粋を読む――『文学は実学である』(5)

だらだら書くのはこれで終わりにする。最後に印象に残った文章をいくつか。
 
表題にもなった「文学は実学である」は、2頁のごく短いものだ。

「文学は、経済学、法律学、医学、工学などと同じように『実学』なのである。社会生活に実際に役立つものなのである。そう考えるべきだ。特に社会問題が、もっぱら人間の精神に起因する現在、文学はもっと『実』の面を強調しなければならない。」
 
これはまったくその通りなのだが、文学は、経済学、法律学、医学、工学などと違って、俗に言う子どもでも分かるところから段階を踏んで、というふうにはなっていない。

そこが難点で、多くの子どもにとっては、経済学、法律学、医学、工学などよりも、はるかに難しい。
 
だから、これはもう内容ではなくて、文学作品の形や文体を叩きこむほかはあるまい、という空想的な考えに落ちていく。

「今日の一冊」は、出かけるときに何を1冊を持って行くか、という話だ。
 
これは以前、出張のときなど迷ったものだ。著者は、出発の時間が迫り、頭はパニックになるのが、いつものことであるという。

「本を入れたときのカバンのふくらみと、重み。それを感じとっているひとときが楽しいのだ。でもこれはこのエッセイを、エッセイらしくするための、ぼくのことばに過ぎない。ほんとうのところはまだわかっていない。」
 
最初の予定調和を、「エッセイらしくするための、ぼくのことばに過ぎない」と否定するところは、いつもの荒川洋治だ。

しかしここは、「ぼくのことばに過ぎな」い、なんて言わなくていいと思う。「本を入れたときのカバンのふくらみと、重み」、最高じゃないですか。
 
それでも著者は、続けてこう書く。

「昔、山へ入る人が、腰にぶらさげた弁当みたいなものかもしれないと思う。でも少しちがうようだ。手をつけないときもあるのだから。」
 
ふふふ、どう思います。弁当だって手を付けないときもある、とは思うんだけど。
 
本に対するこの感覚は、以前取り上げた北上次郎の『書評稼業四十年』と似ている。

「いちばんいいのは、本を外から見ていることだろう。本を手に取って、これは面白そうだなあと外から見ているときがいちばんしあわせである。」
 
荒川洋治とはちょっと違うけど、でもまあ同じようなものだ。

「水曜日の戦い」はフラナリー・オコナーという作家について。

この人は39歳の若さで亡くなったのだが、「読む人の内部を壊して、別の物と取り替える。そんな作品を残した。」
 
どんなことか分かるかな。私には全然わからない。

「文章に、会話のはしばしにユーモアと、深淵がのぞく。おそろしいほどの緊迫感がたちこめる。オコナーは、かつて例のない非情の目をみひらいて人間を愛し、人間を見つめた。いまも『善良な』読者を震わせる。」
 
善良な読者である私は、早く震わせてほしいと、心待ちにしているのだ。

(『文学は実学である』荒川洋治
 みすず書房、2020年10月1日初刷、11月6日第2刷)