ユマニスト、ブッダ――『ブッダが説いた幸せな生き方』(3)

ブッダは、よりよい人間になるために必用なのは、「慈しみ」と「叡知」だと言っている。
 
また今枝先生は、仏文学者・渡辺一夫の「ユマニスムとは何か」を引いて、ブッダの生き方は、ユマニストの生き方である、とも言っている。

「ユマニスムは〔中略〕語原問題からすれば、明らかにヨーロッパのものですけれども、内容的には、おそらくどこの国でも、人間の名に値する人々、心ある人々ならば、当然心得ているはずのごく平凡な人間らしい心がまえだとも考えています。」
 
渡辺一夫はこういうことを言った人である。

ヨーロッパ中でキリスト教の新教と旧教が、血で血を洗う戦いを繰り広げ、観念体系が狂気に近づいたとき、それに抗してユマニスムを説いた文人、例えばエラスムスを称揚した。

それはもちろん、第二次大戦中の日本の軍部に対する、強烈な批判であった。
 
フランス人の東洋学者、アンドレ・ミゴは、「ブッダは、信仰を知性に、教義を真理に、神の啓示を人間の理性に置き換えた最初のインド人である」と言う。これはみごとな指摘だと思う。
 
しかし今問題になっているのは、西洋的な政治・経済の理論と、仏教的な洞察との溝を埋めることだ、とブータンの第4代国王の王妃、ドルジ・ワンモ・ワンチュックは言う。
 
結局、仏教の今日的課題は、ここに尽きている。
 
今枝先生は最後に、日本のことについて述べている。
 
日本の小学生、中学生、高校生のおよそ3分の2は、「お金がたくさんあると幸せになれる」と思っている。これはいかに経済優先思考が強いかを物語っている。

「しかしそれとは裏腹に、国民の大半は経済的繁栄が、必ずしも平和と幸福をもたらさなかったことを実感してもいます。〔中略〕必要なのは、一八〇度の方向転換、根底からのマインドセットの変換であり、そのためには、仏教思想を根底に、国民の幸福を第一に追求しているブータンなどが参考になるのではないでしょうか。」
 
これはあんまりな御託であり、絵に描いた餅である。
 
日本の仏教が、ほとんど瀕死であることは、今枝先生もこと細かに指摘している。そしてそれ以上に、日本の現実の政治の、瀕死ではなく「死」は、言うをまたない。
 
私は3部作の最後に、今枝先生のこういうものを持ってきたくない。ここからもう一つ踏み込んだ、「今枝由郎の見た仏教」を構想したい。それは必ず可能だと思う。

(『ブッダが説いた幸せな生き方』今枝由郎、岩波新書、2021年5月20日初刷)

ユマニスト、ブッダ――『ブッダが説いた幸せな生き方』(2)

今枝先生は「はじめに」で、ブッダの説いた仏教は、合理的に説かれた、幸せになるための指南書だという。

「人としての幸せを追求する、合理的、科学的、ユマニスト的、慈しみのある実践体系、すなわちブッダの『幸福論』、幸福のレシピに他なりません。」
 
そこで最初に来るのは、まず「殺すなかれ」である。

「わが身に推しはかって/殺してはならず、殺させてはならない」(『ダンマパダ(=法句経)』)
 
この場合も「わが身を推しはかって」、つまり、自分の身を考えれば、という人間的な条件がついている。それは納得のできるものだ。

「ブッダ」というのは「目覚めた人」という意味の普通名詞であり、キリスト教におけるイエスや、イスラム教におけるムハンマドのように、歴史上の人物を指す固有名詞ではない。
 
だからブッダの「目覚め」は、イエスやムハンマドが、超越的な神から受けたような啓示ではない。これは世界の宗教の中で、仏教だけが持っている特殊性だ。
 
つまりブッダは、「信仰」や「信心」を持てといったのではない。これは日本人がもっとも誤解していることであり、ひょっとすると世界中で誤解していることかもしれない。

「ブッダが強調したのは自分自身で理解し、実践することであり、〔中略〕自らの経験の客観的な事実認識の上に立脚し、絶えずその認識を自ら検証する」ということだ。
 
だからたとえば千日回峰行といった、肉体的に過酷な修行が評価されるようだが、これはブッダの説いたものとは全く違う。ブッダはそもそも過酷な修行などではなく、「中道」を説いたのだ。
 
しかしそれでは、ブッダの言ったとおりのことをして、現代の我々が「幸せ」をつかめるかというと、このあたりは、なんとも微妙である。

「人間に『我』『私』という考えが生まれると、必然的に所有という欲望が生じます。そして私有物を持つようになると、人間にはそれに対する執着が生まれます。この執着こそが人間のさまざまな苦しみの主な原因の一つ、すなわち幸せへの主たる障害です。ブッダが指摘したのは、『我』という誤った認識から生まれる執着の放棄・消滅の必要性なのです。」
 
これは非常に難しい。人間は太古から、少しづつ進歩してきたと信じたいが、それでも自分の「執着」を客観的に見つめ、それをコントロールすることは、今の自分には遠い将来を見すえても、見当もつかない。
 
仏教の最終の目的は「ニルヴァーナ」、つまり「涅槃」であるが、これはどんな言葉をもってしても、到達不可能な最高の境地である。

「ニルヴァーナは〔中略〕自らを修養し、浄化し、必要な精神的発達を遂げれば、現世においてある日、自らの内に体現できるものであって、ことばで論ずることがらではありません。」
 
こういうのは、どうすればいいのだろう。仏教がいくら理性的なものだといっても、最高の境地つまり涅槃が、言葉で論じることがらではないとするならば、結局は神秘的な体験に身を寄せていくほかないのではないか。

ユマニスト、ブッダ――『ブッダが説いた幸せな生き方』(1)

今枝由郎先生は大谷大学にいるとき、パリ大学に留学した。そしてそのままパリ大学で博士号を取り、1974年から2012年まで、フランス国立科学研究センター(CNRS)で、チベットの歴史文献学を研究した。
 
その間、1カ月の予定でブータンに出張し、それが予想外に延びて、10年に亙った(1981-1990)。フランス国立科学研究センターが、よくそういう出張を許可したものだ。
 
今枝先生はそこで、ブータンの国立図書館を作っていたのである(それは10年かかるわね)。
 
今枝先生はまた、ブータンの郵便制度も作っている。切手を作るときに、ブータンでは誰も切手を知らないから、日本の著名なデザイナーである杉浦康平氏に、デザインを依頼した。
 
このとき今枝先生は、杉浦先生とは、紹介者のいない、ぶっつけの初対面である。もちろんこの後、杉浦先生もブータンの国賓になった。今枝先生と杉浦先生の出会は、これは車谷長吉の言う、「貫目が合う」というやつである。
 
そういえば今枝先生は、養老孟司先生とも仲がいい。ブータンは鎖国主義をとっているから、虫採りは、今枝先生クラスの国賓とつながってないと、許可してもらえないのである。
 
その養老さんも、後に私財を用いて、ブータンに10年かけて寺院を建立した。
 
ブータンは、つまりそういう国である。
 
私はトランスビューにいるとき、今枝先生に翻訳の仕事をお願いした。

『囚われのチベットの少女』(フィリップ・ブルサール、ダニエル・ラン)

『ダライ・ラマ14世 幸福と平和への助言』(聞き手・マチウ・リカール)

『ダライ・ラマ六世 恋愛彷徨詩集』(ダライ・ラマ6世=ツァンヤン・ギャムツォ)これは装丁・杉浦康平で、目の覚めるほど美しい本だ。

『仏教と西洋の出会い』(フレデリック・ルノワール/富樫瓔子共訳)

『人類の宗教の歴史――9大潮流の本質・誕生・将来』(フレデリック・ルノワール)
 
そして最後に、次の2冊が出た。

『日常語訳 ダンマパダ――ブッダの〈真理の言葉〉』

『日常語訳 新編スッタニパータ――ブッダの〈智恵の言葉〉』
 
どちらも、ブッダが語ったといわれる、最初期の根本経典である。

「日常語訳」という名前がついているように、これは画期的な仕事だった。とにかく読みやすい。だからこれは、売れることを見込んで、2冊とも装丁を菊地信義氏にお願いした。

これにもう1冊、書き下ろしで「わたしの見た仏教」(仮)を加え、3部作として上梓されるはずだった。
 
しかし3冊目は出なかった。私が脳出血で、仕事に復帰できなかったためだ。
 
このたび岩波新書で出た『ブッダが説いた幸せな生き方』は、その3冊目にあたる本なのだ。

4円の作家、7円の作家――『絶対文藝時評宣言』(4)

私が書こうとすることは、もうお分かりだろう。文学の言葉は、相変わらず文学の言葉として、厳然とある。しかしその言葉が届くことは、今ではもう極めて稀なのである。

「文壇に元気がなく、ときに崩壊の一語さえささやかれかねないのは、しかし文学的な精神が嘆かわしくも低下したというより、たんに文壇がジャーナリズムから見放されてしまったからである。」
 
これは吉本隆明を称揚するところで、述べられている。

吉本の思考には賛意を表することはできないのだが、しかし吉本はいかなる時代にも発言してきた、と蓮實さんは言う。それは、ジャーナリスト吉本隆明の力量によるものだ。
 
しかし、そういうジャーナリステイックな言葉が、文学の言葉と相交わることがあるんだろうか。
 
吉本隆明はだから、時代と並走しながら、正確に時代とのズレを生きたのではないか。高度資本主義を称揚する吉本の後期の論文は、無慚というほかない。
 
しかし今は、吉本の方向には向かわない。問題は文学の言葉だ。
 
蓮實先生は「あとがき」にこう書いている。

「映画に対してならごく『自然』な執着をいだき続けているが、こと現代日本文学に関しては、一部の作家を熱狂的に支持するという以外には、いたってよそよそしい関係しか持ってはいなかった。」
 
それを文芸時評家に仕立て上げてくれたのは、編集を担当した菅秀実だった。

「おそらく、映画のように文学を論じたことで生まれ落ちる文章の『難解さ』に対する編集部内の不信感の表明を、彼が一手に引き受けていてくれたのだと思う。」
 
蓮實先生も、自分の書く文章が、十分に分かりにくいことを、ちゃんと意識してたんだねえ。
 
しかし文芸時評の執筆が、これほど困難になる理由は、本当は何だろうか。
 
文芸雑誌の月々の締め切りに合わせて、傑作を書くことのナンセンスさ、それはもう文芸誌を作っている方も、十分にわかっていることだ。
 
問題は、たまに傑作、秀作が載っていて、それを声を大にして叫んでも、なにも伝わらないことだ。
 
それは「4円の作家、7円の作家」という卓抜な比喩を用いても、「文学の中」にいるものには伝わっても、その反響は外にはまったく通じないということだ。
 
それはしかし、外に通じさせないといけないものなのだろうか。
 
中にいる人間が(中と外はいま仮に比喩としておく)、文学の言葉は外ではなかなか通じない、それどころか、時代が進むにしたがって、まったく通じなくなっている、ということを、まずは骨の粋まで心得ておくこと。
 
ここを第一歩としなければ、どうしようもない。
 
で、そこから踏み出すとして、どっちの方向に行けばいいのか。それはまた長い議論が必要になる。〔この項未完〕

(『絶対文藝時評宣言』蓮實重彥、河出書房新社、1994年2月15日初刷)

4円の作家、7円の作家――『絶対文藝時評宣言』(3)

蓮實先生に対する疑問は後回しにするとして、2回目以降の文芸時評を見てゆこう。
 
それ以後は、具体的な作品を取り上げた、割と平凡な文芸時評の範囲内にある。
 
取り上げられている作品は、まず大岡昇平『堺港攘夷始末』だが、その理由を、ここに概略を述べるのは、私には難しい。

「大岡昇平の『堺港攘夷始末』は、文学における鎮魂が、こうした資料空間と対峙することなしにはありえない現実を実験的に示すテクストである。今日、作家たることの才能とは、特異な想像力の戯れに気の利いた言語的表現を与えるといった個人的な体験であることをやめており、大岡昇平は、ロラン・バルトが口にした意味での『作者の死』を進んで受け入れることで、おのれの言葉を真の間テクスト的な空間に向けて解放している。」(「90 夏」)
 
こういう類いである。だからここからは、ごちゃごちゃ仰っている部分ははしょって、各回の時評に列挙される、文学作品の名前だけを上げる。
 
井上究一郎による『失われた時を求めて』個人全訳の完成は、1989年最大の文学的事件であった(しかし誰もそういうふうには見ない、と蓮實さんは言う)。(「90 秋」)
 
後藤明生の『スケープゴート』に収められた短篇は、「批評」を勇気づける「小説」である。(「90 冬」)

「91 春」は「とにかく最近の文芸雑誌に目を通していると、仲間というほどではなかろうが、まあちょっとした顔見知りであろうといった人たちが親しげに寄り集まって、とっておきの自慢話を我がちに語りあっているかのような印象を受ける。」
 
蓮實先生、かなりウンザリしているようだ。
 
河野多恵子の『みいら採り猟奇譚』は、「それ自身が精巧な『装置』として機能し、しかも、文化的な洗練の極致としてありながら、なお、文化的ないっさいの利害を超えるしかない倒錯の至上形態としての、今日では稀というほかはない『芸術』の実践となる。そのことの途方もない貴重さに、人は、率直に驚かねばならない。」(「91 夏」)
 
そこで素直に驚いた私は、すぐに『みいら採り猟奇譚』を買ってしまった。
 
ここからはもう、いちいち文学作品を取り上げることはしない。

それよりも、文芸時評を担当させられるものが、かならずウンザリしたという道筋に、蓮實先生も見事にのっかっていることを、指摘しておきたい。

「季刊雑誌だから執筆は三カ月に一度でかなりの時間的な余裕があるとはいえ、文芸時評を担当する『批評家』の職業的な義務として、毎月、数冊の文芸雑誌に満遍なく『目を通す』という酷な仕事を続けていると、その退屈な義務感を不意の喜びへと向けて解放してくれる作品に出会う機会はごく稀にしか訪れず、しかも、そのことを不当だと思う感性さえ嘘のように麻痺してしまう。」(「91 冬」)
 
そうは言いつつ、それでも蓮實さんは真面目に、称揚する者は称揚し、批判するものは批判をする。
 
ただそれは、文学の言葉を特権化しないことを前提にするため、ひどく窮屈なのだ。

4円の作家、7円の作家――『絶対文藝時評宣言』(2)

「4円の作家、7円の作家」とは、価格とページ数との関係が、そういうふうになっているらしい。
 
高橋源一郎の『ペンギン村に陽は落ちて』(集英社)と、島田雅彦の『夢使い』(講談社)を、1ページいくらの商品として売り出そうとしているか、と考えてみると、驚くなかれ、答えの数字はほぼ同じであった。すなわち両方とも、1ページ当たり、ほぼ4・5円だったのだ。

「こうなると、1ページの単価が高い作家は誰で、安いのは誰かといったことを知りたくなるのが人情というものだろう。そこで、目の前に今年刊行された注目すべき作品をいくつか積み上げ、同じ計算を試みたのである。」
 
その結果、「ほぼ十冊ほど試みてみたときには、書物を手にとり値段に目をやっただけで、一ページあたりほぼいくらの商品かという見当がつくほどになってしまっていた。」
 
ははは、可笑しいとしか言いようがない。文芸時評をやる人間が、そんなたわけたことをしていいのか、という疑問はさておき、もっとも高くついたのが、大庭みな子の『海にゆらぐ糸』、1ページ当たりほぼ7・5円である。
 
これがつまり、川端康成賞を受賞した短篇を含む、この連作小説集の、「純文学たることの誇りなのかもしれない。」
 
真面目に叙述しているけれども、文学が文学にとどまって、自閉し、収束していく感じがよく分かる(しかしもちろんこれは、大庭みな子の『海にゆらぐ糸』に対する直接の批評ではない)。
 
他に単価の高かったものは、古井由吉の『仮往生伝試文』で、これが7・4円。そして後藤明生の『首塚の上のアドバルーン』が同じくらい。
 
ここから蓮實先生は、大胆な予測を立てる。

「つまり、現在の日本の文壇には、1ページ7円台の作者というものが存在するのであり、作品の題材や書物の体裁の違いにもかかわらずどうやらある種の社会的な評価と商品価値とを共有しているのである。少なくとも、1ページ4・5円程度の島田雅彦や高橋源一郎の新作とは、その1ページあたり3円の違いにあたる何かが、社会的に容認されているといってよいだろう。」
 
こうして2つのグループの作家が浮かび上がるのだが、このこと自体は何を意味しているのだろう。いったい何が問題なのか。

「こうした遊戯を通じて、文壇という制度的な場のある種の真実が明らかになりはじめているという点だ。つまり、大庭=古井的な数値は、芥川賞選考委員となるための一つの目やすなのである。この伝統ある賞は、1ページ平均ほぼ7円程度の商品価値を持つ書物を発表しうる作家たちにより、排除され、選別された作品に与えられるというのがその定義だと言えるのだ。」
 
それは芥川賞選考委員の場合、つまり大庭みな子や古井由吉がそうであるし、そしておそらく田久保英夫、三浦哲郎、黒井千次も、単価7円台からそう遠くはなかろう。
 
蓮實先生は、さらに大胆に思考を進める。

「1ページ7円台の作者たちは、読者よりも編集者の信頼を基盤として作家活動を行っている人たちなのだろう。いわゆる文壇は、その相互信頼によって成立する7円という数を拠りどころとした制度であるに違いない。」
 
無茶苦茶ではあるが、非常に面白い。そして、蓮實さんに対するはっきりした反論も、こういうふうな明確な主張を前にすれば、自然と出てくるものだ。

4円の作家、7円の作家――『絶対文藝時評宣言』(1)

蓮實重彥先生の『言葉はどこからやってくるのか』を読んだとき、この書名が印象に残った。
 
これは、『文藝』1990年春季号から92年冬季号までに連載された、文芸時評である。巻頭に書き下ろしで、「『絶対文藝時評』にむけて」を加えた。
 
蓮實さんの文芸時評だから、一筋縄でいくわけがない、と思っていたら、さっそくその書き下ろしから、強烈な宣言をしている。
 
まず最初に、小林秀雄を取り上げ、「特権的な神話化は、いま、いかなる領域においても有効に機能し得なくなっている」という。「それは、小林秀雄がたんなる批評家として文学の内部で消費されるイメージに堕していることからも明らかだろう。」
 
小林秀雄が今どういう位置にいるかは、議論のあるところであろう。しかし今は、読み進める上で、いったんこれを是としておこう。

「かくして、文学は閉ざされ、社会との接点を見失っている。世界は、いま、いたるところで『文学以後』の時代に足を踏み入れようとしており、その社会的な機能は明らかに終わりを告げているかにみえる。」
 
これが書かれたのが1994年、いまからおよそ30年前である。その間に「文学」は、特権的な言葉を見事に失ってきた。
 
しかし「いまなお世間は文学作品を読み続けているのだから、そのための社会的な戦略を構築しなければなるまい。こんにちの『文芸時評』は、その要請にまったく答えていない。」
 
たとえば新聞の文芸時評が、年々つまらなくなり、ついには滑稽なくらい、誰からも相手にされなくなったわけが、見事に説かれている。
 
それにしても、今からおよそ30年前に、進むべき方向は示されていたのに、そこへは踏み出さずに、批評家はぬくぬくと、従来の古巣を温めなおしていたのだ。
 
とは言っても、そこで核心的な批評をやろうとすると、有効な戦略は、私なんかには思いもつかない。
 
というわけで、最初の「90 春」の、「遊戯の教訓」から読んでいこう。
 
驚くべきことにここでは、1ページあたり約4円の作家と、約7円の作家がいるという話から入る。
 
1ページ約4円の作家は、たとえば島田雅彦や高橋源一郎であり、1ページ約7円の作家は古井由吉や大庭みな子である。

もちろんこれは、作家の文学上の価値とは関係がない。「ここで問題にしてみたいのは、あくまで商品としての価値の問題であり、それが文学とまったく無縁だといいきれるほど、文学の内在的な価値を信じ込んではいないものとしては、とりあえずこの遊戯を続けてみることにする。」
 
本当かねというところだが、しかしオモシロイことは面白い。
 
ところで、「4円の作家、7円の作家」って何なんだ?

勝手な縁で――『浪花節で生きてみる!』(3)

玉川奈々福は玉川福太郎師匠に入門するが、その師匠が2007年に、事故で亡くなった。ここからはもう、引き返すことはできない。

「浪曲は、超絶オモシロイ。
 浪曲は一人の芸ではないこと。三味線とのセッションであること。
 浪曲はもともと大道芸であること。だからものすごい身体能力がある。
 浪曲は社会の下層から生まれてきた芸であること。弱者への目線、共感がある。
 浪曲は伝統芸能ではあるけれど、伝承することを第一義とせず、『自分の節をつくる』ことが最終目標とされること。そう、浪曲は最終的に自由な芸だ。」
 
これが、玉川奈々福がつかみ取った、浪曲の本質である。
 
そうは言っても、本質はつかんだとしても、実際にはどうすればいいのか。

「浪曲が、面白くなれないはずはない。
 でも、どうしたらもっと面白くなれるか。その試行錯誤はいまも続いています。
 浪曲は、私が入門した頃からいまに至るまでずっと絶滅危惧状況にあります。でも、途方もない可能性のある芸なんです。」
 
こうして著者は渾身の力を込めて、浪曲師として、また特異な浪曲プロデューサーとして、獅子奮迅の活躍を続ける。
 
2018年には突如、文化庁から文化交流使に指名される。

「約一か月半、イタリア、スロベニア、オーストリア、ハンガリー、ポーランド、キルギス、ウズベキスタンの七か国をまわって浪曲を公演しました。その前後に別の筋からのご依頼で、中国、韓国でも公演をしました。」
 
これは大変なこと、そもそもこんな公演が成立するのか。

「日本でもお客さんが少ない浪花節、海外でやってる場合か! 海外で受けるのか?
 と、自分にツッコミまくりながら、迷いながらお引き受けをしてきましたが、これがびっくり、どの国でも、浪花節、受けた!
 浪曲の、演じるスタイルも、それを通して伝えようと思う価値観も、国による文化の壁をやすやすと超える実感を得ました。」
 
そして2019年には第11回伊丹十三賞を、ITM伊丹記念財団より受賞する。受賞理由は、「現代の観客のこころを動かす語りの芸と、浪曲にあらたな息を吹き込む卓越したプロデュース力」を顕彰して、ということだった。
 
最後に本の題名に一言。『浪花節で生きてみる!』は少しまだるっこしくないか。『浪花節で生きる!』、または『浪花節を生きる!』ではだめなんだろうか。
 
しかしまあ、そんなゴタクを言う暇があれば、玉川奈々福の浪花節を一度聞いてみるべし、ですね。

(『浪花節で生きてみる!』玉川奈々福、さくら舎、2020年12月14日初刷)

勝手な縁で――『浪花節で生きてみる!』(2)

この本は面白いことは面白いが、そこに僕がのめり込むかというと、それほどのことはない。

著者の浪花節を聞いてみなければわからない、というところもある。
 
ユーチューブで聞くことも可能だが、実はどれを聞いてもピンとこない。いわゆるナニワブシである。
 
だからこれはつまらない、と思うのは早計で、いっぺんナマを聞いて見なければ、なんとも分からない。
 
ともかく玉川奈々福の一代記を読むことにしよう。
 
初めて三味線を聴いたときのこと。

「シャン、とひと撥(ばち)。その音色に、びっくりした。
 いままで聞いたことのない、世にも美しい音色! 撥の先からダイヤモンドの小ちゃなまあるい粒がポロポロこぼれ出しては、消えてゆく。なんて切なく、美しい。」
 
このとき三味線を弾いたのは、玉川美代子師匠。この人は凄い人であることを、後に知る。
 
三味線を聴いた奈々福は、「う~む。私がいるべき場所じゃないけど、辞めるのはいつでもできるから、この音色が聴けるうちは続けよう。と、通うことにしました。」
 
こうしてズブズブと、取り込まれていくことになるのだが、こうなることには、やむを得ぬ面もある。

「浪曲は、そしてたぶん他の多くの日本の伝統芸能は、理論や構造などの整理されたものを通しての伝授は一切おこなわれません。実演という、一回限りの、音色と所作と技術と緊張感と迫力とがないまぜになった、わけのわからない塊がどーんと来て、それをどこからどうかじれば多少なりともわかるようになるのかさえわからないまま、畏れ入り続けて畏れ入り続けて、わからなさ加減に麻痺したころ、やっと一つわかる。」
 
これは日本の伝統芸能の、お稽古というか習得を、実に見事に捉えている。
 
それにしても三味線の稽古が始まると、ただ愕然とするばかりである。

「普段聴いている音楽とまったく違うのです。
 三拍子、四拍子と割り切ることができない。
 構造が理解できない。
 音を、ドレミファソラシドの音階で捉えることもできない。
 そもそも譜面がない。解説的なことが一切ない。音があるだけ。」
 
ここまで分からないものがあるのか、そして「教えるほうと、教わるほうの、会話が成立していない。これが妙に面白い。」
 
このへんは、わけの分からないものを、まずは面白がってみる、編集者の地が出ている。

勝手な縁で――『浪花節で生きてみる!』(1)

浪曲師、玉川奈々福は、初め筑摩書房にいて、編集者のまま三味線教室に通い、二代目玉川福太郎に入門、2001年より浪曲師として活動している。
 
僕はこの人を全然知らなかったけれど、河野通和さんがメール・マガジン、「ほぼ日の學校長だより」で取り上げていて知った。
 
筑摩書房といえば、僕が大学を出てすぐに入ったところで、この人は、年代はずいぶん後だが、そういう人がいたのか、しかし浪花節とはびっくりだなあ、というわけで本を読んだ。
 
著者によれば、上智大学を出て、短歌雑誌を出している小さな出版社に入ったが、編集長と喧嘩して一年半で辞め、新潮社で辞書編纂のアルバイトを経て、1990年に筑摩書房に入社した。

「筑摩では雑誌・文庫・新書から単行本、文学全集など一通り経験させてもらいました。途中で営業も経験しました。」
 
きっと優秀な人だったのだ。
 
最初に携わったのが『ちくま日本文学全集』で、編集委員が鶴見俊輔・井上ひさし・森毅・安野光雅・池内紀、最初からこれでは、ちょっと荷が重い。

「自分には何もないことがよくわかって、勉強しなくちゃいけないと痛感しました。そういう場合、普通編集者なら『本を読む』という方向に行くはずです。でも私は、なぜか、感覚を養いたい、と思いました。身体的な教養を身につけたい。にわかには言葉にならないものを自分の中に溜め込もうとしたのです。
 一生続けられる習い事をしたい。」
 
かなり特異な感覚である。というか出版社を経由して、浪花節の世界というのは実に珍しい。それが筑摩書房とは、ますますもって珍無類である。
 
装丁が無類の迫力で、玉川奈々福が浪花節で唸り声をあげているところを、撮影している。
 
この本は、著者の一代記であると同時に、そもそも浪花節というものがなんであるかを、教えなければならない。

「本書ではまず、その『浪花節』に流れる価値観のことをお話しし、〔中略〕浪曲とはまったく無縁だった一人の大人が、この魅惑の沼にはまりこんでしまった経緯を恥ずかしながら申し上げます。結果的に、私の立場から見た、この二十五年の浪曲の、定点観測の記録、になっているかもしれません。」
 
そういう本である。
 
また、「浪曲界において、私が大きく影響を受けた、スペシャル魅力的な方々をご紹介し、最後の付録で、いささか主観的な『浪曲史』を書きたいと思います。」
 
やっぱりこれがないと、著者がどのあたりにいるのか、という見取り図がわからない。
 
そして「はじめに」の口上の最後。

「浪曲という芸の、カタチの奇妙さ。二人で演じることの大変さと、超絶の面白さ。上達への、卒倒しそうな遠い道のりと、お客さんと一体化したときの、至福。
 不弁ながらも、皆様にそれをお伝えするべく、つとめます。お時間まで!」

「二人で演じることを大変さ」というのは、浪曲は、浪曲師(語り手)と曲師(三味線弾き)の、二人一組で物語を語るから、ということである。