楽譜のような、詩のような――『味なメニュー』(1)

ご存じと付けたくなるような、平松洋子の本。
 
これはもう、文庫のカバージャケットの裏にある、内容紹介の一部で、委細は尽くされている。

「店の匂いや味を色濃く宿すメニューのことばは、一編の詩のように客の目と心を喜ばす。品書きの行間にふかく分け入り、愛され続ける店の秘密へと迫るおいしいドキュメンタリー」
 
オビ表も達者なものである。

「ずいぶん/うれしそう/ですね。/まだ食べても/いないのに
 店の秘密は/メニューでわかる。
 目にもおいしい/ドキュメンタリー。」
 
最初の1行の活字は明朝、後の2行はゴチックである。
 
もうこれで十分だといえば、それでいいのだが、そうもいかないので、内容も少し。
 
全部で14章立てで、1章につき複数の店を収録する。
 
たとえば第1章、「シチューと煮込み」であれば、東銀座でビーフシチューを出す「銀之塔」と、森下で煮込みを出す「山利喜〔やまりき〕」。
 
それぞれメニューがゴチックで詩のように書かれていて、写真も一品料理から店構えまで、痒いところに手が届く作りになっている。

「道頓堀の品書き」の章の、「たこ梅」から一節を引く。

人気筆頭、ひげ鯨の舌は「さえずり」といい、串に刺した一切れを、一度食べたら忘れられない。

「正体があるようで、ないような。味があるようで、そうでもないような。しかし、たしかに自分の舌を包むこく。ほかのなににも似た味がない。むにむにと嚙みながら、しぶというまみに毎度恐れ入る。おでん種としてはずいぶん高価だが、これを目当てにやってくる常連客は引きも切らず、『やっぱり「たこ梅」』と唸らせるだけのインパクトのある味わいだ。」

「さえずり」は一串、900円、たしかにおでん種としては高い。でも一切れ嚙むと、「融通無碍に押して返してくる独特のむにっとした食感があり、脂のうまみがじわじわ広がる。」
 
ああ、食べてみたいな。でも僕のこの脚ではなあ。
 
平松洋子の文章は、そういう僕の気持ちを掻き立てる。明日はたとえわずかでも、脚や手が動くようになっていればいい。そういう希望が、生きる気力につながる、と思いたい。