何よりも文体――『fishy』(1)

金原ひとみの文章はいい。『パリの砂漠、東京の蜃気楼』を読み、文章がいいので、続けて読みたくなった(そのわりにはちょっと時間があいたけど)。
 
もっとも『パリの砂漠、東京の蜃気楼』はエッセイではあるが、しかしロマネスク・エッセイで、小説とエッセイの中間くらいの感じだ。
 
こちらの小説はタイトルが英語になっていて、意味は「怪しい」とか「いかがわしい」。

しかしなぜ、英語にしたのかはわからない。
 
本を買わせるときに、著しく不利にならないだろうか、とこれはもう出版社と著者の間で、百万回議論されたであろうことを、思い浮かべてみる。
 
もちろん、百万回議論されただろうから、これ以上、口を挟むことはしない。
 
登場人物は、折あらば小説を書いてみたいライターの美玖、女性誌を編集している弓子、インテリアデザイナーのユリの3人。
 
5章に分かれていて、各章がそれぞれ、美玖、弓子、ユリの視点で語られる。だから節の目次は、主人公それぞれの名前である。
 
年齢的には弓子が37、ユリが32、美玖が28で、3人はときどき会って酒を飲む。
 
銀座のコリドー街で、3人でナンパしたりする。それが幕開けで、いかにも軽佻浮薄、風俗小説そのものである。

「男女関係なんてUFOキャッチャーみたいなもんで、一ミリの掛け違えとか一瞬のタイミングでコロッと落ちたり落ちなかったりするんだよ。小銭がなくなって諦めたら、脇役みたいなしけた奴が百円で落としていく。そういうちょっとした差で右にも左にも転ぶものなんだよ。」
 
これはユリが、夫と離婚するかしないかで迷っている弓子に語るところ。弓子はユリに猛然と反発するが、言葉に出しては言わない。
 
それに対して、美玖はこんなことを言う。

「何だよー。二人してそんな腑抜けみたいな。空気の抜けたダッチワイフじゃないんだからさ、もっと空気入れていこうよ。〔中略〕ダッチワイフにとって空気が命であるように、私たちにとっては感情が命なんだから。そんな感情の抜けたマンコに突っ込んだって気持ち良くないよ男だって。」
 
実に軽薄で気持ちがいい。もちろん弓子は年長者として、「そういうこと大きな声で言わないで」と、げんなりしたように言う。
 
そして3人は、偶然後ろに座っている3人組のサラリーマンと合流し、飲み会をする。その後は、別々のカップルになり、三者三様の一晩の結末を迎える。
 
経緯を描けば、実にくだらないが、しかしそこらへんに転がっている風俗小説とは、入り口が、似ているけれども違う。文体が違うのである。

侃侃諤諤、抱腹絶倒、快刀乱麻――『蓮實養老縦横無尽――学力低下・脳・依怙贔屓』(4)

社内報をいくら続けていても切りがないから、今回でやめにするが、蓮實さんはいよいよヒートアップしている。
 
総長としての自分の仕事に、盾ついてくる集団がいるのだ。

「何に利するか見当のつかないあの勢力は、ひたすら『不快』に向けて疾走しているようにみえるのです。あれは、ある種の自殺願望ではないかと思っているのです。まあ、東大が、単に一つの大学ではないというのが非常にやっかいなところですね。これは、複数の学部の集合体なのであり、その意味で、いざという瞬間に、過去のものとなったはずの幕藩体制がよみがえってくる。総長は複数の藩の異なる利益の調整役に徹しなければならない。」
 
そうかあ、利害を調整する幕藩体制が今でも生き延びておるのか、しかも東京大学の中枢部に。でも一般には、それこそ本当に関係がない。
 
最後にお二人の講演から。

養老さんは、いつも話していることの、骨組みだけを取り出して語っている。その中心はこうである。

「おそらく皆さんのイメージは、社会には人間という実体が沢山あって、その間で言葉なり情報なりがやりとりされている、というものだと思います。私は一度そのイメージをひっくり返してご覧になってみたら、と言いたい。つまり、厳として情報なり言葉なりという硬いものが真中にあって、その周囲をふにゃふにゃな人間が動き回っている。アメーバーみたいな人間が、動いている、そういうイメージの方がひょっとしたら正しいんじゃないか。」
 
これは、ここだけ取り出してみても、わかりにくいと思う。しかし、養老さんのいくつかある、独創的なものの見方の中で、これは代表的なものだろう。
 
蓮實さんの講演では、重大なポイントはいくつかあって、それがどこへ収束していくのかは、けっこう難しい。たとえばこういうところ。

「情報化社会とは、情報をになう記号の不均衡を前提としているのです。だとするなら、私としては、むしろ、まどろんでいる記号に手をかざしてそれをふと目覚めさせてみたい。おそらく晩年にはそのような身振りを、いわば『偏愛』によって、あるいは『依怙贔屓』によって演じることが許されるだろう。私は、ここ数日来、そんなふうに思っているわけです。」
 
これは前段があって、マスメディアにおける流行を論じたものだが、まあわからないです。でも東大社内報としては、とびきり面白い。
 
先の「普遍的」と「一般的」の違いがどこにあるか、それの分かるところがある。

「いわゆる社会の混乱は、自分だけが知っているごく特定の具体的な『何々』をもとに『いわゆる何々というもの』を考えてしまいがちなところにあるわけでしょう。それを普遍的な真実の側ではなく、一般的な思い込み、すなわちコンセンサスの中にすぐに翻訳してしまう。これはいわば大衆化された情報化社会によく行われていることです。これは、すべてをわかりやすいにせの問題に翻訳する、と言ってしまってもいいかもしれません。」
 
これはわかりやすい。マスメディアは、そのにせの問題に溢れていると言っていい。しかしこれを、瞬時に見分けるのは難しい。いつもそういう構えでいないと。

「この世界の中には、ちょっと触れば変化する好ましい細部がいたるところにあるわけです。それを『偏愛』し、それを『依怙贔屓』する。自分の利益のためにではなくて、それが変化するさまを目にとめ、その変化に同調することが快いからだという流れを作らないかぎり、いくら大きく制度を変えてみても日本は変わらないと思います。」
 
蓮實さんは、そういう変化に対する感性が、これまでになく高まってきているというが、僕にはまったく信じられない。
 
けれど蓮實さんの話からは、どういう方向に向かわなければいけないか、はっきりしていると思う。

(『蓮實養老縦横無尽――学力低下・脳・依怙贔屓』
 蓮實重彥・養老孟司、哲学書房、2002年1月20日)

侃侃諤諤、抱腹絶倒、快刀乱麻――『蓮實養老縦横無尽――学力低下・脳・依怙贔屓』(3)

蓮實さんと養老さんが、ともに怒っているところもある。しかしこれは、なかなか通じないのではないか。

「蓮實 私は、数学者なんてものはいないと思っているんです。社会的な職業として数学者を自称しうる人はいるでしょうが、問題は、数と思考する主体との関係をどうするかということを考えているか考えていないか、だけである。」

これは難しい。「数と思考する主体との関係をどうするか」、なんてことを考えてる数学者は、まずいないんじゃないか。そもそも、数学の範疇に入ってくる問題とは思えない。
 
もう少し読んでみる。
 
大多数の数学者は、「まず大学内の身分として選んでいるわけで、数との真の対決をいつどこでしているかというのが我々には見えてこない。」
 
うーむ。我々に見えてこないのは、我々の方にも問題があるんじゃないだろうか、すくなくとも私の方には問題がある、と茶々を入れたくなる。

「それは他の学問にも言えることです。フランス文学者を自称する人はいっぱいいますが、そんなものは肩書としてしか存在しないと考えた方がよい。日本という『村』の中だけの慣習にすぎません。しかし、こうした一般性がどうしてこれほど普遍性だと信じられてしまうのか。」
 
ここは非常に大事なことをおっしゃっていると思うのだけど、私には難しすぎる。「一般性」と「普遍性」は、どこでどういう区別があるのか。
 
養老さんもちょっと手を焼いていて、「おっしゃることを正しく理解しているかどうかは別として」と、話題を横に滑らす。

「養老 たとえば解剖なんて半端な学問で、あんなものは科学じゃないって意見はしょっちゅうあったわけです。〔中略〕仮説を立てて実験するのが科学だ、といつも言われた。解剖なんてスルメを見てイカがわかるかって言われるから、お前らこそイカからスルメを作っているんじゃないかと、今では言い返すんです。そこらへんのところが、私が東大にいる間に一番ひっかかったところですね。」
 
お二人の話は嚙み合っていないが、面白いことは面白い。

もっとも養老さんの、「お前らこそイカからスルメを作っているんじゃないか」というのは、考えてみれば、時間的順序でいうと、それはその通りなのだけどね。
 
ほかにもアメリカとイギリスの英語を比較した、養老さんの発言がある。

「アメリカの論文は要するにこれは電報じゃねえかっていうもので、イギリスの論文はやっぱり文学ですよね。必ずどこかひねってある。そこがなんともいえない味なんです。解剖は古い学問ですから、当然ひねってなきゃ面白くない。」
 
これも東京大学社内報の一例で、東大の中でこれを聞いていると、なるほどと膝を叩いて頷けるのだが。

侃侃諤諤、抱腹絶倒、快刀乱麻――『蓮實養老縦横無尽――学力低下・脳・依怙贔屓』(2)

蓮實さんは、1997年から2001年まで東大の総長であり、養老さんは、1991から95年まで東京大学出版会の理事長だった。
 
この二人が対談するのだから、内容が東大の社内報みたいになるのはしょうがない。
 
たとえばサブタイトルの「学力低下」をめぐって。

「養老 頭の良い悪いってどういうことか。つまりものさし次第なんです。『血圧測ればあなたは日本ではまれなくらいに高いですよ』って言ってるだけのことで、それがどうしたんだという話です。学力低下もクソもないんで、問題はその学力をなんで測っているかってことです。」
 
要するに、そこに価値を見いだすのは勝手で、血圧も学力も同じこと、何か言うときには明確なものさしを当てて言え、ということなんだけど、これは東大医学部を論じて、言っている言葉なのだ。
 
わかりますか。東大医学部は、偏差値では並ぶものが無い高みにある。しかしそれを、ただ漠然と頭がいいと言ったって、どうしようもないということ。

もっと言えば、そんなのどうだっていい、だって全員頭がいいんだから、そこでこの話をしてもしょうがない、と。そういうことだ。

こういうところが社内報である。でももちろん、東大出版会の対談だからこれでいいのだ。
 
表題の依怙贔屓をめぐって。

「蓮實 ところで、長い間教師をしてきた私の結論は、依怙贔屓によってしか人は伸びないということです。〔中略〕いま、そういうことを言っても、なかなか通じないのですが、私ははじめから自分は依怙贔屓でゆくと公言している。」
 
ほとんどめちゃくちゃだが、実感としてはそうだろうなと思う。それはみんなそうなんじゃないか。

「個々の学生の潜在的な資質が見えてきた段階からは、教育的な配慮を平等には振り撒かないということです。もちろん、機会としての平等は守りますが、これはと思う学生には特殊な信号を送ります。あなたはすごい潜在的な資質を持っているから、私を超えるでしょう、と。」
 
蓮實さんにこう言われては、学生は奮起せざるを得ないだろう。それに、「これはと思う学生には特殊な信号を送」る、と言っているけど、これは同じ教室にいれば、「特殊な信号」は、たいていはみんなに分かるものだ。
 
ここでは蓮實さんは、実に率直に教育の現場を語っている。

侃侃諤諤、抱腹絶倒、快刀乱麻――『蓮實養老縦横無尽――学力低下・脳・依怙贔屓』(1)

蓮實重彥さんと養老孟司さんの対談と講演。

2001年4月18日、東京大学出版会の創立五十周年記念で、蓮實さんと養老さんの対談と講演会が行われ、これに別の時・所で行なわれた対談を加える。
 
版元は、あの懐かしい哲学書房、中野幹隆さんが一人でやっていた出版社である。
 
僕は2001年にトランスビューを作るとき、先達の中野さんに、話を聞きに行ったことがある。

そのころ哲学書房は知らぬもののない、は言いすぎか、知る人ぞ知る出版社だった。
 
昼の12時に訪ねていくと、飯を食いに行こうというので、山の上ホテル別館のシェヌーに入った。

「何もお祝いするものが無いから、昼飯をご馳走しよう。」
 
もちろんそれで十分である。そのとき、こんなことも言われた。

「出版社なんて、おやめなさい。」
 
これはかなり断定的な口調だった。しかしもちろんその気はない。これは中野さんも分かっていた。
 
それから細かいことを、いろいろ教えていただいた。取次のことや倉庫のことを。
 
それから2007年1月の、中野さんの葬儀に至るまで、二、三度顔を合わせることはあったが、親しく話すことはなかった。
 
一度だけ、電話で褒められたことがある。トランスビューの創業の2冊、『オウム―なぜ宗教はテロリズムを生んだのか―』(島田裕巳)と『昭和二十一年八月の絵日記』(山中和子、養老孟司・解説)を出したとき、「見事だ」と言われたのだ。
 
通夜の斎場で、養老先生が出てこられるところに行き合って、二言、三言、話した。中野幹隆さんは享年63、右腎盂尿管癌だった。
 
さてこの本は、帯が面白い。

「東大の資質に賭けた前総長/
 蓮實重彥と/
 東大を捨てた/
 養老孟司が/

 侃侃諤諤 論じた/
 抱腹絶倒/
 快刀乱麻 の快著」
 
まあ中野さんにしか書けない帯だ。
 
そういえば、サブタイトルの「学力低下・脳・依怙贔屓」も中野さんらしい。ここでは気取ったってしょうがない、むしろ話題になっているものを、露骨に浮かび上がらせたほうがいい、という判断だ。
 
それにしても、「依怙贔屓」をもってくるセンスには恐れ入ります。

ずっとワクワクさせといて――『地面師――他人の土地を売り飛ばす闇の詐欺集団』(2)

この本は読んでいるときは面白いが、読み終えて全体を見渡すと、バカバカしく見えてくる。

「現代の地面師集団は、まるで江戸時代の盗賊のオツトメのように機略縦横、変幻自在に策を巡らす。地面師集団の後ろには、常に内田クラスの大物詐欺師が控え、犯行を指揮しているケースも少なくない。」
 
江戸時代の盗賊のオツトメは、池波正太郎の影響か。これは歴史的な話じゃなくて、いわば漫画の類でしょ。

それはそれで面白いけれど、こういう詐欺に何人もが、主体的にかかわっていることが、信じられない。
 
あるいはそれが、人間というもの、世の中というものなのか。私は6年前に脳出血になって以来、人間世界からずり落ちかけているので、もひとつよく分からない。

「地面師集団は、弁護士や司法書士がそこに加担し、法の網からすり抜ける術を研究し尽くす。そのうえで、高値の土地持ちを狙い、億単位の資産をかすめ取る。〔中略〕いかにも効率のいい仕事だ。そんな闇の住人たちは、なかなか根絶やしにはできない。」
 
すると別の興味もわいてくる。地面師たちは裏の世界を生きながら、何が面白くて詐欺事件を繰り返すのだろう。
 
1つの事件で、場合によっては10人以上の詐欺師が、役割分担して暗躍している。一人ずつに聞いてみたい、あなたはなぜ地面師になったのか、と。大手を振っては暮らせないその生活に、どんな魅力があるのか、と。
 
あるいは、土地持ちを嵌める詐欺そのものが、面白くてたまらないからか。
 
詐欺事件の報酬としての数億円は、ありていに言えば、そんなに魅力ではない(と思う、たぶん)。そういうあぶく銭を持てば、人間らしい感覚で暮らすことはできない。少なくとも地道には暮らせない。
 
そういうことがわからないくらい、この連中は渡世の貫目が低いのか。たぶん、そうなんだろうな。
 
もう一つ、こういう本を読んでいると漠然と、「土地を個人が持つ」ということに、疑問というか違和感が出てくる。
 
第七章の「荒れはてた『五〇〇坪邸宅』のニセ老人」の終わりごろに、こんなことが書かれている。

「たしかに登場する関係者たちが、そろって胡散臭い。加害者と被害者の線引きが難しく、警察は利害が入り乱れた複雑な人間関係を解明しなければならなくなる。有り体にいえば、警察にとって非常に面倒な事件捜査なのである。」
 
この事件は刑事事件としては、立件されなかった。
 
これはそもそも、個人が土地を所有するというところからして、おかしいのであろう。

むかし司馬遼太郎が、そういうことを述べていたな。詳しいことはまるで忘れてしまったが、『文藝春秋』巻頭随筆か何かで、そんなことを述べていたことがあった。
 
考えてみれば、大胆な提言だったわけだが、あまりに大胆で、反響はなかったような気もする。僕がここに書いても、同じことだろうとは思うが。

(『地面師――他人の土地を売り飛ばす闇の詐欺集団』
 森功、講談社、2018年12月4日初刷、20日第2刷)

ずっとワクワクさせといて――『地面師――他人の土地を売り飛ばす闇の詐欺集団』(1)

森功は『鬼才――伝説の編集人 齋藤十一』、『悪だくみ――「加計学園」の悲願を叶えた総理の欺瞞』、と続けて読んできて3作目。帯の表にこうある。

「全国の不動産関係者、銀行員、/デベロッパー社員、弁護士・司法書士、必読の書。
 知らない者から、喰い物にされる
 積水ハウス、アパグループ…/不動産のプロがコロッと騙された/複雑で巧妙すぎるその手口」
 
このころ夫婦で、家を買う算段をしていたので、これはぜひ読まねば、と思ったわけだ(その後結局、家を買うのはやめにした)。
 
とにかく面白そうである。東映の映画の始まりに似て、おどろおどろしい音楽が聞こえてきそうだ。
 
目次の後に「本書に登場する地面師たち」とあって、1ページで15人の地面師たちが載っている。その中でも内田マイク、北田文明といったあたりが、最大の黒幕らしい。
 
内田マイクは、「地面師詐欺の頂点に立つとされる犯行集団の頭目。一九九〇年代後半のIT・ファンドバブル当時に『池袋グループ』を率いて暗躍。逮捕されて服役したのち、数年前にカムバック。ほとんどの主要事件で、その影がちらつく。」
 
これは面白そうだが、しかし一方、警察や検察は何をしておるのかね、という疑問も湧いてくる。
 
北田文明は、「内田と比肩する大物。金融通で銀行融資を組み合わせた〝逆ザヤ〟という詐欺の手口を編み出したとされる。地面師の中でも最も稼いでいる一人。」
 
詐欺の手口はよくは分からないし、人物は興味深くもあるが、しかしこんな人を野放しにしていいのか。
 
秋葉紘子は、「数々の事件でなりすまし役の手配師として登場する大物手配師。日頃は各種施設の清掃員として働き、高齢者のネットワークからはまり役をスカウト。『池袋の女芸能プロダクション社長』の異名を持つ。」
 
これではまるで池波正太郎風の、キャラの立った盗賊の一味ではないか。「数々の事件でなりすまし役の手配師として登場」というのだから、これはもう『ルパン三世』峰不二子のいとこ、または伯母くらいのことはあるね。
 
この本では章ごとに、7つの事件が扱われている。有名なものでは「『積水ハウス』事件」や「アパホテル『溜池駐車場』事件の怪」など。他も似たような詐欺事件だ。

これは出だしはワクワクさせる。「第一章 『積水ハウス』事件」には、「スター地面師」というような小見出しもあって、いやがうえにも興味をそそる。

でもずっと、テンションはそのままなんだよね。悪い奴は、捕まってもたいがいは不起訴になるか、あるいはわずかな刑期を経て舞い戻る。
 
第一章の結びはこんなふうだ。

「内田と北田という二人の大物地面師は積水ハウス事件を計画立案した。そして警視庁は十一月二十日、一四人目の積水事件犯として内田を逮捕した。文字どおり神出鬼没の詐欺集団を率いてきた大物二人を手中に収めた。だが〔中略〕騙しとられた五五億五〇〇〇万円は、闇の住人たちの手で分配され、すでに溶けてなくなったとみたほうがいい。」
 
何ども言うが、日本の司法はどうなっておるのか。

宇佐見りんを「推す」――『推し、燃ゆ』(3)

ファンを殴った推しは、その後ライブコンサートの前に、結婚して芸能界を引退するという宣言をする。脱退ではなくて、グループのメンバー全員も解散するという。

「とにかくあたしは身を削って注ぎ込むしかない、と思った。推すことはあたしの生きる手立てだった。業(ごう)だった。最後のライブは今あたしが持つすべてをささげようと決めた。」
 
ここからはクライマックス。コンサートを描写する、飛び跳ねるような文体もさることながら、ここではそのコンサートが「あたし」にとって、何を意味するかを正確に書く。

「モニターでだらだら汗を流す推しを見るだけで脇腹から汗が噴き出す。推しを取り込むことは自分を呼び覚ますことだ。諦めて手放した何か、普段は生活のためにやりすごしている何か、押しつぶした何かを、推しが引きずり出す。だからこそ、推しを解釈して、推しをわかろうとした。その存在をたしかに感じることで、あたしはあたし自身の存在を感じようとした。」

「あたし」にとって推しのいない人生は、余生だった。

そのライブが終わっても、「あたし」は「成仏できない幽霊みたいに」、ピリオドが打てない。
 
そこで「あたし」は、ある行動に出る。バスに乗り、何度も迷って延々歩き、推しのマンションに行ってみる。

「ごく普通のマンションだった。名前は確認できないけれど、おそらくネットに書かれていたものと同じ建物だろう。ここで何をしようと思っていたわけではなかったあたしは、ただしばらく突っ立って、そこを眺めていた。会いたいわけではなかった。」
 
そのとき「ショートボブの女の人が、洗濯物を抱えてよろめきながら出てきて、手すりにそれを押し付けるようにし、息をつく。」
 
それが推しの、彼女かどうかはわからない。そういうことは関係がない。

「あたしを明確に傷つけたのは、彼女が抱えていた洗濯物だった。」
 
これからも、引退した推しの現在を見続ける人が、確実にいる。

そう気づいた後、「あたし」は次のステージに移る。

「もう追えない。アイドルでなくなった彼をいつまでも見て、解釈し続けることはできない。推しは人になった。」
 
しかし次の段階は長い道のりである。

「這いつくばりながら、これがあたしの生きる姿勢だと思う。
 二足歩行は向いてなかったみたいだし、当分はこれで生きようと思った。」
 
その後にどんな道が待っているのか。いろんなところを這いつくばりながら、どんな世界を見せてくれるのか。

しかし私は、這いつくばっていた主人公が、ある日突然、力をためて垂直に運動するのを、新たな文体とともに、ぜひ見たいと思っている。
 
これは、新しいステージに移った「あたし」を見たい、ということではない。そうではなくて、小説の構造自体が形而上的に、垂直に動くところを見たいのだ。
 
日本の作家では、川上未映子以外にほとんどいない、そういう運動をする小説作品をぜひ読みたい。

(『推し、燃ゆ』宇佐見りん
 河出書房新社、2020年9月30日初刷、2021年2月14日第13刷)

宇佐見りんを「推す」――『推し、燃ゆ』(2)

「あたし」の推しを推す態度は、変化せざるを得ない。

「引退試合に負けたときに夏が終わったなんて表現するけど、あたしはあの日から本当の夏が始まったように思う。
 もう生半可には推せなかった。あたしは推し以外に目を向けまいと思う。」
 
夏休みのバイトも居酒屋で、そのためだけに働いた。

2学期が始まっても「あたし」は元には戻らなかった。教室で突っ伏すか、保健室で休んだ。

「原級留置」と言われたのが高校2年の3月で、「留年しても同じ結果になるだろうから、と中退を決めた」。

「あたし」は何もしないわけにはいかないので、家族に向かっては働く意思を見せた。

でも本当は何もしない。「あたし」は推しを推すこと以外は、何もしたくないのだ。
 
ここで一点、疑問が生じる。主人公は肉体または精神に、病を抱えている(ようなのだ)。そういうところが何か所かある。

「あたしには、みんなが難なくこなせる何気ない生活もままならなくて、その皺寄せにぐちゃぐちゃ苦しんでばかりいる。」
 
これはまだはっきり病気と言えるかどうか。
 
次の場面は、深夜に母と姉が居間で話しているのを、盗み聞きするところ。

「『ごめんね、あかりのこと。負担かけて』
  〔中略〕
『仕方ないよ』姉はぽつりと言った。
『あかりは何にも、できないんだから』」
 
これではっきり病気だということがわかる。
 
つぎは父親と話をする場面。

「『じゃあなに』涙声になった。
『働け、働けって。できないんだよ。病院で言われたの知らないの。あたし普通じゃないんだよ』」
 
でも病気の内容はわからない。そして最後に決定的な記述がくる。

「なぜあたしは普通に、生活できないのだろう。人間の最低限度の生活が、ままならないのだろう。初めから壊してやろうと、散らかしてやろうとしたんじゃない。生きていたら、老廃物のように溜まっていった。生きていたら、あたしの家が壊れていった。」
 
そういうことなのだ。「あたしの家が壊れてい」く、これは大変なことに見える。

けれども「なぜあたしは普通に、生活できないのだろう」と、こちらに向かって疑問を投げつけられても、困ってしまう。
 
あるいはこれは、「あたし」よりも、作者に関わることなのか。第2作は最初から編集者がついたはずなので、ここでは著者と打ち合わせがあったはずである。こういう、いわば半端なところで納めたのは、どう取ればいいのか。私には、その先は推測できない。

宇佐見りんを「推す」――『推し、燃ゆ』(1)

朝日新聞WEB版に3月16日付で、宇佐見りんの『推し、燃ゆ』の書評を載せた。ここでは、それをさらにヴァージョンアップしたものを、3回に分けて載せておく。

まず文体。簡にして要を得ていて、しかも密度が異常に濃い。一度読みだすと、目が離せなくなる。

「推(お)しが燃えた。ファンを殴ったらしい。まだ詳細は何ひとつわかっていない。何ひとつわかっていないにもかかわらず、それは一晩で急速に炎上した。」
 
これが第一段階。センセーショナルな内容だが、文章はリズミカル、しかも端正で格が高い。
 
目を転じて、次に自分の状況を書く。

「寝苦しい日だった。虫の知らせというのか、自然に目が覚め、時間を確認しようと携帯をひらくとSNSがやけに騒がしい。寝ぼけた目が〈真幸(まさき)くんファン殴ったって〉という文字をとらえ、一瞬、現実味を失った。」
 
寝ぼけまなこで携帯を探り、そのまま現実味を失うところまで、読者を一気にもっていく。
 
次に自分の不安な内面を描く。

「腿の裏に寝汗をかいていた。ネットニュースを確認したあとは、タオルケットのめくれ落ちたベッドの上で居竦(いすく)まるよりほかなく、拡散され燃え広がるのを眺めながら推しの現状だけが気がかりだった。」
 
ここまで3つの段に分けるべきところを、まとめて1段落にする。それでますます密度が濃くなる。そしてなんと、これで最後まで行く。
 
他の作家と同じく、日本語というルールの中で、一人異次元のスピードで、彼女の世界を描いている。それはちょうど藤井聡太の将棋が、ルールは同じでも、圧倒的なスピードをもって異次元の世界で勝負するのと同じことだ。

第164回芥川賞を受賞した、宇佐見りんの『推し、燃ゆ』は、文藝賞、三島由紀夫賞を受賞した第1作『かか』に続くものだ。
 
高校生の「あたし」は、「推し」の「作品も人もまるごと解釈し続けること」が生きがいである。

そのためにテレビ、ラジオその他で、推しの発言を聞き取ったものは、20冊を超えるファイルに綴じられ、それをもとにブログもやっている。「あたし」は推しを推すことが生活の中心で、その背骨の部分は揺るがない。

「何より、推しを推すとき、あたしというすべてを懸けてのめり込むとき、一方的ではあるけれどあたしはいつになく満ち足りている。」
 
そんなとき推しがファンを殴ったのだ。世間の非難は限りない。