってやる』、そういう考え方なんです。」
 
豪快だけど、そういう人のウラには、たいていは緻密な計算がある。しかし徳間康快には、そんなこともなかったようだ。まあ、ある種の「怪物」ではある。
 
徳間は鈴木敏夫に、こんなことも言っている。

「人間、重いものを背負って生きていくもんだ。」
 
鈴木は、こういう人生観もあるのかと、不思議な感動を覚えたという。
 
それにしても、観客動員数でいうと、『もののけ姫』が、当初の目論見で400万人のところを1420万人、『千と千尋の神隠し』が、『もののけ姫』の半分くらいは行くんじゃないか、と言われていたのが2400万人、というのだから恐ろしい。

でも前にも言ったけど、この時期、僕は『トトロ』を見て以降、アニメ映画に興味をなくしていたので見ていない。

「雑談」を本にする――『仕事道楽 新版―スタジオジブリの現場―』(2)

高畑勲が宮崎駿について、大事なことをしゃべっている。
 
宮崎駿の『カリオストロの城』は、戦後すぐのフランスのアニメ映画、『やぶにらみの暴君』の影響があると言われていた。それについて高畑勲はこう語る。

「何度も見たわけでもないこの作品の表現を、あっという間に自分自身の世界に生かしてしまう宮崎氏の恐るべき咀嚼力と映像的記憶力に感心しました。」(『漫画映画の志』から孫引き)
 
こういうところを読むと、萩尾望都の『一度きりの大泉の話』を、どうしても思い浮かべてしまう。萩尾もまた映像的記憶力に優れ、一度見たものは忘れない。その脅威の力に、武宮惠子は恐れおののき、萩尾を遠ざけようとする。

しかし萩尾望都は、そういう力は自然に備わっているものだから、それが特殊能力だとは思わない。萩尾は、その鈍感さを自己処罰するために、『一度きりの大泉の話』を書いたのだ。
 
こういう話をしていると連想は飛んで、イギリスのコンラッドの『ロード・ジム』を思い出す。でもこれは話が飛び過ぎる。
 
次は一気に『となりのトトロ』に飛ぶ。いや、鈴木敏夫は段階を踏んでいるのだが、僕は『トトロ』に飛びたいのだ。

僕は、子どもたちが小さくて、法蔵館東京事務所で働いていたときには、ジブリの映画をずいぶん見ている。映画館だけではなく、テレビやDVDでも見ている。ざっと挙げてみれば、『風の谷のナウシカ』『火垂るの墓』『となりのトトロ』『魔女の宅急便』『おもひでぽろぽろ』『紅の豚』『平成狸合戦ぽんぽこ』『耳をすませば』『ホーホケキョとなりの山田君』。

しかしトランスビューを作ってからは、映画だけでなくテレビやDVDでも、一度もジブリの映画は見たことはない。興味をなくしたのだ。
 
しかし中で一本、『となりのトトロ』だけは別だ。

「『トトロ』の美術を担当したのは、当時まだ三〇代だった男鹿和雄さんです。『トトロ』の大きな魅力のひとつが、あそこに描かれた里山の自然環境であることは誰もうたがわないでしょう。それほどすばらしい仕事だった。背景の自然風景で、観ている人は知らず知らず、季節の移ろい、時間の経過を体感している。」
 
それはそうなんだけれど、自然の中で、自然と一体になって動く人間の、その動き方が違うのだ。「さつき」も「メイ」も、これまで見たアニメ映画では、一度もこういう動き方はしなかった。
 
とにかくここでは女の子2人が、変な言い方だが、実写以上に繊細に動いているのだ。僕はこの映画を見て以来、ほかのアニメ映画をまったく受け付けなくなってしまった。だから『もののけ姫』も『千と千尋の神隠し』も見ていない。
 
どうせアニメなら、主人公は電光石火のごとく走り、ケガもせず、腹が減ることもない。人間に似せて作ってあるだけで、ご都合主義の単なる人形じゃないか。だから歩くスピードなどは、はなから端折ったほうがよい。
 
でも『トトロ』は違う(と思わせる)。1本のアニメ映画を見ることが、その後を決定づけるとは。
 
高畑勲はこう書いた。

「宮崎駿のもたらした最大の恩恵はトトロだとわたしは思う。〔中略〕彼は所沢だけでなく、日本全国の身近な森や林にくまなくトトロを住まわせたのだ。トトロは全国のこどもたちの心に住みつき、こどもたちは木々を見ればトトロがひそんでいることを感ずる。こんな素晴らしいことはめったにない。」(「エロスの火花」より孫引き)
 
高畑勲はまた、「『トトロ』はぼくらがめざしたものの頂点だ」という評価もしている。
 
この「頂点」の詳しい解説が、欲しいところだ。
 
僕は思い出す。京王永山の駅デパートの家電を扱う階で、陳列してあるテレビで『トトロ』が始まったときのことを。テーマソングが流れると、同じ階のあちこちにいる子供たちが全員、「うおおー」と雄叫びを上げて、そのテレビを目指して駆け出したのである。それはもう30年も前のことなのに、昨日のことのようにありありと思い出す。

「雑談」を本にする――『仕事道楽 新版―スタジオジブリの現場―』(1)

で、井上一夫さんの『渡された言葉』を読むと、鈴木敏夫のこの本を読まずにはおれない。
 
この本は書かれたものではなく、話したのをまとめた本だ。それは井上さんの『渡された言葉』に書いてある。
 
そういう本はまず手に取らないのだけど、今回は鈴木敏夫の、雑談を本にする、という明確な意識があって、それではと、構えて読んだのだ。
 
鈴木敏夫は1972年に徳間書店に入社し、『アサヒ芸能』に配属になる。『アサヒ芸能』といえば、『週刊実話』などと並んで、朝日・読売・毎日の3大紙には広告を載せていない。3大新聞が載せることを拒否したのか、『アサヒ芸能』が、読者対象から考えて3大紙には載せないことにしたのか、それは知らない。
 
鈴木はこのころを懐かしむ。

「やってみると、これはこれでおもしろい世界でした。きちんと会って取材すること、視点を変えて考えてみること、そして早く動くこと。これはいまでも役立っている鉄則で、ずいぶん鍛えられましたね。」
 
どんな仕事もまじめにやれば、得るところはあるものだ。
 
つぎは映画などに関する話。

「ポイントとなるのは、作家が何か言ってきたときに相槌をどう打つか。そのタイミングをまちがえると、作家と編集者の関係はうまくいかなくなります。相槌をうまく打つには、その作家の教養の元を知っていて、自分も同様の教養を身につける必要があるんです。」
 
相槌を打つことの難しさについては、前回のブログに書いた。
 
鈴木敏夫は、高畑勲や宮崎駿と同じ程度の教養を身に着けようと、必死になる。

「ともあれ、彼らが読んできた本をひととおり読もう。わかってもわからなくてもいいから、ともかく読もう。そう思って機会あるごとに聞き出して、それを読むということをくりかえしたんです。」
 
ジブリに入る前、初期のころは高畑・宮崎の話を、メモを取りながら聞き、そのあと喫茶店に入り、メモを補完し、家に帰ってもう一度、大学ノートに書き写したという。とても「仕事道楽」などと言ってられる話ではない。

『風の谷のナウシカ』連載のきっかけも面白い。この会議には、徳間グループの映画会社(大映)の人も出ていたのだが、その人が言うには、「原作がないものを映画にして当たるわけがない」、と。
 
するとこれを聞いた宮崎駿の返事がいい。「『じゃあ、原作を描いちゃいましょうか』。それで『アニメージュ』で『風の谷のナウシカ』の連載が始まった。」
 
企画がコケても簡単にはへこたれない。宮崎駿の面目躍如である。
 
このときは宮崎駿の注文で、無理を言って高畑勲にプロデューサーをやってもらった。高畑は渋々プロデューサーをやったが、しかし一旦やるとなったら、すごかった。

「まず拠点とスタッフを確保しろという指示からはじまって、宮さんに負担をかけないかたちを考え、実行していく。予算の立て方ひとつでも、非常に合理的、現実的で、ぼくは感心しました。原画カット一枚いくらとか、みんなの作業を全部数値化して、単価を決める。それを積み上げ方式で算出して、部門ことに基準額を設定する。これはとてもわかりやすい方式で、参考になりました。」
 
アニメのプロデューサーって、こんな仕事をするんだ。
 
あとで鈴木が高畑勲に、「プロデューサーでいちばん大事なことは何ですか?」と聞くと、「それは簡単です。監督の味方になることです」と答えたという。
 
ほかにも、『風の谷のナウシカ』のラストシーンを変えるなど、興味深い話がある。
 
しかし僕は、この映画はたいして好きではない。もちろん名作だとは思うけれども、もう一度見たいかと問われれば、もういいんじゃない、と言いたくなる。

編集論の白眉――『渡された言葉―わたしの編集手帖からー』(2)

タジオジブリのプロデューサー、鈴木敏夫の章が特に面白い。題して「雑談のなかから作品は生まれる」。
 
鈴木は「わかったような顔をしていいかげんな相槌を打つな、ごまかしてはいけない」という。分からなければ、素直に聞けばよいのだ。ちゃんと相槌を打てるようになるのが、意外に難しいのだ、と。
 
それを受けて、井上さんはこう言う。

「ぼくはかつて、後輩たちにこう言ったことがある。『初めて会う著者には、その人の著作なり発言なりをふまえたうえで、二つ話題を用意しろ。ひとつはどこに共感したか、もうひとつはとこがわからなかったか。その二つさえ言えば、あとは著者がしゃべってくれる』」。
 
さらっと書いてあるけれど、これは難しい。どこに共感したかは比較的易しい。もう一つの「どこがわからなかったか」は、考え込まざるを得ない。どこがわからなかったかを精確にわかれ、というのは難しいことなのだ。

「つまり、自分の共感のありかを言うことで著者とのチャンネルが生まれ、どこがわからなかったかを言うことで期待されているレベルがわかる。そこからは出たとこ勝負、それがぼくのアドバイスだった。」
 
理路整然と語っているようでいて、「そこからは出たとこ勝負」、これは経験を積まなければ、なかなかできることではない。
 
そして結局、前段があって「出たとこ勝負」となったときが、編集者の腕の見せ所になるのだ。井上さんは、こうところで躍動する人なんだと思う。
 
鈴木敏夫は「あとがき」にこう書いている。

「一般に、日本の編集者の多くが、作家相手に何をするかといえば雑談だ。そして、その雑談のなかから作品が生まれている。それは、作品のテーマから話を始める欧米のEditorとは、まったく真逆の手法だが、これぞ、日本の編集者なのだ。」

『仕事道楽 新版』は、そういう雑談から生まれた本だという。いやあ、これは買わねばなるまい。
 
これは個別の編集論だから、つまみ食いするところが、かえって、ない。どれも素晴らしい水準でまとめられている。
 
全体を俯瞰して、長めの「あとがき」が付いている。そこに編集論および編集者論の本質が説かれている。

「私が思うに、編集という仕事にはマニュアルがありません。〔中略〕いつでも通用するはっきりした技術内容があるときにマニュアルは意味を持つ。しかし、これは編集にはあてはまりません。なぜなら著者の個性と向かい合うのが仕事の本質であり、あえて編集技術というなら、その内実は『人間関係の技術』だからです。」
 
しかも出版物は、そのつど新しい個性を主張して生まれる。一回一回が勝負、これではマニュアルの入る余地はなくなってしまう。
 
しかも「編集作業とはデモーニッシュな要素を含むもので、夢中になってのめり込む体験なしにいい本ができることはまずありません。」
 
ここまでは、ちょっとした編集者なら、だれでもいうことである。私にも言えそうだ。
 
井上さんが他者の追随を許さず、遥かに抜きん出ているのは、ここから後である。
 
常に新しい関係を作り、一点一点、新しいものを作ったならば、それを後から点検して、反省する必要がある、と井上さんは言う。

「『後知恵』に過ぎないといわれればそのとおりです。あとになって役立つかどうか、保証の限りではなく、結果として単なる後悔の列挙になるかもしれない。でも、それでいいのです。ともかく本を見つめ、気づいたことを記す。これをくり返すことで編集者としての基礎体力がついていく。わたしはそう信じ、『後知恵』を集積すべく、営々と綴りつづけてきました。」
 
お陰で、こんなに面白い編集論が生まれたのである。そしてこの「後知恵」の編集論は、まだまだありそうである。それを是非とも読みたいものだ。

(『渡された言葉―わたしの編集手帖から―』
 井上一夫、本の泉社、2021年10月20日初刷)

編集論の白眉――『渡された言葉―わたしの編集手帖からー』(1)

著者の井上一夫さんは岩波書店で、200万部を超えるベストセラー、永六輔『大往生』を作った人だ。
 
岩波を辞めてからは、『伝える人、永六輔』(集英社、2019年)という著書があり、それはこのブログで取り上げた。編集者の本としては、実用的にも考え方としても、最高の一冊だ。
 
私の作った鷲尾賢也さんの『編集とはどのような仕事なのか』を初級編として読み、井上さんの『伝える人、永六輔』を、中級・上級編として読めば、文科系編集者としては理想的である。
 
井上さんは、現役編集者としても、辞めてから後も、「私はこの人に私淑する」、という言葉がぴったりの人だ。そしてこの人以外に、もはや私にとってそういう人はいない(いろんな人が亡くなってしまった)。
 
今度の『渡された言葉―わたしの編集手帖から―』は、その編集者論の個別編である。
 
章ごとに登場する著者は、以下の通り。
 
青木和夫、田中琢、佐原真、阿波根昌鴻、永六輔、六代目嵐芳三郎、阿久悠、古厩忠夫、姜信子、関屋晋、山藤章二、矢野誠一、鈴木敏夫、井波律子、小室等、伊奈かっぺい、高畑勲。
 
学術の大家から、役者、タレント、プロデューサー、作詞家など、大物から変わり種まで実に幅広い。
 
井上さんは、ここにあるのは単なる「記録」ではなく、自分の体をくぐった「記憶」であるという。そしてそれは、すべて著者から「渡された言葉」だという。それが井上さんの中で膨らんでいったのだ。
 
ではさっそく、その言葉を見ていこう。

「研究者はどこまでも完璧なものをつくりたがる。たしかに時間をかければかけるほど、いいものになる。しかしどこかで、直線が曲線になる。いくら時間をかけてもそんなによくならない、そこからあとは、単なる未練だ。いい編集者はその曲がり角を見つけて原稿を取り上げなければならない。」
 
これは雑談で語っているときの青木和夫の言葉。青木先生には、叢書「日本思想体系」の『律令』の分担執筆を依頼していた。

「直線が曲線になる」ときを見つけて、原稿取りをしなければいけないということ、これはどんなときも、心しておかねばならないことだが、しかし実は大変に難しい。
 
私も、頃合いを見計らって、そういう原稿取りを心掛けたつもりだが、それでも刊行予定というものがあって、なかなか難しいことだった。
 
今では一般にメールとケータイで、機械的に原稿取りをするから、「直線が曲線になる」瞬間を狙って、と言っても、何のことやらわかるまい。
 
ちなみに井上さんが、催促のためにお宅に伺うと、青木さんは、「わざわざ来てくれたのに空手で返すわけにはいかない」と言って、必ず一枚だけは原稿を渡してくれた。つまり10日通って、10枚なのである。
 
「直線が曲線になる」どころか、日暮れて途遠し、呆然とするほかはない。

認知症の話――「ミシンと金魚」(2)

私の通っている「リハビリ・ナンバーワン」(仮名)というデイサービスは、珍しく男性の割合が高い。私の行く日は総勢15人前後で、男女比は7対3くらいだ。
 
その女性のうちでもNさんと、私はよく話す。とは言っても、よくある世間話である。70代後半のNさんは、話し方もはっきりしており、一見すると全く問題がないような気がする。
 
ところがNさんは認知症で、たとえばおしっこが意識してできない。あっという間に漏らしてしまう。大便は「うんっ」と言って、踏ん張りだすので、だいたいはかろうじて間に合う。Nさんはもちろんリハビリパンツをはいている。
 
大小便を別にすればNさんは、話しているときには何の不都合もない。もちろん世間話だから、内容はひょっとすると、まったくでたらめかもしれない。しかし曇っている日には、雨が心配ねと言い、3歳くらいの子供が外を通るときは、かわいいねと言い、手を振っている。Nさんは、こういうタイプの認知症である。
 
もう一方のデイサービスは、「ダイヤ・ルックス」(仮名)と言い、こちらは毎日、20人前後が参加し、女性が8割強である。
 
こちらに88歳の男性で、Uさんという、銀行で副頭取まで務めた人がいる。この人については、一度このブログに書いたことがあるが、もう一度書きたい。
 
Uさんは本人の話によれば、銀行に勤めた後、東大に入り(!)、次に地元、福岡の修猷館高校に入った。それから地域の中学校、小学校に入り、最後はハルピンに渡った。父親は満鉄の幹部だったが、そこで終戦になり、ソ連軍の侵攻を受けた。

私とは、ハルピンで出会ったことになっている。Uさんは、そういうタイプの認知症である。
 
こちらのデイサービスにはまた、90歳近い女性で車いすに乗った、Iさんという人がいる。Iさんはまったく身動きしない。表情もまったく動かない。ただ心臓が動いているので、生きているように見える。そして一日の大半は、車椅子に乗ったまま眠っている。
 
しかし体の中では、どんなことが起きているか分からない。私の右半身と一緒で、右手や右足に、脳の中では力を入れるけれど、そして右手の先、右足の先には、十分力が入っているように思うけれど、外側から見れば、まったく無反応なのである。
 
Iさんの内面と外面の動きも、ひょっとすると、そういうことなのかもしれない。

Iさんは一日に2,3回、「うーめこさーん」と虚空に向かって叫ぶ。それが誰を指すのかは知らないけれど、Iさんの精神は動いているのだ。
 
認知症の例を3つ挙げた。これだけでも、ずいぶん違うことが分かるはずだ。
 
このまま何十年か進んで、日本にますます子供が生まれなくなり、一方老人の寿命がどんどん延びていけば、認知症は爆発的に増える。いまでも、その兆しはある。
 
と同時に、今まで広く認知症と呼ばれていたものは、一括しては呼ばれなくなるのではないか。
 
先の3人の例でも分かる通り、これを同じ病気の症例というには無理があろう。これからは、認知症は細分化され、医療も細かく分かれていくのではないか。
 
さらに先へ進んで、認知症の人が、仮に日本の人口の1割を超えることになれば(それは確実だと思うが)、「人間の概念」は変わらざるを得ない(たとえば選挙権と基本的人権について、など)。
 
その時まで生きて、どんなふうになるか見てみたいが、当然その時、私は認知症である。

(『ミシンと金魚』永井みみ
 集英社、『すばる』2021年11月号、2021年10月6日発行)

認知症の話――「ミシンと金魚」(1)

東京新聞の「大波小波」で、『すばる』新人賞の「ミシンと金魚」が褒めてあった。著者は永井みみ、1965年生まれ。中身は、一人称の認知症小説である。
 
普段は小説雑誌は買わないのだけれど、なにしろ週に2日、デイサービスでいろいろな認知症を見ている。こういう人の頭の中身は、どうなっているんだろう、それを作家はどういうふうに書くんだろう、と強い興味を持った。
 
最初に結論を書いておくと、これはなかなかの傑作である。
 
まず介護士の「みっちゃん」がいい。大きい人も小さい人も、太った人もやせた人も、介護士はすべて「みっちゃん」。これは主人公「安田カケイ」の、幼くして死んだ娘の名である。
 
こういうふうにしておけば、忘れることはない。と同時に、目の前の介護士を名前で区別することは、もはや認知症が進んでいて、できない。
 
途中さまざまなことがあるが、認知症の一人語りなので、ボケてるけれど、つじつまは微妙に合っている。この辺りは芸であるともいえるし、ま、小説というのはこういうものだろう。
 
ただ一人語りだと、どうしても説明しなければならないことがあると、ちょっと辛い。
 
子供を亡くしたときのこと。

「あのころ
 あたしは、今みたいな忘れん坊でもなんでもなかった。
 なのに、道子のことを、半分わすれてた。
 あたまの隅っこではわすれてなかったけど、道子はもともとしんぼうづよくて、だだこねたり泣いたりしたことなかったから、あたしは、道子に、甘えてた。」
 
こういうところは聡明で、とても認知症老人の語りではない。
 
選考委員の岸本佐知子が、この辺を衝いている。

「ところどころ、説明のために語りが犠牲になっている、つまり『明晰』になってしまっているように思える箇所がある」。
 
しかしもちろん全体から見れば、それは大きな瑕疵ではないという(私もそう思う)。
 
選考委員の金原ひとみが書いている。

「ここまで勘が鋭く、あらゆるセンスが良く、バランスが取れていて、それでいて徹頭徹尾攻めの姿勢を貫いたこの物語が世に出る瞬間に立ち会えたことに、心から感謝している。」
 
同じく川上未映子もこう書く。

「記憶と身体が、世界を何度でも発見してゆくポエジーも炸裂(尻を出して夏とわかるなんていったい誰に書けるだろう)、ドラマの展開も終わらせかたも見事。〔中略〕ただ素晴らしいものを読ませてもらったとだけ言いたい傑作である。」
 
金原ひとみと川上未映子が、同じ調子で絶賛している。以って瞑すべしであろう。
 
しかし、文学の話はこれで終わっても、認知症の話は、これで終わらないのではないか。

謎のビタミンE3――『狙われた楽園』

ジョン・グリシャム『「グレート・ギャツビー」を追え』の続編。前作は村上春樹が訳して結構な話題になったが、今度は星野真理の訳である。
 
2人の翻訳を比べてみれば、と言いたいところだが、前作の文体はとうに忘れている。
 
こちらの本も数ページを読めば、カミーノ・アイランドでベイ・ブックスを営むブルース・ケーブルと、そこを襲うハリケーンに、たちまち巻き込まれてしまう。
 
ハリケーンによる暴風雨の夜、作家が殺される。ブルース・ケーブルとその仲間が、犯人を追う。
 
今度は女の殺し屋が出てくるし、ボスもいかにもという大物で、全体の筋立ては三文小説ふうではある。
 
そこを、グリシャム一流の筆の冴えで、息も継がせぬ大団円にもっていく。
 
それはそれでいいのだが、このボスが、老人ホームのグループを傘下に収め、後ろに手が回ることをしてしこたま儲けている。
 
登場人物の一人が、そこを解説する。

「老人ホーム、介護施設、高齢者向けグループホーム、何と呼んでもかまいませんが、東海岸から西海岸まで、全国で一万五千か所以上はあります。全部で百五十万床ほどですが、ほとんど満床で、常に需要があります。入居者の多くはさまざまな種類の認知症を患っていて、状況をまったく理解していません。」
 
なんとアメリカでもこれなのだ。移民の国で、たとえ大統領が多少の移民制限をしたとしても、この国は活性化していて大丈夫だと、外から暢気に見ていたけれど、とんでもない。
 
この人は、叔母さんが寝たきりで、5年前から一言も発していないという。

「叔母は老人ホームで最期を待っている五十万人のアルツハイマー患者の一人です。介護の質はあまり良くないこともありますが、それでもかなり費用がかかります。平均すると、老人ホームは入居者一人あたり月に三千ドルから四千ドルを高齢者向け医療保険制度〔メディケア〕に請求しています。実際のコストはそれよりはるかに安くて、薬が数種類、ベッド、チューブで投与する栄養剤くらいですから、かなり儲かるビジネスです。急成長中のビジネスでもある。アメリカには六百万人のアルツハイマー患者がいて、その数は急速に伸びています。」
 
いかにも組織的な犯罪の温床という感じがするでしょう。
 
しかしこれだけでは駄目である。社会批判の本ではない。強烈な犯罪のもとになるのは何か。そこで闇のクスリが焦点になる。

「手品師のような手つきでブルースは小さなビニール袋をポケットから出し、テーブルの上に投げた。その中には茶色い物質を詰めた透明なカプセルが三つ入っている。『これが謎のビタミンE3だ。完全に失明して嘔吐が止まらなくても心臓は動き続けるという効能がある。』」
 
これをチューブに混ぜて投与するのだ。この辺もいかにも書きなれているが、しかしちょっと書き割りふうではある。
 
僕はそれよりも、ブルース・ケーブルの本屋の日常の描写が好きだ。

「彼は週三回届くたくさんの新刊書の箱も自分で開けないと気がすまない。印刷されたばかりの本の匂いや手ざわりが大好きで、一冊一冊を置く最適の場所を見つけることが何よりも楽しかった。売れなかった本は定期的に箱に詰めて出版社に送り返していたが、こちらは敗北感を味わわされる憂鬱な作業だった。」
 
この一段を読んだとき、ずっと昔、神保町の東京堂におられた佐野衛店長を思い出した。毎朝送られてくる山のような新刊を、素早く的確に、本に合った棚に配置する。それはもう、神業としか言いようがなかった。
 
アメリカにもきっと、モデルになる佐野さんみたいな人がいたのだ。

(『狙われた楽園』ジョン・グリシャム、星野真理・訳
 中央公論新社、2021年9月25日初刷)

Sクンの三冊目――『繪本』(2)

Sクンは、九州の名門私立中学・高校を出て東大に入り、経済学部を出て、銀行に入った。そこだけ見ていると、絵にかいたようなエリートコースを歩むのだが、思春期の3冊を見れば、そうとは言えなくなる。

『赤頭巾ちゃん気をつけて』は、全共闘騒ぎで東大の入試が無くなった年だし、『どくとるマンボウ青春記』は、東北大学卒の医者の仮面をつけて物書きになる話だし、『絵本』は、東大へ行くには行ったが、極端に金がなく地べたを這いつくばる話だ。
 
そういえばずっと昔、ひょっとすると学生のころか、田宮虎彦の話をしていて、Sクンは、暗くて、しみじみしていて、いいんだ、と言ったことがあったっけ。

それでボクは、代表作といわれている『足摺岬』を読んだのだ。しかしボクは、さほど感心しなかった。よくある昔の私小説、という感じだった。しみじみしていていいんだ、とはならなかった。
 
三鷹の寮に来る前に、何があっても驚くまい、苦労をしたとは言うまい、と18歳で覚悟するとは、いったいどういうことなのか。

もし今度、機会があって話すことがあれば、成り行きによっては、そういうことを聞いてみたい。
 
それとは別に、『繪本』には「あとがき」が付されていて、これにはずいぶん考えさせられた。

「小説は亡びるだろうか。私は亡びるとは思わないが、現実には亡びつつある。これは否めない事実だ。十年前は藤村も生きていたし、秋声も生きていた。武田麟太郎、葉山嘉樹、横光利一、嘉村磯多、岡本かの子……だが今はどうだろう? こわい作家が幾人いるか。〔中略〕月々の雑誌にのる作品の数は多いのだが、小説とよべる作品はひとつもない月さえある。小説を亡ぼすものか誰か。小説家自身ではないのか。」(新字新かなに直した)
 
おおかた70年前から、この議論はあったのだ。そこに続けて、

「小説のわからぬ小説家が、小説やら作文やら、または通俗読物やらわけのわからぬ綴方を書きつづける時、小説のわからぬ批評家評論家が小説の衰亡に拍車をかける。私は評論というものは小説と同じ位置にあると思いたいのだ。評論も創作である筈だし、そうでなければ書く意味はない。」(新字新かなに直した)
 
今月の文芸誌に載ってもおかしくはない。
 
文芸はずっと危機にあったのだ。どうやら文芸というものは、絶えずそういうふうでなければいけないものらしい。
 
田宮虎彦は1988年1月に脳梗塞で倒れ、右半身不随になった。4月9日に、北青山のマンションの11階から飛び降りて死んだ。享年77。
 
遺書には、手が痺れて原稿が書けなくなったため自殺する、とあった。
 
そこは、パソコンで何とか想いを綴ることのできる、ボクとの違いだろう。

{(『繪本』田宮虎彦、河出書房、1954年7月30日)

Sクンの三冊目――『繪本』(1)

大学のとき、三鷹の寮でSクンと一緒だった話を、少し前にした。そのSクンが、ボクの書評ブログを読んで、自分にも思春期の3冊がある、と書いてきた話は先にした。

それが『どくとるマンボウ青春記』(北杜夫)、『赤頭巾ちゃん気をつけて』(庄司薫)、『絵本』(田宮虎彦)である。

ボクは『赤頭巾ちゃん気をつけて』しか読んだことがなかったので、さっそく北杜夫の『どくとるマンボウ青春記』を読んでみた。そのあまりの面白さは、ブログに書いたとおりである。
 
田宮虎彦の『絵本』については、あまりに古いものであり、アマゾンでも新刊は売ってなかったので、読む気はなかった。
 
するとSクンは、ヤフーオークションに出ていたといって、わざわざ手に入れて、郵便で送ってくれた。これは読まずばなるまい。
 
それはいいのだが、本は奥付を見ると、「昭和二十九年七月三十日初版發行」、河出書房の文庫版で、発行者は「河出孝雄」である。もうすでにこういう人は、歴史の一齣である。
 
この本の最後にはペン書きで、「昭和廿九年七月吉祥寺にて 昭」とある。ボクが大阪で1歳のとき、「昭」さんは東京・吉祥寺で、この本を買ったのだ。
 
ずいぶん達筆で署名してあるが、「昭」さんはこの本に、どんな感想を抱いたのだろう、と自然に連想される。
 
この本には短篇が7つ、「異母兄弟」「七つの荒海」「琵琶湖疏水」「繪本」「S町の歴史とその住民たち」「柘榴」「霧の中」が入っている。「繪本」の題名から分かるように、旧仮名遣いである。
 
まず「繪本」を読んだ。
 
主人公は東京大学の学生で、苦学生である。下宿はぼろ屋のひどいところで、その隣に訳ありの中学生が1人で下宿していて、その困窮ぶりもひどいものだ。
 
大家は夫婦2人と、70近い老婆と男の子が1人、女の子が3人という7人家族で、男の子は脊髄カリエスで終始寝ている。どこまでも貧困が広がっている。

「繪本」は、この下宿に入ってから、出ていくまでを描いている。途中、新聞配達をしていた中学生が、追い剥(は)ぎをしたという冤罪で、警察で拷問を受けるが、真犯人が捕まって解放される。しかし中学生は、2日経った後、首を縊ってしまう。
 
主人公の「私」は最後に、「二円をさいて、六本木の交叉点の前の本屋で、アンデルセンの童話の美しい絵本を一冊買った。そして、涙ぐんで私に別れをおしむ病んだ少年にやった。」(新字新かなに直した)
 
だから題名を「繪本」という。この作品は、昭和26年度の毎日出版文化賞を受賞した。
 
この話はただ陰惨なだけで、どこにも救いがない。とにかく必死で生きてゆくだけだ。

解説を読むと、これは自伝小説だというが、こういうものをそのまま書いて、毎日出版文化賞が与えられたのだ(もちろん、つまらない作品だと言っているのではない)。
 
と同時にこの作品を、思春期の3冊に入れるくらい大事と思うSクンに感心し、また少し考えもした。