故人が思わず甦る—―『Editorship 6 追悼・長谷川郁夫』(4)

長谷川郁夫さんのインタビューの後に、「小沢書店刊行目録」が、34ページにわたって掲げられている。

1ページの上段に、実物の装丁(ジャケット)を4点から3点入れ、下段に縦組みで目録を並べてある。下の目録の中から、上段の実物見本が選ばれている。
 
1972年の神品芳夫『リルケ研究』から、2000年の小田三月編『三笠山の月 小田獄夫作品集』までを眺めていると、飽きるということがない。

装丁見本と目録を交互に眺めていると、長谷川さんの手作りの意匠が、深いところでじわりと分かってくるような気がする。目録をこんなふうに見せたものは例がない。
 
最後に一つだけ、余計なことを書いておく。それは、長谷川さんはなぜ、癌の治療を積極的に行わなかったのだろう、ということだ。
 
それは、中沢けいさんの追悼文、「熱海に長谷川郁夫さんを見舞う」の中に、はっきりと書かれている。

「目元におできができたと電話をもらったのは二〇一五年の春だった。NHKの番組の収録予定があるので、おできをなんとかできないかなと言うので、医者へ行けば簡単に切ってくれることもあると返事をした。目元のできものは病院ですぐに切除してもらった。で、また電話である。『切除したものを検査に回したら悪性だったというんだ』と電話口で、他人事のように言う。」
 
長谷川さんは、なぜ自分の癌を、他人事のように言ったのだろう。

「それでも電話をかけてきたのだから、気になっているのだろうと、受診を勧めたのだが、今度はがんとして拒否する。『医者の言うことなんかあてにならない』と主張する。」
 
私は2014年の脳出血の後、2015年か6年に一度だけ、長谷川さんと電話で話をしている。

そのとき何をしゃべったかは、忘れてしまった。すくなくとも癌の話はしなかった。しかしその頃には、自覚症状はあったと思う。
 
私は、長谷川さんは自覚的に治療を拒んだ、と思っている。でも、どうして治療を拒否したのか。
 
長谷川郁夫さんは、人生を二度生きた。一度目は小沢書店社主として、二度目は優れた評伝の執筆者として。それは一度目も二度目も、比類なき人生だ。
 
あるいは小沢書店を潰したことを、なお心の呵責と感じていたのか。

かりに私がトランスビューを潰したなら、その重みは、たぶん生きてる間じゅう、心の中に重石となって沈んでいくだろう。

長谷川さんは、これでもう桎梏から逃れられる、と思ったのかもしれない。それはわからない。
 
結局のところ、どう考えたらいいのか、よくわからない。でも、あのはにかむような、そしてときどき遠いところを見るような、長谷川さんの眼を、気がつくと思い浮かべている。

(『editorship 6 追悼・長谷川郁夫』
 日本編集者学会、田畑書店、2021年5月31日初刷)

故人が思わず甦る—―『Editorship 6 追悼・長谷川郁夫』(3)

長谷川郁夫さんは、「小沢書店とは何だったのか」というインタビューの中で、じつに様々な、ときには思い出したくないことまでも思い出して、しゃべっている。
 
その中心は、著者たちのことであり、企画のことである。吉田健一のことなどは、神保町のランチョンで毎週一回、編集者たちに囲まれている、というところから幕が開く。長谷川さん本人の口から、それが明かされるのだからたまらない。
 
そういう本筋のこととは別に、装丁にこだわった話も出てくる。

「ただ装丁のことも思い出したくないの。なんで函入りにこだわったのかなとかね。こだわりすぎたという気持ちが強い。軽快なカヴァーで、もっと革新的なことができたんじゃないかと思うことが多くて。何冊かは自分でも上手くいったという達成感みたいなものがあるにはある。でも難しいところですね。何に抵抗していたのかな、と思うくらい。いまはあまり感心しないという気持ちです。」
 
ここは微妙だ。現場で仕事をしているとき、長谷川さんには、自分の手で最高のものを作るというこころざしがあったと思う。
 
今では函入りの本は金がかかる。売れ行きにはほとんど関係がない。いや、むしろ函入り本はお高くとまっていて、かえって売りにくい。
 
たとえば新潮社の「書下し特別作品」などという函入りの本が、昔は頻繁にベストセラーになっていた。
 
しかし30年ほど前からは、そういうことは無くなった。その時期に、小沢書店は函入りに拘ったのだ。それは遅れてきた分、かえって典雅に見えた。
 
しかし長谷川さんは、それはもうよかったんじゃないか、と言っているのだ。私は考え込まざるを得ない。
 
また、その時代の編集者の生態に関して、面白い観察もある。

「例えば編集者たちと一緒に、ある著者と飲むとするでしょう。あの時代の編集者というのはみんな明け方まで飲みますからね。先に帰るわけにはいかないでしょう。先に帰ったらよそに決められてしまうかもしれないから。だから最後まで残っているとかね。そういうことの連続でした。ますます思い出したくない状況に(会場 笑)。」

「先に帰るわけにはいかない」、まったくその通りだった。とにかく著者と直接会わなければ、ものごとを前に進めることはできなかった。そしてみんなが帰り、自分が最後になるまで残り続けること。そのときの極意はそれだった。

あーあ、本当に何をしてたんだろうねえ。でもそれはそれで、実に面白かったのだ。
 
今は初対面の著者と会うことはあっても、それ以後のやり取りは、たぶんパソコンやケータイで済ませるのではないかな。

万年筆で手紙を書くなんていうのも、ひょっとしたら、古代の遺物かもしれない。今はとにかくメールだろう。

しかしこの古代の遺物は、逆に原稿催促の方法としては、強烈な武器になるかもしれない。

故人が思わず甦る—―『Editorship 6 追悼・長谷川郁夫』(2)

『Editorship6』は、大槻慎二さんが〈編集後記にかえて〉で書いているように、心血を注いだ仕上がりになっている。
 
追悼集といえば、近しかった人が、しばしば当たり障りのない文章で、お茶を濁すものだが、これは全く違う。私の文章など、枯れ木も山の賑わいにすぎない。
 
何よりも長谷川郁夫さんの「単行本未収録原稿」がたっぷりあり、その中には内田魯庵を巡って、山口昌男と対談までしている。その司会は、なんと坪内祐三である。

今では3人とも、もういない。突然その3人が消え去ると、世の中がつまらなくなり、薄っぺらなものになる、そう思いませんか。
 
それはそれとして、この未収録原稿は、「内田魯庵論」「辻野久憲」「水の女——「大菩薩峠」のお雪」の三本。
 
しかしこの本の中心は、実はそこにはない。
 
2011年に行われた「小沢書店をめぐって——長谷川郁夫インタビュー」が、この本の中心である。
 
インタビュアーは、秋葉直哉さんという若い人である。この人は長谷川さんにインタビューしたときには書店員で、今は「図書新聞」で働いている。
 
書店で働いているときに、「小沢書店の影を求めて——1972~2000」という、今はもうない小沢書店の目録を作り、それを配って小沢書店のフェアをやった(とはいえ流通していない本で、どうやってフェアをやるんだ?)。長谷川さんや私に会う前のことである。
 
長谷川さんは小沢書店を舞台に、書物の極北の価値を実現していた。並ぶものがなかった。

そういう会社を倒産させたのだから、長谷川さんは、できれば人前で、とくに聴衆のいるところで、小沢書店の話はしたくなかった。

しかし秋葉直哉さんは実に柔らかに、小沢の本の秘密を、長谷川さんから聞き出している。

「長谷川 ある雑誌から小沢書店について対談をしていただきたいという依頼がありました。でもすぐにお断りしたんです。倒産して負債をかかえたわけですから、のうのうと小沢書店のことをお話しするということはできないと。それでまたこういうふうに誘われたわけですが、秋葉さんが聞き役になってくれるということで、好青年を傷つけてはいけないなという気持ちになりまして(笑)。」
 
長谷川さんは、やはり臆するところがあったのだ。しかしそれでも、とにかく聴衆の前に出てきてしまった。

「これから秋葉さんに聞き役になってもらって、思い出せる範囲でお話ができたらと思っております。」
 
秋葉直哉氏という聞き手を得なければ、長谷川さんは、小沢書店については、たぶん黙って、墓場まで持っていったことだろう。

故人が思わず甦る—―『Editorship 6 追悼・長谷川郁夫』(1)

これは私も書いている。まずその一文から。

「   〈長谷川さんは、骨の髄まで編集者だった〉

二十代の終わり、新宿の酒場「英(ひで)」の音頭で宝川温泉に行ったとき、行きのバスの中で、はじめて長谷川郁夫さんに会った。四十年くらい前のことだ。

貸し切りバスでカラオケの一発目に、小林旭の「恋の山手線」を歌ったのを聞いて、ブッ飛んだ。学生のとき以来、それまで小沢書店といえば、端正な本づくりで知られていたから。

そのころ私の本棚にあった本といえば、宮川淳『紙片と眼差とのあいだに』、豊崎光一『余白とその余白または幹のない接木』、那珂太郎『萩原朔太郎その他』、吉田健一『詩と近代』などである。

「恋の山手線」に一発でイカレた私は、それから頻繁に長谷川さんと飲んだ。仕事で迷いが生じるたびに、長谷川さんに相談した。なかでも三十代初めに筑摩書房を辞めるときには、もう出版の世界には戻らないつもりで、長谷川さんと最後の意味を込めて飲んだ。
 
そのころ私は、自前の企画であるユングの『変容の象徴』や、ミルチャ・エリアーデの『世界宗教史』(全四巻)を、原稿ができた段階で取り上げられていた。

長谷川さんは、英、アンダンテを回りながら、出版を棄てるな、文学を棄てるな、と言い続けた。私は意を翻し、法蔵館・東京事務所に職を得、その後トランスビューを作った。そのいきさつは浮いたり沈んだりの繰返しであり、長谷川さんは長谷川さんで、小沢書店社主から大阪芸大の教授に転身した。そこにもまた苦闘の痕があり、話せば長い物語になる。

長谷川さんと私の付かず離れずの関係は、語りだせば切りはないが、ここでは最後の著作、『編集者 漱石』に至る道をたどっておこう。

その少し前に長谷川さんは「日本編集者学会」を発足させ、自ら初代会長に就いた。私は彼に言われて副会長を引き受けた。しかし編集者学会が何を意味するかは、この時の私にはまるでわかっていなかった。

その少し前に私は、元岩波書店の秋山豊さんの『漱石という生き方』を出していた。秋山さんはそのとき最新版の『漱石全集』の責任者だった人であり、その著書は現れてすぐに、全国紙で柄谷行人、養老孟司、出久根達郎といった人びとに、驚きをもって迎えられた。

長谷川さんは『漱石という生き方』を読んだ上で、こんど編集者としての漱石を描こうと思う、それには夏目鏡子の『漱石の思い出』も重要な役割を占めることになる、と語った。それは秋山さんが、悪妻鏡子には文学者漱石の片鱗さえ分からないものとして、一顧だにしなかったものだ。私は秋山さんの立場から、強い危惧を述べた。

それから何年かたって『編集者 漱石』が出て、ランチョンで出版記念会が行われた。私は会が終わるとすぐに、帰って読み始めた。それから何日かで読み終え、しばらくはただ呆然としていた。

長谷川さんだけが、編集者という立場から、透徹した眼で漱石を見ることができたということだ。文豪という地位に収まりかえった漱石に、編集者という光を当てれば、まったく違った光景が見えてくる。「すぐれた文学者は、誰れもが自らのうちに編集という機能を備えている」という冒頭の言が、骨の髄まで分かっているのは、実に長谷川郁夫さんしかいなかったのである。        (なかじま・ひろし 元トランスビュー代表)」

『Editorship〈エディターシップ〉』は、その「日本編集者学会」の機関紙であり、長谷川さんが創刊し、私が初代編集長を務めた。

3部作の掉尾を飾る——『我が家のヒミツ』

奥田英朗の3部作、『家日和』『我が家の問題』ときて、掉尾を飾るのが『我が家のヒミツ』。
 
3部作とはいえ、3作とも微妙に力点が違う。『家日和』『我が家の問題』は、それぞれの力の入り具合をブログに書いた。
 
3作目が、いちばん読み応えがある。全部で6篇が収録されている。

「虫歯とピアニスト」は、歯科医院に勤めている31歳の女が、姑からの子どもを作れというプレッシャーに、どう対処していくか、そのころ診察に来たプロのピアニストに、どういうアドバイスをもらったか。

「プランAしかない人生は苦しいと思う。一流のスポーツ選手、演奏家、俳優たちは、常にプランB、プランCを用意し、不測の事態に備えている。つまり理想の展開なんてものを端から信じていない。理想を言い訳にして甘えてもいない。逆に言えばそれが一流の条件だ。だから人生にもそれを応用すればいい。あなたも……」
 
このピアニストはあるとき姿を消して、10年に渡る謎の空白があった。
 
一方、この女の夫も、啖呵を切って、実の母から女房を守ろうとする。
 
という具合に、短篇ではあるけれど、登場人物の彫りが深くて、自ずとコクがある。

「正雄の秋」は、53歳のビジネスマンが、出世競争の果てに、あと一歩のところで敗れ去る。第一線で活躍してきた男には、これから先は空白である。それがライバルの父親の葬式をきっかけに、相手の地元を訪れ、ひょんなことから晴れやかな気持ちになっていく。

「アンナの十二月」は、16歳のアンナが、母と離婚した実の父に会いに行く話。母は再婚して、アンナは新しい父とも仲良くやっている。

しかし実の父は劇団を主宰し、いくつもの賞を獲っている、その世界では有名な人だった。アンナはすぐに彼に夢中になるが、やがて冷静さを取り戻し、大人としての距離を取るようになる。

「妊婦と隣人」は、産休中の32歳の女が、隣りのマンションの怪しい外国人の男女に、妄想を逞しくする。やがて妄想と見えたものは、現実の世界に侵入してきて、女は間一髪で助かる。しかしメディアは、それを取り上げることはしない。
 
最後の「妻と選挙」は、小説家・大塚康夫一家の物語である。これまで、『家日和』では「妻と玄米御飯」、『我が家の問題』では「妻とマラソン」として、取り上げてきたものだが、こんどは妻が、市会議員に立候補すると言い出す。
 
人気作家の夫に対し、自分の居場所を模索してきた妻は、玄米御飯やロハス、またマラソンに夢中になってきたが、こんどはいよいよ広く社会に目覚めたのだった。
 
この3部作はどれも面白いが、しいて言えば、3作目がいちばん面白かった。奥田英朗は、掛け値なく面白い。

(『我が家のヒミツ』奥田英朗、集英社文庫、2018年6月30日初刷)

お話、お話――『たかが殺人じゃないか—昭和24年の推理小説—』

辻真先のこの小説は、去年からずっと読みたかったのだ。

「このミス」(宝島社)、「週刊文春ミステリーベスト10」、「ミステリが読みたい!」(ハヤカワミステリマガジン)で、3冠の第1位とくれば、期待はいや増しに大きくなる。
 
で読んでみたが、うーん、まあ「お話」ですね。ひどい言い方をすれば、2時間ドラマの原作にどうぞ、でしょうか。
 
辻真先は1932年生まれ。つまり史上最高齢で、ミステリランキング3冠を獲得した。
 
90歳近い作家としては、よくやっていると見なせば、何か功労賞を与えたくなるが、それにしても、宝島、文春、ハヤカワが、そろって1位に推すというのは、それほど昨年は不作の年だったのだろうか。それともミステリ評論家そのものが、あまりに払底しているのか。
 
時代設定は昭和24年。新制高校が発足し、男女共学が始まった年である。そこに集う男女が探偵役を演じるのだが、まるで絵空事である。
 
女子高生の一人は、じつは「パンパン」なのだが、それには事情があって、労咳の親のために、ペニシリンを手に入れなければならないのだ。まあとにかく、人物は生きていないから、どう書こうと勝手である。

密室トリックによる殺人と、バラバラ殺人が起きるが、これもまったくの絵空事、というよりも、探偵役の高校生たちが、そんな事件に遭遇しても、とまどいや恐怖を全く感じていない。「お話」の上の高校生なのだから、それでいいのだ。
 
映画の話が、途中でたびたび挿入される。

「大杉がまくしたてた。
『そのジャンルなら、『三本指』と同じ脚本・監督の多羅尾伴内〔たらおばんない〕シリーズが痛快だぜ。『七つの顔』『十三の眼』『二十一の指紋』ときた』
『ミステリというより活劇だよ、あれは。だったら上海から引き揚げたギャングの話『地獄の顔』は、ちょっと泥臭いけど上出来だ。主題歌が大ヒットしたじゃないか。ホラ』」
 
そこで思わず、片岡千恵蔵が二丁拳銃を構え、活舌のはっきりしないセリフ回しで啖呵を切るところや、あるいは『地獄の顔』の主題歌、「♪青い夜霧に 灯影〔ほかげ〕が紅い どうせ俺〔おい〕らはひとり者」が自然に出てくれば、もう辻真先の世界に浸っているのである。
 
しかしだからといって、これが令和年代のミステリとはとても思えない。

(『たかが殺人じゃないか—昭和24年の推理小説—』
  辻真先、東京創元社、2020年5月29日初刷、12月11日第3刷)

凝りに凝った手――『神の悪手』

将棋がテーマと聞いて、つい手を出した。これは「悪手」か「妙手」か。
 
著者の芦沢央(あしざわよう)は1984年生まれ。私はこれまで未見である。
 
著者紹介を見ると、他に『許されようとは思いません』『火のないところに煙は』『汚れた手をそこで拭かない』『悪いものが、来ませんように』『今だけのあの子』など、いくつもあって、しかも直木賞候補、山本周五郎賞候補、吉川英治文学新人賞候補、本屋大賞ノミネートなど、実力は相当ありそう。
 
ただしタイトルが実に悪い。ピタッと決まったタイトルが一つもない。『汚れた手をそこで拭かない』なんて、ばばっちくて本を手に取りたくない気がする。ここまでくると意識的であろうから、知り合いで読んだ人に、「芦沢央、どうですか」と聞いてみたい。
 
それに比べると、『神の悪手』はまともである。というか、素晴らしいタイトルである。いよいよ出版社(新潮社)が売る気になったか。
 
全部で5篇の短篇が入っている。どれも将棋の世界を扱っている。けれどもその角度が、将棋を正面から扱うのではなく、かなり凝っている。

「弱い者」は、プロ棋士が被災地で、子どもたち相手に将棋を指すのだが、それと子どもの性的虐待が絡まりあって、意外な展開を見せる。

「ミイラ」は、滅んでしまった怪しい新興宗教でただ一人生き残った子どもが、詰将棋を指すのだが、そこにはかつて洗脳された、独特のルールがあった。

「恩返し」は将棋駒の、子弟の彫り師の話である。プロ棋士がタイトル戦で、一度は弟子の駒を指定しておきながら、なぜ最終的に師の駒を採用したのか。その複雑な心理に迫る。

「神の悪手」と「盤上の糸」は、特異な心理小説だから、ここに要約するのはやめておく。
 
ただ、それではどういうものか、見当がつきにくいかと思うので、いくつか文体の見本を載せておく。

「あれは、将棋大会の優勝者との記念対局なんかではなかった。
 自分と少女は、同じ将棋盤を挟みながら、まったく別のゲームをしていたのだ。
 俺は、普通の将棋を——そして彼女は、ボランティアの男が帰るまでの時間、対局を終わらせない、という戦いを。」(「弱い者」)
 
一般の通俗小説を、一歩踏み出している。

「負けましたと口にするたびに、少しずつ自分が殺されていくのを感じた。費やしてきた時間、正しいと信じて選び取ったこと、自分を自分たらしめるものが、剝ぎ取られていった。
 無限の可能性を秘めていたはずの駒たちは窮屈な場所に閉じ込められ、恨めしそうに啓一を見上げていた。おまえが間違えなければ、おまえさえいなければ。」(「神の悪手」)
 
棋士が投了するときの心理を、こんなふうに描くのを、初めて読んだ。著者はプロ棋士に取材しているが、そのとき、こんなことを打ち明けた棋士がいたのだろう。

「将棋か好きで好きで好きすぎて、一般的な社会人が歩む道をすべて切り捨てて将棋にのめり込み、頂点に立って何年経とうが満たされることも飽きることもなく、まだ新しい一手にここまで目を輝かせられる人間。
 これだけプレッシャーがかかる立場に置かれていながら、勝敗に飲み込まれることなく、将棋を愛し続けていられる異常な精神。」(「恩返し」)
 
だからこの小説は、一般には薦めにくいのである。

(『神の悪手』芦沢央、新潮社、2021年5月20日初刷)

追悼の白眉――『ツボちゃんの話—―夫・坪内祐三』(5)

最後の2章は、坪内祐三と著者の間が、よく整理されていない。
 
とくに坪内の女性関係で、著者がよくわからない部分が、ごたごたのまま出てくる。そこがかえって、死んで一年も経たずに故人のことを書く難しさを表わしている。
 
そのごたごたの中でも、坪内の前妻、写真家の神藏美子とのことがいちばん厄介だ。
 
著者には、はじめ嫉妬している感覚がなかった。

「家に帰ってきたら神藏さんと彼が仲良くお茶を飲んでいたときは困惑したし、居心地が悪かった。」
 
神藏と坪内が、夫婦でなくなった後も、二人だけの特殊な関係を続けるというのは、著者にしてみたら、感じの悪い、とんでもないことだ。

「思い出しながら書いていると、『文(ぶん)ちゃんは妬深いから』というツボちゃんの声が聞こえてきた。
 何度もそう言われたけど、私自身は、自分がそこまで嫉妬深い人間だと思えない。私の嫉妬は、ありふれた、ごく平凡なものだった。
 嫉妬という感情に苦しんでいたのは、じつは彼のほうだったのではないかと思う。」
 
こういうふうになると、どこまでも堂々巡りで、しかもより深いところに突き進んでいく。相手が亡くなっているから、この堂々巡りはとても苦しい。しばらくはじっと耐えて、時間の過ぎ行くのを待つほかない。
 
これは、忘れるのがよいことだ、というのではない。忘れればそれもいい。
 
かえって時間が経つにつれて、その嫉妬が生々しく、より強く込み上げてくるのであれば、そのときは文章にするのもいい。それは著者が決めることだ(なんかエラそうですいません)。
 
佐久間文子の文章について、一言述べておきたい。
 
もう10年以上も前のことだ。
 
そのころ人文書の編集者や、新聞の学芸・文化部の記者、それに著者が集まって、2か月に一度、情報を交換しようということで、飯を食う会を開いていたことがある。とはいってもよく分からない会で、「ムダの会」といった。
 
あるとき、神楽坂の中華料理屋で会を開いているとき、どういう流れだったか忘れたが、毎日新聞学芸部長のOさんが、「いま新聞記者で文章が書けるのは、朝日の佐久間文子をおいてない」と言った。
 
私はそのとき、何も言わなかった。新聞には新聞の文体がある。たとえて言えば、ワルツのようなもので、引っ掛かりがなく、すいすいと流れていくのがよい文章である。
 
これを新聞ではなく1冊の本でやると、全編この調子では、実に単調で、薄っぺらになる。
 
そのときは佐久間文子の文章と言っても、何も浮かばなかったので、話はそれきりになった。
 
ただ毎日新聞の学芸部長が、朝日の記者を誉め上げたのが、奇妙なこととして印象に残った。
 
私が驚いたのは、佐久間が朝日を辞め、『「文藝」戦後文学史』を書いたときである。

これについてはこのブログに書いたので、くどくは書かない。文章が弾んでいる上に、深いところは深く、しかも全体の目配りが利いている。文体が雄勁で、男女の区別がつかない。

『ツボちゃんの話』は、そういう文体の上に、なお情がこもっている。最後の「混乱」を含めて、忘れられない本である。

(『ツボちゃんの話—―夫・坪内祐三』佐久間文子、新潮社、2021年5月25日初刷)

追悼の白眉――『ツボちゃんの話—―夫・坪内祐三』(4)

「ツボちゃん」は、たしかに大酒を飲んだ。ウイスキーのボトルを、半分から3分の2ほどのペースで、連日飲み続けたという。
 
しかしそれはアルコール依存ではなく、むしろ意識的に、それだけの量を飲み続けているように、著者には見えた。

「彼は記憶力にすぐれ、両親ともに記憶力のいいひとたちだった。義父は、読んだ本をページそのまま記憶し、電柱や看板の文字もぜんぶ覚えてしまうので、記憶を捨てるのが大変だったと聞いたことがある。ツボちゃんの場合は、酒の力を借りて毎日、リセットしているのでは、と感じられた。」
 
坪内祐三が、抜群の記憶力を誇ったことは、というよりも異次元の記憶力に恵まれていたことは、彼の本を一冊でも読んだ人は、すべからく納得するだろう。
 
そういえば、佐久間文子は別のところで、「ツボちゃん」と観た映画について喋っていると、あまりにも鮮明で微細な記憶が鮮やかなので、同じ映画を観たとは思えない、と書いていた。
 
しかし一方、将来に対する不安もあった。それは出版不況というかたちで現われた。

「九〇年代に彼の評論の発表媒体となっていた『論座』や『諸君!』『新潮45』などの論壇誌は二〇〇〇年代後半から次々、姿を消し、週刊誌も部数を減らしていった。」
 
本当にこの20年は、論壇誌だけでなく、本が全体として、質を変えなければいけない時期だった。私が脳出血になった2014年は、そのどん詰まりの時期だった。もし私がそのままやっていれば、悪戦苦闘の連続だったかもしれないが、しかし場合によっては、隘路を通って、新しいところへ出ていたかもしれない、とも思う。
 
このへんは長い話が必要になるので、別のところで話すことがあれば、話そうと思う。

「ツボちゃん」は、狭いところに追い詰められる感じがあった。

「彼の本は、街の書店の後押しで売れたようなところがあって、その書店が姿を消しつつあった。本の世界もベストセラーと初版止まりの二極化が進み、彼のようなタイプの書き手は単行本の印税だけでは生活できないから、雑誌が休刊していくのは恐怖だったと思う。」
 
これは私も、そうだろうなと思う。本当に飲んでる場合ではないけれど、しかしそういうときほど、飲まずにはいられなくなる。これは「ツボちゃん」の話ではなくて、私のことだ。

「彼が自分で読みたい、少部数でも時代を超えて読み継がれていく本も出しにくい状況になってきていた。」
 
これも全くその通りで、著者も困ったろうけど、出版社はもっと困った。著者は場合によっては、別の仕事、たとえば大学で教えるとか、翻訳をするとか、という仕事に身を寄せられたが、出版社の場合はまったくのお手上げだった。
 
なおこのときから、さらに10年くらい経って、佐久間文子は2011年に朝日新聞を早期退職している。
 
私は、やはり朝日新聞の学芸部記者に聞いて知った。このときは本当にびっくりした。

追悼の白眉――『ツボちゃんの話—―夫・坪内祐三』(3)

坪内祐三といえば『本の雑誌』だ。1996年10月号に突然、無名であるにもかかわらず、「坪内祐三ロング・インタビュー」が載って以来、「読書日記」をはじめ、原稿、対談、インタビューとさまざまな記事が出た。

坪内にとって『本の雑誌』は、もっとも相性の良い雑誌だったのだろう。

「あるとき電話で『本の雑誌の依頼はわざわざ確認しなくても断らない。スタッフ・ライターみたいなものだから』と彼に言われたそうだ。たぶん、愛読していた雑誌『ニューヨーカー』を念頭に、かっこよく『スタッフ・ライター』と言ってみたのだと思うが、実態は『本の雑誌の仲間たち』みたいなもので、用もないのにしょっちゅう編集部に遊びに来る人だったと思う。」
 
著者に言わせれば、「用もないのにしょっちゅう」となるが、しかし「ツボちゃん」は暇人ではないのだから、よほどシンパシーを感じていたのだと思う。
 
また『噂の真相』では、裁判で弁護側の証人として立ったことがある。

『噂の真相』が、和久俊三に名誉棄損で告訴されたとき、書き手の立場から『噂の真相』は必要な雑誌だ、と証言することを頼まれた。

「まだ友だちづきあいをしていた一九九八年七月のことだ。『チャタレイ裁判』や『四畳半襖の下張裁判』が頭にあったみたいで、自分のことを『特別弁護人』と言っていたけど、べつに特別なところはない、ふつうの弁護側の証人だった。」
 
著者がまだ朝日新聞の記者だったころのことだ。最後の部分に、朝日の記者の冷静な判断が出ている。
 
坪内祐三は「怒りっぽい人」だったという。私は親しくないから、そういうところを見たことはない。しかしそういう目に遭った人は、けっこういたようである。

「実際に怒りっぽかったけど、でもそれだけではないんですよと付け加えたい気持ちが私にはある。
 神経のふれかたが独特で、一緒にいる全員が楽しくなるように、いつも気をつかっていた。周りの状況を見ずに自分勝手に動くひとがいると、過剰な気づかいが逆向きにふれ、怒りが爆発することがあった。身内のひいき目にすぎると言われるかもしれないけど、そんなふうに思える。」
 
そういうふうに言えていたころはよかった。

坪内祐三の還暦祝いで大勢の人を呼んだとき、些細なことから怒りを爆発させたことがある。

「このひとは自分の手に余る、というはっきりした感覚が私の中に生まれた。
 それまでにも、けんかして、離婚だ、とか、もう別れる、とか言い合ったことは何度もある。でも、もうだめかもしれない、と本気で思ったのはこの日がはじめてだった。」

「ツボちゃん」のことを早くに書かねば、と思ったのは、たぶんこういうことは、そのうち忘れるだろうと思ったからではないか。

「怒りが爆発する一瞬で、すべてを台無しにしてしまう。こういうことがこの先も続いたら、彼の周りからどんどんひとが離れていってしまうのではないか。もしそうなったら、神経の細いこのひとは、まいってしまうのではないか。そう思うと不安でたまらなくなった。」

「ツボちゃん」は長年にわたる大酒の結果、体調が悪くなり、体が弱ったことで、自分を抑えることができなくなったのかもしれない。
 
このへんは、車谷長吉の最晩年と、とてもよく似ている。