村上春樹の自伝小説だと、勘違いしてしまった。それは『猫を捨てる――父親について語るとき』の間違いだった。
しかし、これはこれで面白かった。
全部で8つの短篇が入っている。そしてそのどれもが、少しずつ変なところがある。その「変さ」、「変度」が、村上春樹である。
最初は「石のまくらに」。
「ぼく」が学生のとき、ふとした成り行きで、一夜を共にすることになった、20歳ばかり年上の女性は、短歌を詠んだ。
その女性とは、アルバイト先が一緒だっただけで、それからあとは、二度と会ったことがない。
タイトルの「石のまくらに」は、その歌集の名前だ。凧糸のようなもので閉じられた、歌集というのもおこがましい小冊子だった。
「……印刷されたそれらの歌を目で追い、また声に出して読んでいると、あの夜に目にした彼女の身体を、僕は脳裏にそのまま再現することができた。それは翌朝の光の中で見た、あまりぱっとしない彼女の姿かたちではなく、月光を受けて僕の腕に抱かれている、艶やかな肌に包まれた彼女の身体だった。形の良い丸い乳房と、小さな固い乳首と、まばらな黒い陰毛と、激しく濡れた性器。」
その短歌は、いくつかが、「僕」の心に届いたのである。
やまかぜに/首刎(は)ねられて/ことばなく
あじさいの根もとに/六月の水
その多くは、死のイメージを追ったもの、しかも「首刎ねられて」といった、かなり特異なものだった。
だからひょっとすると、彼女はもう死んでいるかもしれない。もちろん「僕」は、生き延びていることを願っている。
「僕」はいまでも時々、その歌集を読んでいる。
たち切るも/たち切られるも/石のまくら/
うなじつければ/ほら、塵となる
村上春樹と言えば、独特の比喩。
「『うん。彼はね、私の身体がほしくなると、私を呼ぶの』と彼女は言った。『電話をかけて出前をとるみたいに』」
「僕」は「どう言えばいいのかわからなかったので」、黙っていた。
読者はここで、「僕」と同じく、感心する方向に持っていかれる。
また、こういう比喩もある。
「『人を好きになるというのはね、医療保険のきかない精神の病にかかったみたいなものなの』と彼女は言った。」
「僕」は「なるほど」と感心する。これも読者に、感心してもらいたいという、うながしだ。どちらも、なかなか気が利いている。
しかし私は、どちらもあまり好きではない。村上印のトレードマークかもしれないが、なんとなくあざとい気がして、というと言い過ぎだが、かすかにうんざりする。