最高の映画――『仁義なき戦い 菅原文太伝』(3)

『仁義なき戦い』に至る前に、『現代やくざ 人斬り与太』や『木枯し紋次郎』などがあるが、そこはまだ文太が、いろんなことをやっていた時期だ。というか、東映が任侠映画を脱して、どこへ行こうか、試行錯誤していた時期だ。

『仁義なき戦い』は、「映画が大きな成功をおさめれば、みなが自分の手柄にしたがるものだが、ここでも関係者の証言は、すべて異なる。」これは面白い。

文太によれば、東京と京都の撮影所を、新幹線で往復しているときに、駅の売店で『週刊サンケイ』を買った。表紙に『現代やくざ 人斬り与太』のイラストが使われていたからである。それが飯干晃一の『仁義なき戦い』と出会った最初である。
 
次に俊藤浩滋によれば、「私は京都から東京本社の企画会議に行くとき、新幹線の駅で第一回の載ってる号を買うた。ええタイトルやなあと感心して、読むと、中身が面白い」(『任侠映画伝』より引用)。そこで企画会議に出し、即決やろうということになった。俊藤浩滋は富司純子の父親で、東映の大プロデューサーである。
 
岡田茂社長の記憶も、また異なる。

「ある日、『週刊サンケイ』の編集長が『岡ちゃん、いい素材が入ったぞ。ともかく来いよ』と電話してきたんです。さっそく編集部に行って『どんな素材だ?』ときいたら、『仁義なき戦い』だった。いいタイトルだ」(『映画主義者 深作欣二』より引用)。
 
岡田茂は連載が始まる前に、映画化を進めていたことになる。脚本を笠原和夫に依頼し、また当初から深作欣二を監督に想定していたという。任侠物の監督では無理だと思ったから。しかしこれは出来過ぎている。連載が始まる前に、脚本と監督が決まっていたなんて。
 
最後はプロデューサーの日下部五朗の証言。

「日下部は、そもそもの始まりは、自分と脚本家の笠原和夫が、飯干晃一の自宅へ別な企画の相談に行ったことからだと語る。
〈いろいろ話を聞かせていただいたあとで、「こんな手記があるんだけど」と見せられたのが、広島抗争で刑務所に入っていた美能幸三の原稿で、飯干さんはそれを「週刊サンケイ」に連載するという〉(日下部五朗『健さんと文太 映画プロデューサーの仕事論』)」。
 
後日、連載を読んでみると、血が熱くなったという。任侠映画とは異なり、裏切りに次ぐ裏切り、親分も子分もなく、欲望が渦を巻き、ヤクザが血を流す世界を、ぜひとも自分の手で映画化したいと思った。
 
文太は80歳になったとき、林真理子と対談し、『仁義なき戦い』は自分がやろうと言った、「いろんな説が飛びかっていて、『俺がやった』というのが3人も4人もいるんだけど、本人が言うんだから間違いない」(『週刊朝日』2013年9月27号)と言っているが、これは怪しい。
 
文太は監督を深作にするよう、俊藤浩滋プロデューサーに推薦したという。このとき俊藤は深作を知らなくて、文太は深作で行くよう熱心に口説いたというのだが、その前に俊藤のプロデュースで、『現代やくざ 人斬り与太』を深作と文太で、撮っているではないか。
 
結局、主要な人物がみな、「俺が旗を振った」と言っている。

「文太、岡田、俊藤、日下部の4人とも、自分の手柄のように話しているのは、全員が原作に注目し、企画の実現に向けてなんらかの働きかけをしたからである。実録路線という大きなうねりが起きようとしている中で、『仁義なき戦い』は東映で映像化されるのが必然の作品だった。」
 
同じ創造、創作と言っても、文学や絵画などと違って、映画は集団によるもの、ということが如実にわかる例だ。
posted by 中嶋 廣 at 17:40Comment(0)日記