聡太、推し――『藤井聡太のいる時代』(1)

2月半ばから3月にかけて、藤井聡太の試合がなかった。ユーチューブに揚げられている藤井聡太の関係も、大方見た。
 
それでふらふらとこの本を買ってしまった。「聡太、推し」としては、何かないと耐えられないではないか。
 
つい先ごろ、朝日杯将棋オープン戦で、豊島将之竜王、渡辺明名人(準決勝)、三浦弘行九段(決勝)と、立て続けに破り、このときは本当に感動し、また堪能した。
 
特に渡辺名人とは、画面のコンピュータAIの形勢が、90%を超えて負けの時間が延々続き、最後の最後で逆転したので、ただもう茫然としてしまった。これは、アベマTVを見ている全員が、そう思ったのではないか。
 
豊島将之竜王も三浦弘行九段も、どちらも逆転だった。

特に決勝戦の三浦九段は、終わった後、大盤の前に出てくると、司会の木村一基九段に食ってかかるように、「僕、勝ってましたよね」、そして一泊置いてから、声を落として、「でも藤井さんが相手なら、しょうがないか」とポツンと言っていたのは、哀れを誘った。
 
名人と竜王を土俵際で堪えて、いわば鮮やかな四つ相撲で倒すとは。これでもう、少なくとも10代末の今から、20代の終わりまでは、ちょっとした事故以外には、負けないのではないか。
 
これからは、年度が終われば、せいぜい3敗から5敗、場合によっては全勝という年があっても、まったく驚かない。やはり目標とするのは、まずは双葉山の69連勝、ということになるんじゃないか。
 
ジャンルは違っても、双葉山の記録や、イチローの安打数4367が目標になるに違いない(このへん、ちょっと誇大妄想気味)。

『藤井聡太のいる時代』は朝日新聞日曜版に、18年4月から20年7月に掲載したものを、加筆して収めたものだ。
 
はっきり言って、ほとんど読んだことのある記事で、新しいことは何もない。もちろんファンはそれで構わない。何度も何度も咀嚼して、味わい尽くすのだ。
 
しかしそのなかで、通算50勝を達成したとき、これは「節目(せつもく)」の数字となったので嬉しい、と述べていたのにはびっくりした。この読み方はまったく知らなかった。
 
ルビを振っていなければ、「節目(ふしめ)」と読んで、まったく気にせずに通り過ぎたはずだ。
 
藤井がまだ中学生の頃で、言葉の正確な読みを、中学生に教えてもらおうとは、夢にも思わなかった。
 
もう一つ。インタビューに、こんなふうに答えている。アベマTVの「炎の7番勝負」で、若手やトップ棋士たちを相手に6勝1敗という、信じられない成績を上げたときだ。

「相対的にというよりは、絶対的に強くなりたいと思っています。タイトルを目指す気持ちはありまずが、それが最優先という時期ではありません。」
 
私はこのさり気ない一言を読んだとき、つまり「絶対的に」という一語を読んだとき、われ知らず震えが来た。

彫琢を凝らして――『若冲』(2)

澤田瞳子には、若冲の絵は異様なものに映っている。

「そう、所狭しと掛け廻された鮮麗な絵には、一つとして生きる喜びが謳われていない。そこに描かれるのは、いずれ散る運命に花弁を震わせる花々、孤立無援の境遇をひたすら嚙みしめるばかりの鳥たち。身の毛がよだつほどの孤独と哀しみが、極彩色の画軸から滔々と溢れ出していた。」
 
若冲の絵がこんなふうに迫ってきたがゆえに、一体この作者はどういう人だろうと、作家は発想を広げていったに違いない。
 
しかし私には、若冲の絵は、そういうふうには見えない。写実なのにあまりに強烈な絵は、「生きる喜びが謳われていない」、とは思えないのである。
 
作者のような美術史の専門家は、そう見るにしても、たとえば直木賞の委員たちは、私と同じように見ていたのではないか。
 
次の場面は若冲自身が、おのれが絵を描く意味と、真に向き合っている。

「荒涼たる夜の野面に、ただ月の光だけが明るく、生きる物は芭蕉以外に何一つない。吹きすさぶ風に翻弄されながらも、ひたすら月に向かって葉を伸ばす芭蕉。それは偶々(たまたま)人身を受け、この無常の世に苦しみながら仏の慈悲を願う人の姿であると同時に、求めても得られぬ許しを請い続ける茂右衛門〔=若冲〕自身でもあった。」
 
孤独のまま死んだ妻と向き合うことが、若冲のただ一つの生きる意味であった。
 
しかし孤独死した妻には、「弁蔵」という弟がおり、若冲を憎むこと尋常ではない。

「桝源の隠居、茂右衛門〔=若冲〕という男は、既にこの世にいない。存在するのはただ、奇矯の絵を描く伊藤若冲なる絵師だけなのだ。
 この世に弁蔵がいる限り、兄は絵師として生き続ける。いわばお三輪の死とそれに伴う弁蔵の怨憎だけが、彼を生かし、絵を描かせる糧。」
 
ここは抽象的で、手触りのある憎しみとしては、いかにも弱い。しかし文章は実に名調子で、いったんその世界に入り込めば、ただ流れに乗っていくばかりだ。
 
そういうところをもう一カ所。若冲の名前の由来を説いたところで、ここはちょっと難しい。

「若冲という号は、桝源の主を退くと決意した際、大典(だいてん)が『老子』第四十五章の「大盈(たいえい)は沖(むな)しきが若(ごと)きも、その用は窮まらず」、すなわち「満ち足りたものは一見空虚と見えるが、その用途は無窮である」という一節から付けてくれたもの。色の上に色を重ねるが如き華やかな絵に漂う寂寥を承知の上で、だからこそ若冲の絵には、何者にも真似できぬ意義があると断じての命名であつた。」
 
筋の運びには無理があるように思うけれど、その文体は、研鑽を積んだ極上のものであった。

(『若冲』澤田瞳子、文春文庫、2017年4月10日初刷、5月10日第3刷)

彫琢を凝らして――『若冲』(1)

澤田瞳子の小説は読んだことがなかった。『若冲』は八幡山の啓文堂に、文庫の表紙を見せて棚差しになっていたので、つい手に取った。
 
装幀が伊藤若冲の「雪梅雄鶏図」(両足院蔵)で、クローズアップされた雄鶏が凄い迫力である。
 
若冲はこのところ人気がある。2016年が生誕300年ということもあって、上野の東京都美術館の若冲展は、5時間以上並ばないと観ることができなかった、と上田秀人が「解説」に書いている。
 
私は40数年前、筑摩書房に入ったとき、初めて若冲の作品を見た。『江戸時代図誌』の終わりごろ、編集部に入って索引取りをやった。そのとき若冲を見たのだ。日本美術の専門家以外は、その名をほとんど知らなかったと思う。
 
今ならこれは企画になる、とすぐに思うところだが、筑摩にいた9年間は、仕事に対するそういう姿勢は、まだ生まれなかった。
 
私がそういう姿勢で仕事をし始めたのは、法蔵館時代の後半から、トランスビューを立ち上げたころだ。布施英利さんの『図説 死体論』や、山中和子さんの『昭和二十一年八月の絵日記』は、ジャンルは全然違うけど、よく売れた。
 
図版の本は、文字だけの本に比べると、企画として当たるか当たらないが、比較的容易に分かるような気がする。
 
若冲は1716年、京都の青物を取り扱う桝屋源左衛門、通称桝源の長男として生まれた。しかし商売には見向きもせず、ただひたすら絵を描いた。
 
そういう男の一生を、丹念に彫琢を凝らした文章で綴っていく。
 
長男として生まれながら、本業の商売を棄て、絵描きとして過ごしたのだから、そこに作家の想像力の羽ばたく余地がある。
 
若冲は妻を省みることなく絵に没頭し、その結果、妻は自殺し、若冲は苦悩に苛まれる。ここが想像力の最たるものだ。場合によっては荒唐無稽と言ってもよい。
 
そういう太い筋道があって、そこに池大雅、丸山応挙、与謝蕪村、谷文晁などが絡む。
 
また若冲の妻の弟が、若冲を姉の仇と憎み、若冲の贋作を描き続ける。
 
ほとんどすべてが想像の世界のことなので、そういうことがあってもいいけれど、しかしあまり説得力はない。
 
この作品は直木賞の候補にはなったけれど、受賞には至らなかった。やはり説得力に欠けたのだろう。

しかし時代小説の、特に文体を味わう上では、もうこれ以上はない、参りました、というほかはない。
 
作品の三分の一を超えるあたりから、私は澤田瞳子が作り上げる、江戸の中に入り込んで、しばし堪能し、そうして抜け出ることができなかった。

蓮實先生のユーモア溢れる苦闘――『言葉はどこからやってくるのか』(4)

「学部の壁を壊しなさい」は、博報堂が出している『広告』という雑誌のインタヴュー記事。この号は『恋する芸術と科学』と題されている。その最後の、蓮實さんのセリフがすごい。
 
聞き手が、「色気」を蓮實さん流に定義すると、どうなるでしょうか、という質問に対して。

「やはり、その人が存在しているということの、他人による説明を超えたあり方ではないでしょうか。ある人がそこにまぎれもなくいるということを、他人は何らかの形でいつでも説明したがります。主体と客体を安易に分断した上での、他人による支持や、他人による証明がある人を存在させているのだと考えられている。しかし、そんな証明書もなく、いかなる説明も必要とせず、ある人が、性別、国籍、年齢を超えて、そこにいるということが見えてしまう瞬間がある。」
 
これは難しい。必ずしも年齢がいってなくとも、分かる人にはわかる。そういう人を見た人にはわかるのだ。
 
しかし逆に、見た経験のない人には、ついにちんぷんかんぷんで、何を言っているのか、皆目わからない。
 
それでも、そういうことがあるらしいと、心の片隅に留め置くだけでも、きっと違うのだろう。あるいは、心の隅においておけば、いつかはそういう人に出会うかもしれない。

「その人が存在していることの色気を前にすると、もはや証明書は要りません。他人による説明も必要ありません。あなたは、まぎれもなく存在していますね、と言うしかない瞬間がそれです。さらに言うなら、それは『あなたは不気味なまでにそこにいますね』という驚きかもしれない。あるいは、脅えかもしれない。そのように存在していることの色気さえあれば、名前なんか覚えてもらう必要などありません。」
 
そういう人に会えれば、自分にとって世界は変わるはずだという。
 
これ以上付け加える必要はない。ちなみに僕は、そういう人と会ったことはない。それに近い人と会ったことは、何度かはあるが。
 
最終章の「映画の『現在』という名の最先端」は、韓国のインディペンデント映画雑誌『FILO』にメールで答えたインタヴューである。
 
聞き手のホ・ムニョン氏が実に細やかで、蓮實先生とは初めてなのに、とてもそうは思えないと、蓮實さんに言わしめている。だからここでは、のびのびと存分に思いのたけを述べている。

「〔スコセッシは〕ごく普通の場面が撮れない。あらゆるショット――構図、被写体との距離、アングル、その動き――が彼自身のやや粗雑な感性によって構成されているので、自分でも意識することなく撮れてしまったというみごとなショットが、彼の映画ではまったく不在なのです。」
 
なにを言っているのかよくは分からないが、蓮實さんが気持ちよく応えていることは、よくわかる。
 
蓮實さんの本を、何冊か読んでみたくなった。

(『言葉はどこからやってくるのか』蓮實重彥、青土社、2020年10月30日初刷)

蓮實先生のユーモア溢れる苦闘――『言葉はどこからやってくるのか』(3)

ここでは『リュミエール』編集長として、苦労に苦労を重ねて、スイスに住むゴダールにインタヴューするところが白眉である。蓮實さんは、本人も信じられないことに、ゴダールにすっかり気に入られたのだ。

「食事をしながら、実に楽しそうに喋り始めるわけですね。わたくしの質問しないことまで自分から語り始め、とにかく、乗っているということが判りました。はじめは、いつ『帰れ』と言われるかと思って心配していましたけれど、乗ったら、今度は、なるべく引き延ばしてやろう、ということで、結局二時間何分、食事をしながらインタヴューしました。」
 
蓮実編集長、大活躍である。
 
ところが、ゴダールにあまりに気に入られ過ぎて、東京映画祭に新作を出すためのナレーションを作成しろだの、お前は声がいいからそのナレーションを吹き込めだの、あるいは日本人の観客に見せるスーパーを訳せだの、無茶苦茶なことを言ってくる。
 
そうしてゴダールは、東京映画祭の方に電報を打って、あとは蓮實に任せたといい、映画祭の方からも、よろしくお願いします、やっていただかないと困ります、となる。
 
蓮實さんは、まだ大学の試験中である。しかしそれを、ゴダールに分からせることはできない、当たり前だ。

「結局、七日間徹夜してやりました。しかもゴダールの映画は、いわゆるダイアローグが続く映画ではないわけです。飛びに飛ぶわけですから、映画を見ないと判らない。ところが映画が着いたのが、東京映画祭の上映日の六日前なんです。」
 
編集は一般に、知的な作業だと思われている。それはそうなんだけれども、どこかで力の限り、ということがないと、充実した仕事にならない、魂を込めた仕事にはならない。

「で、その晩、五時から始めて、翌朝の五時までやっても、誰も『やめよう』とは言わないわけです。わたくしが『明日、八時半から試験なんだけど』なんて言いますと、『ふふーん』なんて言って、とりあわないんです。」
 
蓮實さんは仕方がないので、大学院の入試の採点に行って、帰ってからまた徹夜で頑張る。そしてとうとうやり遂げる。
 
ここは蓮實さんとしては、珍しく「ひーひー言って」というような言葉で、編集の現場感覚をむき出しにしている。
 
つまりそれほど大変であり、またそれだけ、何にもまして面白かったのだ。
 
蓮實さんはこのあと、東大の総長になる。東大の総長になる人をつかまえて、こういう言い方はどうかと思うけど、『リュミエール』が、わずか4年たらずの雑誌ではなくて、もっと永く続いていれば、世界の映画界に、どんなに大きな影響を与えられたか。それを思うと、見果てぬ夢とは知りながら、なお茫然としてしまう。

蓮實先生のユーモア溢れる苦闘――『言葉はどこからやってくるのか』(2)

中学で円盤投げの選手だった話は、まだまだ続く。それが抜群に面白い。

「ちなみに、わたくしは東京都の大会にも出場しました。自分の名前が呼ばれるまで、競技場の木陰の草原に寝っ転がって、飯島正の『フランス映画』(三笠書房)――表紙カヴァーは女優のダニエル・ダリューじゃなかったかな――を読んでいました。ところが競技が終わって戻ってきたら、風で飛んだのか誰かが盗んだのか、その書物のカヴァーがなくなってたことを鮮明に記憶しています。」(同)
 
中学生の読む本のカヴァーが、ダニエル・ダリューでっせ。それが無くなっていたことを、鮮明に記憶しているという。
 
だから「三島的な虚弱児童の屈託はどうにも理解できなかった。というより、運動神経のない人に文章が書けるとはどうしても思えないのです。」
 
三島由紀夫賞受賞記念インタビューで、三島作品の根本的欠陥を一撃で、しかもユーモアをもって否定する。蓮實さんの面目躍如! ですね。

「零度の論文作法」では、鈴木一誌が聞き手になって、蓮實さんの不思議な文体や、映画と言葉の関係について、掘り下げて聞いている。
 
その中で、言葉には直接関わらないことだが、大学の問題で、根本的な疑問を呈している。

「日本がいま直面している最大の問題は、人口構成でしょう。現在の出生率のままで日本の国力が伸びるはずがない。じつは大学問題の大半はそれだと言ったんですが、当時の文部省は、それは厚生省の問題だというだけでした。」(「零度の論文作法」)
 
これはその前に、「私自身にとってはどうでもよいことですが」という前置き付きではあるが、日本の問題を突き詰めれば、ここに行き当たる。
 
世界を見渡せば、化石燃料に由来する地球温暖化があり、日本国内を見れば、少子化にもとづく人口減少の問題がある。究極の問題はこれ以外にない。
 
日本国内については、早急に移民を迎え入れる以外にないと思う。それが、日本列島が生まれて以来の、いつに変わらぬ「雑種文化」繁栄の道だと思うけど、その動きはいかにも鈍い。「それは厚生省の問題」などでは全くないのだ。

「『リュミエール』を編集する」は、蓮實さんが八面六臂の活躍をして、それをオブラートに包まずに、編集長としてナマで出している。
 
その前にまず、「形容詞」として機能しうるような様々な説明を、避けようと主張する。

「例えば、一番簡単に言ってしまえば、『かわいい』という言葉ですね。『かわいい』という言葉は、『かわいさ』の本質に迫るということとは関係なく、ある種の共同体の一般的な納得事項としてあり、テレビに猫が出てくると、みんな『かわいい』と言ったりするわけですが、かわいくもなんともない。」(「『リュミエール』を編集する」)

「かわいい」とか、「美しい」とか、「素晴らしい」といったような形容詞が、すべて尽きてしまったところに、「『魂の露呈』あるいは『記号の露呈』」がある。

これはまあ、ちょっと難しくて、この項目、消してもいいかと迷うところだが、せっかく書いたので残しておく。

蓮實先生のユーモア溢れる苦闘――『言葉はどこからやってくるのか』(1)

蓮實重彥先生というと、東大での最初の授業のことが思い浮かぶ。蓮實先生について僕が書くときは、必ずこの話題から入っている(だからもう今回で打ち止めにして、二度とは書かない)。
 
2年生の1月期の授業で、プリントが配られた。中身はバタイユの『死者』。ガリマールの全集から複写したものだった。
 
翌週、第2回目の授業のときに、プリントの代金を集めるということだった。
 
そのお金を集めるのに、封筒が回された。全員の分を回収したのち、先生は袋の重さを確かめるように、二、三回、上下させた。それから中をひょいと見た。
 
全部10円玉であるべきところが、1枚、5円玉が混じっていた。先生はじっと中をご覧になり、不思議なことがあるものです、でも全部硬貨だと、金持ちになった気がしますねと、くすりとされた。
 
それだけのことなのだが、バタイユと蓮實先生というと、この絶妙の光景が浮かんでくる。
 
今度の本は、そういう線上にある。
 
この本は「あとがき」が非常に大事である。蓮實さんは、未発表のテクストが数篇あることは、編集者に告げたが、それをもとにした新著は、無理ではないかと思っていた。
 
ところがそうではなかった。

「それらを含めた書物の構想が知らぬ間にできあがってしまったのである。だから、この書物は、著者がほとんど介入することなく、知らぬ間にできあがってしまったような印象を持っている。」
 
つまり編集者の本田英郎(僕は会ったことがない)が、未発表原稿と、雑誌には載せたが単行本に入っていないものを並べた結果、いかにも蓮実先生らしいと、人が見て思うような本になったのである。
 
内容は、『伯爵夫人』で三島由紀夫賞を受賞したときの挨拶や受賞記念インタヴュー、語られたバルト論、蓮實さんの文章に装幀家の鈴木一誌がインタヴューした「零度の論文作法」、『リュミエール』を編集したときの話、韓国の映画雑誌のメールによるインタヴューなどである。
 
ところどころ拾い読みしてみよう。

「蓮實 三島の運動神経のなさが、わたくしにはまったく理解できませんでした。それは、想像力の不在というより、より高度の身体的な感覚の問題です。例えば、中学で陸上競技部に入り、円盤投げで新宿区で優勝したのですが、よく飛んだ円盤が指にはじかれる感覚は、どこか言葉と存在の関係に通じるものがあり、それを知らずにどうして言葉が書けるのかが、よくわからなかったのです。」(「小説が向こうからやってくるに至ったいくつかのきっかけ――第二九回三島由紀夫賞受賞記念インタヴュー」)
 
こういう文章への迫り方は、本当に蓮實先生らしい。それにしても中学のときに円盤投げで新宿区で優勝するとは、ただ者でない。けど、ちょっと横道に逸れた話ではある。そうしてそれは、さらに逸れていくのだ。

くんづほぐれつ――『棋翁戦てんまつ記』

これは最初に著者を書いといたほうがいいだろう。逢坂剛・船戸与一・志水辰夫・夢枕獏・黒川博行・大沢在昌・北方謙三・宮部みゆきの各氏と、カバーにはのってないが「小説すばる」編集部の山田裕樹氏である。「解説」を書いている、この最後の人こそ、仕掛け人である。

1990年代前半、逢坂剛と船戸与一がふとしたことで、将棋を指して雌雄を決めることになり、その場にいた志水辰夫が観戦記を書く、という企画が生まれた。
 
しかしそれだけでは何か足りない、と山田裕樹は考える。そのとき筒井康隆の「注釈の多い年譜」という傑作があり、これをいただこうと考える。

「観戦記原稿に二人の対戦者が注釈をつけて、ああだこうだと講釈だの批判だの言い訳だのを書きこめば、『将棋対決』と『文章対決』という二重構造の楽しみが現出するではないか。」
 
これがひらめいた瞬間、企画は成立した。どんな企画でも、編集者の頭に閃いた瞬間が、スリリングで面白いのだ。
 
そして「棋翁戦」という名前。これがなければ、企画は成立しなかった。

「棋翁戦」は全部で六回行われた。(◎は勝者、つまり時の「棋翁」)

 一の戦 誕生・井の頭公園
     船戸与一vs.逢坂剛(◎)  観戦記・志水辰夫

 二の戦 壮絶・新宿、空中戦
     逢坂剛vs.夢枕獏(◎)   観戦記・船戸与一

 三の戦 秘打・太閤おろし
     夢枕獏vs.船戸与一(◎)  観戦記・逢坂剛

 四の戦 神域・昼下がりの対決
     船戸与一(◎)vs.志水辰夫  観戦記・夢枕獏

 五の戦 血煙・銀座八丁目
     船戸与一vs.逢坂剛(◎)  観戦記・黒川博行

 六の戦 決戦・たそがれの銀座
     逢坂剛vs.黒川博行(◎)  観戦記・志水辰夫/大沢在昌

 終(つい)の戦 仰天・トランプ将棋
     黒川博行vs.船戸与一(◎)  観戦記・逢坂剛

盤外として、ではなくて番外として、「挑戦・一人対三人がかり」というのもあり、時の名人・米長邦夫に、逢坂剛・船戸与一・志水辰夫が三面指しで挑んでいる(結果については言うまでもない)。
 
それぞれの腕前については、僕とどっこいどっこいと言ったらいいか。将棋の腕よりも、それぞれの文章で唸らせる。
 
この本も、山本文緒の『絶対泣かない』と同じく、単行本は一九九五年に刊行されている。出版が遊びも含めて、自由自在だった時代である。

(『棋翁戦てんまつ記』逢坂剛・船戸与一・志水辰夫・夢枕獏・黒川博行・大沢在昌・
 北方謙三・宮部みゆき、集英社文庫、2018年3月25日初刷)

デザートとして――『絶対泣かない』

町田そのこの『52ヘルツのクジラたち』が、僕には合わなかったので、柳美里の『JR上野駅公園口』を読んだが、これはこれでずしんと腹に応えるもので、しかもムツカシイものだった。
 
ムツカシイというのは、天皇と天皇制とが、僕の腹にすとんとは落ちて来ないもので、大きな塊として、まだ胸の底に居座っている。やっぱり天皇制に対する、きっぱりとした腹の括り方というものが、できていないことが根本にある(それはまた別のところに、書ければ書く)。
 
そういうわけで、デザートとして、山本文緒の『絶対泣かない』を読む。
 
僕が読んだのは角川文庫だが、元の単行本は1995年に大和書房から刊行されている。
 
文庫の裏の内容紹介によれば、「15の職業のなかで、自立と夢を追い求める女たちの人知れぬ心のたたかいを描いた、元気の出る小説集。」
 
一篇が10頁ちょっとの掌編小説だから、すいすい読める。例えばデパート店員の物語。
 
短大を出て中堅の電機メーカーに就職した「私」は、社内恋愛をしていた。仕事は楽で、休みは恋人と過ごした。給料も悪くなかった。
 
ところが彼の方が、社内にいる別の女を好きになってしまった。「私」は振られてしまったのだ。本当にもう、死にたかった。
 
振られた「私」を、みんなが避けるので、しょうがなくてデパートに転職することにした。
 
2年たったとき、「彼」が「私」の前にあらわれて、やりなおしたい、と言った。そのときとっさに、バイトの「小暮君」を指して、私この人と付き合ってるの……。「彼」は憮然として帰っていった。

「私」は関係のない「小暮君」に、変な役割を負わせたことを謝った。「小暮君」は真っ赤な顔で、ぺこんと頭を下げると、逃げるようにその場を去っていった。「小暮君」は「私」が好きだったのだ。
 
最後の場面。

「私は掌で、自分の肘をさすった。半袖から出た腕が、ほてって熱を持っている。
 ああ、死なないでよかった。私はそう思った。生きていると、いいこともあるんだなと、私は世間を知らない子供のように単純にそう思った。」
 
この掌編のタイトルは「今年はじめての半袖」。
 
最初にこの単行本が出たのは、1995年といったが、このころはまだ世の中に活気があって、転職も気軽に行われていたのだ。
 
ここで15の職業を上げておく。掲載順に、フラワーデザイナー、体育教師、デパート店員、漫画家、営業部員、専業主婦、派遣・ファイリング、看護婦、女優、タイムキーパー、銀行員、水泳インストラクター、秘書、養護教諭、エステティシャン。

どの職業も苦労はあるけれど、じっと耐えていれば何かが得られる。そういう希望が、給与も含めて、まだその時代はあったのだ。
 
そこから急激に、見かけの景気が良くなるのと反比例して、人の暮らしは坂道を転がっていった。

(『絶対泣かない』山本文緒
 角川文庫、1998年11月25日初刷、2003年11月5日第21刷)

深化する柳美里――『JR上野駅公園口』(3)

この小説は続けて二度読んだ。最初に読んだときは、場面場面が切り立っていて、よくわからなかった。6年前の脳出血の後遺症で、こういう断章仕立ては無理なのだろうか、と思った。
 
二度目に読んだときは、全体が起きてきて、2次元だったものが、3次元の立体物になるようだった。
 
たぶん三度目に読むときには、もっとくっきりと、細部の手触りがあるように迫ってくるだろう。
 
そのことを前提にして、福島に生まれてほとんど出稼ぎに暮らし、長男と女房に早くに死なれ、年老いてからはホームレスとして、死に場所を求めた男の生と、それと対比的に天皇陛下の生を比べるのは、あまりに観念的で、自分の心の隅にわずかな疑問、というほど確固たるものではないが、違和感に似たものが残った。
 
それでまた、終わりに近い部分を読み返す。

「自分は悪いことはしていない。ただの一度だって他人様に後ろ指を指されるようなことはしていない。ただ、慣れることができなかっただけだ。どんな仕事にだって慣れることができたが、人生にだけは慣れることができなかった。人生の苦しみにも、悲しみにも……喜びにも……」
 
そう思っている人間が直接、天皇を見るのだ。

「国立科学博物館の方から先導の白バイが見えて、腕時計を見ると、一時七分だった。
 白バイの後に黒塗りの車がつづいて、御料車が近付いてきた。紅地に金の十六弁の菊紋がある『天皇旗』をボンネットに付けたトヨタ・センチュリーロイヤルだった。ナンバープレートの部分にも金の菊紋が入っている。
 後部座席――、刑事の説明通り、運転席の後ろが天皇陛下で、助手席側が皇后陛下だった。
 〔中略〕
 時速十キロメートルで徐行していた車がゆっくりと歩くぐらいの速度になり、後部座席の窓が開いた。
 てのひらをこちらに向け、揺らすように振っているのは天皇陛下だった。」
 
男はいろんな思いで一杯になりそうで、しかし言葉は出てこずに、ただ手を振るだけだった。
 
最後は大地震による三陸沖の津波で、孫娘が死ぬ。そのあと小説は、男が自死することを暗示して終わる。
 
人生にだけは慣れることのなかった男の一生、それが天皇の生の対極にあって終わる。
 
これ以上はないという力の入った作品だが、それでもやっぱり、微かな違和感は残る。

(『JR上野駅公園口』柳美里
 河出文庫、2017年2月20日初刷、2021年1月15日第23刷)