レティシア・コロンバニの『三つ編み』が、まあ面白かったので、続けて読んでみる。
『三つ編み』は、インド、イタリア、カナダで、それぞれ女性が苦闘し、一時的に幸せを得て、幕となる話だった。
髪の毛が3つの地域をつなぐという、奇跡的な話で、著者が映画監督だというのが、よく分かった。これはフランスでは、100万部を超えて売れた。
こんどは現代と、約100年前の話とが交錯する。2つの時代で、雄々しく生きた女性の話だ。
弁護士のソレーヌは、裁判で負けた後、依頼人を自殺で失い、弁護士を続けることができなくなった。医者は、燃え尽き症候群だと言った。
そこでソレーヌは、「女性会館」という、恵まれない女性のための保護施設で、紆余曲折はあったが、代書人のボランティアを始める(代書人とは、手紙その他を本人に代わって書く人である)。
「女性会館」という施設には、貧困や暴力で、住むところを失った女性たちが、暮らしている。
エリートだったソレーヌには、信じられないことばかりだ。
その「女性会館」は、およそ100年前、ブランシュという救世軍の女性が、結核に冒されながら、獅子奮迅の活躍で政治家や財界人を巻き込み、完成させたものだった。
ソレーヌは弁護士の仕事を捨て、自分の信念に従って、苦闘する女性たちの役に立とうと思う。
レティシア・コロンバニの文章は、相変わらず独創的だ。『三つ編み』ではそれを、シナリオのような文章ということで片付けたが、この度はもう少し考えてみたい。
その文体は緊迫していて、読者は思わず前のめりになり、その世界に深くかかわって後戻りできなくなる。なぜそういうことが起きるのか。
具体的にはまず、動詞はすべて現在形、これは、現代はもちろん、100年前のブランシュの場合も変わらない。
そして動詞でなければ、名詞などの体言止め、あるいは言いさしの形、または疑問形、などである。
もちろん『三つ編み』のときと同じく、改行のたびごとに1行アケになっている。
これは2作目ともなると、独創的文体として確立している。
しかしもちろん、文体は内容を伴って光るものだ。
「施設の女性たちにはお金も愛情も人とのつながりも教育も何もない。自分は立派なアパルトマンに住み、三つある貯蓄口座は満額で、これ以上ないほどこれ以上ないほど不幸だ。薬なしでは起きあがることもできない。」
こういう調子で進んでいくので、目が吸い付いて離れない。