時事ネタの批評は難しい――『コミュニケーション不全症候群』(1)

続いて中島梓の『コミュニケーション不全症候群』を読む。これも出た当初は、大変な評判になった。
 
帯の文章が 簡にして要を得ている。

「おタク、ダイエット、少女たちの少年愛趣味、そしてオウム、……すべては一本の糸でつながっている/私の居場所はどこにあるの?」
 
今岡清による、栗本薫/中島梓の追悼、『世界でいちばん不幸で、いちばん幸福な少女』を読んだいまは、そこに書かれた症例が、全部彼女のものであり、最後の「私の居場所はどこにあるの?」が、最終的に彼女のいちばん深いところからの、叫びであったことがわかる。
 
しかし先を急がずに、まずは読んでいこう。

「私がこの本を書きたいと思ったのは、なんといっても、実は私自身が、〔中略〕私がかりそめに『コミュニケーション不全症候群』と名付けてみたようなさまざまな兆候の、いわば代表者のようなものであって、事実このなかに私がこれからいろいろと書いて分析したり考察してみようと思っているいろいろな症状は、ほとんどすべて私自身を見つめていて出てきたものなのである。」
 
実はこの本は、出てすぐの頃に読んでいる。そのときは、非常に面白いけれども、途中がしつこいというか、なかだるみというか、ちょっと辟易した印象が残っている。
 
中島梓が、自分を症例にして、「コミュニケーション不全症候群」を描いたところまではいい。問題は、自分でそれを克服したのかどうか、という点だ。
 
これをすべからく「適応」の問題と考えれば、今岡清によれば、あるところは克服し、あるところは克服できなかった、ということらしい。

それを具体的に、読み込んでいこう。
 
まず最初は「おタク」。

「おタク族は要するに『自分の場所』を現実の物質世界に見出せなかった疎外されそうな個体が、形而上世界のなかに自分のテリトリーを作り上げる事で現実世界の適応のなかにとどまったのである。」
 
これはいかにも、その通りと言っていい。これだけなら、そんなに問題になるはずのことではない。

この時期、「おタク」が急浮上してきたのは、連続幼女殺害犯人の宮﨑勤が、いかにも「おタク」っぽかったからである。
 
一人ぼっちで離れに住み、マンガ、アニメ、TVゲーム、ファミコンなどに囲まれて、現実を忘れ、外へ出れは、四人の幼女を、猟奇的な仕方で殺害した。

「おタク」の行きつく先は、猟奇的な変態殺人者、という道筋を描いて見せたのだ。

「つまりおタクはほんとうの自分の場所を見つけられないという事実から逃避して、かわりに自我を形而上に仮託する構造をつくりあげた人々なのだ。」
 
仮におタクを、そういうふうに規定したとしても、それと「猟奇的な変態殺人者」との距離は、無限に遠い。それは関係ないといってもいいのだ。

今になってみれば、それははっきりとわかる。
posted by 中嶋 廣 at 00:22Comment(0)日記