藤井聡太とは何者か――『藤井聡太 強さの本質』(4)

第5回の三浦弘行九段は、実に凡庸なことを述べる。

「何といっても終盤力です。終盤が強いからこそ、中盤で時間を使える。
 終盤で一分将棋になっても間違えない、だから安心して中盤に打ち込める。少ない残り時間でも勝てる。これが強さの秘密の一つだと思います。」
 
もっともらしいことを言ってるけれど、考えてみると、あまりに当たり前すぎて、何の秘密の解き明かしにもなっていない。
 
でも三浦九段は、朴訥で、そういうところが、かえってファンに喜ばれる。

「野球に例えれば、絶対的な抑えのエースがいるようなものです。防御率0・0のクローザーがいる。1点差で勝てる。」
 
ここまで来ると、信仰と紙一重、同じ競技を戦う相手としては、どうなんだろうね、と思わざるを得ないけど、とにかく藤井聡太の、相手に対する信頼というか、相手を呑んでかかるというのは、こういうことなのか。
 
ほかに九段は屋敷伸之、谷川浩司、佐藤康光あたりがいるんだけども、この面々は、藤井聡太の恐ろしさを、分かってないんじゃないか。
 
というか、みなひとかどの棋士であり、そう簡単にここまで来てたまるか、という自負心もあるのだろう。あるいはそれだけ、苦労したということか。
 
たとえば屋敷伸之九段。この人は、藤井が登場するまでは、最年少のタイトル保持者の記録を持っていた。

「〔藤井さんは〕力だけだとトップクラスでしょう。……いまそのクラスはいっぱいいます。トーナメント戦で勝ち抜き、タイトル戦に出るのは大変なことです。またタイトル保持者も皆強く、藤井さんがどんなに強くてもタイトルを獲るのは容易なことではないでしょうね。」
 
ところが藤井は、あっという間にそうなった。
 
つぎは谷川浩司九段で、さすがに谷川は、棋士の一生をよく見ている。

「完成度が高いというのは現時点ではプラスですが、それがどう影響していくかはまだ分からない。20代前半の羽生さんは2手目☖3二金や☖6二銀をよく指しました。常識を疑い自分の頭で考える。その影響で羽生世代全体が序盤の分からない局面でウンウン考えていた。その蓄積が、40台になった羽生世代がいまなお活躍している要因でしょう。
――藤井七段に関してはこれからですか。
この年でそこまでされたら他の棋士はお手上げでしょう(笑)。やるならタイトルを取ってからでしょうか。」
 
しかし藤井は、谷川の言った方向へは、タイトルを獲った後も、行かないような気がする、って、私が言うのも、いささか滑稽ではあるな。
 
最後は佐藤康光・将棋連盟会長。この人も名人位を取ったことがある。

「藤井さんは、自分なりの作戦を編み出していくのか。常に最新形の中から終盤力を生かして勝っていくのか。ちょっと興味があります。」
 
佐藤はこのときにはまだ、藤井の秘密は、全然わかっていない。まだ、棋士という天才の中で、ずば抜けた天才だと思っている。
 
そうではないんだ。藤井聡太の前には、並び立つ天才はいない。その他の棋士という名の、あえていえば、「凡才」がいるだけだ。

藤井聡太とは何者か――『藤井聡太 強さの本質』(3)

続いて、第1回目から第16回目までの、目次を挙げておく。

 第1回 永瀬拓矢二冠 「目指すものの高さ」
 弟2回 糸谷哲郎八段 「対応力と逆転術」
 第3回 屋敷伸之九段 「負けにくい作りと踏み込みの力」
 第4回 三枚堂達也七段&青島未来五段 「大山的中盤、谷川的終盤」
 第5回 三浦弘行九段 「防御率ゼロのクローザー」
 第6回 深浦康市九段 「その将棋、ジェネラリスト」
 第7回 谷川浩司九段 「〝常識外〟こそが武器」
 第8回 山崎隆之八段 「知識と経験の融合」
 第9回 佐藤康光九段 「〝実戦的〟なんてものはいらない」
 第10回 西尾明七段withやねうら王 「〝諸刃の剣〟の踏み込み力」
 第11回 斎藤慎太郎八段 「脳内に紡ぐ終局までのストーリー」
 第12回 広瀬章人八段 「〝フジイ印〟のブランド力」
 第13回 大橋貴洸六段&佐々木大地五段 「藤井将棋に進化を見た」
 第14回 鈴木大介九段 「予言者が語る覚醒の日」
 第15回 森内俊之九段 「未知との遭遇」
 第16回 杉本昌隆八段 「源流に見る天才性」
 
メンバーは、なかなか豪華なものでしょう。

と同時に、ここには欠けている名前が、気にかかる。それは、羽生善治九段、渡辺明棋王・王将、豊島将之竜王・名人。現在、鎬を削る相手には、手の内を示さない、ということなのか。あるいは礼儀として、そうするものなのか。

それはともかく、本書に戻ろう。

各回(各章)、藤井聡太の棋譜を、5、6局取り上げて、戦術・戦法を細かく見ていくが、そういうところは、私の力では、棋譜をたどるのが精いっぱいである(というかプロの将棋なので、当たり前である)。

各章の最後に、総括的な藤井聡太評があって、これは素人にも面白い。例えば第1回の永瀬拓矢二冠の場合。

「いまの棋士は藤井聡太さんという存在に感謝すべきです。語弊があるかもしれませんが、他の棋士は強いだけと思っているかもしれませんが、強いだけじゃない。『強い』の上を行っている気がします。」
 
これはどういうことだろうか。字面通り、「強い」の上を行っている、ということなのだろうが、しかし、「『強い』の上」、とは何か。同じプロに、そういうことを言わせている、藤井聡太とは何者か。
 
第4回目の三枚堂達也七段は、次のように言う。

「中盤は手厚く慎重に指し、終盤はアクセルを踏む。しかし他の人よりも踏むタイミングが早く感じます。同じ人が指しているとは思えない。中盤は大山名人、終盤は谷川先生、そういう作りに感じます。」
 
問題は、中盤の大山名人のところである。これは生まれ変わりとは、関係がない。
 
藤井は、「エリアを確保して自玉を寄せづらくさせる」、という指し方をしているという。大山康晴も、このように「エリアを確保する」という指し方を、していたんだろうか。
 
私には、全然わからない。

藤井聡太とは何者か――『藤井聡太 強さの本質』(2)

 最初に〈巻頭インタビュー「最善手を目標に」〉から。

「うーん、そうですね。玉の、何ていうか……。堅さというと、駒を集めて、ということになりますけど。寄りづらさというか、エリアを確保して自玉を寄せづらくさせるという指し方があります。そういうエリアを確保しようという意識は確かにあるのかもしれません」。
 
玉の堅さとか、厚みとは違う、「自玉を寄せづらくさせる」方法があるという。そこから具体的な手を挙げて、説明するのだが、私にはわからない。おぼろげに分かるような気もするが、でもやっぱり分からない。
 
そこから進んで、「少し苦しい局面でどうするのかというのが課題です。苦しい局面では、ある意味、最善手は存在しません。そういうところで自分の中で指し手が決まらないという面が出てしまっています。まあ、そもそも苦しくするのが問題なのですが(笑)」
 
この課題は、たぶん解決不能だと思う。しかし藤井も、あんがい普通のことで悩んでいるな。いや、藤井が苦しい局面というのが分からないから、やっぱり凡人と比べない方がいいのか。よくわからん。
 
AIについては、こんなことを言っている。少し遡って、

「棋譜並べは、奨励会の頃は結構、行っていましたが、最近はやってないですね」
――ということはAI?
「そうですね。将棋ソフトを使うのがメインです。ある局面のソフトの評価値を見て、その点数がどうしてそうなるのか、要因を考えます」
 
なるほど、ソフトはそういうふうに使うのか、ってこれ、考えてみれば、そういうふうに使う以外に、使い道があるんだろうか。
 
もちろん私がいくら考えても、どうしてソフトの評価値が、そんなふうになるのかは、分からない。でもプロ棋士なら、ほとんど全員、そういうふうに使ってるんじゃないかな。
 
こんなところもある。

「――棋譜は将棋年鑑から?
『大山康晴全集を頂き、並べていました』」
 
それで大山名人の霊が、取り憑いたのだ。というのは、半分は冗談だが、実は秘かに信じているところがある。
 
インターネットで、藤井聡太に関連するところを見ていたら、「背中のチャックを開けたら、大山名人が入ってたりして」というのが、目を引いた。
 
将棋をかじった人なら、誰でも考えるんじゃないか、藤井聡太は「チャック大山」だと。
 
インタビュアーは、藤井さんにとって「強さの本質」というのは何か、と本書のタイトルをぶつける。
 
すると次のように答えた。

「どのような局面であっても、ある程度正しい判断ができて、最善に近い手を選択できることを、一つの目標として持っています。どんな局面でも正しく指せるというのが強さというのかなと思います」
 
さすがはいいこと言うねえ、と思いながら、しかしよく考えると、誰に聞いても、プロ棋士なら、だいたい同じことを言わないだろうか。
 
しかし藤井聡太棋聖が言うと、重みが違う。それにまだ高校生だし。「将棋の持つ普遍の面白さを味わってほしい」、こういう言葉で、棋聖位就任の挨拶を締めくくっている。これでまだ高校生。

インタビューの最後に、特に目標とする人はいますかと聞かれて、「そうですね。特にはありません」と答えている。
 
これがもし大山の生まれ変わりなら、特に目標とする人はいない、というのは、非常によく分かる。

藤井聡太とは何者か――『藤井聡太 強さの本質』(1)

藤井聡太が棋聖になった。渡辺明棋王・王将に3勝1敗で勝った。17歳11カ月の史上最年少で、初タイトルの棋聖位を獲得したのである。
 
史上最年少の四段、デビュー以来の29連勝、朝日杯2年連続優勝、史上初の3年連続勝率8割超え、それに加えて今度は、最年少のタイトル保持者。
 
新型コロナウイルスの影響で、将棋連盟は約2か月間、棋士たちの活動を休止した。そのために藤井聡太の最年少タイトルは、ほぼ無理だと思われていた。
 
それが2か月で解けて、針の穴のような可能性が残った。渡辺明が保持する3冠のうち棋聖位が、藤井との間で争われることになった。まるで漫画の主人公である。
 
コロナのせいで、タイトルを争う日程は、実に過酷だった。木村一基王位と2日にわたって、王位戦第2戦を争い、それに逆転勝ちして、中一日で渡辺明と、運命の棋聖戦第四局を争った。
 
普通、第一線の棋士は、週1回の割合で、対局が付く(対局には「付く」という動詞が付く)。相手によって戦形や戦局を考え、入念に準備したのち、対局に臨む。1年間に50局以上、対局があり、それで勝率6割を超えていれば、第一級の棋士である。
 
しかるにどうだ、その日程を聞くだけで、これはひょっとすると、藤井に対するいじめじゃないか、パワハラじゃないか、これはもう、現代の「おしん」じゃないか、と疑われた。
 
しかしもちろん、藤井に記録を作らせてあげたい、という気持ちも感じられる。
 
だから藤井は、家に帰る暇もなく、将棋を指し続けていたのである。しかしこれでは、全国を巡業する、昔の「越後獅子」ではないか。
 
そもそも誰が、どんな権限で、対局の日程を決めているのか、そのあたりも「ナゾ」である(でもないか、よくわかりません)。
 
しかし藤井は、強い人と将棋が指せるというので、嬉々としていたらしい(このあたり、まったく想像で書いている)。
 
そして棋聖戦、運命の第4局。
 
いやあ、強い強い。アベマTVで見ていると、画面に出るコンピュータの数字は、渡辺明の方が、途中まではずっと、わずかによかった。しかし、いったん桂馬と歩で攻め立てられると、あとは防戦一方、どうしようもなかった。
 
終わってから、渡辺が、今日の藤井さんは自信を持っていた、桂馬で攻め始められるとすぐに、今日は負けだなと思った、と述べていた。これでは、最初から負けている。
 
しかし渡辺明に、最初から負けだな、と覚悟させる藤井聡太というのは、いったいどんな人なのか。
 
ここは真剣に考えなくてはならぬ、というほどのことはないのだが、そして私が考えたって、どうしようもないのだが、それでも興味は津々として尽きない。

そこで一番新しいところで、『藤井聡太 強さの本質』というのを買ってきた。これは将棋連盟の編で、今年の五月に出た本だ。
 
最初に、藤井聡太七段に対する〈巻頭インタビュー「最善手を目標に」〉があって、次に16章に分かれて、藤井聡太の将棋を、トップ棋士たちが分析する。最後に〈特別編「藤井将棋次の一手」〉という構成である。
 
考えてみれば、藤井聡太の将棋を、谷川浩司、佐藤康光、森内俊之から、広瀬章人、糸谷哲郎、さらには若手の、永瀬拓矢、佐々木大地らまでが、徹底的に解剖するというのは、ちょっと見ない、空前絶後の企画ではないか。

警察小説と見せて――『桃源』(2)

二人の刑事は、11月も押し詰まった日、天神橋筋の商店街で張り込みをしている。

寒空の下で、じっと張り込み――丁々発止、軽口を飛ばすには、最もいい場面だ。

「……上坂は煙草を吸っていた。ダッフルコートの背中が丸い。
『寒そうやな』
『そら寒いですわ。あと十日で十二月なんやから』
『一年てなもんは、あっというまやな』
『月日は百代の家客にして、しかももとの水にあらず、です』
『待て。それは奥の細道か、方丈記か』
『わっ、遼さんてインテリや。いままで指摘されたことはいっぺんもないですよ』
『百代の家客のあとは、ほんまはどうつづくんや』
『行きかう年もまた旅人なり』
『インテリやな、勤ちゃん』
『隠してますねん』さも得意そうに、上坂は煙草のけむりを吹きあげる。」
 
突飛なようだが、ここにも寂しいインテリがいて、それは漱石の『猫』や、ブレイディみかこの『ハマータウンのおっさん』とも、つながっている。しかし黒川博行の小説を読んで、そこまで想像をたくましくする者は、たぶんいない。
 
二人の掛け合いは、たびたびアメリカ映画を巡って行われる。

「『アメリカの刑事映画で見てないもんはないです』
『いちばんはなんや』
『一概にはいえませんね。『ブリット』『ダーティーハリー』『フレンチ・コネクション』『48時間』『ミスティック・リバー』『トレーニングデイ』『16ブロック』……。星の数ほどあります』」
 
ここに挙げられているものは、全部見ている。『フレンチ・コネクション2』や『ミスティック・リバー』は、名作だった。
 
それから新垣のセリフで、「勤ちゃん、〝お日さん西々〟でやってたら、お給金はもらえるんや」というところ、〝お日さん西々〟というのが、解らなかった。関西弁にあるのだろうか。
 
インターネットで調べてみると、ありましたよ。意味は、「お日様(太陽)は我々と関係なく時間とともに西へ西へと移動してゆく。よく使う例として『公務員は仕事しなくてもおひさん西西だからね~』みたいな感じです。」

全然知らなかった。高松市には、「おひさんにしにし」という居酒屋まである。
 
掛け合いは、ときにちょっとエグくなり、そうして笑わせる。
 
上司ともめて、珍しく七時前に署を出たとき――。

「『なんですねん、あのおっさん。残業手当も出んのに、残業せいはないでしょ』
『就業規定に反する、いうのはおもしろかったな』
『気は確かですかね。刑事に就業規定を求めるのは、映画監督に脚本を変えるな、AⅤ女優に裸になるな、相撲取りに髷を結うなというのと同じことやないですか』
『勤ちゃん、髷のない力士はただのデブや』
『AⅤ女優がパンツ脱がんかったら、タダでも観ませんけどね』
 論点がずれている。あえて訂正はしないが。」
 
こういうところばかり読んでいたが、話の筋はそれにふさわしく、ごく簡単なものだった。しかしそれでも、ラストで見せ場を作るところは、見事だった。
 
読み終わってもう一度、本の帯を見たとき、「な、勤ちゃん、/刑事稼業は上司より相棒や」というのが、腑に落ちた。

(『桃源』黒川博行、集英社、2019年11月30日初刷)

警察小説と見せて――『桃源』(1)

ご存じ黒川博行の警察小説、だが――。
 
大阪府警泉尾署の新垣遼太郎と上坂勤が、600万円を持ち逃げした男を追って、沖縄まで飛び、南西諸島を舞台に、大掛かりなトレジャーハント詐欺事件に挑む、というのが、小説の形式である。
 
では、その内容とはどんなものか。
 
それは新垣と上坂の掛け合い漫才であり、だから大阪から沖縄まで行くのも、じつは弥次喜多の珍道中なのだ。
 
冒頭の滑り出しは、警察小説としては快調そのもの。

「朝、刑事部屋に入るなり、宇佐美に手招きされた。デスクのそばへ行く。
『ま、座れ』
 いわれて、傍らのスチール椅子を引き寄せ、腰をおろした。
『仕事や。無尽をやってくれ』
『無尽……。詐欺的な?』
『いや、そこが分からん。いまのとこはな』」
 
全部で550ページを超える警察小説が、こんなスピードでいいのかしらん、と思う間もなく、話は脱線に次ぐ脱線。

「『アメリカの映画観てたら、酒場の場面がよう出てくるでしょ。ひと癖ありそうな髭のバーテンダーがおってね。あれ観ると、ぼくも焼酎やめてバーボン飲みますねん』
『バーボンでもテキーラでも、好きに飲めや」』
 
若い方の上坂勤がすぐに脱線して、新垣遼太郎がそれを戻していく。

物語を進行していく話者は新垣であり、一応、主人公であるから、二枚目で、仕事もでき、女にもよくモテる。
 
しかし陰の主役は、上坂勤の方である。

「『遼さん、『ヘイトフル・エイト』観ました?』
『観るわけないやろ』映画にはほぼ興味なし。特に字幕つきの映画は。
『ぼく的には今年のナンバーワン。やっぱり、タランティーノはすごいわ。役者のキャラとセリフが立ってますねん。タランティーノとコーエン兄弟は外れがない。ティム・バートンもよろしいね。『スリーピー・ホロウ』はゴシックホラーの名作です――』好きなように喋らせておく。」
 
上坂勤は、京都芸術工科大学の映像学科を出て、府警の採用試験を受けた変わり種だ。36歳になる今でも、雑誌のシナリオコンクールに応募している。
 
冒頭の10ページ足らずで、もう犯人を追うことではなく、犯人を追う刑事の方に、力点が移っている。黒川博行なら、こうでなくてはウソだ。

濃厚な香り――『市場界隈ー那覇市第一牧志公設市場界隈の人々ー』(2)

この本は実に丹念に作ってある。これは編集者の手柄である。

まず巻頭32ページがカラー写真で、店や、そこで働く人などが取り上げられている。
 
レイアウトも凝っている。「道頓堀」のように、左右見開きでバーンと取ってあるのもあれば、左右で均等16に割って、それぞれにお店が入っているところもある。ちなみに「道頓堀」は食堂である。
 
そうかと思えば、食べものばかりで構成したページもある。「大衆食堂ミルク」のカツ丼、「足立屋」もつ煮込み、「肉バル 透」のシュウマイ、「道頓堀」のラフテーそば(「じっくり煮込んだラフテーが2枚のっけてある」とネームにある。またついでに言っておくと、「大衆食堂ミルク」の「ミルク」は、牛乳ではなく、弥勒菩薩の意味)。ううう、どれも旨そうである。
 
お店の写真もいいのだが、人の写真がまたいい。どの人も、そこで商売することの喜びにあふれている。
 
本文中にも、一軒の店にかならず1枚、人物を含むモノクロ写真が載せられている。
 
取材の一編ずつは短いから、それほど深く人物を刻んでいるわけではない。でもそれが一群となると、写真の効果とも相まって、ある迫力で迫ってくる。
 
僕は60年よりちょっと昔を、おぼろげに思い出す。母の背中におんぶされて、市場へ買い物に行く。大阪の都島の内代町(うちんだいちょう)にいたころだ。

市場に入ると、僕はかならず、春日八郎の「お富さん」を大きな声で歌った。大阪の話になると、母親は、僕が大人になってからも、必ずそう言った。
 
二、三歳の頃だから、僕は全く覚えていない。でも、春日八郎の「お富さん」は、最初に覚えた歌だ。
 
あるいは母親から、そういうふうに刷り込まれたから、そう思っているだけかもしれない。今となっては、どちらでもいい(それにしても「お富さん」の歌詞はシュールだ)。
 
市場というのは、そういうふうに、ある年齢以上の原風景を、作っているところがある。
 
第一牧志公設市場は、その中でも特に色濃く、出入りした人間の原型を作っているだろう。
 
そういうところでは、お店の人と客は、相対売りが基本だ。これは定価を表示するのではなく、売り手と買い手が丁々発止、話し合って価格を決める。一応、定価は決めてあるけれど、それを基準として、客と店の人で、押し引きをするわけである。だから絶対に定価では、売らないし、買わない。

「市場に買い物にくるのは常連さんだから、話しているうちに家族のことまで知ってしまう。買い物にきたお客さんに『お母さんは元気ですか』ってところから会話に入る。これが相対売りなんですよ。」

「山城こんぶ店」の和子さんはそう言う。
 
第一牧志公設市場とその界隈は、建て替えになればかならず、ちょっと近代化されて、すこしモダンになるだろう。その方が快適だと、当座は思うのだろうが、やがて失われたものが、郷愁のように襲ってくるだろう。

(『市場界隈ー那覇市第一牧志公設市場界隈の人々ー』
 橋本倫史、本の雑誌社、2019年5月25日初刷)

濃厚な香り――『市場界隈ー那覇市第一牧志公設市場界隈の人々ー』(1)

『本の雑誌』4月号の「特集 さようなら、坪内祐三」に、いろんな人が追悼文を書いている中に混じって、橋本倫史という人が、「神経のふれかた」というタイトルで、坪内さんの気難しいところを、うまく描いていた。
 
その文章が丹念でよかったことは、このブログでも書いた。
 
名前を知らない人で、心に残る人は、本が出ているならば、読んでみたいと思うじゃないですか。
 
それで去年5月に出た、『市場界隈ー那覇市第一牧志公設市場界隈の人々ー』を読んでみた。
 
こういうときは、まず奥付の著者紹介から。

「1982年広島県東広島市生まれ。2007年『en-taxi』(扶桑社)に寄稿し、ライターとしての活動を始める。同年にリトルマガジン『HB』を創刊。以降『hb paper』『SKETCHBOOK』『月刊ドライブイン』『不忍界隈』などいくつものリトルプレスを手がける。2019年1月『ドライブイン探訪』(筑摩書房)を上梓。」
 
僕には『en-taxi』以外は、ちんぷんかんぷんだ。
 
とにかく中身を読んでみよう。
 
3部だてで、第一牧志公設市場と、その界隈を取材している。
 
目次を挙げれば、「Ⅰ 上原果物店、上原山羊肉店、美里食肉店、長嶺鮮魚、道頓堀、山城こんぶ店、大城文子鰹節店、照尚、ウタキヌメー、平田漬物店、コーヒースタンド小嶺  Ⅱ ザ・コーヒー・スタンド、市場の古本屋ウララ、玉城化粧品店(牧志公設市場雑貨部)、赤田呉服店(牧志公設市場衣料部)、国吉総合ミシン、すみれ服装学院、嘉数商会、宮城紙商店、もちの店やまや  Ⅲ 大和屋パン、喫茶スワン、大衆食堂ミルク、バサー屋、大洋堂、にしきやおみやげ店、金壺食堂、ゲストハウス柏屋、足立屋、肉バル 透」、それに巻末に、粟国組合長との対談が入っている。
 
一編はそれぞれ短いものだ。
 
なぜ第一牧志公設市場とその界隈を、取材しようとしたかと言うと、もうすぐ市場は消滅するのだ。
 
第一牧志公設市場は、2019年6月16日に営業を終了し、同じ場所に建て替えになった市場は、2022年春にオープンの予定である。
 
店はそれまでの間、別の場所で営業している予定だ。
 
牧志公設市場が開設されたのは、戦後すぐの1950年のことで、それが建て替えで、いったん終わるのは惜しいと思ったから、取材をしたのだ。

久々の愛子節――『九十歳。何がめでたい』

久々の佐藤愛子、帯に「2017年上半期ベストセラー/総合第1位/98万部突破‼/小学生からお年寄りまで/今年最も/読まれている本。」とある。
 
ネットにやられて、本はもうだめだ、ということが如実にわかる。
 
読者が書店に来ても、何か面白いものはないかな、という気持ちが失せている。
 
あるいは、本を作る側に、こんどはこんなふうにして、面白がらせてやろう、あるいは驚かせてやろう、という気がなくなっているのではないか。
 
それで結局、両方の妥協する点が佐藤愛子、そういうことだろう。
 
と、文句は付けたけども、でもやっぱり、佐藤愛子は面白い。
 
ちょっと衰えてはいるけれど(何しろ九十二歳だ)、でも、おもわず含み笑いをするところがある。
 
佐藤愛子はまず、エッセイを書く自分の位置を定める。
 
例えば新聞で、こういう見出しがある。

「『マイナンバー』スマホで利用
 将来 行政手続き可能に」
 
なんだかわからないので、本文の記事を読んでみる。

「何を言っているんだか、さっぱりわからない。だいたい『スマホ』というものがわからない。いつだったか氷雨の降る日に無線タクシーに電話をかけたが、混雑しているとみえて三十分近くかけつづけたがつながらなかった。その後、たまたま乗ったタクシーの運転手氏にそのことを愚痴ったら、彼は一枚のカードをさし出していった。
『このナンバーをスマホで打てば、直接我々に届きますから、早いです』
『スマホ?』」
 
佐藤愛子は、この位置にいる。そしてその位置を、絶対に動かない。というか、もう90を超えているから、動こうにも動けない。
 
しかし、そういう自分を見つめる目は正確で、一点のくもりもない。
 
その結果、結論はシンプルで、そして格調が高い。

「『文明の進歩』は我々の暮らしを豊かにしたかもしれないが、それと引き替えにかつて我々の中にあった謙虚さや感謝や我慢などの精神力を摩滅させて行く。」
 
まあこれはしょうがない。文明というのは、その方向に流れていくものだ。
 
しかし、ときには立ち止まって、考えた方がいいこともある。

「もっと便利に、もっと早く、もっと長く、もっときれいに、もっとおいしいものを、もっともっともっと……
 もう『進歩』はこのへんでいい。更に文明を進歩させる必要はない。進歩が必要だとしたら、それは人間の精神力である。私はそう思う。」
 
ほとんど、池田晶子のセリフである。

(『九十歳。何がめでたい』佐藤愛子
 小学館、2016年8月6日初刷、2017年11月1日第21刷)

水を得た魚――『ワイルドサイドをほっつき歩けーハマータウンのおっさんたちー』(5)

それにしても、ブレイディみかこの周りにいるおっさんたちは、みんなたそがれている。
 
僕は唐突にして、漱石の『吾輩は猫……』を思い出した。

「呑気と見える人々も、心の底を叩いて見ると、どこか悲しい音がする。」
 
明治の知識階級、と見えて実は「余計者」と、現在の英国の労働者階級には、共通点がある。
 
呑気と見える人々も、心の底を叩いて見ると、どこか悲しい音がする、と漱石は書いた。これは昔も今も変わらない、万国共通のおっさんたちの、寂莫たる心情なのだなあ。

「英国の労働者階級には、歴代のパートナーとの間に複数の子どもがいるが、結局どのパートナーとも別れたので、子どもと一緒に生活していないおっさんたちがけっこういる。日本に比べると、英国は離婚のスティグマが薄い分だけみんな気軽に相手を変えて、子どもをつくる。」
 
そうなると別れるときに、母親が親権を持つことが多い。だからシングルマザーが多い英国は、また子どもと暮らせないおっさんが、大勢いるのだ。
 
この章に流れる曲は、「悲しくて、悲しくて、とてもやりきれない」という、ザ・フォーク・クルセダーズの『悲しくてやりきれない』だが、やっぱり漱石の「呑気と見える人々も、……」の方が合っている。
 
著者の周りも、よく見れば、すっかり様変わりしている。

「若い世代はそんな旧式の英国人のライフスタイルはとても不健康だと思っている。だから国全体でアルコール消費量が落ち、パブだけでなくライブハウスやクラブの数も減っている。……酔って寝ゲロを吐くようなおっさんの時代は終わったのである。」
 
末尾の一文が、限りない寂莫感を表わしている。と同時に、「寝ゲロを吐くようなおっさん」というのが、限りなく面白い。
 
おっさんたちの会話は、だらだらと続いていく。

「『俺もさいきん、ふつうの姿勢で腰がギクッといく』
『俺は夜中に何回も放尿するようになってきたのが心配』
 お達者クラブみたいなおっさんたちの会話を聞きながら……なんだかちょっと、悲しくて、とてもやりきれない。」
 
書き下ろしの第2章は、僕には面白くなかった。英国民を、大雑把に5つの階級に分けて、分析していくのだが、英国に暮らしているのでなければ、およそ興味が持てない。
 
ブレイディみかこの、文章上の一番の取柄は、人々を生き生きと描写するところだから、社会学者のまねをして分析しても、何だかなあという感じだ。
 
ただこういうところは、ちょっと驚いた。

「新自由主義や緊縮財政といった経済システムのせいで格差が開くと同時に、『階級』的な物事の考え方や捉え方が大きく復活したのは今世紀に入ってからと言える……」。
 
英国でもどこでも、一朝一夕にはわからないものだ。でもそれは、当たり前と言えば、当たり前か。

(『ワイルドサイドをほっつき歩けーハマータウンのおっさんたちー』
 ブレイディみかこ、筑摩書房、2020年6月5日初刷)