粋を読む――『文学は実学である』(4)

荒川洋治のこの本は、書評している側が、エッセイを書くようなつもりになって来て、だらだらと切りがない。
 
でも、もう少し続けたい。

「いつまでも『いい詩集』」は、茨木のり子の『倚りかからず』を扱う。
 
それはとてもいい詩集だ。

「わかりやすく厳正な日本語、ふくよかなユーモア。読者が時代のなかの自分をたしかめるには、とてもよい詩集だと思う。流れる静かな時間がここちよい。散文に荒らされた神経が癒される。」
 
最後の、「散文に荒らされた神経が癒される」が実にいい。しかしこれだけでは、荒川洋治のエッセイとしては物足りない。
 
その前に、表題になった「倚りかからず」を引いておく。

「もはや
 いかなる権威にも倚りかかりたくはない
 ながく生きて
 心底学んだのはそれぐらい
 じぶんの耳目
 じぶんの二本足のみで立っていて
 なに不都合のことやある

 倚りかかるとすれば
 それは
 椅子の背もたれだけ」
 
私も、これはいい詩だと思う。詩集にしては珍しくベストセラーになったのも頷ける。
 
ところが荒川洋治は、続けてこんなことを言う。

「この詩集をさらに『いい詩集』にしているものがある。それは自分の詩集を人間の書くものとしてとても『いい詩集』であると理解する読者の存在を疑ったことがないことだ。読めばすぐに意味が伝わり、たちどころに『倫理的な効果』をあげてしまう自分の詩のしくみに、著者は『倚りかか』ろうとする。」
 
はっきり言って、ぼろくそである。著者も、このままではあんまりだと思ったのか、続けてこう書く。

「だから読み終えたときに奇妙な味わいが残る。『いい詩集』というものはいつもこのようなところがあるものだ。このようなものなしには生きられないのだ。」
 
この「このようなものなしには生きられないのだ」は、詩集一般にそうだと言っているのか、それとも「いい詩集」とは、そういうものだと言っているのか。
 
私はこれは、「いい詩集」に限って言っていることだ、と受け取った。それは後のところを読めばわかる。もう少し読んでみよう。

「いまは『背もたれだけ』というがほんとうなのか。きれいごとではないのか。著者は自分という一個の人間の現場で起きているであろうことにふれないまま(あるいは気づこうとしないまま)いささか現実離れした人間像を、ことばのなかにゆらめかせる。人間がうたわれているのに、人間の一人である自分がいない。そこに独特の世界が現われる。」
 
なるほどそういうことか。「倚りかかるとすれば/それは/椅子の背もたれだけ」というのは、実にかっこいいけれども、そこには生身の自分がいないんじゃないか、ということだね。
 
だからつまり、「いい詩集」は「いい詩集」にとどまっているだけだ。そういいたいのである。

「著者はこの『いい詩集』からこれからも脱却することはないだろう。なぜならこの詩人は社会に文句をつけても、自分とたたかうことはしないのだから。この倫理的な閉塞感がこの詩集の個性である。それは読者をゆたかにする。まずしくもする。」
 
茨城のり子が、社会に文句をつけるばかりで、「自分とたたかうことはしない」のかどうかは、この詩集からも、他の詩集からも、私にはわからない。茨木のり子を、そういう目で見たことはなかったから。
 
ただ、こういうエッセイを書いた荒川洋治が、ある覚悟を決めて詩を書いていることは分かる。それが、読者をゆたかすることはあっても、決してまずしくしないことも。