まったく知らない世界――『重森三玲 庭を見る心得』(2)

次のエッセイは、「目の高さ」と、「技術」の関係について。つまり、目と手の関係である。

「作品を作る時などは、やはり目の高いことより外に何もありません。高度な目をもつことだけで、高度な作品が生れるということは、全く決定的だと言えます。〔中略〕目の低い人が、技術だけもっていたとしますと、それは技術だけが過剰になって、全く見られないものになってしまいます。」(「手掛けることの大切さ」)
 
そういうことか。文章の方では、眼高手低とかいって、目だけがよく見えていても、技術がついていかないと、どうしようもない、といわれたものだけれど。

この一篇の勘どころは、できるだけ苦心をし、苦労をするのがよいということ。

「自ら進んで、何事も苦労をすることほど、自分をみがくことはないと思います。みがきの掛ってない人間は、人間としての深さが足りないと思います。」(同)
 
なんだか、車谷長吉を思い出す。あるいはシモーヌ・ヴェイユか。どっちにしても、そうスパッと言い切ってしまっては、ははっ、仰せのとおり、と言うしかない。
 
具体的に庭を造る、つまり作庭する、ということに関しては、次のように言う。ちょっと、びっくりである。

「作庭と言うことは、最高最大の芸術品を作ることであり、神に代って自然を作ると言うか、時には神と共に創ると言うことである。自然は神が作った偉大な美的存在であるが、神の作り残した或る美の創作を、神に代って作るのが庭園だとも考えている。だから、私は何時も作庭している時は、神に成り切ったような態度と言うか、神としての存在にまで自分をもって行っているのである。」(「作庭の楽しみ」)
 
うーん、大丈夫か。たしかに優れた芸術家は、常人の及びもつかないくらい高みに飛翔する、とは思うけれど、でも「神に成り切る」のは、どうもなあ。
 
しかしこの著者が、神を信じていることは分かった。
 
そしてその神の高みに、容易に(かどうかは知らないが)、著者は肩を並べ得る、と考えていることも。

「だからこそ、私にとって作庭ほどたのしいことはないのである。」(同)
 
うーん……ばかりだけれど、とにかく先へ進もう。
 
作庭には、同じ芸術といっても、ほかにはない要素がある。それは依頼主の存在である。

「〔作庭のときの〕一番大切な条件とは、何よりも依頼者が、より高度性をもっていることである。金のことも大切だし、期限のことも大切だし、主人が文句を言わぬことも大切ではあるが、それよりも、依頼者の文化性と言うか芸術性と言うか、理解力と言うか、とも角高度性のあることが一番大切な条件であって、作者が如何に努力しても、依頼主の高さだけの作庭しか出来ない。」(同)

それは言ってみれば、ルネサンスのころの、メディチ家のようなパトロンがいて、そのパトロンの目の高さにしか、庭を造ることはできない、というのだ。
 
しかし仮にそうだとしても、いま、そういうパトロンを想定しうるだろうか。これはせいぜい、明治・大正、さかのぼって考えても、昭和の戦前までが、いいところではないか。
 
身もふたもない言い方だが、戦後の税制の問題がある。

しかしそれなら、重森三玲はどういうパトロンを持っていたのか。非常に気になる。

まったく知らない世界――『重森三玲 庭を見る心得』(1)

いやあ、知らなかった、重森三玲。

三玲はフランスの画家、ミレーにちなんで改名した、と巻末の著者紹介に出ている(出生名は計夫。たぶん「かずお」と読むのだろうが、振り仮名を振ってないので、よくわからない)。
 
平凡社のSTANDARD BOOKSの目録を見ていると、寺田寅彦、岡潔、串田孫一、湯川秀樹、南方熊楠、神谷美恵子、多田富雄、柳田國男、三木成夫といった名前の中に、重森三玲が並んで出て来る。
 
他の碩学たちも、改まって深いところまで知っているかと問われれば、かなり怪しい。しかし、この年になるまで、名前を聞いたこともないのは珍しい。これ、私だけ?
 
知らない人のために概略を記す。

「しげもりみれい」は、1896年に生まれ、1975年に没した。作庭家、庭園史研究者、また茶の湯の研究家にして実践者でもあった。前衛いけばなを提唱し、茶の湯と同じくその定型化を批判、雑誌『いけばな藝術』を創刊する。
 
この中で、「茶の湯と同じくその定型化を批判」、というところが気になる。
 
また、「作庭家、庭園史研究者」というのがよくわからない。著者紹介から一部を引く。

「一九三九年に東福寺からの依頼で代表作『八相の庭』を作庭、戦後旺盛な創作活動を続ける。高野山、岸和田城、大徳寺瑞峯院、香里団地、興禅寺などに代表作が遺る。最晩年には最高傑作と言われる松尾大社の『上古の庭』を作庭。融通無碍に巨石が並ぶさまは圧巻。」
 
ということだが、どれも見たことがないので、まったく分からない。ここでは、「作庭する」という動詞を初めて知った。
 
また先の履歴の中で、社寺に混じって「香里団地」とあるのが目を惹く。
 
能書きはこのくらいにして、本文を読んでみる。

この本は新書版の大きさで、26篇の短いエッセイを収める。
 
最初の「早涼林泉録(住宅は各人の美術館)」を見てみる(でもこれ、何て読むんだ)。

「庭のない家、即ち住宅などというものは住宅ではない。大小そんなことはどうでもよい。兎も角美しく手入の行き届いた庭があってこそ、それが住宅である。」
 
最初から、強烈なパンチである。僕のようなマンション住まいは、どうなるのだ。
 
畳や障子についても、同じく強烈な一発。

「実は今日の畳に、あまりにも悪いものが多過ぎる。新しいと言えば、先ず障子の紙だけは新しくないと衛生的にも悪いし、黒くよごれた紙や、穴のあいた障子ほど心の貧乏さはない。」
 
僕のマンションには和室が一つあるが、その上に茣蓙を敷いてあるので、畳は見えない。
 
また障子の紙については、大丈夫、障子は入っていないから。
 
そこに続けて、「更に又、床〔とこ〕は家を引き立てる第一の場所だが、近来は床というものが全く無視されて来ている。新しい建築には、床のないものが多いし、あっても床には本を積み重ねたり、テレビなどの置場と化している。全く床は近代人のためには無用の長物化している。」
 
この文章が書かれたのは1968年、著者72歳のときである。このときはもう、床は「無用の長物」になっていた。
 
最初にこういうマニフェストを主張し、以下各論を述べるのは、けっこう大変だろうなあと、ちょっと心配になる。

「自覚的な失敗作」と言いたくなる――『MISSING 失われているもの』(3)

朦朧とした、母との対話らしきものの途中で、また父の話が出てくる。今回は一段と、深刻さが増している。

「気に入らないことがあったり、自分の思うとおりに事が運ばなかったり、意見を否定されたりすると、瞬時に逆上した。手を出すようなことはなかったが、大声で怒鳴りまくり、家族を委縮させた。〔中略〕それはいつも突然はじまるので、母もわたしも、ひどく気をつかい、びくびくしていた。」
 
ある年代の男には、はっきりこういう傾向がある、と思う。特に戦争を、何らかのかたちで経験した者には、それが顕著である。
 
阿川佐和子は、父の阿川弘之と、ついに一生、打ち解けることがなかったという。阿川弘之は、まったく突然怒り出すから、気が気ではなかったという。
 
これも、戦中派の父を持てば、ごく自然に、そうだろうなあ、と思ってしまう。

「帝国陸海軍」は、何をどういうふうにしたら、一律に、制御できない癇癪を、一人一人の隊員に、植えつけられたのか。
 
何をどういうふうにしたら、人の一生を支配して、戦争を遠く離れても、スイッチ一つで、あのとてつもない癇癪を、起こすことができたのか。
 
たぶん本人ですら、突然突き上げてくる、奔流のような逆上は、どうしようもなかったろう。
 
誰か心理学者で、「帝国陸海軍における、自分ではどうしようもない、癇癪あるいは逆上について」、という研究をしてくれないものか。
 
僕は小学校に入る前に、自家中毒で長く入院した。父親の、突然の癇癪が怖かったのだ、ということが、今になって分かる。
 
父は、医者に緊張させないように言われて、「もっとリラックスしないか」と、眉を逆立て怒鳴った。
 
母は父に、「とりあえず病院にはいかないで」と言ったらしい。おかげで僕は退院できたけど、父と僕の関係は、父の死まで変わらなかった。
 
もう一度、最初に戻って、村上龍はなぜ、こういうものを書いたのだろう。自覚的な失敗作とでも言うほかないものを。
 
さすがにこれでは、あまりに作品に芯がないので、主人公は、年の若い心療内科医に、この精神分析的状況を診断してもらう。

「『あなたは、自分が、精神的な不安定さを受け入れることができるというだけではなく、精神的に不安定な自分だけが本当の自分だということも、分かっているはずです』」
 
この年若い心療内科医は、たぶん主人公の分身だろう。朦朧とした、うじゃじゃけた作品に、何とか一本、筋を通したかったのだ。それはかろうじて、そうなっている。
 
でもだからといって、こういう小説を、さらに読みたいかと問われれば、もうけっこうというほかはない。
 
村上龍も「こんな小説を書いたのは初めてで、もう二度と書けないだろう」と、オビに書いている。
 
すると著作家と、読者である僕の意見は、一致したわけだ。
 
ただ僕は、この曖昧模糊たる作品が、嫌いではない。もっと言えば、かなり深く食い込んできて、忘れられなくなりそうだ。

(『MISSING 失われているもの』村上龍、新潮社、2020年3月20日初刷)

「自覚的な失敗作」と言いたくなる――『MISSING 失われているもの』(2)

思い出の様相が変わるのは、母親が登場してからだ。

「聞こえている母の声は、わたしの記憶と想像によって合成されたものだ。そして、そのことは大して重要ではない。本当の母の声かどうかなど、どうでもいいことなのだ。わたしは単に埋もれた記憶を辿っていて、無自覚に言葉を抽出しているだけだ。」
 
いったい村上龍は、母の描写をしたくないのか、したいのか。まったく単純ではない。
 
そして母が出れば、必然的に父も出てこざるを得ない(でもないんだけど、そういう流れになっている)。

「父は、家庭的な人ではなかった。画家であり、美術教師になって、母と出会い、カメラをはじめとして木工や木彫、陶芸や模型飛行機やオートバイなど趣味が多く、確かにあまり家にいなかった。」
 
父の思い出だけが、ほかのすべてとは、切り離されていることに、気づかれただろうか。曖昧なところとか、迷いというものが見られない。
 
この思い出は、著者との直接の関係において、もっと鮮明になる。

「〔父と〕いっしょに過ごした記憶がほとんどない。性格的に合わなかったせいもあるが、父と話すのは好きではなかったし、父の話を聞くのも好きではなかった。父はいつも一方的に話し、わたしが興味を示さないと不機嫌になった。お前は本当に面白くない、そんなことをよく言われた。」
 
これが、主人公の記憶と想像によって、合成されたものでないことは、明らかだ。

ましてや、父の声が聞こえるかどうかなど、問題ではない。そういう、自らに疑問を投げかけることや、戸惑いを許さないほど、鮮明に思い出すことができるのだ。
 
主人公は、父親とうまくいかなかった。
 
村上春樹もまた、父親とはうまくいってなかった。父の最晩年を迎えて、小さな手打ち式をやったのだが、それまで20年ほどは、ほとんど口を聞かなかったという(「ヤクルト・スワローズ詩集」、『一人称単数』より)。
 
どこの家庭も、子供、特に男の子は、父親とうまく行ってない。それはなぜ?
 
戦争を挟んだくらいの、父親の世代が、特にひどい。もちろん、父と僕もひどかった。
 
村上龍の主人公も、すべてが曖昧なこの小説の中で、父親の思い出だけが、実に鮮明である。
 
しかしそれを除けば、すべてはあいかわらず、曖昧模糊としている。

「ずっと廊下が見えていて、歪んだり、色が変化したりする。もちろん現実ではない。だが単なる記憶でも想像でもない。心象風景というようなものでもない。」
 
いったい、この実態のある「もの」を、あるいは実態を持たない「もの」を、どうやって扱えばいいのか。

「聞こえているのが、本当に母の声なのか、はっきりしない。ずっとこの声だけを聞いているので、感覚や印象が曖昧になっているだけかもしれない。周囲に何があるのか、自分が何を見ているのか、そもそも何かを見ているのかどうかもわからない。」
 
作者として無責任でしょうが、いい加減にしなさいよ! と言いたくなる。

「自覚的な失敗作」と言いたくなる――『MISSING 失われているもの』(1)

久しぶりに村上龍を読む。
 
最初に言っておくと、これは自覚的な失敗作である。村上龍って、こういうぼんやりした、うじゃじゃけた小説を、書いたっけかね、と最初は思う。
 
とにかく全編が、ぼんやりしているのだ。

「ただ、懐かしい感覚に包まれて、不思議な気持ちになった。どこか遠くに行っていて戻ってきたような、長い旅から帰ってきたような、そんな感覚があった。」
 
こういうぼんやりした感覚が、全編を覆っている。そういう内容だけではなく、「長い旅から帰ってきたような、そんな感覚があった」というような、はっきりしない文章が、たびたび出てくる。
 
人物についても、実にあやふやだ。

「おそらく、目の前にいる真理子は、わたしが知っている真理子ではない。もちろん別人ではないし、人格が変わったわけでも、精神的に変調をきたしたわけでもない。もしかしたら実体のない陽炎のようなものではないだろうか、そう思うようになったのだ。わたしの想像が生み出した一種の幻影、そういったものなのかもしれない。」
 
この文章は、いったい何を言っているのか。はっきりしたことは、何一つ言っていない。そして、最初から終わりまで、全編この調子なのだ。
 
僕の知り合いの脚本家は、はっきりした行動は何一つ書かないで、主人公の独白、それも、主人公にとってさえも、はっきりしない独白は、読むに堪えないと言った。行動を書け、行動を、というわけだ。
 
脚本家の倫理的な原則に照らしてみれば、なるほどそうなるのかもしれない。
 
しかしたとえば、次のようなところはどうだろう。

「またライトが現れた。目の前にあるのか、わたしの想像によって目の裏側に点灯したのか。だが、これまでのライトとは違う。フォーカスが合っていない。〔中略〕遠近感もなく、近づくことも遠ざかることもないライトを見ていると、周囲と自分の位置関係がどんどん希薄になり、自分はどこにいるのか、いや本当に自分は存在しているのかどうかさえしだいに曖昧になっていく。自分は消えてしまうのではないかという不安と恐怖にとらわれる。だが、わたしは不安と恐怖を、懐かしいと感じた。いつのころからか、わたしは常に不安と恐怖という感情とともに生きるようになった。」
 
懐かしい不安と恐怖、もちろん僕には、そういうものを、うまく理解することはできないけれど、しかしここに、主人公の内面の真実が、吐露されているのを感じる。
 
これは、世界の全体がぼやけていて、「わたし」の内側も朦朧としている、しかし、そういう状態にあってこそ感じられる、不安と恐怖なのだろう。
 
でもまあ、読んでいくと、すべてがこんなふうだから、ちょっとじれったくて、じりじりする。脚本家が途中でやめた意味も、よく分かる。

面白い、でも眉に唾――『チョンキンマンションのボスは知っている――アングラ経済の人類学』(3)

小川さやかは、カラマに惚れ込んで描写するから、いちいちが実に魅力的に見えるが、純粋な経済行為として、彼のやっていることを取り上げれば、次のようなことだ。

「カラマたちブローカー業とは、香港の地理や香港の業者のやり方・手口に不慣れなアフリカ系の顧客と、アフリカ系顧客のやり方・手口に不慣れで信頼できる顧客を見極められない業者とのあいだの『信用』を肩代わりすることで、『手数料』『マージン』をかすめとる仕事なのである。」
 
だから、双方が直接会ってしまえば、カラマたちの仕事はなくなる。
 
もちろん、香港とアフリカは充分に遠いから、しばらくはその心配はない。しかし、文明のスピードがもっと進めば、つまりある上限を突破すれば、カラマたちの仕事は、用済みにならないだろうか。
 
シェアリングエコノミー経済で有名になったアルン・スンドララジャンは、「企業中心の現代は人類の歴史から見ればごく短期間にすぎず、産業革命までは大部分の経済的関係が個人対個人の形を取り、コミュニティに根差し、社会関係と密接に絡まっていたと述べ、かつて存在した共有体験、自己雇用、コミュニティ内での財貨の交換が現代のデジタル技術によって復活しつつあるというのが、新奇なもののように語られるシェアリング経済に対する正しい見方であると指摘している。」
 
いかにも学術ふうを装って書かれているけれど、これを「チョンキンマンションのボス」の経済活動に当てはめてみるのは、さすがに眉唾である。
 
しかし、カラマたちの実践から、浮上してくるものがある、と著者は言う。

「そこから浮かび上がってくるのは、遊んでいることが仕事になり、仕事が遊びや仲間との分かち合いになり、ビジネスが誰かの意図・意志や規範的・倫理的な強制力なしに『社会的なもの』へと変化していくプロセスを実行する論理である。」

「チョンキンマンションのボス」の経済活動が、そういう可能性を秘めているかどうかは、正直、僕にはよくわからない。もともと経済は、よくわからないのだ。
 
けれどもカラマたちが、SNSに投稿するために、映像や写真を集めることは、「大切な仕事」でもあり、「遊び」でもあるというとき、そこには何か、わくわくするものがある。

「このような写真や動画によって築かれるのは、『見せかけ』『まやかし』による信頼でもある。しかし、そのことの何が問題になろうか。少なくとも彼らは『星印』や『点数』とは違い、自己顕示欲や承認欲求、趣味や個人的な好き嫌い、信条や主義、日々変化する喜びや悲しみなどをすべて盛り込んだ、より生々しい姿を通じて、すなわち、数値化できない個人に対する人格的な理解・関心を基本としてICTを駆使した商売を動かしている。」
 
願わくば、それがたんなるニッチや、資本主義の始まりに過ぎないもの、ではないことを祈っている。

(『チョンキンマンションのボスは知っている――アングラ経済の人類学』
 小川さやか、春秋社、2019年7月30日初刷、2020年7月10日第7刷)

面白い、でも眉に唾――『チョンキンマンションのボスは知っている――アングラ経済の人類学』(2)

小川さやかは2016年10月から半年間、香港の目抜き通り、弥敦道(Nathan Road)にある、チョンキンマンション(重慶大厦)に宿をとった。在外研究のために、香港中文大学に客員教員として赴任したのだ。
 
チョンキンマンションは、マンションとはいっても、日本にあるものとは相当に違っている。

「チョンキンマンションは、A棟からE棟の五棟で構成されており一階(香港はイギリス式なのでグランドフロア)と二階(ファーストフロア)に、中国系と南アジア系の住民が経営するケータイ販売店や雑貨店、ミニスーパー、レストラン等がひしめき、三階から一七階に数多くの安宿が入っている。」
 
マンションというよりは、ボロなビルが五棟分(!)集まっているといった方がよい。

「チョンキンマンションのシングルルームは、ベッドを一台置くと、あとはようやく人ひとりの歩くスペースが残るばかりの極小の部屋に、シャワーを浴びれば、必ずトイレが水浸しになる極小のバスルームが備えられている。スーツケースを広げるスペースはまったくないし、フィールドノートを書く机もないが、思ったよりは清潔だ。長期滞在割引もあるし、暮らしていけないこともない。」

「暮らしていけないこともない」どころか、著者は喜び勇んで、こういうところに宿をとったのではないか、と思われる。

そこで著者は、チョンキンマンションのボスを自称する、タンザニア人の「ミスター・カラマ」と出会う。

そしてこの日を境に、香港・中国にいるタンザニア人たちの、日々の暮らしや商売に巻き込まれていく、といったらいいか、フィールド調査をするといったらいいか、ま、とにかくそういうことになっていくわけだ。
 
もちろんそれは、著者が自ら望んだことであり、最初から、隙あらば、そういううさん臭い人に、積極的に巻き込まれていこう、と思っていたからだ。

「世界各地から有象無象の交易人と労働者が中国・香港になだれこみ、模造品や偽物、コピー商品を含む中国製品を買いつけ、コンテナやエアカーゴで母国へと輸出する。生き馬の目を抜く中国市場で騙されたり失敗したりして転がり落ちても、次から次へと新たな挑戦者が中国・香港に向けて旅立っていく。中国・香港では、そうやって世界各地から集まってきた交易人と労働者たちがニッチを分け合いながら、巨大な交易ネットワークを形成している。」
 
香港・中国は、そういうところなのだ、ということをよく覚えておこう。

「私は、このような二一世紀初頭に台頭した国境を越えるインフォーマル経済の台頭そのものに胸を躍らせてしまったのだ。」
 
だから、チョンキンマンションのボス、カラマと出会ったのは、必然ともいえたのである。
 
カラマは、「香港とタンザニアの間の草の根のインフォーマルな中古車ビジネスの開拓者であり、一五ヶ国以上のアフリカ諸国の中古車ディーラーとネットワークを持っている。タンザニア香港組合の創設者で、現副組合長である。」
 
このボスが、じつに飄々と下ネタを飛ばし、約束は守らず、政府高官から元囚人や売春婦までを、同じように遇する。
 
著者は、このボス・カラマの、何とも形容しがたい魅力に、ぞっこん参ってしまったのである。
 
文化人類学者の前に、絶好の人物が、あつらえたように現れたのだ。

面白い、でも眉に唾――『チョンキンマンションのボスは知っている――アングラ経済の人類学』(1)

著者の小川さやかは、気鋭の文化人類学者。この本は、2020年の大宅壮一ノンフィクション賞に選ばれ、続けて河合隼雄学芸賞にも選ばれた。
 
大宅壮一ノンフィクション賞と、河合隼雄学芸賞の交わるところに、どんなものが生まれるのか、ついつい興味がわいてくる。

「おわりに」のあとがきを読むと、春秋社の編集者、篠田里香さんが担当している。
 
篠田さんは、むかし何度か会ったことがある。編集者や著者、新聞記者などが、2ヶ月に一度くらい集まって、「ムダの会」というのをやっていた。
 
何をしていたかというと、「ムダの会」の名に恥じず、ただ、酒を飲んでダベっていたのだ。
 
講談社の鷲尾賢也氏が中心にあって、お元気なころで、僕は法蔵館を経て、トランスビューを立ち上げたころだった。
 
そのころは、まだ毎日新聞におられた奥武則氏や、筑摩書房の井崎正敏氏が談論風発し、今は編集界の大立者になっている幻冬舎新書の責任者、小木田順子さんもおられた。
 
その後、小木田さんや僕は、「ムダの会」発行で、年に2回、『いける本・いけない本』を作ったりしていた。

この会は、僕のような小出版社にいる人間にとっては、実に勉強になるところで、それは本当に、はかり知れないくらいだった。
 
その会に、篠田里香さんも来たのだった。篠田さんはそのころ、『母が重くてたまらない――墓守娘の嘆き』(信田さよ子)という本で、ヒットを飛ばしていた。僕は、そのタイトルのセンスに唸った。
 
いま『チョンキンマンションのボスは知っている』のあとがきを読むと、著者の小川さやかは、「チョンキンマンションのボス」というタイトルで、連載をしたいと言ったのに対し、篠田さんは、『チョンキンマンションのボスは知っている』という、「意味深な言葉が追加されたタイトルを提案」したのだった。

篠田さん、なかなか冴えてるね。
 
小川さやかは、「彼〔=ボス〕のことを思い浮かべると、あれもこれも出たとこ勝負だし、驚くほど適当だし、怠け者だし、格好つけたがりだし、『あれ、彼って何を知っているんだっけ。実は何にも考えていなかったらどうしよう。ヤバい、うっかり主人公にしてしまった』とちょっぴり後悔もしながら、最後に何もひねり出せなくても、彼と彼の仲間たちが魅力的であることだけは伝えようと思って書いてきた。」
 
上手いものだ。こんなふうに書かれたら、勢い込んで本文を読まざるを得ない。
 
そのすぐ後に、こんな文章もある。

「香港の魔窟チョンキンマンション、インフォーマル経済、アフリカ系ブローカー、セックスワーカー、地下銀行など、本書のキーワードを並べると、実にあやしげだ。」
 
これは、あとがきから先に読む、たとえば僕に向かって、最高の呼び込みの文句だ。
 
わくわくしながら、眉にほんのわずかに唾をつけて、読んでいこう。

藤井聡太はどこから来たのか?――「藤井聡太と将棋の天才。――Number9/17」(3)

「渡辺明、敗北の夜を越えて」と、先崎学のエッセイだけを、優れたものとして取り上げたが、ほかにも愉しい記事はいくつもある。
 
まず巻頭の、「藤井聡太、天翔ける18歳」。
 
藤井は、棋士のデビュー戦で、加藤一二三に勝った。

「直後から29連勝への狂騒が始まる。望外、僥倖、茫洋、奏功、幾年、白眉、拘泥。語られる言葉はメディアの標的となった。」
 
そうだよなあ。それで、大山15世名人の生まれ変わりだ、という説が、有力になったのだ。
 
今は大山名人ではなくて、江戸時代の天野宗歩の生まれ変わりだ、と言われている。大山康晴よりも、スケールが大きいのだ、よくわからないけど。
 
天野宗歩は、「実力十三段」と言われ、後に棋聖と呼ばれるようになる。現在の棋聖戦のタイトルは、ここに由来する。
 
記事の最後の方は、藤井について、こんなふうに締め括られている。

「頂点に立ってなお、誰よりも謙虚だった。どんな時も笑みを絶やさず、負の感情を示さない態度は世界や人間への根源的な肯定とも思えた。」
 
そうなのである。棋聖戦で、3勝1敗で渡辺明に勝ったときも、王位戦で、4勝0敗で木村一基に勝ったときも、ただひたすら謙虚なのである。
 
自分が気づいてない手を指されました、と言うだけではない、所作のいちいちが参考になりました、という(袴を着た姿が、何よりも似合っているのは、藤井聡太だというのに)。
 
それにしても、いちいちの所作が、参考になったというのは、これはどうも変である。
 
そこで、藤井は地球星人ではないのではないか、という疑惑が浮上してくる。そうではなくて、別の惑星からやってきた、将棋星人なのではないか。
 
将棋星人の王子、藤井聡太が、地球上にある八つの宝(八大タイトル)をかっさらって、地球から去ってゆく、という話である。
 
だから、地球防衛軍も渡辺明・豊島将之を総大将に、総力戦で頑張らなければ。

これはつまり、そのくらい藤井とほかの棋士が、実力でかけ離れている、ということなのだ、信じられないことだけれど。

インタビュー記事、「木村一基、受け師は何度でも蘇る」(北野新太・文)では、木村の印象に残る一言がある。

「まだ整理はついてないです。藤井さんに4発も食ったことは。一生懸命やったつもりですけど、相手に比べると取り組む姿勢も何か甘かったのかもしれない。」
 
10代の挑戦者に向かい、完膚なきまでに倒されておいて、なおこの謙虚さ。

ここではもちろん、木村の人格の高さを誉めるべきなのだが、ただ藤井聡太とやると、みな謙虚になり、将棋に対して今一度、必死で精進することを誓うのである。
 
対局が終わり、報道陣がなだれ込んでくる。何人かの記者が質問する。それはおおむね、答えにくく、またはつまらないことだ。
 
それに対して藤井は、できる限り誠実に、相手との対話が成り立つように、深いところから考えて話す。
 
それは、普通の日本人の話し方とは、まったく違う。昨今の政治家の、木で鼻をくくったような話し方とは、真逆である。
 
あるいは、上辺だけの話し方上手の実用書や、人は見た目が9割という下らない教え、そういうものとは正反対のところに、藤井はいる。
 
これはいったい、どういうことなのだろう。
 
そこで私は、大胆極まりない説を立てることにする。それは、藤井聡太は今よりも文明の進歩した、未来の国からやってきた、というものである。
 
藤井は、天野宗歩の生まれ変わりでもなければ、将棋星人でもない。遠い未来からやってきた、この世界への贈り物なのだ。
 
だから将棋を知らない人たちにも、たちまち興奮は伝わり、その真価は、はっきりと分かるのである。

(「藤井聡太と将棋の天才。――Number9/17」、文藝春秋、2020年9月3日発売)

藤井聡太はどこから来たのか?――「藤井聡太と将棋の天才。――Number9/17」(2)

先崎学の特別エッセイ、「22時の少年。――羽生と藤井が交錯した夜」は、4段組でわずかに1ページ。しかしこれが、限りなく深い余韻を残す。
 
あれはたしか、藤井聡太が棋士になって、半年くらいたった頃のことだ。

「『3月のライオン』の刊行元である白泉社が、加藤一二三、羽生善治、先崎学、藤井聡太の四人によるトーナメントという、ミニ企画を組んだ。放送はニコニコ生放送で作られ、こぢんまりしつつも華やかなイベントだった。」
 
これは将棋ファンなら目が離せない。
 
トーナメントの決勝は、羽生vs.藤井になった。これも将棋ファンなら、こういうふうになるだろうという、予想通りの組み合わせである。
 
事件は、対局の終盤に起こった。2人の指し手が、千日手の形をとったのである。つまり同じ局面を4回繰り返せば、無勝負になり、もう一度、今度は先後を入れ替えて、対局することになる。
 
普通の対局ならば、ルールにのっとって、そうなる。
 
しかしこの時は、違った。藤井はまだ現役の中学生であり、午後10時をすぎて、初手からの対局というのは、労働基準法に違反するのだ(対局中に10時を超えるのは、かまわないという)。
 
みんな、さあどうするか、頭を抱えた。このままいけば、生放送だから、優勝者は決められないことになる。

「その時だった。藤井君が手を変えた。要は指し直し局になることを避け、自ら負けになる順に飛び込んだのである。
 すぐに羽生勝ちで終った。」
 
スタッフたちは、藤井が間違えたとか、まだまだ若いなあとか、あれこれ喋っていたが、先崎はそうは思わなかった。
 
藤井は、負けになることを承知で、手を変えたのである。

「私は確信を持って分った。そして羽生が分ったということも。将棋指しは将棋のことならたいがいのことは分るのである。」
 
羽生は楽屋に戻ったが、あきらかに不機嫌だったという。本来は、30年も歳が離れていれば、いわば「花相撲」なんだから、羽生の方が、勝ちを譲ってもよかったはずなのである。
 
それが口惜しいことに、藤井聡太に気を遣われてしまった。
 
先崎は、水面下に広がる、幻のドラマを活写する。

「真実は永遠に分らないだろう。羽生先輩に勝ちをゆずったなどということを、藤井君がいうわけがない。羽生だって何も語るまい。〔中略〕
 ただ、もし私の棋士としての読み筋が正しければ、ふたりは一生忘れることがないだろう。」
 
藤井がタイトル戦に出てくれば、それはいつも華々しい活躍で、初心者から高段者まで、あらゆる観客を魅了する。
 
けれども、ささやかな片隅の対局でさえも、藤井聡太は、注目する人を感動させる魅力を、持っているのである。
 
人しれないところで、それを掬い上げた先崎学の、筆の冴えにも感謝である。