村上春樹「訳者あとがき」の謎――『「グレート・ギャツビー」を追え』(補遺)

先週の金曜日に、『「グレート・ギャツビー」を追え』の書評の4回目を書いて、終わりとした。
 
すると土曜日の東京新聞「大波小波」に、この本のことが出ていた。
 
ちなみにそこではタイトルを、『グレート・ギャツビーを追え』としてあるが、これは誤植。装幀の関係で、グレート・ギャツビーの前後の「 」が見えなかったのだろう。しかしそれなら、扉を見るか、奥付を見ればよいことである。

「大波小波」の著者は、「アメリカの出版事情や書店事情などがわかってそれなりに楽しめるが、『法律事務所』など作者のこれまでのリーガル・サスペンスに比べると退屈だ」と注文をつける。

「アメリカの出版事情や書店事情など」が分かるからこそ、村上春樹が訳したのだが、そこがわかっていない。
 
おまけに時価2500万ドルの自筆原稿は、かさばるし、簡単に換金的ないものだという。
 
かさばる点は最後に、どのように運ぶかという、大事なところで効いてくる。また簡単に換金できないという点では、宝石なども一緒である。

むしろ盗まれたプリンストン大学に、いわば身代金の焦点を合わせるのだから、換金の点ではいうことがない。
 
しかし「大波小波」は、グリシャムのリーガル・サスペンスに比べると、「駄作とまではいわないが、村上春樹が翻訳するほどの小説とは思えない」と結論付ける。
 
これは全く違う。完全に間違っている。もしリーガル・サスペンスの一級品だとして、これを村上春樹が訳すだろうか、そう考えてみれば分かることではないか。そこは翻訳だけのプロに任せておけばよいのである。

「大波小波」のペンネーム〈超編集者〉の論点は、後段にある。

「なぜ村上春樹が? と考えていて、ひとつ思い至ることがあった。村上といえば、かつて自筆原稿が無断で古書店で売られ、抗議の声を上げたのではなかったか。それをきっかけに、作家団体などでも原稿の所有をめぐる議論が起きた。」
 
世間は忘れてしまったけれど、村上春樹はそのことを忘れてはいなかった、ということだろう、「もちろん訳者あとがきにひとことも出てこないけれども」と結ばれている。
 
たしかにそういうことは、底流としては流れていよう。けれどもそれは、表立っては言いにくい、あるいは言いたくないことなんじゃないか。
 
その言いにくいことを、言うべきなのが作家ではないか、という意見もあろうが、ここは村上春樹としては、そのことを分かっている人は、分かっていてください、分からない人は、別にそのままでオーケー、ということではないか。
 
それよりも、『グレート・ギャツビー』を訳し直したのは私だ、ということを「訳者あとがき」で、村上春樹が奥ゆかしく秘めているのを、そのまま何も考えずに、『グレート・ギャツビー』の自筆原稿を、かさばってかなわないとする、〈超編集者〉の力量が嘆かわしい。
posted by 中嶋 廣 at 00:16Comment(0)日記