難問に挑んだ白眉のノンフィクション――『嫌われた監督―落合博満は中日をどう変えたのかー』(1)

著者の鈴木忠平は、日刊スポーツでプロ野球を16年間担当し、その後4年間Number編集部に所属、2年前からはフリーで活動している。
 
この本は落合博満が2004年から2011年まで、中日の監督を務めた記録で、単行本で470ページもあり読み応えがある、というか、のめり込んで読ませてしまう。
 
文章に独特の臭みがあるが、内容が面白いので、途中から気にならなくなる。
 
これはノンフィクションだが、落合監督を取材して書いただけではなく、周りにいる選手やスカウトなどを、落合の鏡にして描いている。ここが斬新である。
 
落合はそもそもあまり喋らない。監督が出す謎を、周りの人間がどう解いたか、あるいは解く過程を描写することで、ノンフィクションにしている。これは新しい手法だ。
 
まず最初に目次から。

   プロローグ 始まりの朝

  第1章 川崎憲治郎 スポットライト

  第2章 森野将彦 奪うか、奪われるか

  第3章 福留孝介 二つの涙

  第4章 宇野勝 ロマンか勝利か

  第5章 岡本真也 味方なき決断

  第6章 中田宗男 時代の逆風

  第7章 吉見一起 エースの条件

  第8章 和田一浩 逃げ場のない地獄

  第9章 小林正人 「2」というカード

  第10章 井手峻 グラウンド外の戦い

  第11章 トニ・ブランコ 真の渇望

  第12章 荒木雅博 内面に生まれたもの

   エピローグ 清冽な青

   あとがき

目次を見ただけだと、真の対象である落合に、迫っているのか、いないのか、不安になる。
 
プロローグは、スポーツ記者である著者の、仕事に身が入らない実情を書いたもので、この辺はまどろっこしい。そう思われたが、エピローグに至って、著者の変貌が明らかになり、それが落合博満を取材したことによってだとわかる。

「落合を取材していた時間は、野球がただ野球ではなかったように思う。それは八年間で四度のリーグ優勝という結果だけが理由ではない気がする。勝敗とは別のところで、野球というゲームの中に、人間とは、組織とは、個人とは、という問いかけがあった。」
 
この本は、作りもまた凝っている。章扉が2見開きになっていて、第1章であれば、最初の見開きに落合の写真が右ページに入り、左ページに横組みで「2004/リーグ1位 vs.西武(3勝4敗)/79勝56敗3分/.585/打率.274/本塁打111/防御率3.86」と、2004年の戦績がデータで示される。
 
そして2見開き目は右ページに川崎憲治郎の写真が入り、左ページには「第1章 川崎憲治郎 スポットライト」、そして象徴的な惹句、「『開幕投手はお前でいく――』/三年間、一軍で投げていない川崎に落合は言った。」
 
編集者の意気込みが、如実に分かる作りだ。

実情を知れば――『ケーキの切れない非行少年たち』

精神科医、宮口幸治が、医療少年院で経験し、考えたことを記す。
 
普段はこういう本は読まない。非行少年の具体的な話がいろいろとあって、それに対してこういう対策をとればいい、という話で落ち着くんだろうと思う。
 
そういう話は、面白くないことはないけれど、私の年齢を考えれば、もうそんなことに書かずりあっている暇はない。私はもっと面白い本を読みたいのだ。
 
この本は2019年7月に刊行されて、すぐにベストセラーになった。元出版業界の人間としてはご同慶の至りである。
 
と思っていると、これが1年たっても、新書のベストテンに上がってくる。さらに今年になっても、相変わらずその位の位置にいる。
 
のみならず、その続編『どうしても頑張れない人たち―ケーキの切れない非行少年たち2―』まで出た。
 
ロングセラーで続編まで出るということになると、つい触手が動くじゃないですか。
 
それで読んでみた。読む前に推測していた通りのこともあるが、すこし違っていた点もある。
 
医療少年院に入ってくる子は、圧倒的に障害者であるという。

「問題があっても病院に連れてこられず、障害に気づかれず、学校でイジメに遭い、非行に走って加害者になり、警察に逮捕され、更に少年鑑別所に回され、そこで初めてその子に『障害があった』と気づかれる、という現状があったのです。」
 
これはつまり、現在の特別支援教育を含む学校教育が、うまく機能していないのである。
 
著者の経験では、少年たちは簡単な図形をまねて描くことができず(これがケーキが3等分できないことにつながっていく)、推測するところ聞き取る力も弱く、または歪んで聞こえている可能性があるという。
 
一番ショックだったのは、簡単な足し算や引き算ができず、漢字が読めず、簡単な図形が写せない、短い文章すら復唱できない、ということである。

「見る力、聞く力、見えないものを想像する力がとても弱く、そのせいで勉強が苦手というだけでなく、話を聞き間違えたり、周りの状況が読めなくて対人関係で失敗したり、イジメに遭ったりしていたのです。そして、それが非行の原因にもなっていることを知ったのです。」
 
最後の第7章「ではどうすれば?」では、いろいろなトレーニングが出てくるが、言っては悪いが、みな小手先の仕事という感じがする。
 
もちろんそれしか、やることがない、というのもよく分かる。著者はできる限り誠実に、職務を遂行しようとしている。
 
しかし問題は、少年院に入るまでにある。親もしくはそれに類する人間の問題である。
 
著者も、親のことは触れる程度だが(そうでないと話は大きくなりすぎる)、結局行きつく先はここである。

「親の因果が子に報い」、そういうことだ。だからこの本は、やっぱり読みたくなかった本なのである。

(『ケーキの切れない非行少年たち』宮口幸治
 新潮新書、2019年7月20日初刷、12月5日第16刷)

大変な労作ではあるが―『忘れられた詩人の伝記―父・大木惇夫の軌跡―』(4)

昭和38年、宮田毬栄はこのころの手帳を見ると、作家たちとの遠い日々が甦ると言う。
 
北杜夫、福永武彦、遠藤周作、開高健、倉橋由美子、水上勉、佐野洋、三好徹、南條範夫、原田康子、三浦哲郎、結城昌治、福田善之、田宮虎彦……。駆け出しの編集者はわずかな時を経て、たちまち第一線に立つようになる。
 
昭和41年、宮田は、同業者である文藝春秋の編集者と結婚し、性が大木から中井に代わる。
 
昭和42年、大木惇夫は「多年作詞に精進し多くの詩ならびに歌謡を創作してよく文芸の向上に寄与し事績まことに著明である」として、紫綬褒章を受章する。
 
またこの年、大木は『詩の作り方と鑑賞』(金園社)を刊行する。この本は、一般的な入門書と考えては、大きな誤りだと宮田は言う。

「実作者である詩人が詩の本質を説くのはそう易しい仕事ではないだろう。その困難をあえて引き受けるほど父は詩の未来を見つめていたと思われる。私自身はこの書から多くを学んだ。詩について持たれている概念を分かりやすく多角的に論じている。具体的な詩作品を例にあげての分析は示唆に富んでいる。」
 
宮田の的確な、しかし絶賛に近い評は、借金に苦しむ大木をどれほど慰めただろうか。

ほかにも、たとえば『大法輪』に連載された『釈尊詩伝』という大きな、最後に近い詩作品がある。宮田のリキも入っていて、引用も長いが、私は通り一遍に読むだけで、詩としてはほとんど響いてはこなかった。
 
それよりも、宮田の家庭生活についての言及が痛ましい。

「昭和五十(一九七五)年は希望もなく訪れた。娘の奈々がこの年小学生になることを除いては。どうにもならない大きすぎる重荷を背に私はうなだれるしかなかった。家庭生活はとうに暗礁に乗り上げていた。仕事や運動にほとんどの関心や努力を傾けていたのだから、当然の結果だったろう。」
 
この後この夫婦は、どうなったのだろう。宮田毬栄というのはペンネームなのか、それとも文藝春秋の男性とは別れて、再婚し、それで性が宮田と変わったのだろうか。そういうことは、何もわからない。

宮田毬栄は、読売新聞のコラムの一節を、「あとがき」に引用している。

「私たちは幸福な家族ではなかった。けれども、はるかに振り返れば、風変わりな面白い家族だったと思う。(一九九八年六月十四日)」

「風変わりな面白い家族」どころではない。戦前、戦中、戦後を精一杯生き切った、しかも日本の歩みと精確に同じ歩を連ねた、奇跡の家族ではないか。
 
だからこの本のタイトルは、『忘れられた詩人と、その家族の物語』とするのが、いちばん相応しい。

(『忘れられた詩人の伝記―父・大木惇夫の軌跡―』
 宮田毬栄、中央公論新社、2015年4月25日初刷、11月20日第2刷)

大変な労作ではあるが―『忘れられた詩人の伝記―父・大木惇夫の軌跡―』(3)

戦後、父と離れて暮らしていると、膨らんでいく借金だけでなく、父の内面も、著者には分からなくなってきた。『忘れられた詩人の伝記』は、だから戦後は、厳しい言い方をすれば、はっきり言って父の外面しか分からない。
 
しかも父と暮らしている女を、著者は蛇蝎のごとく嫌っている。これでは実際のところは全然わからない。
 
では後半の戦後はどうしようもないのか、というとそんなことはない。ここからは宮田毬栄が物語の中心になる。

1959年、宮田は早稲田で、卒論「ジャン=ポール・サルトル論―サルトルにおける自由の発展―」を書き、仏文を出る。

「夕方の学生会館でサルトルの最初の小説〝La Nausée″(「嘔吐」)を読んだ。50年代のサルトルには本来の哲学的、思想的な作品に加えて、政治的な論文、発言が見られるようになり、現実の政治に触れはじめた私たちを惹きつけるのに十分だった。すでに翻訳を読んでいたとはいえ、原文は一行一行が明快である上に奥深く、感覚的であり、独特の旋律があり、それまでの文学作品とは異なる新規さがあった。」

宮田毬栄は早稲田を出た後、中央公論社に入り、松本清張を皮切りに、獅子奮迅の活躍が始まる。

「最初に松本清張を担当したお陰で、私は編集者としての心構えを植えつけられたと思う。清張さんの原稿がどの作家のものよりも遅いために、受け取った原稿を持って大日本印刷に駆けつけても、出張校正室にはだれも残っていない。新人であっても誰に頼ることも甘えることも許されないのを知らされた。たった一人で現場に立つ孤独と向き合うのも入社一年目であった。」

ただもうぞくぞくする。後から見れば最高のスタートだと、入社3か月で会社が倒産した私などには思われる。

「長い編集者生活で幾度も遭遇した危機に対して、誰にも頼らず、という姿勢を保ちつづけられたのは、初期の体験が生きていたせいだろう。」

宮田毬栄に、「長い編集者生活で幾度も遭遇した危機」について、ぜひ聞いてみたい。
 
昭和30年代なかば、庶民の暮らしはどのようなものだったろうか。宮田毬栄は母と妹と一緒にいた。そして中央公論に入ったにもかかわらず、困窮していた。

「滞りがちではあったにしてもどうにか続いてきた父の送金がぷっつりとぎれてしまった時は、母と顔を見合わせて溜息をつくしかなかった。母は親戚や知人に借金を頼み、私のサラリーはみな生活費に吸い込まれた。ある日、通勤電車内でふと預金通帳を開き、どうしても二万円を越えられない残高をつくづく眺めた。」
 
このころは出版社といえど、入ったばかりで、たいした月給はもらってなかったのだろう。
 
それにしても胸を打つ光景だ。私の場合は、倒産会社で9年、預金通帳は埃を被っていた。
 
しかし日々の困窮はそれとして、よく考えてみれば4人きょうだいのうち、兄は大学の博士課程まで進み、娘3人も大学を出た。そして長女は文藝春秋に入り、次女は中央公論に入った。
 
全員が大学を出たことも、娘2人が代表的な出版社に入ったことも、それまでの一家の地を這うような苦闘を考えれば、ほとんど奇跡的ではないか。だいたい4人を大学にやるために、この時代、どうすればこんなことができたのだろう。
 
そういうふうに考えてくれば、この本には、大木惇夫の増大する借金の額だけではなく、角度を変えれば、書かれていないことが、まだ一杯あるのだ。

大変な労作ではあるが―『忘れられた詩人の伝記―父・大木惇夫の軌跡―』(2)

この伝記は、このあと再婚があり、戦争と徴用があり、戦後の苦労話がある。いいときは少なく、ほとんどは読んでいてあまりに苦しい話だが、それを辿っていく著者の筆致は張りがあり粘りがあり、まことに見事である。
 
そのいいときのこと、戦争中に大木惇夫は戦争詩を書き、これが日本人を熱狂させた。第一戦争詩集『海原にありて歌へる』である。

「詩集は日本出版会推薦図書となり、文部省推薦図書ともなり、文学報国会による大東亜文学賞を受賞するのである。この経緯は、戦後の父がジャーナリズムから抹殺される一大要因ともなっていく……」
 
これが「忘れられた詩人の伝記」と称するいわれである。
 
ここでそれを引きたいが、もともと文語詩である上に、戦争詩である。こういう詩は金輪際引用したくない、ということを分かってもらうために、それでもほんの一部分を引く。

 「わがペンはまこと機銃ぞ、
  百万〔ももよろず〕、敵はありとも
  かなしびと怒りをこめて
  ひたざまに射ち射たましを。
          (「その日」)」

今から見ると、正気と思えず狂っている、勘弁してくれよと思う。

しかし戦争中のことであれば、私もきっと、こういう詩に熱狂していたのだろう。それとも文語詩だから、ぜんぜん響かないのか、この辺はよくわからない。
 
戦後すぐに大木惇夫は妻と別れ、しかし籍は抜かず、別の女性と暮らしはじめる。
 
著者はこういう父を、簡単に断罪している。

「父のこうした甘さ、弱さは生来のもので、それは父の生涯につきまとう性質であった。」
 
これは大木の最初の結婚のときに出てくる、著者の言葉である。
 
けれども男と女のことは、当事者でなければ、実際のところはわからない。
 
宮田毬栄は、母を捨てて、別の女と一緒になった父を、浮世のことがわからない詩人を、女がたぶらかしたという。その女は、また外見も醜かったという。
 
かりにそうだとすれば、その女は大木惇夫だけが分かる、内面の美点があったのだ。
 
それにしても、詩人の戦争期の仕事に対しては、一体どうすればよかったのだろう。

「批判されるべき詩篇は多くある。父は戦争末期から敗戦直後をうたう詩集『山の消息』(昭和二十一年九月、健文社)においての解説風の文章のなかでのみ、反省、釈明、弁明を独言のように記しているが、それ以降はいっさいの沈黙のうちにそれに堪えた。後半生の不遇にも堪えた。」
 
誠実に生きるとすれば、それ以外にどんな振りができるだろうか、と著者はいう。

「同時代を生きた人間で、父を批判しうるのは、戦争を否定した真に潔白な者、反戦をつらぬいて獄中にあった者くらいなのではないだろうか。続々と転向、転身した者たちを、父は沈黙のなかでどう眺めたのだろうか。」
 
ここには、沈黙する父に寄り添う、娘の姿がある。
 
戦後、昭和28,9年に、父は詩の雑誌を主宰する。それは無謀な試みであった。

「あれほど詩雑誌に執着していた父は、経済的逼迫によりいきなり刊行を断念せざるを得なくなったのだろう。休刊しただけではない。父のこの後の人生に貼りついて父を拘束して行く莫大な借金が残されたのである。借金の内容がどのようなものだったのかの詳細が判明するのは父の死後であった。」
 
この父の借金の話は、何度も出てくる。しかし総額がどの程度であったのかは、ついに最後までわからない。
 
著者は敏腕の編集者であったろう。そうだとすれば、何度も何度も「父の莫大な借金」と言って、それを、内実を明かさぬまま放置することは、やってはいけないことではないか。私はそう思う。

大変な労作ではあるが―『忘れられた詩人の伝記―父・大木惇夫の軌跡―』(1)

著者の宮田毬栄(まりえ)は、出版業界では有名な人であった。
 
奥付の著者紹介によれば、1936年、早稲田大学仏文科を出て中央公論社に入社し、主に文芸部門を担当した。『海』編集長、書籍編集部長、雑誌編集局次長などを務め、97年に退社したとある。
 
私は90年代の前半に、一度だけ会ったことがある。『季刊仏教』で瀬戸内寂聴と中村元の対談をやり、そのまま瀬戸内寂聴を神保町の駅まで送ったとき、どこからともなく現われて、そのまま2人で東京駅まで行ったのではなかったか。
 
瀬戸内は岩手の天台寺で法話をして、京都の寂庵に戻る途中だった。その瀬戸内も数日前に、99歳で亡くなった。
 
宮田毬栄の今度の本は、元文壇バーのマダム、ナツコさんに、「読んでごらんなさいよ」と勧められたものだ。「どんな感想を持つか、興味があるわ」とくれば、読まざるを得ない。
 
それで読んだが、とにかく大部だ。A5版、2段組で480ページ、ちょっと息が切れた。
 
詩人、大木惇夫(あつお)の伝記が柱だが、後半は家族の歴史になり、特に宮田毬栄の個人史に傾く。
 
大木惇夫は幼少期から貧困で苦労した。文学を目指したくて、それを初恋の人に言ったところ、是非おやりなさいと励ましてくれた。
 
しかしその女性はアメリカで結婚し、大木惇夫も意に背いて銀行員になる。

そこから有為転変があって、大木は博文館の記者になり、ついに北原白秋と出会い、子弟の契りを結ぶ。
 
また初恋の女性と大木は、互いが忘れられず、女性はアメリカから帰り、離婚して、ついに大木の妻になる。けれどもそのとき、妻は結核にかかっていた。
 
この辺りまでで、全体の4分の1くらいだが、もう十分に波乱万丈、「詩人の誕生」というタイトルで一冊の本になる。
 
けれどもその後、妻を結核の施設に入れたあと、大木は別に女ができる。その女性が、のちに結婚することになる、宮田毬栄の母である。
 
ここまで要所要所に、大木惇夫の詩が挟んである。

  髪を吹け、髪を吹け
  微風〔そよかぜ〕よ、
  夜夜〔よるよる〕の霧の流れに
  果てもなく漂はせてくれ、
  遠い恋人の髪を、その匂ひを。
  追はるる者の如く日を怖れ
  さすらひ疲れた魂は、
  いつの日か、夜の霧の隠れ家をおとづれよう、
  そこに漂ふ緑の髪に捲かれるために、
  孤独な肉体に青い紗の帳〔とばり〕をひいて
  いつまでも匂ひよき夢と埋〔うも〕もれるために……。
                    (「隠れ家」)
 
大木惇夫の第一詩集『風・光・木の葉』から、比較的読みやすいものを引いた。

「まえがき」に、すでにかなりの詩の引用がある。

実はこれが、私には響かない。ここに引いたものも、詠むことはできるけれども、心は全く動かされない。
 
私は8年前の脳出血以来、詩を読む回路が、壊れてしまったのだろうか。

最後の著書——『ばにらさま』(2)

山本文緒はすい臓がんで、春ごろから自宅で療養中だったという。余命半年だったのだから、覚悟はしていたと思う。
 
ここから先は私の妄想である。
 
そんな日々を送るうち、自宅を訪れた編集者に、そういえば10年ほど前に、雑誌に掲載されたまま、単行本に入れなかったものがあるという。

私の中では、ひねりの効いた、トリッキーなもので、忘れられるのは、ちょっと勿体ない気がする。でも2,3本だからどうしようもないわね。

山本文緒は残念そうである。
 
編集者は、それはぜひ読ませてくださいと言い、会社へ帰ってその3本を読んだ後、どうしたものか考える。

「ばにらさま」「わたしは大丈夫」「菓子苑」は、およそ10年前のものだが、雑誌のまま読み捨てられるのは惜しい。

それに、山本文緒は命の灯が尽きかけている。原稿は半分あるのだから、全部を揃えることができれば、最短2カ月ほどで本になる。これは自分が頑張るしかない。
 
そういう具合で、ほかに入れるものとして、「バヨリン心中」「20×20」「子供おばさん」を決めた。

もちろんその過程で、著者と編集者の間では、いわばスッタモンダがあったろう。なにしろこの3本は、一度は単行本になっているのだから。
 
あるいはこれよりも多い中から、この3本に絞ったのかもしれない。全体がややトリッキーなもので統一されている。ここら辺りは編集者の苦労がしのばれる。
 
本は亡くなる1月前に出た。
 
山本文緒は喜んだろう。そして、それを見た編集者もおそらく、同じように喜んだろう。
 
というのは、私の妄想である。

しかしながら、細部は違っても、こんなようなことに違いはなかろう。
 
葬儀で山本文緒を見送った編集者の気持ちが、わかるような気がする。

(『ばにらさま』山本文緒、文芸春秋、2021年9月10日)

最後の著書——『ばにらさま』(1)

山本文緒が死んだ。今年の10月13日、すい臓がんで、58歳で亡くなった。春ごろから体調が悪く、自宅療養中だったという。
 
7年ぶりに書いた『自転しながら公転する』は傑作小説で、朝日新聞WEBRONZAの「2020年の1冊」に、私はこれを上げた。そしてブログにも書いた。
 
また旺盛な活躍を見せるかと思ったときに、訃報である。執筆しなかった7年間に、山本文緒は変貌を遂げた。しかしその成果は一冊だけで終わった。そのことが、ただ悲しい。
 
最後の作品集が『ばにらさま』である。これは編集者が四苦八苦して作ったと見える。その経緯を勝手に推測する。
 
末尾に掲載順の初出一覧がある。

 ばにらさま    「別冊文藝春秋」2008年11月号

 わたしは大丈夫  「オール讀物」2009年1月号

 菓子苑      「小説新潮」2011年1月号

 バヨリン心中   「小説新潮」2013年12月号
          (『あの街で二人は』2014年6月、新潮文庫、所収)

 20×20      「小説トリッパー」2015年夏季号
          (『20の短編小説』2016年1月、朝日文庫、所収)

 子供おばさん   東日本大震災復興支援チャリティ同人誌「文芸あねもね」2011年
          7月(『文芸あねもね』2012年2月、新潮文庫、所収)
 
最初の3作品は、ほぼ10年くらい前に雑誌に掲載されただけである。つまりこのままでは埋もれてしまう。
 
後の3作品は、いずれも一度は単行本に収録されている。注意してほしいのは、雑誌に掲載されて、そのままになったものよりも、単行本になっている3本の方が、雑誌の初出がわずかに新しいことだ。
 
しかしその前に、内容を簡単に紹介しておこう。

「ばにらさま」  バニラアイスみたいに冷たくて白いはすっぱな女の子と、デブで汗かきの僕が恋人になる。しかし、そんなことはあり得ないということが明らかになる。

「わたしは大丈夫」  夫と娘とともに、徹底して倹約生活をおくる私。これはトリックが仕込まれていて、私ともう一人の女が、どういう関係にあるかが最後にわかる。

「菓子苑」  舞子は、調子の変わりやすい胡桃に翻弄されるが、しかし放ってはおけない。これも最後には、舞子と胡桃の関係が明かされて、そういうことかと腑に落ちる。

「バヨリン心中」  ガンで余命短い祖母は、若いころ、ヴァイオリンを弾くポーランドの青年と恋に落ちたことがあった。それは成就するかに見えたが、3.11の東北大震災で暗転した。

「20×20」 作家となった私は高原の別荘マンションで、自主的な缶詰めになって原稿に励まなければいけない。ところが隣人たちが現れて……。

「子供おばさん」  中学の同級生の葬儀に出席した夕子に、遺族は形見として、飼っていた犬と現金500万をもらってくれという。いったいこれはどういうことか。
 
どれもひねりの効いた短編だが、いかにも昔の山本文緒という気がして、今となっては物足りない。

子離れの記―—『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー 2』

ブレイディみかこが書いた同名の本の続編。これも正編と同じく、新潮社のPR誌『波』に連載された。
 
僕には正編よりも、こちらの方が好ましかった。

最初の本は、よく出来てはいるものの、著者の子どもが、著者の描きこむ範囲内に収まっていて、少々もの足りなかった。思春期の子どもは、親のおもんぱかりを、必ず超えるところがあるはずだ。筆がそこに及んでいなくて、物足りなかった。
 
こんどは子どもが成長した分、そしてブレイディみかこも作家として成長した分、そういうところがはっきり描けていて、そこがよかった。
 
とはいえ英国のひどくなりようは、どん詰まりまで来ている。

「元図書館を、ホームレスの状態にある人々のシェルターにするらしいのだ。〔中略〕図書館がホームレスのシェルターになるという、ここ数年の英国を象徴するような事実に衝撃を受けた。なにかもう文化的なものはすべて排除して、『食うや食わず』のギリギリのところにしかカネを出さない政治の在り方を、こんなにあからさまに見せられていいのかと思った。」
 
前回の本でも、学校の教師が腹を空かせた生徒に食べ物を与えたり、女子の生理用品を立て替えたりして、どちらも教師の仕事ではなくて、一体どうなっているのかと思ったが、続編でも相変わらずだ。
 
しかしこれは日本でも、子どもの無料食堂が盛んであったり、女性の生理用品が、貧困のせいで手に入りにくかったりして、一体どうなっておるのかという点は、英国と同じことだ。
 
ブレイディみかこは、息子といろいろなことをしゃべる。それがこの本の骨格であるが、最後に息子は、もう著者には言わないで済ませることがある。

「『でも、ライフって、そんなものでしょ。後悔する日もあったり、後悔しない日もあったり、その繰り返しが続いていくことじゃないの?』
 人生、という日本語に訳したくないぐらい、13歳の息子が『ライフ』なんて言うのは時期尚早過ぎるのだったが、こういう言葉が出てくるぐらい、きっといま、わたしの知らないところで息子の『ライフ』はいろいろ動いているんだろうなと思った。」
 
子どもが巣立っていくときの普遍的な姿だ。親はそれを、距離を置いて見ているしかない。

「そして息子はもうそのことをわたしには話してくれない。
 だけど、それでいい。彼もいよいよ本物の思春期に突入したのだ。」
 
こうしてブレイディみかこの息子離れは終わったのだ。

(『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー 2』
 ブレイディみかこ、新潮社、2021年9月15日)

言葉を惜しめ――『テスカトリポカ』

著者は佐藤究(きわむ)。この本は直木賞と山本周五郎賞を取り、私が買ったときは発売5カ月で7刷だった。
 
46判単行本で550ページ、これは文字通りの「力作」である。ただそうとしか言いようがない。

南米から日本へ、犯罪は世界的規模のスケールで行われる。主だった人物だけでなく、わき役に至るまで、その生い立ちや、そこに至るまでが、これでもかというくらいに書き込まれる。まったくゲップが出るくらい堪能した。
 
しかし面白いかと言われれば、うーん、どうだろう、と首をかしげざるを得ない。
 
例えば馳星周の『不夜城』とその続編2点は、ちょっとグロテスクで、必ずしも面白いとは言えないかもしれないが、しかしこちらの、かなり深いところまで迫ってくる。

『テスカトリポカ』にはそれがない。簡単に言ってしまえば、心の底から感動することがないのだ。
 
この小説にはもう一つ、アステカの神話が組み込まれていて、犯罪組織のボスは、その神話にのっとって悪の行為を重ねる。「テスカトリポカ」とは、その究極の神の名前である。

それはたとえば、こんなふうに描写される。

「神官〔トラマカスキ〕たちは心臓をえぐり取った死体を、下へと突き落とした。神に食べられ、胸に穴の空いた死体は、長い石段を転がり落ち、待ち受ける係が首を切り落とした。首も供え物だった。首なしの死体を囲む人々が、腕と足を切り落とした。神は心臓を食べるが、人間に食べることが許された部位は腕と足のみだった。アステカの厳格な戒律にしたがって、人々はいけにえの腕と足を火であぶって食べた。」
 
こういう神話的な文章が、しょうもない犯罪の組み立てに使われてしまう。

しかもその犯罪は、やたらおどろおどろしくはあるが、あえて言えば、たんに残虐極まりない、「紙の上の人殺し」に過ぎないのだ(ちょっと比喩がおかしいか)。
 
佐藤究は明らかに、過剰に書きすぎているのだ。だから力作ではあっても、胃と心臓はぱんぱんに膨れ上がり、心の底から感動する余裕がないのだ。
 
こういう文章に出会うと、池田晶子さんがよく言っていた古くからの故事、「言葉を惜しめ」を思い出す。
 
文体は「饒舌体」を選んだとしても、その前提として、そういう故事を心得ていなければ、ただだらしのない饒舌体になってしまうのだ。

(『テスカトリポカ』佐藤究
 KADOKAWA、2021年2月19日初刷、7月25日第7刷)