誰が編纂したのか?――『漱石先生』(1)

著者は寺田寅彦。

これは中公文庫のオリジナルで、2020年7月に出た本である。「文庫オリジナル」ということが、中にもオビにも書いてある。
 
オビ表は「「別格の弟子」の見た/文豪の素顔」となっている。今年出た新刊で、一月後には重版している。〈百年前の漱石〉にかかわる企画としては、見事なものである。「別格の弟子」、というところがポイントか。
 
では誰の編纂か、と思って奥付など見てみるが、分からない。中公文庫の社内の編集者が、ルーティーンとしてやったとはとても思えない。そもそもそんなことなら、企画が通るまい。
 
末尾の「編集付記」の一部にこうある。

「一、本書は著者の夏目漱石とその周辺に関するエッセイを独自に編集し、小宮豊隆・松根東洋城との座談、中谷宇吉郎によるエッセイを加え一冊としたものです。」
 
問題は「独自に編集し、」である。誰が、どんな眼をもって、「独自に編集し」たのか。
 
ということを、くどくどと言っていてもしょうがない。
 
目次、扉のあと、本文が始まる前に「献詞」がある。

「先生と話して居れば小春哉」
 
これは、寺田寅彦から五島寛平宛ての、『漱石全集』初版本の第一巻の見返しに記してある。
 
これを「献詞」にもってくるのは、漱石と寅彦の中を熟知している手練れだ。「先生と話して居れば小春哉」は、最初期の弟子である寺田寅彦以外の、誰にも言えなかったことなのだ。
 
冒頭の「夏目先生」は、記者による聞き書きだが、漱石の本質を如実に、十全についている。

「先生はごく真面目な、そして厳格な方ではあられたが、しかしごく優しい、素直な、思いやりの深い、丁度春のような温かい心持ちの人であった。中にも弟子たちに対しては全く弟に対する慈しみであった。」
 
漱石の息子が書いている、父親はただもう怖いひとであった、生きてる間、一度も笑ったことのない人であった、と。また細君は、漱石が死んだとき、一度脳を解剖して下さいと言った。それは幸い実現しなかったが。
 
とにかく寺田寅彦に見せた顔は、別人である。

「先生の前へ出ると、不思議に自分は本当に善い人になった心持ちになる。少なくも先生の前に居る間は善い人になっているのである。
 先生はそして、人の欠点、罪、罪悪というようなものを見逃してくれる、ごく寛大なところのあった方であった。」
 
妻や子供に見せているのとは、まったく別人である。

「社会からは、いろいろ、拗ねたような、時に冷酷なような風にまで言われたのは、それは先生が世の中からあまりに苛まれ、傷つけられ、虐げられているその憤りが、たまたまそういう形に見えたので、先生の御本性のねじけているのでは決してない。」

私は編集者として、秋山豊氏の『漱石という生き方』を作った。秋山さんは岩波にあって、『漱石全集』の最新版を作った方だ。これは柄谷行人や養老孟司氏に絶賛された。
 
その秋山さんにしてからが、漱石の「あまりに苛まれ、傷つけられ、虐げられているその憤り」というものは、よくわかってはいなかっただろうと思われる。
 
寺田寅彦にだけ、つまり「別格の弟子」にだけ分かった、漱石の深い一面が、ここにはたぶん描かれているのだろう。

あの人の噂――「燃えよ、棋士たち! 将棋特集2021――『週刊文春』12月31日/1月7日」(2)

「勝負師の妻が明かす『棋士の素顔』」は、桐山清澄九段(73)と一子さん(66)夫妻、それに飯島栄治七段(41)と妻の麻也子さん(39)を取り上げる。
 
この組み合わせは、なかなかのものだ。桐山九段などといっても、古くからのファンしか記憶にとどめない。しかしもちろん、往年のA級棋士は、昔は素晴らしい活躍だった。「いぶし銀」というのが、ぴったりだった。
 
飯島七段も、升田幸三賞をもらった理論派だけど、一般には、というのは将棋ファン以外には、ほとんど知られてない。
 
でもこの特集ページは面白かった。棋士という商売は、安定して戦うためには、夫婦で立ち向かうことが必要なのだ。藤井二冠のような若い人を除いて、例えば上位の棋士で独身というのは、いないんじゃないか。
 
飯島七段の妻の麻也子さんが、「栄治君」と呼ぶのもおかしかった、というよりも、興味深かった。将棋指しは夫婦で闘うけれども、個人においてはしっかりと自立しているようだ。
 
それは最後の阿川佐和子の対談で、渡辺名人の妻、伊奈めぐみさんの態度にも出ている。
 
しかしその前に、4人の作家が書いているページがある。この中で、柚月裕子、塩田武士、朝吹真理子は、一生懸命に書いているが、いずれも凡庸。

葉真中顕の、将棋を指していると、脳の汁がドバドバ出るという話が面白い。「文学賞獲ったときよりも、将棋でアツい勝負に勝ったときのほうが汁が出る。逆に負けたとき、特に悔しい負け方をしたときは、脳が渇く。汁を、汁をくれと、渇いた脳があえぐようにうねうねと蠕動するのがわかる。」
 
この人、将棋の才能があるんじゃないか。人と比べてどうこうではなく、明らかに将棋の才能としか言いようがないものが、体の中を流れている。小説家ということだが、試しに一つ読んでみようか、と思わせる。
 
最後の「阿川佐和子のこの人に会いたい」は、渡辺明名人と妻の伊奈めぐみさんが登場。めぐみさんは、「将棋の渡辺くん」の漫画家として大ブレーク中だ。そしてこの大ヒットは、藤井聡太さんのお陰だと、夫婦で声をそろえて言う。
 
めぐみさんは渡辺名人のことを、この人は情緒が安定しているというけれど、めぐみさんもまったく同じように、自分を客観視できる。その意味では、夫婦の貫目が、見事に同じ水準にある。ほんとうに夫婦は貫目が大事だという、車谷長吉の言葉を嚙み締めている。
 
伊奈めぐみさんと渡辺名人とは、同じ地平に立っていて、たぶん渡辺名人は、妻を改まって呼ぶときには、「伊奈めぐみ」と呼んでいると思う。それは世間で、夫婦別姓がどうのこうのということには、関係がない。
 
しかしともかく、渡辺明が藤井聡太とどう闘うかは興味深い。はっきり言って、今の段階では、圧倒的に不利である。それは渡辺明が十分に知っていることだ。

しかし、何か考えるはずだ。そのことのために、ただそのことだけのために、これからの将棋は見る価値がある。

(「燃えよ、棋士たち! 将棋特集2021――『週刊文春』12月31日/1月7日」)

あの人の噂――「燃えよ、棋士たち! 将棋特集2021――『週刊文春』12月31日/1月7日」(1)

新聞で『週刊文春』の半5段広告を見て、女房に、すぐにコンビニに走ってもらった。
 
全部で23ページの将棋特集で、週刊誌としては驚くほど充実している。

目次は次の通り。

  萩本欽一×先崎学

  杉本昌隆ー師匠が語る藤井聡太二冠「覚醒」の2020年

  藤井聡太の強さ 7つの秘密

  藤井時代の注目棋士たち

  勝負師の妻が明かす「棋士の素顔」

  作家エッセイ 将棋の魅惑
    ー柚月裕子、塩田武士、葉真中顕、朝吹真理子

  阿川佐和子のこの人に会いたい
    ー渡辺明名人&伊奈めぐみ

どうです、なかなかのものでしょう。もちろん重要な点は、藤井聡太が登場していないことである。みんなでよってたかって、藤井聡太のうわさ話をしているのだ。
 
ふつうこういうのは隔靴掻痒、いい加減にしろよとなる。でもそれが、そうではない。藤井二冠の噂話は、とてつもなく楽しいのだ。これは一体どういうことか。
 
しかしその前に、それぞれの記事を読むと、また別の感慨も湧いてくる。
 
最初の先崎学と萩本欽一の対談。萩本の「藤井くんの物語には惹きつけられるものがある。その一方で迎え撃つ側の羽生さんに対して、いま、同世代の棋士としてどんな思いがあるのかも気になるところだね」というのに対し、先崎はこう返す。

「正直に言えば、とても居たたまれないような気持ちがあります。戦うことを諦めれば楽になれるけれど、この世界では諦めてしまうとどこまでも落ちていく。だから、五十歳くらいになると本当にキツイ。」
 
目の肥えた人なら、どちらに焦点を当てなければいけないか、分かっていることだ。先崎はこういうのだ。

「羽生さんの苦しむ姿は、『将棋指しとは何か』をまさに具現化しているように見えます。」
 
私たちは本当は、ここから先の羽生を、目に焼き付けなければいけないのだ。
 
でもやっぱり、僕のようなミーハーの将棋ファンとしては、藤井聡太のことが気にかかる。だってそちらの方が、心が沸き立つんだもの。
 
次の杉本昌隆師匠の2020年総括は、例によって藤井と渡辺明の棋聖戦第二局、「5四金」と「3一銀」の話で盛り上がる。これはもう話芸の世界だねえ。

将棋を指さない人には、まったく分からない話だが、将棋を指す人にとっては、何度聞いてもうっとりしてしまう話だ。

どういうふうに考えるか?――『地球が燃えている――気候崩壊から人類を救うグリーン・ニューディールの提言』(4)

この本の中頃で、ナオミ・クラインは決定的なことを言う。これはできれば、聞きたくない事柄だ。

「都市部の住人や裕福な国の住民は、歴史的に化石燃料と密接に結びついて発展した産業プロジェクトの産物であること、そして長い歴史の中では、デジタル技術によって一瞬だけ輝く超新星のような存在であることを認識すべきなのだ。」
 
結局、時間を長く取っても、イギリスの産業革命から、この先あと十年(2030年)で終わる、化石燃料を中心とする文明の繁栄は、過ぎてみれば一瞬のことと言えそうである。
 
しかし巨視的に描いてみれば、こういうことなのかもしれないが、では実際に、それに即して現実を組み替えていくとなれば、途方に暮れる。
 
世界に目を向ければ、その途方は本当に、本当に限りなく大きな途方だ。

「二〇〇三年にイラクへの違法な侵略と占領をおこなったのも、英米の新たな共同事業だった。この二つの干渉による残響が、いまだに私たちの世界を混乱させている。首尾よく彼らからもぎ取った石油を燃やし続けていることも、同じように世界を混乱させている。中東は現在、化石燃料の追求が引き起こした暴力と、その化石燃料を燃やすことによる影響との、二つの圧迫要因によって挟み撃ちにされている。」
 
一体どうしたらいいんでしょうか。こういうことは良くないと、声を上げるしかないけれど、それにしても個人の声はあまりにも小さい。

「これらすべてから学ぶべきもっとも重要な教訓は、気候危機への対処はテクノクラートに任せて、それだけ切り離して解決できるものではないということだ。それは緊縮財政と民営化、植民地支配と軍事拡張主義の文脈において捉えねばならない」。
 
そういうことなのだが、しかし手を広げていくと、ますます取っ散らかって、収拾がつかなくなりはしないかとも思う。
 
しかし時代は、その先を行っているのだ。

「正真正銘の石油国家であるアラブ首長国連邦でさえ、石油時代の終わりに備えて、石油から得た数百億ドルの富を再生可能エネルギーへの新しい投資に注ぎ込んでいるのです。」
 
世界常識は、そういうことになっているらしい。
 
地球の平均気温を、2℃上昇させた場合の損失は、全世界で69兆ドルとなるとIPCCは言う。
 
こういうものは、正確には予想しがたい。しかしそれでも菅総理は、2030年の半ばには、ガソリン車を全廃にすると言い出した。

これはトヨタ社長のあずかり知らぬことだったらしく、すぐに記者会見をして、そういう文明の転換点になるようなことは、民間企業に言われてもどうしようもない、政府が金を出して、率先してやらなければどうしようもないことだ、と反論した。
 
これは大きな問題であったが、メディアは大きくは取り上げなかった。ナオミ・クラインを読んでいる記者は、どこにもいないのだろう。
 
このことと、たとえばここ数年の大災害が、直接結びついていることは、日本ではほとんど気にもされていない。

(『地球が燃えている――気候崩壊から人類を救うグリーン・ニューディールの提言』
 ナオミ・クライン/訳・中野真紀子・関房江、大月書店、2020年11月16日初刷)

どういうふうに考えるか?――『地球が燃えている――気候崩壊から人類を救うグリーン・ニューディールの提言』(3)

その生き方を定めるにあたっては、例によって、政治的・文化的な世界観により、考え方は大きく二つに分かれる。

「『平等主義』や『共同体主義』の強い世界観を持つ人(集合的行動と社会正義を好み、不平等への懸念、企業権力への猜疑を特徴とする)は、圧倒的多数が気候変動に関する科学的コンセンサスを受け入れる。」
 
これが一方の、進歩的な考え方をするタイプ。
 
それに対して反対側の、頭がゴリゴリになった人々がいる。

「『階級序列的』で『個人主義』の強い世界観を持つ人(貧困層やマイノリティに対する政府支援に反対し、産業の発展を強く支持し、人の境遇は本人の努力の結果だという信念が特徴)は、圧倒的多数が科学的コンセンサスを否定する。」
 
つまりこれが、トランプに象徴される、白人の保守主義者である。そしてこれは、アメリカの場合、人口の半分弱を占めている。
 
それを考えるとアメリカの場合、今度の大統領選挙でトランプを退けたことは、何にもましてよかった。
 
そういう進歩主義の陣営に立って、グレタ・トゥーンベリは言う。

「新しい政治が必要だとわかるはずです。新しい経済学も必要です。それは急速に減少する、非常に限られた炭素〔カーボン〕予算に基づいた経済学です。でも、それだけではまだ不十分です。私たちは、まったく新しいものの考え方が必要です。……私たちは互いに競争するのをやめなければなりません。みんなが協力して、この惑星の残った資源を公正なかたちで共有することを始めなければなりません」。
 
この前半の、新しい経済学は確かに必要であるし、きっと泥縄でも、それを作り上げるだろう。
 
しかし後半の、「私たちは互いに競争するのをやめなければなりません」というのは、どうだろう。これはまず無理ではないか。
 
人間は利己的なものであり、せいぜい人間の脳を拡大して取ったって、自分の係累の孫くらいまでしか、頭に描けていないものだ。そういう意味では、人間の智恵は限定されたものだ。これはもうどうしようもない。
 
もちろんグレタが言うように、それではだめなのだから、鮮やかな新しい智恵が必要なのであるが、それがどういう形かは、私にはわからない。
 
新しい経済学も、何とか間に合わせるだろうと言ったけれども、これはこれで大変である。
 
英国の気候変動の専門家、ケビン・アンダーソンは次のように述べる。

「政治的な失速と軟弱な気候政策のせいで、私たちは多大な時間を無駄にしてしまい、その一方で地球規模の炭素消費(および排出)は急増している。もはや思い切った徹底削減が避けられない。それをおこなえば必然的に、GDP成長率を何よりも優先する現行経済システムの根本教義に、真っ向から挑戦することになる。」

「GDP成長率を否定する教義」、そういうことが可能であろうか。人間が、自ら進んできた道を否定して、さらにその上に、これまでとはまったく違う、正反対の経済を据えるのである。
 
アンダーソンは言う。「米国、EU、その他の裕福な国々が、徹底的かつ即刻に脱成長戦略に転じること」である。
 
新自由主義のエリートたちが、GDPの成長以外に何を信仰するだろうか。何しろ資本主義の世の中では、「神の見えざる手」に、すべてを委ねなければいけない、そう信じているのだから。
 
気候変動の行く手には、まったく新しい社会についての考え方が、必要になるけれども、それを打ち出してメインストリームにするのは、なまなかなことではない。

どういうふうに考えるか?――『地球が燃えている――気候崩壊から人類を救うグリーン・ニューディールの提言』(2)

2019年3月の「気候ストライキ」は、125ヵ国で160万の若者が参加した(主催者側の推計)。そういうことは、日本では公には報道されていない、と思う。NHK・BSの海外ニュースでは、もちろん放送しただろうけども、私は覚えていない。
 
この運動はわずか8カ月前に、スウェーデンのグレタ・トゥーンベリという、15歳の少女が始めたものだった。これもまた驚倒すべきことだ。
 
グレタは、アスペルガー症候群とかつては呼ばれた、自閉症の一種にかかっていた。

この「診断項目によって、グレタが気候変動について学んだことを、他の子どもよりはるかに厳格かつ個人的に受けとめた理由がわかりやすくなる。
 自閉症スペクトラムの人は、ものごとを極端に文字通り受けとめる傾向があり、結果として認知的不協和に苦しむことが多い。」

なるほどそれで、たった一人でストライキをはじめたのか。
 
と同時にグレタ・トゥーンベリという、いつ見ても憂鬱そうな、しかめっつらしい顔を、私が見たくない理由も分かった。そういうことか。自分が人を見る目がないのが、よーくわかった。反省します。

「グレタは問う。『なぜ将来のために勉強しなければならないのですか? 将来なんて、じきになくなるのですよ。だって、その将来を救うために、誰も何もしないのだから。学校に行って事実を学ぶことに何の意味がありますか? 学校教育が生み出した最高の科学が示すもっとも重要な事実が、政治や社会には何の意味も持たないのが明らかなのに』」
 
まあこの調子で、例えば各国の有力者が集まる、ダボス会議でやり合うのだから、なかなか実りのある議論をすることは難しい。
 
しかし彼女のスピーチは、ネットで急速に拡散した。これが爆発的な力を持った。
 
ではそこで共有されたことは、何だったのか。
 
国連の気候変動に関する政府間パネル(IPCC)が報告書を出し、次のように提言したのだ。

「国連世界気象機関によると、このまま行けば今世紀が終わるまでに世界全体で三~五℃の温暖化が進んでしまう。IPCCの報告書の執筆者たちの見立てでは、温暖化を一・五℃未満に食いとめるのに間に合うよう、経済活動を方向転換させるためには、わずか一二年のうちに世界全体の〔炭素〕排出量を半分に削減せねばなら」ないというのだ。
 
この本が英語で出たのが2年前だから、ここからは10年ということになる。それがつまり帯の文句の、「残された時間はあと10年」となるわけだ。
 
そしてもしこれに失敗すると、その結果もたらされるのは、「海面上昇による沿岸都市の水没、すべてのサンゴ礁の死滅、世界の広大な地域に起こる干ばつと作物の全滅であろう」というのだ。
 
さらにこの温暖化を食い止めるには、世界中で人間の生き方を、根本から変える必要があるという。

どういうふうに考えるか?――『地球が燃えている――気候崩壊から人類を救うグリーン・ニューディールの提言』(1)

ナオミ・クラインはジャーナリスト、またコラムニストでもある。岩波書店から『ショック・ドクトリン』が出て話題になった。

多分それがそこそこ売れたので(と思う)、同じ岩波から、『これがすべてを変える』『NOでは足りない』が出た。
 
今度の『地球が燃えている』は、「世界的ジャーナリストが描く、人類存亡の危機とその突破口」(オビ表)と煽っている。「グレタ・トゥーンベリさん(気候活動家)・斎藤幸平さん(経済思想家)推薦!」とも書いてある。
 
しかし最初に断っておくと、気候変動によって「地球が燃えている」としても、そしてそのタイムリミットがあと10年だとしても、その精確なデータは挙げられていない。
 
だから以下は、ここに挙げられていることが、データに精確に基づくことならば、という留保を付けて読んでいくことにしよう。
 
2019年3月中旬の金曜日に、世界中の子供たちがデモ行進をした。ミラノで10万人、パリで4万人、モントリオールで15万人などを数えた。
 
プラカードには「地球にスペアはない!」「私たちの未来を燃やさないで」「この家が燃えている」というものや、少し手が込んだものは、「昆虫の四五%が気候変動で失われました。動物の六〇%が過去五〇年間で消えました」といったものもあった。
 
少し前に南アフリカ共和国のケープタウンが、ひどい干ばつに見舞われ、ニュースで「ケープタウンに干ばつの〝デイ・ゼロ〟が迫る」の見出しが躍った。ここでは子供たちが、新たな化石燃料プロジェクトの承認を、やめてほしいと訴えた。
 
そういうことは日本にいる限りは、あまり聞こえてこない。あるいはインターネットの時代であるにもかかわらず、私の感度が悪くて、そういう方面に鈍感なのかも知れない。

「二〇一九年の年初には南オーストラリア州の都市ポートオーガスタで四九・五℃という、かまどのような気温に達したのだ。」
 
これは記憶があるけれど、地球の反対側では大変だ、という感想にとどまっている。テレビでも、そんなことだったと思う。

「ビクトリア州では個別の森林火災が合体して大規模な火災となり、数千人が家を捨てて避難しなければならなかった」。
 
これははっきり覚えている。とにかく山火事の勢いがおさまらず、何日も燃え続けた。しかしそれでも、なお対岸の火事だった。
 
ここには出てこないけど、日本でもここ数年、海面の温度が上昇して、台風や長雨の季節になると大量の雨が降り、河川が氾濫し、死者も出る大災害になっている。
 
そういうことを結びつけて、見ていかないといけなくなっているのだろうか。

三兄弟、再び――『句集もう一杯』

『句集一杯』が出て、ひと月もしないうちに、続編の『句集もう一杯』が出た。樽見博さんの心づもりでは、一冊にすると束(つか)が出てしまうので、二冊に分けて出版するつもりだったと思う。
 
今度は表紙に、縄暖簾(なわのれん)と、そこで一杯呑んでいる客たちの下半身だけが見えている。

もちろん表紙の絵は張り込みだから、縄暖簾の装丁は、私の一冊に限る。まことに贅沢である。

総ページ数30、製作部数33部。奥付はこんなふうだ。

  著者  樽見 満
   年賀状・版画   樽見 満
   題箋・口絵    樽見 章
   編集・装丁製本  樽見 博

特によいと思った句は以下のもの。

  菖蒲湯にウルトラマンも浮いており

  敬礼の角度正しき今朝の冬

  掛軸に大きな牛や夏座敷

  入学の子の膝頭粉ふいて

  春めくと信号待ちの楽しかり

  風光る自転車銀の尾を引いて

  上野駅改札口の啄木忌
  
  少年の睫毛美し天の川

  亀鳴くと一茶は魚に聞きしかな

  仏生会むずかしきこと忘れたし

  公園の小さな山も時雨けり

  探梅の空ことごとく尖りけり

  雑巾をきつく絞りて一葉忌

  父の日の横須賀の海鉄の色

いずれも余韻が長く残る。「亀鳴くと……」は機知がまさって、とてもおかしい。

全体に編集者の腕が、脂がのってきて、自在の動きをしている。
 
三兄弟がそれそれ愉しみを尽くし、本という結晶体が作られたのである。

(『句集もう一杯』樽見満、私家版、2020年11月23日)

三人兄弟――『句集一杯』

私は『日本古書通信』に、書物随筆を連載している。『古書通信』の編集長は樽見博さんである。
 
樽見博さんの弟の満さんが、がんを患っているという。そこで樽見博さんは、満さんは長年、俳句に打ち込んできたから、句集を編むことを強く勧めたという。

こうして私家版『句集一杯』ができあがった。総ページ数24、製作部数50部。

満さんの俳人名は「一杯」。なんともとぼけた味がおかしい。

これには挿絵が何か所かに入っているが、その絵は印刷ではなく、貼り込みである。

つまり私家版にふさわしく、一冊一冊手作りで、同じ本はない。その挿絵は樽見章さんが担当した。章さんは一番上。樽見さんは三人兄弟なのだ。
 
そこで私がいいと思った俳句は、以下のものである。
 
まず「まえがき」に当たる、「あいさつ」の一句がいい。
  
  楽しみはなにげない時
  句が生れ、さらりさらりと
  文字埋める時
    二〇二〇年秋
            樽見一杯

そうして本文の句が始まる。

  遠き日の六月に来しビートルズ

  咲き切つてピカソのやうなチューリップ

  なすび漬歯ごたえのあるところあり

  蝸牛英国初版の進化論

  猫柳静かに眠つてゐるやうな

  春炬燵膝にゐた子は二十才過ぐ

  秋の雨静かに扉閉まりけり

これは、ときによっては、私の気持ちに応じて、がらっと変わることもあり得る。それだけいろんな方向へ、句の感覚が伸びているということだ。
 
そういう意味でも、実に愉しい句集だ。

(『句集一杯』樽見満、私家版、2020年11月3日)

深いところから――『読書のちから』(3)

池田さんは、『あたりまえなことばかり』で、鮮烈な一節を残していると、若松さんは言う。

「死の床にある人、絶望の底にある人を救うことができるのは、医療ではなくて言葉である。宗教でもなくて、ことばである。」
 
これは池田晶子の、一番おおもとの言葉だろう。若松さんは、この池田さんの言葉を是としている。
 
私も同じく是としたいが、最後の最後に迷いにぶち当たる。これは、自分が「絶望の底にある」ときになってみないと、分からないことのような気がする。

池田さんは、言葉に対する実在感の強さが、他の人とはまるで違っていた。
 
養老孟司さんは、池田さんは言葉に対する思いが、あまりに強すぎるとおっしゃっていた。脳がどんなものに重みづけをするかで、個性が決まるとおっしゃっていたが、池田さんの「言葉」は、まさにそういう意味で「個性」だった。

「読書の効用」という章で、若松さんは言葉について、こんなことを言っている。

「しばしば起こるのは、自分が探しているのが言葉であることに気が付かないという現象だ。心の奥では言葉を求めている。しかし、表層意識は情報や知識を探す。」
 
これはもう、みんなそうなっている。世にいう実用書の類は、すべてそうである。実際、実用書の原稿などという、最初からゴミに等しいものを前にして、編集者はどうしたら真剣に本を作れるのだろうか。

「情報や知識も言葉ではないかというかもしれない。だが、ここでいう言葉と情報や知識には決定的な違いがある。情報や知識にも中身はある。最近の表現でいえばコンテンツはある。だが、情報や知識には言葉にはある『姿』がないのである。」
 
なかなかうまいことを言う。そしてこれが、次の言葉を呼ぶ。

「『姿は似せ難く、意は似せやすし』と国学者の本居宣長は書いた」と若松さんは、小林秀雄を引用して言う。
 
これは全くその通りだが、しかし最初から通じる人には通じるし、通じない人には通じない。それでも、そういうふうに書かざるを得ないから、書いた。ま、そういうことですね。

(『読書のちから』若松英輔、亜紀書房、2020年12月10日初刷)