「人間の条件」を突破できるか――『弱さのちから』

これは大変珍しい本だ。若松英輔氏が、論旨をただ一点に絞って出した。こういう本はありそうで、なかった。
 
世の中がコロナ禍の真っただ中にあるとき、私たちは、従来の考えを改めるべきなのではないか、「弱さのちから」こそ、世の中を根底から変える働きを、秘めているのではないか、というものだ。

「人は、自分や大事な人の死の恐怖にさらされなければ、生や愛について真剣に考えることがありません。そうした意味では、自分がどう生きたいかを真剣に考え直す契機でもある。世界もまた、誰もが抱える弱さを基盤にしたものへと創り変えることができるはずです。」
 
これはお題目ではない。個人の利己主義から、民族間の争い、殺し合いまで、人間には突破できない観念の限界がある。
 
そしてあるときには、その観念体系が、狂気へと進むこともある。70年ほど前の日本を考えてみれば、簡単に分かることだ。
 
若松さんも、そのことはよく分かっている。

「人間が感じる善は、ほとんどが相対的で次元的なものです。それを絶対的なものであるかのように行動することほど、恐ろしいことはない。」
 
かくてその行き着く先は、国を考えてみれば、全体主義国家となる。
 
最初に個人の段階で、こういうことが起こらないようにするのは、はたして可能なのか。
 
これはコロナ禍の中で、じっと考えるに足る問題である。つまり「弱さ」にこそ可能性と価値を見いだしうるのではないか、という逆転の発想である。
 
僕も60代後半になってくると、だんだん人間をやるのが嫌になってくる。男と女は、とくに男の方は、相変わらず女を理解しないし、親子も、とくに親の方は、子供を理解しない。
 
広く社会に目を向ければ、とくに政治の世界では、大国のリーダーはそろいもそろって、ゲスもいいところだ。

「国」を前提にしたとき、それが民族と絡まり合うと、人間のもっとも醜いところがむき出しになる。
 
それでもいくらかは、歴史を見れば、あるかなきかの希望を、なお持っている。
 
若松さんは言う。
 
「今、求められているのはいかにしてその『私』という領域を超えていくかではないのだろうか。」
 
個人が持っている「私」を、どうやったら超えていけるか、人間の条件を乗り越えていくことは、たとえ微々たるものであったとしても、それをしなければいけない。
 
もちろんこれは個人のこととして、最初に私から始めなければならないことなのだ。

(『弱さのちから』若松英輔、亜紀書房、2020年8月7日初刷)
posted by 中嶋 廣 at 18:50Comment(0)日記