誰が編纂したのか?――『漱石先生』(3)

夏目漱石追悼号の『渋柿』に、寺田寅彦は何首かを寄せている。『渋柿』は俳句雑誌で、松根東洋城が主宰していた。寅彦はここでは、俳句ではなくて短歌を寄せている。

「行春の音楽会の帰るさに神田牛込そゞろあるきぬ」
 
漱石と寅彦が音楽会の帰り、神田、牛込を、満ち足りて歩いている。「そゞろあるきぬ」が、ゆったりした時間を表わしていて、実にいい。

「美しき蔦の葉陰の呼鈴の釦〔ボタン〕を押すが嬉しかりしか」
 
これも、漱石を訪ねたときの、呼び鈴を押す一瞬の喜びを詠んでいる。呼鈴のボタンは、蔦の葉陰に隠れている。その葉陰の美しいことよ。もちろんこれは、寅彦のわくわくする気持ちを、蔦の葉陰に映したものだ。

「Ⅱ 先生に集う人たち」の章は、「根岸庵を訪う記」で正岡子規を訪ねていく。子規は結核で、もう根岸庵を一歩も出ることはできず、寝たきりである。
 
寺田寅彦は熊本で五高生の頃、漱石を通じて、子規に俳句の添削を請うたことがあった。寅彦の訪問は、子規を喜ばせたろう。
 
そこにこんな一節がある。根岸庵の庭を見たとき。

「白粉花〔おしろいばな〕ばかりは咲き残っていたが鶏頭は障子にかくれて丁度見えなかった。」
 
これはもちろん、「鶏頭の十四五本もありぬべし」という、子規の俳句を踏まえた文章。発表したときから問題の句で、「鶏頭論争」が沸き起こった。
 
僕は高校生のときに、三省堂の国語の教科書でこれを知った。国語担当は松尾稔先生で、これは文法を超越して、名句であると言われた。

「ありぬべし」の「べし」は、推量の助動詞で、そのまま読めば、「鶏頭が十四五本もあるらしい」となる。しかし文法を超越して、断定として読めば、これは力強い句になる。

「ありぬべし」は、断定としてしか読めないが、しかしこの句が名句かと問われれば、詠んだのが、結核で明日をも知れぬ子規、ということがわからなければ、やはり疑問は残る。
 
そんなことを、ふと思い出した。地方の受験生を前に、子規の俳諧を説いてやまない松尾先生は懐かしい人だ。
 
ここには漱石周辺のことで、たとえば芥川龍之介のことが述べられている。「芥川龍之介君が自殺した」の一行で始まる文章は、短いけれども鮮やかな印象を残す。(「芥川龍之介君」)

「その夜の芥川君には先年雑司ヶ谷の墓地で見た時のような心弱さといったようなものは見えなかった。若々しさと鋭さに緊張した顔容と話し振りであった。しかし何かしら重い病気がこの人の肉体を内側から蝕んでいる事は誰の眼にもあまりに明白であった。」
 
最後の中谷宇吉郎の「寺田寅彦先生」は、締めくくりとして見事である。文学というのが、連綿として続くのが、鮮やかに出ている。
 
最後にやはり、誰が編纂したのだろうというのが、疑問として残った。

(『漱石先生』寺田寅彦、中公文庫、2020年7月25日初刷、8月25日第2刷)
posted by 中嶋 廣 at 10:52Comment(0)日記