胃袋から攻める――『文人悪食』(2)

与謝野晶子は23歳で最初の子を産み、それから17年間で、12人の子を産んだ。
 
考えてみれば、体の休まるときがない。常に妊娠している。これで短歌を詠み、詩をものし、評論を書くのだから、ちょっとしたモンスターである。

「一汁一菜の食生活であっても、腹はいつも胎児でふくらんでいる。『恋を食って生きる』と言えば妄想的になりすぎるが、晶子は、鉄幹という男に修羅の妄想を食わせられ、それをエネルギーとして生きた。鉄幹の存在亡くして晶子はなかった。とすると晶子の食事は鉄幹その人であったか。」
 
しかし鉄幹は、浮気性の人であった。晶子は、食事ものどを通らないほどの、地獄を見たのである。
 
というふうに、嵐山の筆はあくまでも人間の裏面、と言って悪ければ、胃袋の周辺に固執する。
 
嵐山が、こいつはなかなかの者だと思った作家に、種田山頭火と中原中也がいる。なかなかの者というのは、たんなる誉め言葉ではない。
 
山頭火は家も妻子も捨てており、清廉な漂白詩人のイメージがあるが、「だまされてはいけない」。彼はまったく悟らず、というかそんなことに興味はなく、日々食い物のことを考え暮らしていた。別れた妻にも未練たらたらである。

「煩悩を断つ出家ではなく、煩悩を助長させる出家である。句がなければただのゴロツキである。日々の生活がすべて句に集約されていくわけだから、句を成立させるためにゴロツキになった。」
 
山頭火は、アメリカでは芭蕉よりも人気があるという。「まつすぐな道でさみしい」が、いちばん人気があるという。アメリカのどこにいても、「フル・オブ・ロンリネス」と呟けば、一句になるとアメリカ人は言う。と、嵐山は言うけど、本当かね。

「行乞は、山頭火が、うまい飯を食い、うまい酒や水を飲むための技術であった。山頭火は、谷崎潤一郎の正反対に位置するもうひとつの快楽至上主義者である。」
 
まったくもって捨て身だが、迫力だけはダントツにある。その迫力はありすぎて、山頭火は酔って、頓死してしまう。
 
そういうのを見て、著者は半分、憧れと嫉妬にさいなまれる。

どうにかしてそういうふうになりたいが、嵐山光三郎は根っこのところは編集者である。しかも、かつてはメジャーだった『太陽』の編集長だ。いちど世間でバランスを取ったことのある人は、どうあがいても「悪党」にはなれない。その焦燥が、この本のぎりぎりの面白さである。
posted by 中嶋 廣 at 18:41Comment(0)日記