何よりも文体――『fishy』(2)

この3人の中ではいちばん年長の弓子が、一見通俗的な話を作る。

男の子が2人いて、出版社でまじめに仕事をしている。しかしとことん真面目であるゆえに、夫はうんざりし、女をつくり、離婚したがっている。

弓子は何とかして、夫を繋ぎ留めたい。

「『あなたと二人の子供との生活、楽しかったです』
 少しでも罪悪感を抱いてもらいたいという気持ちもあったけれど、本心でもあった。〔中略〕
『俺はずっと弓子といるのが苦痛だったよ』
 私の最後の望みは裏切られた。
『自分を愛していない女性との生活を共にするのは辛かった』
 あなたの言う愛ってなに? 私があなたを愛していなかったという根拠は? あなたは私といてずっと辛かっただけなの? 僅かだったかもしれないけど幸福な時間は私たちの間に家族の間に存在していたはずでしょう?」
 
しかしそういう疑問は、言葉にはならない。そうして夫は去っていく。

「今全てが間抜けだった。受験、就職、仕事、結婚、妊娠、出産、育児、PTA活動、子供の受験、会社の労働組合、じっくりと真面目なもので埋め尽くしてきた私の人生というオセロが、取り逃がした角を取られ最後の最後で一面真面目から滑稽にひっくり返ったようだった。」
 
弓子は刹那的に死にたいと思う。死にはしないけれど、その淵まで行く地獄を味わう。
 
ところが終わり近くまでいくと、夫は帰ってくる。

新しい女と暮らしてみると、支配欲が強すぎて、とても暮らせないという。結局、女房のところがいちばん落ち着くという。
 
しかし、めでたしめでたしとはならない。ここから最後の逆転が始まる。

「結局のところ、私にとって夫とは何なのだろう。帰ってきて欲しいと思っていたその気持ちは、例えば歯が抜けて食べ物が食べづらいしその周りの歯がぐらついてきてどうにかしてその穴を埋めなきゃいけないけど、他のものを入れるのは面倒だしサイズ調整するのも面倒臭いし色の差が出ちゃうのも嫌だから、やっぱり元の歯を入れたい。みたいなことだったのだろうか。」
 
思わず唸るほどうまい。そうかあ、年月を経た夫または妻は、長年なじんだ、義歯に等しいのか。なるほどなあ。
 
しかしそこから、もう一歩踏み込む。セックスの場面だ。

「そうだった、この人は前戯もそこそこに挿入する人だった。セックスの最中、顔を舐める人だった。キスをする時唾液を飲ませる。首筋も脇も舐める。そんなに強くしたら垂れるとこっちが焦るくらい強く胸を揉み、痛いくらい強く乳首を摘む。体位変更が乱暴で毎回どこかが強く擦れたりぶつかったり髪が抜けたりする。終始無言。覆い被さる時本当に全体重をかけてくる。苦しくて私は咳き込む。特に何の断りも言葉掛けもなく、無言で射精する。精液は拭かない。」
 
こういう性交が弓子は好きではない。

「私たちがレスになった理由が全て詰まっているセックスだった。」
 
そうして弓子は行きつくところまで行く。

「私は今、夫のことがあまり好きではないのだと初めて自覚していた。その自覚は、彼の寝息がいびきに変わり、本当に耐え難いうるささになって手を解き頭から布団を硬く被った時、私はどうして、この人と絶対に離婚しないとあそこまで強く心に決めていたのだろうという疑問にようやく変わった。」
 
これはじつは、性の不一致がもたらすことではない。そうではなく、その不一致を言葉にあらわさず、核心のところを呑み込むところに原因がある。

弓子はセックスに限らず、核心のところを言葉にしない。そうしてなんとか、うわべを繕って生きている。なによりも本人が、そのことを骨の髄まで知っている。
posted by 中嶋 廣 at 10:47Comment(0)日記