私もついつい言いたくなる——『中古典のすすめ』(6)

堀江邦夫『原発ジプシー』、これは現代人の必読書。正確には『増補改訂版 原発ジプシー——被曝下請け労働者の記録』という増補版が出ている。
 
これは国民必読の書だろう。〈名作度〉〈使える度〉、ともに★3つである。
 
斎藤美奈子は言う。

「原発事故から九年たった二〇二〇年七月二〇日現在、日本の原発は全部で五七基。うち稼働している原発は四基で、二九基が停止中、二四基は廃炉が決定している。
 しかし、廃炉への道は容易ではない。」
 
容易でなかろうとあろうと、必ず今すぐに廃炉にすべきものだ。今すぐにと言ったって、時間はかかる。だから今すぐに、でなければならないのだ。
 
自民党政府は、原子炉で汚染された水を薄めて、海水の中へ棄てよという。日本はどの国よりも基準が厳しくて、さらにその基準を大幅に下回っているから、海水と混ぜても問題ないのだという。
 
馬鹿を言うな。汚染の度合いと、国家の基準は、何の関係もないことだ。もっと言えば、国家基準は常に、汚染水の基準を上回って設定すればよいのだ。これで問題ありません。アホか!
 
一度、汚染水を海に流してしまえば、ほとんど永久に海に流し続けるだろう。これを止めるのは、まず不可能である。

いつの日か、海から上がるものは、魚であれ、貝であれ、あるいは海藻であれ、一切口にはできぬことになっていよう。
 
もっとも『原発ジプシー』は、直接の反原発本ではない。しかしそこに従事する人を描いて、強烈なノーを突きつける。
 
ホイチョイ・プロダクションの『見栄講座』は、斎藤美奈子の本文を読んでもよくわからない。

「知らない人もいると思うが、私はこれが八〇年代を代表する本だと思っている。空前のバブル景気に日本中が浮かれるのは八〇年代の後半だが、前半のプレ・バブル期でも、世間はすでに浮ついていた。若者たちは夜な夜な『カフェバー』や『ディスコ』に集い、夏はテニスやサーフィン、冬はスキーと遊び回り、『ギョーカイ人』が幅を利かせ、『ネクラ』なやつが排斥され、みんながシティボーイやシティガールを気取っていた。」
 
なるほどね。私は大学を出て筑摩書房に就職し、それがあっという間に潰れて、それでもどこへ行けばいいのかわからず、更生会社の筑摩書房に9年いた。だから80年代は、ずっと食うや食わず(比喩ではなく)だったわけだ。
 
しかし、ふと考える。筑摩書房が潰れていなくて、仮に景気がよかったら、こういう本をバイブルに遊んでいたのだろうか。そう考えると、私には縁のない本だった。
 
斎藤美奈子は、〈名作度〉★1つ、〈使える度〉★3つとしているが、私にとっては両方とも無星である。
posted by 中嶋 廣 at 09:27Comment(0)日記

私もついつい言いたくなる——『中古典のすすめ』(5)

小松左京『日本沈没』は、上下巻合わせて400万部という大ベストセラーだ。
 
しかし読んでいるときは、息も継がせぬほどだったが、読み終わってみると、まあそういうことなんだな、という感じだった。つまりはSFの世界の話である。
 
ところが21世紀にはいるころから、あるいはもう少し前から、様相が変わってきた。

「温室効果ガスの増加による地球の温暖化である。気候変動は年々激しさを増し、このまま行けば地球の永久凍土が溶け、海水面が上昇、太平洋の海抜の低い島国は水没するという説を唱える人もいる。
『日本沈没』に繰り返し読者が戻ってくるのは、ここで描かれたような地球の変異と無縁ではない世界に私たちが生きているからだろう。」
 
これは〈名作度〉★3つ、〈使える度〉★2つとしてあるが、〈名作度〉★2つ、〈使える度〉★3つにした方がいいだろう。
 
しかし、ほとんど古典に入りそうな本が、これほど面白くていいのかね。

片岡義男『スローなブギにしてくれ』は、最初から食指が動かなかった。
 
斎藤美奈子の分析によれば、ひとつには、シーンを切り取ることは巧みでも、長編小説の場合、構成力が必要だったから。そこが彼の弱点だった。

「もうひとつの理由は、日本文学の側が彼のような表現を好まなかったことである。内面を拒否し、長編小説に相応しい構成力を持たず、登場人物の家族関係にも彼らを取り巻く社会的な背景にも目を向けない片岡文学。それは芥川賞からも直木賞からもハジかれる特異な存在だった。いいかえると、片岡文学はどこまでも乾いていた。」
 
私が一作も読んでこなかった理由は、齋藤の分析に尽きている。

ところがこれは〈名作度〉★2つ、〈使える度〉★3つなのである。
 
うーん、どうしよう。代表的な短篇を読んでも、たちまち本を投げつけるに決まっている。それなら脇道にそれたところから、つまりエッセイを読んで、そこから先を考えてみよう。さいわい片岡義男の『珈琲が呼ぶ』が、新刊エッセイで評判を呼んでいるところだ。
 
橋本治『桃尻娘』は、出たときは夢中になって読んだ。それから10年後の『桃尻語訳枕草子』も、傑作だった。
 
しかしあまりに多作で、以後は読まなかった。橋本治が急に亡くなって、久しぶりに何冊か読んだ。

小説もエッセイも、じつに無慙なものだった。橋本治に己れを疑うところが、かけらもないために、とりつくしまがなかった。それはこのブログに詳しく書いた。

『桃尻娘』は〈名作度〉★3つ、〈使える度〉★3つ、とあるが、ここまででよかったのだ。
 
五木寛之『四季・奈津子』は映画になり、主役の「奈津子」を烏丸せつこ、相手役の「ケイ」を阿木燿子が演じた。二人ともヌードが奇麗だった。
 
映画の原作には十分ではあっても、本の方は読む気はなかった。
 
斎藤美奈子の感想。

「発表から四〇年以上が経過したいま読むと、恥ずかしすぎて鼻血が出そうな小説である。奈津子っていう人は、じっくりものを考える習慣がないのだろうか。」
 
鼻血ブーの小説の〈名作度〉は★2つ、〈使える度〉★1つだが、これは〈名作度〉★1つではなかろうか。
posted by 中嶋 廣 at 09:28Comment(0)日記

私もついつい言いたくなる——『中古典のすすめ』(4)

庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』を初めて読んだときは、衝撃だった。後になってみれば、若い物書きや読者は、一様に衝撃を受けていたのだ。

「読者に衝撃を与えたこの小説の新しさは、何よりもその文体だった。
〈ぼくは時々、世界中の電話という電話は、みんな母親という女性たちのお膝の上かなんかにのっているのじゃないかと思うことがある。特に女友達にかける時なんかがそうで、どういうわけか、必ず『ママ』が出てくるのだ〉
 以上が書き出し。」
 
庄司薫の文体については、菊地史彦さんと話したことがある。菊地さんが書下ろしで大作『「幸せ」の戦後史』を書いている頃で、どういう経緯かは忘れたが、庄司薫の文体は素晴らしい、ほとんど革命的であるという話を、お互いにしたことを覚えている。
 
以後この文体は、いろいろなところを広く覆っていった。〈名作度〉★3つ、〈使える度〉★2つであるが、〈使える度〉は★3つとした方がよい。
 
土居健郎『「甘え」の構造』は、大学の遼にいるときに読んだ。向学心に燃えている頃だから、けっこう面白く読んだ記憶がある。
 
しかし斎藤美奈子の評は違う。

「悪いが私の感想は、あなたが『甘え』の構造じゃ、であった。論旨は不明瞭。あちこちに話が飛ぶ。思いつきの域を出ない。文章がまどろっこしい。」
 
クソミソである。〈名作度〉★1つ、〈使える度〉★1つ。これでは読み直す気も失せる。
 
有吉佐和子『恍惚の人』を読んだときの衝撃は、今でもはっきりと覚えている。このころは介護保険制度がなかったし、今の「認知症」も「痴呆」と呼ばれていた。
 
この小説が出た1972年は、平均寿命が女性76歳、男性71歳。対して2018年は、女性は87歳、男性81歳である。50年前であれば、私もそろそろ、寿命が尽きるころだ。
 
1970年には10人で1人の高齢者を支えていればよかったが、現在は2人で1人を支える時代である。軍備なんかに金をかけている時代じゃないことは、ようくわかっているはずだ。
 
なお本文中に、老人介護を描いた小説がいくつか出てくる。そのうち耕治人の3部作、「天井から降る哀しい音」「どんなご縁で」「そうかもしれない」は傑作だ。

『恍惚の人』が、〈名作度〉〈使える度〉ともに★2つなら、耕治人の3部作は、ともに★3つだと私は思う。
 
井上ひさし『青葉繁れる』は読んだときは、愕然とした。まず文体がひどい。読んでいても、一切焦点が合わないのだ。これで物書きとは恐れ入った。
 
そして内容。「ぶす」の女の子が、主人公たちに危うくレイプされそうになる。事の次第を知った男子校の校長の言い分が、また危うく絶句しそうである。

「校長の言い分は〈彼女はひょこひょこ山へ行き、行ったら当然起るであろうことが起こっただけなのに、乱暴されたとわめく。これはじつに卑怯ですなぁ〉。
 生徒が生徒なら校長も校長、とんだ名門校があったものである。」
 
こういうの、どんな顔して読めというのかね。これはともに★1つとあるが、無星がいいところである。
posted by 中嶋 廣 at 09:33Comment(0)日記

私もついつい言いたくなる——『中古典のすすめ』(3)

田辺聖子の『感傷旅行(センチメンタル・ジャーニイ)』は芥川賞受賞作。

共産党「党員」との恋を、徹底的に茶化して描き、〈名作度〉★2つ、〈使える度〉★3つの星を付ける。
 
田辺聖子については、不幸な出会いがある。中学生になったとき、『中一コース』を買った。そこに田辺聖子の小説が載っていた。内容はもちろん忘れたが、実に噴飯ものだったことは覚えている。
 
とにかく中学生になったばかりで、思いっきり背伸びして、新潮文庫の『赤と黒』と『月と六ペンス』を、読み始めたころである。

今となってみれば、この2冊は、全体はよく分からないはずだが、それでも読み終わって、ひどく感動した。本を読むとは、こういう感動を味わうことなのだ、と心に刻んだ。
 
それに対して、田辺聖子の、たぶんティーンエイジャーの、『中一コース』向きの恋愛小説である。不幸な出会いというのはあるものだ。このまま一生縁がなくていいのか。そうだ、ここで巡りあったのが機縁で読んでみよう、ということです。

『されどわれらが日々——』(柴田翔)は、〈名作度〉★3つ、〈使える度〉★2つとあるが、なぜ学生が自殺するのかがよくわからない、当時は自殺が流行っていた、としか思えない。〈使える度〉は★1つだろう。
 
山崎豊子『白い巨塔』は〈名作度〉★3つだが、これは甘い。「悪いお医者と良いお医者。じつにわかりやすい悪玉と善玉の描き分けじゃあありませんか!」と書いているのだから、★2つが精々のところだろう。
 
梅棹忠夫『文明の生態史観』、これを評するのは実は難しい。私たちの頃は、江上波夫の「騎馬民族国家」や、加藤周一の「雑種文化論」と並べて読んだ。
 
それに対し斎藤美奈子はこう言う。「いかにも本当らしく見えるこの本は、実証しようがない点で、じつは思いつきの域を出ない。」
 
うーん、そうかい。

「梅棹当人も生態史観は〈単なる知的好奇心の産物〉だと述べているのだ。本書を論拠に世界を語ろうとする人には『バカだね、あれは居酒屋談義だよ。与太話だよ』といってやるべきだろう。」
 
実に痛烈である。

それでも〈名作度〉は★3つ、〈使える度〉は★2つ、と評価大なるものがある。これはどういうことか。ま、これ以上突っ込むのはヤメにしよう。
 
山本茂実『あゝ野麦峠』は、時期が時期だけに読んでみよう。ちなみに「野麦」とはクマザサのことで、この峠にはクマザサが群生しているという。

「経済格差が広がり、非正規雇用者が激増し、劣悪な職場環境が社会問題化し、社会の『野麦峠化』が顕著な今日、本書を読む意味はむしろ上がったんじゃないだろうか。」
 
これは〈名作度〉も〈使える度〉も、★3つである。
 
石川達三『青春の蹉跌』は大学のときに、映画化されたのを見た。神代辰巳監督、長谷川和彦脚本で、萩原健一、桃井かおり、檀ふみらが演じた。ずいぶん話題になった。

〈名作度〉★2つ、〈使える度〉★3つ。しかし私は、読もうとは思わない。
 
もともとシオドア・ドライザーの『アメリカの悲劇』の翻訳版で、これは高校の時に読んだ。陰惨な話で、名作だが、二度三度読む気はしない。

それを映画化したモンゴメリー・クリフト、エリザベス・テイラーの『陽のあたる場所』も、一度見れば十分だ。
 
何よりも石川達三の、通俗の極みである文体が嫌いだ。
posted by 中嶋 廣 at 09:51Comment(0)日記

私もついつい言いたくなる——『中古典のすすめ』(2)

ざっと並べてみると、最初から箸にも棒にも掛からないという作品があって、これは斎藤美奈子と一緒になって、丁々発止やりあえばいいのだな、とわかる。
 
たとえは『ジャパン アズ ナンバーワン』、『なんとなく、クリスタル』、『気くばりのすすめ』、『ひとひらの雪』、『見栄講座』、『「NO」と言える日本』というような、毒にも薬にもならない本、いやむしろ場合によっては、はっきり毒になるような本である。
 
ただしホイチョイ・プロダクションの『見栄講座』を、齋藤は独自の視点から読んで、高く評価している。
 
とりあえずは読んでいこう。
 
トップはまず『橋のない川』、これは〈名作度〉〈使える度〉ともに、★3つである。結びの文章は次のようだ。

「特に中高生はみんな読んだほうがいいと私は思う。二〇一六年、障害者差別解消法やヘイトスピーチ対策法とともに、部落差別解消推進法が施行されたのはなぜか。今日も差別が解消されていないからである。差別への感受性が鈍っている時代にこそ効くストレートパンチ。『橋のない川』はそういう小説だ。」
 
ちょっとタテマエが鼻につくけども、そして斎藤美奈子は、そういうところがあるけども、これは読んでみよう。
 
あとはピックアップしていく。

『日本の思想』(丸山眞男)は〈名作度〉が★3つ、〈使える度〉が★2つとあるが、私は〈使える度〉も★3つだと思う。これぞ限りなく古典に近づいた中古典!
 
山口瞳の『江分利満氏の優雅な生活』は、サラリーマンのちょっとした苦労を描いた、エッセイのようなもの、というのをオブラートに包んだ、戦争を呪詛する書。これについては、このブログの初めの方に書いた。

〈名作度〉が★3つ、〈使える度〉が★2つとあるが、〈使える度〉は★1つだろう。もちろん山口瞳贔屓の私としては、齋藤の★2つは嬉しい限りだが。
 
遠藤周作『わたしが・棄てた・女』は、どうしようもない代物である。

「森田ミツ」は背が低く小太り、小児麻痺のせいで足が悪く、自己卑下から男に身を任せてしまう。主人公の「吉岡」は、そこにつけ込む。足の悪い小太りの娘とは、一回ヤレば十分だ。

娘は薄幸で、転落の道をたどり、最後は交通事故で死んでしまう。

しかし「吉岡」は、娘が自分を恨んでなかったことを知る。

「理想の女というものが現代にあるとは誰も信じないが、ぼくは今あの女を聖女だと思っている……」
 
あ、あ、あほか! それ、ほとんど同意なきセックスやぞ、レイプやんけ! それを訴えないから「聖女」だとは!

斎藤美奈子は、「その昔、はじめて私が読んだ際の読後感は最悪だった」と吐き捨てる。

これは万人にとって、「わたしが・棄てた・本」になるだろう、と私は思う。評価はもちろん、無星が妥当だ。
posted by 中嶋 廣 at 09:09Comment(0)日記