まったく知らない世界――『重森三玲 庭を見る心得』(3)

「作庭の楽しみ」というエッセイには、他にも見逃せないことが書いてある。

「日本の庭園の歴史を、歴史的立場で考えて見ると、最初は神をまつる為に、日本民族が海を渡って渡来した有様を、最初は海の風景から転化して池を掘って島を浮べることによって始まったのである……」。
 
いかにも納得できる話で、なるほどと思いやすいが、典拠は何だろう。
 
太古、人は神とともにあった、といえば聞こえはいいが、私はこのごろ、そういうのには、少し飽きてきた。いま私が思う神と、太古の人の思う神が、全く違う可能性もある。

「日本庭園は、上古以来、海洋の景観を表現するのが目的であったから、池庭をつくることは海を作ることであった。」
 
理路整然と説かれると、なるほどと思うしかないのだが、考えてみると、何の根拠もない。
 
いや、著者にいちゃもんを付けているわけではないのだよ。ただ一方的に、ひれ伏す気にはなれない、という話だ。
 
それよりも、このエッセイには、最後に来て、驚くべきことが書かれている。

「〔庭園の〕設計と言うものは、むしろ、どこまで創作出来るかが興味の中心でもあり、その創作のみが、設計の価値を上下するのである。ところを得てのみ花は咲くのであるから、庭園と言う花は、その所を得てのみ独自の花を咲かさなければ何の意味もない。」
 
庭園という花を咲かすには「創作」が大事、いや「創作のみ」が大事だ、というのだ。これは強烈なメッセージだ。

「あくまでも創作性をはたらかさなければならない。一つの庭園は、その場所にしか出来ない絶対のものであるから、創作性のない作品と言うことは全く無意味である。」
 
庭園は何よりも創作性が大事、それがない庭園は、無意味なのだ。
 
そんなこと、考えたこともなかった。

「若し作庭と言うものが、定型的であったり、類型的であったり、模倣的である場合は、庭園と言う花は永遠に咲かないことを設計家は第一に心得ておくべきである。」
 
日本の庭園は、「定型的であったり、類型的であったり、模倣的であったりする」ものだと思っていた。
 
ここでは、まったく逆のことが説かれている。
 
このエッセイには、さらに痛烈なことが書かれている。

「都会の住宅の場合、ましてごみごみしている市中などでは、少しの空間でも利用して庭を作っておくことが生活の上の第一要件である。だから、都会の住宅の場合などでは、庭園を含めての住宅の完全性で、庭園のない住宅などと言うものは、住宅としての半身不随も同様だと言える。」
 
私のようなマンション住まいは、「住宅としての半身不随」だ、と言っているのだ。私の体は、もともと半身不随だが、住まいも半身不随というわけだ。これはこれで、なんとなく平仄(ひょうそく)が合っていて、ちょっと可笑しい。
 
それにしても、この「作庭の楽しみ」は、著者のマニュフェスト全開で、これはこれで実に気持ちがいい。

「その設計は、あくまでも新しい感覚によって今日と言う時代を創作しなければならない。庭園が大きな芸術である限り、その設計はあくまでも現代を代表する新しい時代のセンスを生かしたものでなければならない。極言すれば新しさのみが芸術である。少しの古臭さも許されないのである。」
 
ほとんど、ピカソか岡本太郎である。
 
でも、庭園における新しさって、何なんだ。
posted by 中嶋 廣 at 00:23Comment(0)日記