「品川猿の告白」は、群馬県の温泉旅館に滞在しているときに、旅館に猿が雇われていた話だ(もちろん、猿回し用として飼われていたのではない)。
この猿は、言葉をしゃべるのだ。
「猿がガラス戸をがらがらと横に開けて風呂場に入ってきたのは、僕が三度目に湯につかっているときだった。その猿は低い声で『失礼します』と言って入ってきた。」
「僕」は、なかなか事態が飲み込めなかったけれど、それでもこの猿と、だんだん仲良くなる。
猿は背中を流してくれたりする。
「『品川ではどんな人に飼われていたの?』と僕は尋ねた。」
(だから「品川猿」という名前なのだ。)
「『ご主人は大学の先生でした。物理学が専門でして、学芸大学で教鞭をとっておられました』
『インテリだったんだ』
『はい、そうです。無類の音楽好きでして、ブルックナーとリヒアルト・シュトラウスの音楽を好んでおられました。おかげで私もそういう音楽が好きになりました。小さい頃からずっと聴かされていたものですから。門前の小僧、というやつですね』」
実に面白い。猿がしゃべると言っても、SF小説では、全然ない。でもなぜ、そういうふうに思うのか。
「『ブルックナーが好き?』
『はい、七番が好きです。とりわけ三楽章にはいつも勇気づけられます』
『僕は九番をよく聴くけど』、それもあまり意味のない発言だ。
『はい、あれも実に美しい音楽です』と猿は言った。」
この猿は、SF風ではなくて、村上ワールドの、完全に一員なのである。
だから、猿が話をしているのは、読者にとって実に心地よい。
ただ困ったことに、この猿は雌猿ではなく、人間の女性に恋をする。
と言っても、肉体関係を結ぶのではない。それはちょっとグロになる。
そうではなくて、この猿は好きになった女性の、名前を盗むのである。
「『よくわからないんだけど』と僕は言った。『君が誰かの名前を盗むということは、つまりその誰かは自分の名前をすっかりなくしてしまうということになるのかな?』
『いいえ。その人がまったく名前をなくすというようなことは起こりません。私が盗んでいくのはその名前の一部分、ひとかけらに過ぎません。しかし取られたぶん、名前の厚みが少し薄くなる、重量が軽くなるということはあります』」
村上ワールド、全開! 手に汗握る、というと変だが、頁を繰る手がとまらない。
「『名前と言うのはどのようにして盗むのだろう? よかったらそのやり方を教えてもらえないかな?』
『そうですね、主に念力を使います。集中力、精神的エネルギーです。しかしそれだけでは足りません。その人の名前が記された、形あるものが必要です。IDが最も理想的です。運転免許証とか学生証とか保険証とかパスポートみたいな。』」
「僕」は、この話に特にテーマはない、と思っていた。そういう特異な体験をした、というだけのことだ。
そう思っていたのだが、あるとき女性の編集者と会って、ちょっとドギマギするようなことがあった。
その女性編集者は、「僕」と話しているとき、携帯にかかってきた電話に出たのだが、やがて困ったように、「僕」の顔を見て言った。
「『すみません』と彼女は電話の送話口を手で塞ぎ、小声で僕に言った。『妙なことをお訊きしますが、私の名前はなんでしたっけ?』」
こういうわけで、品川猿のことは今でも、思い出すことになるのだった。