「パズル」は、自分は建築物だ、という感覚を持つОLの話。これは、リアルであることが難しい話だが、作者はそれを、いとも軽々と乗り越える。
「立ち並ぶビルの間をヒールで進みながら、早苗は、自分がこのビルの一つである感覚が拭えなかった。
コンクリートたちの灰色のグラデーションを見ていると、小さい頃住んでいた団地を思い出す。早苗はその頃から、自分のことを団地の一棟であると感じていた。」
要するに「早苗」は、自覚する限りでは、生命体ではない。ではなんだと問われたら、「団地の一棟」、つまり建築物だと答えるほかない。
だから「早苗」は、生命体に憧れを持っている。
「溜息をついた同期の女の子の口の奥で唾液が光を反射しているのが見える。生命体は泉のようで、そこからさまざまな液体が湧き出すのだ。唾液もそうだし、尿、血液などの液体、口からは内臓の臭気が染み込んだ空気が噴出し生臭さが漂っている。その一つ一つが、早苗が排出するとどうしても生々しさがないものばかりだった。」
自分が建築物かどうかは別にして、この生命体に憧れるのは、村田沙耶香のごく自然な成り行き、正直な告白ではないか、というふうに、思わず信じてしまう。
なお表題の「パズル」は、以下のような理由に依る。
「早苗は確かに異世界で暮らしているかもしれないが、この世界と彼らが内臓ではなく人間である世界は、少しも違和感がなく共存できるのだ。まるでパズルがぴったりとあわさるように、二つの世界の住人は共に暮らすことができるのだ。」
こういう感覚は、文章の上にしか存在しない。これが文學だなあと、本当に感嘆してしまう。
次の「街を食べる」も面白い。これは文字通り、街に生えている草を食べる話で、しかし主人公のОLは、わずかな野生の草を調理して食べる間に、変貌を遂げる、という話だ。
最後の「孵化」は、自分が流されて、周りの人間にとって、都合のいい人になっているという話。
「私には性格がないのだ。
あるコミュニティの中で『好かれる』ための言葉を選んで発信する。その場に適応するためだけに『呼応』する。ただそれだけのロボットのようなものだったのだ。」
これは結婚騒動を含めて、徹底的に戯画化してあるけれど、振り返って自分を見れば、特に若いうちは、けっこうありそうな話だ。
以上、短篇集『生命式』をざっとみた。どの一篇も、村田沙耶香の毒が効いており、類のないものだ。
私はやはり文学に、滋味だとか、希望だとか、絶望だとか、軽妙さとか、重厚さとか、可哀想な話とか、エロチックな話とか、……を求めたいので、村田沙耶香のような、一箇所必ずとんでもなく変な設定で、そしてそれを受け入れる話は、ざらっとしていて、好きではない。というか、好き嫌いを超越している。
しかしそれでも、今回読んでしまったものは仕方がない。これを機会に、同じ作者の小説を、次々に読むかと問われたら、それは勘弁してと言わざるを得ない。
でも、多分ときどきは、村田沙耶香の作品を読むだろう。そういう中毒性は、忘れたころに蘇ってきて、書店の棚に気がつけば手が伸びている、そういうことは大いにありそうだ。
(『生命式』村田沙耶香
河出書房新社、2109年10月30日初刷、11月30日第2刷)
前提を変える――『生命式』(5)
初めの三作があまりに強烈なので、それに続く「夏の夜の口付け」「二人家族」「大きな星の時間」が、ともすれば作品の前提を、現実にはない、わずかな箇所を変えてあるだけで、大したことはないと思ってしまう。
しかし次の「ポチ」は、僕のような凡庸な読み手にも、これはなんだ、と思わせる。
少女とユキは同級生、二人は学校が終わると、裏山に行く。裏山の小さな小屋の中に、二人の秘密の「ポチ」がいる。
「ユキが、
『これ、ポチ』
と、私のお父さんと同じくらいのおじさんを小屋から出してきたとき、心の中で仰天した。」
たしかに仰天する。ポチというおじさんと、そして、こともなく現実と受けとめている、同級生の「ユキ」にも。
「私は恐る恐る『ポチ』に近づいて、頭を撫でた。ポチからは、獣のような臭いがして、頭のてっぺんの青白い皮膚はべたべたしていた。」
うー、ちょっと気持ち悪い。
「私はポチの頭を撫でるのを躊躇した。ポチはかわいいところはあるけれど、触るのは少し気味が悪い。ユキは平気そうに、ポチの頭や不精髭を撫で回していた。」
ポチは中年のサラリーマンで、だからこういうことは起こりえない、というのは現実の世界で、文学の世界では何でもおこる。
それが不気味だけれど、反面、おかしい。そして、おかしいままで、ゾッとする。そういう世界を、村田沙耶香は好んで描く。
次の「魔法のからだ」は、中学二年生の少女たちを描く。まるで少女小説のように繊細で、私は一瞬、村田沙耶香はふつうの小説も書けるのではないか、と思ってしまった。
しかしよく考えてみると、やっぱり作者の描く現実は、歪んでいるのだ。
「詩穂」は、田舎のおばあちゃんの家の近くで、お盆のときに、男の子と仲良くなる。それも徹底的に仲良くなる。
「小学四年生のお盆に屋根裏部屋でキスをして、この前のお盆のとき、蔵の中でセックスをした。そうあっけらかんと話す詩穂に、私は面食らった。
キスやセックスは、もっといやらしいことだと思っていた。でも詩穂と話していると、それがとてもあどけない、純粋なできごとに思えてくるのだった。」
ここはあまりに繊細に、かつあっけらかんと書かれているので、ついついそういうものかと思ってしまう。でもちょっと考えてみると、おぞましくもある。
そういえば、小学生同士の、精通もしていないセックスは、『地球星人』でも書かれていた。これは、作者が固執するだけの、原体験があるのだろうか。
ともかくどちらも、得も言えぬ、素晴らしい体験として記されている。
しかし次の「ポチ」は、僕のような凡庸な読み手にも、これはなんだ、と思わせる。
少女とユキは同級生、二人は学校が終わると、裏山に行く。裏山の小さな小屋の中に、二人の秘密の「ポチ」がいる。
「ユキが、
『これ、ポチ』
と、私のお父さんと同じくらいのおじさんを小屋から出してきたとき、心の中で仰天した。」
たしかに仰天する。ポチというおじさんと、そして、こともなく現実と受けとめている、同級生の「ユキ」にも。
「私は恐る恐る『ポチ』に近づいて、頭を撫でた。ポチからは、獣のような臭いがして、頭のてっぺんの青白い皮膚はべたべたしていた。」
うー、ちょっと気持ち悪い。
「私はポチの頭を撫でるのを躊躇した。ポチはかわいいところはあるけれど、触るのは少し気味が悪い。ユキは平気そうに、ポチの頭や不精髭を撫で回していた。」
ポチは中年のサラリーマンで、だからこういうことは起こりえない、というのは現実の世界で、文学の世界では何でもおこる。
それが不気味だけれど、反面、おかしい。そして、おかしいままで、ゾッとする。そういう世界を、村田沙耶香は好んで描く。
次の「魔法のからだ」は、中学二年生の少女たちを描く。まるで少女小説のように繊細で、私は一瞬、村田沙耶香はふつうの小説も書けるのではないか、と思ってしまった。
しかしよく考えてみると、やっぱり作者の描く現実は、歪んでいるのだ。
「詩穂」は、田舎のおばあちゃんの家の近くで、お盆のときに、男の子と仲良くなる。それも徹底的に仲良くなる。
「小学四年生のお盆に屋根裏部屋でキスをして、この前のお盆のとき、蔵の中でセックスをした。そうあっけらかんと話す詩穂に、私は面食らった。
キスやセックスは、もっといやらしいことだと思っていた。でも詩穂と話していると、それがとてもあどけない、純粋なできごとに思えてくるのだった。」
ここはあまりに繊細に、かつあっけらかんと書かれているので、ついついそういうものかと思ってしまう。でもちょっと考えてみると、おぞましくもある。
そういえば、小学生同士の、精通もしていないセックスは、『地球星人』でも書かれていた。これは、作者が固執するだけの、原体験があるのだろうか。
ともかくどちらも、得も言えぬ、素晴らしい体験として記されている。
前提を変える――『生命式』(4)
3作目の「素晴らしい食卓」は、姉が、妹とその婚約者、そして婚約者の両親を招いて、会食する話である。これがなかなか、村田沙耶香にふさわしく、ゾッとさせる。
一人称で話を展開させるのは姉。その姉には夫がいて、彼は「ワンランク上の生活」にあこがれている。
「私と夫の食事は、ほとんど通販サイトハッピーフューチャーで買ったものだ。冷凍野菜がキューブになったものが入ったスープに、フューチャーオートミール。フリーズドライのパンとサラダ。宇宙食を思わせる数々の食品を、向かい合って口に入れていく。」
こういう食生活を送るにあたっては、夫に主義主張がある。
「ハッピーフューチャーフードは、『次世代の食事』をあなたの食卓にもお届けします、というコンセプトの通販サイトで、海外セレブがこぞって利用していることで話題になった。夫はすっかりこの通販サイトにはまっていて、今では我が家の食卓は、ほとんどハッピーフューチャーフードのサイトで注文したものだ。」
つまり夫は徹底した俗物であり、姉は、その俗物性がどこまで行くのかを、半分笑いながら見ている。
一方、妹は、「自分の前世は魔界都市ドゥンディラスで戦う超能力者」ということで、この日は、料理の腕を振るうことになっている。
「朝早く、妹はたくさんの食材をぶらさげて家にやってきた。
『たんぽぽ、どくだみ……これが今日の食材?』
『うん。魔界に生えている薬草っていう設定なの』
『こっちの缶詰は?』
『それは魔界の地下街で闇取引されている食べ物っていう設定』
妹の食材には全て設定がついていた。」
ここまでくれば、もうお分かりだろう。
婚約者の男は、「僕はお菓子とフライドポテトが大好きだ。できればそれを一生食べていたい」という。
義理の両親は、婚約者の妹がしつらえる、「魔界都市ドゥンディラス」の食べ物が、口に合わない場合も考えて、周到に準備してくる。
「紙袋から取り出したのは、びっしりと虫が詰まった瓶だった。白い小さな芋虫のようなもの、それよりもう少し大きめの別の芋虫、そしてプラスチックの入れ物に入っているのはイナゴだろう。」これはあざとくも、田舎の年寄りの「典型」だろう。
全部が並んだところで、婚約者の男は高らかに宣言する。
「これこそが、僕が今日、見たかった光景なんです。」
個人主義の究極が、夫婦が別々のものを食べる、ということなのだ。
村田沙耶香は、そういうことを戯画化して描くのが、本当にうまい。
最後に、姉の夫が、異文化交流会議から帰ってきて、会食に加わる。
「夫の口の中で、魔界都市ドゥンディラスのパンと、芋虫と、ハッピーフューチャーフードの食品と、ペプシが混ざり合っている。私も吐き気がこみあげて、思わず目を背けたくなった。」
「ワンランク上の生活」に憧れる夫は、今日の異文化交流の講演に、たちまち影響され、テーブルの上にあるものを、どんどん咀嚼していく。
そして最後は、
「『なんて素晴らしい食卓なんだ! おいしいなあ!』
私たちは化け物を見る目で、手の中の食材に齧り付く夫を見つめ続けている。」
ここでは、村田沙耶香は、最後は読者の方に、身を寄せているように見える。
でも本当は違う。村田沙耶香は、人と同じ暮らしをしながら、できれば「魔界都市ドゥンディラス」の食べ物を、是非とも食べてみたい、と思っているに違いない。
一人称で話を展開させるのは姉。その姉には夫がいて、彼は「ワンランク上の生活」にあこがれている。
「私と夫の食事は、ほとんど通販サイトハッピーフューチャーで買ったものだ。冷凍野菜がキューブになったものが入ったスープに、フューチャーオートミール。フリーズドライのパンとサラダ。宇宙食を思わせる数々の食品を、向かい合って口に入れていく。」
こういう食生活を送るにあたっては、夫に主義主張がある。
「ハッピーフューチャーフードは、『次世代の食事』をあなたの食卓にもお届けします、というコンセプトの通販サイトで、海外セレブがこぞって利用していることで話題になった。夫はすっかりこの通販サイトにはまっていて、今では我が家の食卓は、ほとんどハッピーフューチャーフードのサイトで注文したものだ。」
つまり夫は徹底した俗物であり、姉は、その俗物性がどこまで行くのかを、半分笑いながら見ている。
一方、妹は、「自分の前世は魔界都市ドゥンディラスで戦う超能力者」ということで、この日は、料理の腕を振るうことになっている。
「朝早く、妹はたくさんの食材をぶらさげて家にやってきた。
『たんぽぽ、どくだみ……これが今日の食材?』
『うん。魔界に生えている薬草っていう設定なの』
『こっちの缶詰は?』
『それは魔界の地下街で闇取引されている食べ物っていう設定』
妹の食材には全て設定がついていた。」
ここまでくれば、もうお分かりだろう。
婚約者の男は、「僕はお菓子とフライドポテトが大好きだ。できればそれを一生食べていたい」という。
義理の両親は、婚約者の妹がしつらえる、「魔界都市ドゥンディラス」の食べ物が、口に合わない場合も考えて、周到に準備してくる。
「紙袋から取り出したのは、びっしりと虫が詰まった瓶だった。白い小さな芋虫のようなもの、それよりもう少し大きめの別の芋虫、そしてプラスチックの入れ物に入っているのはイナゴだろう。」これはあざとくも、田舎の年寄りの「典型」だろう。
全部が並んだところで、婚約者の男は高らかに宣言する。
「これこそが、僕が今日、見たかった光景なんです。」
個人主義の究極が、夫婦が別々のものを食べる、ということなのだ。
村田沙耶香は、そういうことを戯画化して描くのが、本当にうまい。
最後に、姉の夫が、異文化交流会議から帰ってきて、会食に加わる。
「夫の口の中で、魔界都市ドゥンディラスのパンと、芋虫と、ハッピーフューチャーフードの食品と、ペプシが混ざり合っている。私も吐き気がこみあげて、思わず目を背けたくなった。」
「ワンランク上の生活」に憧れる夫は、今日の異文化交流の講演に、たちまち影響され、テーブルの上にあるものを、どんどん咀嚼していく。
そして最後は、
「『なんて素晴らしい食卓なんだ! おいしいなあ!』
私たちは化け物を見る目で、手の中の食材に齧り付く夫を見つめ続けている。」
ここでは、村田沙耶香は、最後は読者の方に、身を寄せているように見える。
でも本当は違う。村田沙耶香は、人と同じ暮らしをしながら、できれば「魔界都市ドゥンディラス」の食べ物を、是非とも食べてみたい、と思っているに違いない。
前提を変える――『生命式』(3)
次の「素敵な素材」は、もうすぐ結婚するカップルのうち、男の方は、人体を衣服や装飾品に使うのは、倫理にもとるという考えを持ち、それで二人の間に波風が立つ話だ。
時代はもう、男の方が圧倒的少数だ。
主人公の女が、女友達ふたりと、午後のお茶をしながらおしゃべりしている。
「私はティーカップを弄びながら、小さな声で言った。
『うーん……でもね、彼が、人毛の服、あまり好きじゃないの』
アヤが目を見開いて、不可解そうに言った。
『え、なあにそれ? どういうこと? 意味わかんない』
『私にもちょっと理解できないんだけど、人毛だけじゃなくて、人間を素材にしたファッションやインテリアが、あんまり好きじゃないみたいなの』」
女性は、特に若い女は、こういう調子だ。
それに対して男の方は、こういうふうに弁明する。
「僕には皆が何でこんな残酷なことを平気でしているのか、どうしてもわからないんだ。猫も犬もウサギも、そんなことは絶対にしない。普通の動物は仲間の死体をセーターやランプになんかしないんだ。僕は正しい動物でいたいだけなんだ……」
このあと紆余曲折があって、男はだんだん自信がなくなる。
「……なんだか、わからなくなってしまったんだ。……皆が言うように、人間が死後に素材になって、道具として使われるということは、素晴らしくて、感動的なことなんだろうか……」
男は未知の、新しい領域を、手探りしつつ、混迷の中をさまよっている。
それに対して、女の方は迷いがない。例えば次の場面。
「向こうに並んでいるダイニングテーブルの上には、頭蓋骨を逆さにして作った皿が並べられている。天井からは、ミホがお勧めだと言っていた、人間の爪をうろこ状にした上品なシャンデリアがぶら下がっている。筒の形に並べられた爪の奥から、ピンクと黄色の中間のような温かい光が漏れていて、本当はあんなシャンデリアの下で、頭蓋骨のお皿にとっておきのスープを入れてナオキと一緒に食卓を囲むことができたらどんなに幸福だろうと思う。」
ここには人体、人骨を利用して、日常の細々したことを、まかなうということについて、いささかの疑いもない。
「自分もまた、素材であるのだということ、死んだあとも道具になって活用されていくということ。そのことが、尊くて素晴らしい営みだという想いは、やはり自分の中から打ち消すことができないのだった。」
これはそのまま読めば、けっこう感動的ではある。
しかしどうも、作者が手放しで、素晴らしいこととして書いている事柄は、よく考えてみると(考えてみなくとも)、やっぱりゾーっとしてしまう。
時代はもう、男の方が圧倒的少数だ。
主人公の女が、女友達ふたりと、午後のお茶をしながらおしゃべりしている。
「私はティーカップを弄びながら、小さな声で言った。
『うーん……でもね、彼が、人毛の服、あまり好きじゃないの』
アヤが目を見開いて、不可解そうに言った。
『え、なあにそれ? どういうこと? 意味わかんない』
『私にもちょっと理解できないんだけど、人毛だけじゃなくて、人間を素材にしたファッションやインテリアが、あんまり好きじゃないみたいなの』」
女性は、特に若い女は、こういう調子だ。
それに対して男の方は、こういうふうに弁明する。
「僕には皆が何でこんな残酷なことを平気でしているのか、どうしてもわからないんだ。猫も犬もウサギも、そんなことは絶対にしない。普通の動物は仲間の死体をセーターやランプになんかしないんだ。僕は正しい動物でいたいだけなんだ……」
このあと紆余曲折があって、男はだんだん自信がなくなる。
「……なんだか、わからなくなってしまったんだ。……皆が言うように、人間が死後に素材になって、道具として使われるということは、素晴らしくて、感動的なことなんだろうか……」
男は未知の、新しい領域を、手探りしつつ、混迷の中をさまよっている。
それに対して、女の方は迷いがない。例えば次の場面。
「向こうに並んでいるダイニングテーブルの上には、頭蓋骨を逆さにして作った皿が並べられている。天井からは、ミホがお勧めだと言っていた、人間の爪をうろこ状にした上品なシャンデリアがぶら下がっている。筒の形に並べられた爪の奥から、ピンクと黄色の中間のような温かい光が漏れていて、本当はあんなシャンデリアの下で、頭蓋骨のお皿にとっておきのスープを入れてナオキと一緒に食卓を囲むことができたらどんなに幸福だろうと思う。」
ここには人体、人骨を利用して、日常の細々したことを、まかなうということについて、いささかの疑いもない。
「自分もまた、素材であるのだということ、死んだあとも道具になって活用されていくということ。そのことが、尊くて素晴らしい営みだという想いは、やはり自分の中から打ち消すことができないのだった。」
これはそのまま読めば、けっこう感動的ではある。
しかしどうも、作者が手放しで、素晴らしいこととして書いている事柄は、よく考えてみると(考えてみなくとも)、やっぱりゾーっとしてしまう。
前提を変える――『生命式』(2)
「生命式」の主人公、池谷真保は会社の喫煙室で、山本という39歳の男性とよく話す。山本は小太りで、気のいい同僚である。
池谷真保は、大っぴらに人肉を食べるという「生命式」に、かすかな違和感があり、それを山本に吐露する。
すると山本は、あまり神経質にならない方がいいと言う。
その山本が、車に轢かれて死んだ。
池谷真保は、行きがかり上、山本の「生命式」の準備を手伝うことになる。
「皆の満面の笑みを見て、何となく私は得意だった。山本は、こういう皆の笑顔が見たいという奴だったのだ。こういう温かい空間を、自分の生命式で作りだしたいと願うような、そんな人柄だったのだ。」
文章中で、生命式を「こういう温かい空間」と、しれっと書くところが、この作者の図太いというか、何とも言えない常人とは違うところだろう(ちょっと頭がおかしいと言えばおかしいか)。
それはともかく、まず鍋だ。ダシの沁み込んだ「山本の団子」は、柚子の果汁と、大根おろしの食感とともに、「ふはふは」と口を動かすと、何とも言えない味がする。
「肉の旨味と出汁の味がまざりあって、舌の上で溶けていく。肉団子にからんだ少し辛い大根おろしが、なんとも言えないアクセントになって、肉の味を引き立てている。」
こういうところが、かなり不気味であり、またしいて言えば、可笑しくもある。
「今度は山本の塩角煮に箸を伸ばした。角煮にはぎゅっと旨味が詰まっている。少し濃厚な人肉の味に、柚子こしょうがよく合う。ちょっとだけ獣っぽさのある味が、薬味で上品に調えられ、白いご飯が欲しくなる。少しだけ筋のある、歯ごたえのある肉の部分と、ぷるりとした脂肪の部分が嚙めば嚙むほど深い味を醸し出す。」
人肉を食べるのを、ここまで上手に書ける人は珍しいだろう。村田沙耶香は明らかに、おいしく味わって、これを書いている。
「山本を愛していた人たちが山本を食べて、山本の命をエネルギーに、新しい命を作りに行く。
『生命式』という式が初めて素晴らしく思えた。」
主人公は最後に、海辺で男性と会い、その男性が、トイレで瓶に採取してきた精子を受け容れる。
「波が膝までくるところまで進むと、私はジーンズをおろした。瓶から白い液体を掬いとって、ゆっくりと身体のなかに差し込んだ。
指先から精液がこぼれおちていく。」
女と男の交情は全然ないけれど、これはこれで、ひとつのクライマックスを形成している。
好き嫌いはあるだろうけれど、これが新しい、未知の領域を切り開いていることは、間違いない。
池谷真保は、大っぴらに人肉を食べるという「生命式」に、かすかな違和感があり、それを山本に吐露する。
すると山本は、あまり神経質にならない方がいいと言う。
その山本が、車に轢かれて死んだ。
池谷真保は、行きがかり上、山本の「生命式」の準備を手伝うことになる。
「皆の満面の笑みを見て、何となく私は得意だった。山本は、こういう皆の笑顔が見たいという奴だったのだ。こういう温かい空間を、自分の生命式で作りだしたいと願うような、そんな人柄だったのだ。」
文章中で、生命式を「こういう温かい空間」と、しれっと書くところが、この作者の図太いというか、何とも言えない常人とは違うところだろう(ちょっと頭がおかしいと言えばおかしいか)。
それはともかく、まず鍋だ。ダシの沁み込んだ「山本の団子」は、柚子の果汁と、大根おろしの食感とともに、「ふはふは」と口を動かすと、何とも言えない味がする。
「肉の旨味と出汁の味がまざりあって、舌の上で溶けていく。肉団子にからんだ少し辛い大根おろしが、なんとも言えないアクセントになって、肉の味を引き立てている。」
こういうところが、かなり不気味であり、またしいて言えば、可笑しくもある。
「今度は山本の塩角煮に箸を伸ばした。角煮にはぎゅっと旨味が詰まっている。少し濃厚な人肉の味に、柚子こしょうがよく合う。ちょっとだけ獣っぽさのある味が、薬味で上品に調えられ、白いご飯が欲しくなる。少しだけ筋のある、歯ごたえのある肉の部分と、ぷるりとした脂肪の部分が嚙めば嚙むほど深い味を醸し出す。」
人肉を食べるのを、ここまで上手に書ける人は珍しいだろう。村田沙耶香は明らかに、おいしく味わって、これを書いている。
「山本を愛していた人たちが山本を食べて、山本の命をエネルギーに、新しい命を作りに行く。
『生命式』という式が初めて素晴らしく思えた。」
主人公は最後に、海辺で男性と会い、その男性が、トイレで瓶に採取してきた精子を受け容れる。
「波が膝までくるところまで進むと、私はジーンズをおろした。瓶から白い液体を掬いとって、ゆっくりと身体のなかに差し込んだ。
指先から精液がこぼれおちていく。」
女と男の交情は全然ないけれど、これはこれで、ひとつのクライマックスを形成している。
好き嫌いはあるだろうけれど、これが新しい、未知の領域を切り開いていることは、間違いない。
前提を変える――『生命式』(1)
村田沙耶香の短編集。この本は三度読んだ。
最初は「生命式」「素敵な素材」「素晴らしい食卓」と、並んでいる順に読み、真剣に読んだのはそこまで。あとは流し読みした。
最初の三つが、広い意味での人食いの話で、かなり強烈だった。
それ以下の「夏の夜の口付け」「二人家族」「大きな星の時間」「ポチ」「魔法のからだ」「かぜのこいびと」「パズル」「町を食べる」「孵化」は、奇抜なところもあるが、要するに短編集に仕立て上げるために集めたもの、というふうに見ていた。
でも、喉に小骨が刺さったようで、どこかおかしい。それでもう一度読んだ。
もう一度読んで、冒頭の三作と、それ以下の作品は、緊密につながっているのではないか、と思った。
それで結局、もう一度、つまり都合三度読んだ。
もともと村田沙耶香という人は、『コンビニ人間』『地球星人』を読んだことがあるだけで、『地球星人』は面白かったけど、好きな作家というわけではない。もちろん嫌いではない。
私は、現代小説が好きだとは言っても、今となっては古いタイプの小説、つまり梅崎春生、吉行淳之介から、せいぜい村上龍、村上春樹までの、文章に彫琢を凝らしたものか、文章が皮膚呼吸をしているようなものが好きなのであって、たとえば村田沙耶香や松田青子などは、それに比べれば、肌合いが違っていて、ざらざらして、ぴたりと合うということはない。
しかし、それでもなお、この短編集は気にかかる。
というわけで、最初から読んでいくことにしよう。
「生命式」は「葬式」と対になる言葉で、「葬式」の代わりに「生命式」を行なう。
なぜかというと、あるときから、地球上の人口が急激に減り、もしかすると人類は本当に亡びるんじゃないか、という不安感がつのり、その不安感は、人口が増えるということを、正義にしていった。
「30年かけて少しずつ、私たちは変容した。セックスという言葉を使う人はあまりいなくなり、『受精』という妊娠を目的とした交尾が主流となった。
そして、誰かが死んだときには、お葬式ではなく『生命式』というタイプの式を行うのがスタンダードになった。」
なかなか快調である。そんなに無理をしなくても、そういうこともあるかもしれないと思わせる、ような気がする。
「生命式とは、死んだ人間を食べながら、男女が受精相手を探し、相手を見つけたら二人で式から退場してどこかで受精を行うというものだ。死から生を生む、というスタンスのこの式は、繁殖にこだわる私たちの無意識下にあった、大衆の心の蠢(うごめ)きにぴったりとあてはまった。」
どうです。いかにも村田沙耶香でしょう。
最初は「生命式」「素敵な素材」「素晴らしい食卓」と、並んでいる順に読み、真剣に読んだのはそこまで。あとは流し読みした。
最初の三つが、広い意味での人食いの話で、かなり強烈だった。
それ以下の「夏の夜の口付け」「二人家族」「大きな星の時間」「ポチ」「魔法のからだ」「かぜのこいびと」「パズル」「町を食べる」「孵化」は、奇抜なところもあるが、要するに短編集に仕立て上げるために集めたもの、というふうに見ていた。
でも、喉に小骨が刺さったようで、どこかおかしい。それでもう一度読んだ。
もう一度読んで、冒頭の三作と、それ以下の作品は、緊密につながっているのではないか、と思った。
それで結局、もう一度、つまり都合三度読んだ。
もともと村田沙耶香という人は、『コンビニ人間』『地球星人』を読んだことがあるだけで、『地球星人』は面白かったけど、好きな作家というわけではない。もちろん嫌いではない。
私は、現代小説が好きだとは言っても、今となっては古いタイプの小説、つまり梅崎春生、吉行淳之介から、せいぜい村上龍、村上春樹までの、文章に彫琢を凝らしたものか、文章が皮膚呼吸をしているようなものが好きなのであって、たとえば村田沙耶香や松田青子などは、それに比べれば、肌合いが違っていて、ざらざらして、ぴたりと合うということはない。
しかし、それでもなお、この短編集は気にかかる。
というわけで、最初から読んでいくことにしよう。
「生命式」は「葬式」と対になる言葉で、「葬式」の代わりに「生命式」を行なう。
なぜかというと、あるときから、地球上の人口が急激に減り、もしかすると人類は本当に亡びるんじゃないか、という不安感がつのり、その不安感は、人口が増えるということを、正義にしていった。
「30年かけて少しずつ、私たちは変容した。セックスという言葉を使う人はあまりいなくなり、『受精』という妊娠を目的とした交尾が主流となった。
そして、誰かが死んだときには、お葬式ではなく『生命式』というタイプの式を行うのがスタンダードになった。」
なかなか快調である。そんなに無理をしなくても、そういうこともあるかもしれないと思わせる、ような気がする。
「生命式とは、死んだ人間を食べながら、男女が受精相手を探し、相手を見つけたら二人で式から退場してどこかで受精を行うというものだ。死から生を生む、というスタンスのこの式は、繁殖にこだわる私たちの無意識下にあった、大衆の心の蠢(うごめ)きにぴったりとあてはまった。」
どうです。いかにも村田沙耶香でしょう。
「ふんどしおやじ」――『日本古書通信』6月号
僕は4年前から、『日本古書通信』に書評の連載を持っている。
『日本古書通信』は本と古本の雑誌で、1934年(昭和9年)1月に創刊されているから、おおかた百年経つ。思えばなかなかすごいことだ。現在の編集長は樽見博さん。
その雑誌に、小田光男さんが、「古本屋散策」というのを連載している。6月号は題して、「三一新書と野次馬旅団編『戯歌番外地』(ざれうたばんがいち)」。
これがなかなか面白い、というか、あまりにおかしくて、笑い死にしそうだ。
三一新書なので、サブタイトルとして、「替え歌にみる学生運動」と付されている。
60年代の初期から69年11月まで、そして番外として、戦前から50年代のものが付け加えられ、それぞれの時代のヒット歌謡、106曲の替え歌が、収録されている。
そこで小田さんの挙げた歌は、『ハレンチおやじ』で、元歌は『オウマのおや子』(童謡)である。
「『三島おやじは/ふんどしおやじ/男の美学で/キンタマ/ゆれる』とある。当時の三島の日本刀を持つふんどし姿の写真を、「戯歌」としたものだ。」
百の説法屁一つ、ではなくて、替え歌一発!
もっとも小田光男さんは、あくまで正統な「古本屋散策」をくずさず、真面目である。
「この『ハレンチおやじ』は、その注に『早稲田界隈の活動家が口ずさんでいたものを収録した。ナンセンス歌謡の傑作』とされるが、私はきいたことがない。」
僕も聞いたことがない。
「この一冊は『序詞』上野昂志、『挿画師』赤瀬川原平、協力者として、新崎智=呉智英、松田哲夫の名前が記されているように、『ガロ』の関係者と三一新書のコラボレーションによると見なせよう。」
この本、だれか復刊してくれないか。
僕がトランスビューをやっていたら、まちがいなくやっていたのに。ほかに100余曲のどんな歌が載っていたか、ぜひ知りたい。
(『日本古書通信』6月号、日本古書通信社、2020年6月15日発行)
『日本古書通信』は本と古本の雑誌で、1934年(昭和9年)1月に創刊されているから、おおかた百年経つ。思えばなかなかすごいことだ。現在の編集長は樽見博さん。
その雑誌に、小田光男さんが、「古本屋散策」というのを連載している。6月号は題して、「三一新書と野次馬旅団編『戯歌番外地』(ざれうたばんがいち)」。
これがなかなか面白い、というか、あまりにおかしくて、笑い死にしそうだ。
三一新書なので、サブタイトルとして、「替え歌にみる学生運動」と付されている。
60年代の初期から69年11月まで、そして番外として、戦前から50年代のものが付け加えられ、それぞれの時代のヒット歌謡、106曲の替え歌が、収録されている。
そこで小田さんの挙げた歌は、『ハレンチおやじ』で、元歌は『オウマのおや子』(童謡)である。
「『三島おやじは/ふんどしおやじ/男の美学で/キンタマ/ゆれる』とある。当時の三島の日本刀を持つふんどし姿の写真を、「戯歌」としたものだ。」
百の説法屁一つ、ではなくて、替え歌一発!
もっとも小田光男さんは、あくまで正統な「古本屋散策」をくずさず、真面目である。
「この『ハレンチおやじ』は、その注に『早稲田界隈の活動家が口ずさんでいたものを収録した。ナンセンス歌謡の傑作』とされるが、私はきいたことがない。」
僕も聞いたことがない。
「この一冊は『序詞』上野昂志、『挿画師』赤瀬川原平、協力者として、新崎智=呉智英、松田哲夫の名前が記されているように、『ガロ』の関係者と三一新書のコラボレーションによると見なせよう。」
この本、だれか復刊してくれないか。
僕がトランスビューをやっていたら、まちがいなくやっていたのに。ほかに100余曲のどんな歌が載っていたか、ぜひ知りたい。
(『日本古書通信』6月号、日本古書通信社、2020年6月15日発行)
「火垂るの墓」の真実とは――『「駅の子」の闘いー戦争孤児たちの埋もれてきた戦後史ー』(2)
戦争が終わってから、「駅の子」の闘いが始まった。
内藤博一さんは、母に連れられて三宮駅に来た。母は毎日どこからか、一人分の食糧を持って来てくれた。ときにはゴミ箱を漁ることもあった。そうしてそれを内藤さんに与え、自分は何も食べなかった。
だから栄養失調にかかり、どんどん細くなっていって、そのまま死んだ。
内藤さんは、後に妹を引き取りに行って、三宮の闇市で、妹を食べさせるために物乞いをしたり、ときには盗みをしたりした。
「もう悪に関しては絶対やらないと食べられへんしね。悪いとは分かっているんだけども、妹と二人で生きていくためには、そうしないといかんと思ってね」。
内藤さんは、母が亡くなった三宮駅の構内にだけは、今も気持ちの整理がつかず、どうしても再訪することができないと言う。
「あそこだけは、いまでも足が向きませんし、私はいまだにこの戦争が終わった、平和やなという気持ちは持ってません。持つことができないんです。」
内藤さんは市営バスの運転手として働き、いまは定年退職をして、地元小学校の野球の監督を務めたりしている。
そういう人の内面では、戦争は終わっていない、終えることができない、ということだ(そういう人はもちろん、「駅の子」に限らず、人には言わないけれど、大勢いる)。
そもそも「駅の子」は、どのくらいいたか。厚生省が昭和23年2月1日に行なった、「全国孤児一斉調査」によれば、12万3511人という数字が残されている。
しかしこれは、戦争から3年後の話だし、住所不定の子どもたちを、どういうふうに把捉したか、大いに疑問である。
戦後すぐに、「駅の子」はどのくらいいたか。これは全くわかっていない。
上野の地下道では、「駅の子」は次々に死んでいった。金子トミさんは、いまでも、周りで飢えに苦しんでいた子どもを、助けることができなかったという、自責の念に苛まれる。
金子トミさんも「駅の子」だ。自分の食糧は、他の子どもからは、見えないところにいって、こっそり食べた。食べ物がなくて、空腹に苦しんでいる子は、衰弱し、動けなくなり、死んでいった。
「本音を言うなら、たとえ1日1個でいいからおにぎりくらい配ってほしかったですよ。なんででしょうね。戦争孤児が戦争を起こしたんじゃないんだから。政府がやったんだから。それなのに何にも政府は……。毎日死んでいくんですよ、子どもが。食べなきゃ死んじゃいますよね」。
ほかにも学童疎開の話をはじめ、もっと悲惨な話がある。でも、もう書かない。というか、もう書けない。後は本文を読まれたい。
ただ、アメリカの公文書館に残されていたGHQの、1946年9月9日付の内部文書だけは見ておきたい。
そこには、戦争のために浮浪児となった子どもたちが、各地で悲惨な状況にあることに対して、「日本の官僚の歴史的な無感覚無関心さがこの種の活動において、職員、食料、設備の不足よりもさらに障害になっている」とある。
「児童福祉行政をリードするべき官僚たちの意識の低さこそが、致命的な障害になっている」という厳しい指摘である。
この国は、戦争中から現代にいたるまで、まったく変わっていない。それは、昨今のコロナ騒動を見てもわかるとおりだ。
(『「駅の子」の闘いー戦争孤児たちの埋もれてきた戦後史ー』
中村光博、幻冬舎新書、2020年1月30日初刷)
内藤博一さんは、母に連れられて三宮駅に来た。母は毎日どこからか、一人分の食糧を持って来てくれた。ときにはゴミ箱を漁ることもあった。そうしてそれを内藤さんに与え、自分は何も食べなかった。
だから栄養失調にかかり、どんどん細くなっていって、そのまま死んだ。
内藤さんは、後に妹を引き取りに行って、三宮の闇市で、妹を食べさせるために物乞いをしたり、ときには盗みをしたりした。
「もう悪に関しては絶対やらないと食べられへんしね。悪いとは分かっているんだけども、妹と二人で生きていくためには、そうしないといかんと思ってね」。
内藤さんは、母が亡くなった三宮駅の構内にだけは、今も気持ちの整理がつかず、どうしても再訪することができないと言う。
「あそこだけは、いまでも足が向きませんし、私はいまだにこの戦争が終わった、平和やなという気持ちは持ってません。持つことができないんです。」
内藤さんは市営バスの運転手として働き、いまは定年退職をして、地元小学校の野球の監督を務めたりしている。
そういう人の内面では、戦争は終わっていない、終えることができない、ということだ(そういう人はもちろん、「駅の子」に限らず、人には言わないけれど、大勢いる)。
そもそも「駅の子」は、どのくらいいたか。厚生省が昭和23年2月1日に行なった、「全国孤児一斉調査」によれば、12万3511人という数字が残されている。
しかしこれは、戦争から3年後の話だし、住所不定の子どもたちを、どういうふうに把捉したか、大いに疑問である。
戦後すぐに、「駅の子」はどのくらいいたか。これは全くわかっていない。
上野の地下道では、「駅の子」は次々に死んでいった。金子トミさんは、いまでも、周りで飢えに苦しんでいた子どもを、助けることができなかったという、自責の念に苛まれる。
金子トミさんも「駅の子」だ。自分の食糧は、他の子どもからは、見えないところにいって、こっそり食べた。食べ物がなくて、空腹に苦しんでいる子は、衰弱し、動けなくなり、死んでいった。
「本音を言うなら、たとえ1日1個でいいからおにぎりくらい配ってほしかったですよ。なんででしょうね。戦争孤児が戦争を起こしたんじゃないんだから。政府がやったんだから。それなのに何にも政府は……。毎日死んでいくんですよ、子どもが。食べなきゃ死んじゃいますよね」。
ほかにも学童疎開の話をはじめ、もっと悲惨な話がある。でも、もう書かない。というか、もう書けない。後は本文を読まれたい。
ただ、アメリカの公文書館に残されていたGHQの、1946年9月9日付の内部文書だけは見ておきたい。
そこには、戦争のために浮浪児となった子どもたちが、各地で悲惨な状況にあることに対して、「日本の官僚の歴史的な無感覚無関心さがこの種の活動において、職員、食料、設備の不足よりもさらに障害になっている」とある。
「児童福祉行政をリードするべき官僚たちの意識の低さこそが、致命的な障害になっている」という厳しい指摘である。
この国は、戦争中から現代にいたるまで、まったく変わっていない。それは、昨今のコロナ騒動を見てもわかるとおりだ。
(『「駅の子」の闘いー戦争孤児たちの埋もれてきた戦後史ー』
中村光博、幻冬舎新書、2020年1月30日初刷)
「火垂るの墓」の真実とは――『「駅の子」の闘いー戦争孤児たちの埋もれてきた戦後史ー』(1)
著者の中村光博はNHKの社会番組のディレクター、「駅の子」は戦争孤児の話である。
この番組は2018年度のギャラクシー賞で、テレビ部門の選奨に、次の言葉とともに選ばれた。
「本作は政府の無策を糾弾する以上に、彼らを見捨てたのは我々市民だったという事実を突きつけます。太平洋戦争の理解に新たな視点を提供する、戦争特番の新機軸です。」
これは、京都が大規模な空襲を免れたことから、京都駅の駅舎が残り、それを目指して雨露をしのぐために、戦争孤児たちが全国から集まってきた、それが「駅の子」と呼ばれたのである。
もちろん京都駅だけではなく、上野や大阪駅も取材しており、その悲惨さは、どれも想像を絶する。
しかしそもそも取材は、簡単には進まなかった。
「……戦争孤児だった過去を明かしている人は多くない。ましてや、親を亡くした後に行き場を失い、駅の地下道などで雨露をしのぎながらその日暮らしをする『駅の子』の経験を明らかにしている人は、ほとんどいないのだ。」
けれどもその中で、そういう子どもがいたんだ、それを歴史の中に消してしまってはいけない、と名乗りを上げた人が、何人かいたのである。
登場順に挙げれば、内藤博一さん、金子トミさん、渡辺喜太郎さん、瀬川陽子さん、小倉勇さん、伊藤幸男さん、山田清一郎さんといった人びとである。
戦争孤児の話は、ずっと前からあった。
「夏になると毎年のように再放送されてきたアニメ映画『火垂るの墓』で描かれた兄と妹の苦境などで、戦争孤児の存在や苦しみなどについては、多くの人が漠然としたイメージは持っているだろう。しかし、戦争孤児について、ましてや路上生活に追い込まれた子どもたちについては、これまでアカデミズムの研究や、メディアでも本格的には取り上げられてこなかった。いわば日本の戦後史の中の空白地帯となり、これまで置き去りにされてきた分野だったのだ。」
そうなのか。『火垂るの墓』があるから、それも毎年、再放送されるから、もうすべて明るみに出ていることかと思ってきた。
それが、全然そうではなかったのだ。
この番組は2018年度のギャラクシー賞で、テレビ部門の選奨に、次の言葉とともに選ばれた。
「本作は政府の無策を糾弾する以上に、彼らを見捨てたのは我々市民だったという事実を突きつけます。太平洋戦争の理解に新たな視点を提供する、戦争特番の新機軸です。」
これは、京都が大規模な空襲を免れたことから、京都駅の駅舎が残り、それを目指して雨露をしのぐために、戦争孤児たちが全国から集まってきた、それが「駅の子」と呼ばれたのである。
もちろん京都駅だけではなく、上野や大阪駅も取材しており、その悲惨さは、どれも想像を絶する。
しかしそもそも取材は、簡単には進まなかった。
「……戦争孤児だった過去を明かしている人は多くない。ましてや、親を亡くした後に行き場を失い、駅の地下道などで雨露をしのぎながらその日暮らしをする『駅の子』の経験を明らかにしている人は、ほとんどいないのだ。」
けれどもその中で、そういう子どもがいたんだ、それを歴史の中に消してしまってはいけない、と名乗りを上げた人が、何人かいたのである。
登場順に挙げれば、内藤博一さん、金子トミさん、渡辺喜太郎さん、瀬川陽子さん、小倉勇さん、伊藤幸男さん、山田清一郎さんといった人びとである。
戦争孤児の話は、ずっと前からあった。
「夏になると毎年のように再放送されてきたアニメ映画『火垂るの墓』で描かれた兄と妹の苦境などで、戦争孤児の存在や苦しみなどについては、多くの人が漠然としたイメージは持っているだろう。しかし、戦争孤児について、ましてや路上生活に追い込まれた子どもたちについては、これまでアカデミズムの研究や、メディアでも本格的には取り上げられてこなかった。いわば日本の戦後史の中の空白地帯となり、これまで置き去りにされてきた分野だったのだ。」
そうなのか。『火垂るの墓』があるから、それも毎年、再放送されるから、もうすべて明るみに出ていることかと思ってきた。
それが、全然そうではなかったのだ。
「酔眼方向への正しい歩み方」――『自選 ニッポン居酒屋放浪記』(2)
とはいっても、文章上の押し引きが、えも言われぬほどうまいとなると、短い文章では無理である。
ここでは、もう少し砕けた、分かりやすい例を引く。
横浜はホテル・ニューグランドに宿をとった夏の暑い日、焼き鳥「若竹」の簾のスイングドアを押し、カウンターに腰を下ろす。冷房はなく、もうもうたる煙が充満し、奥はよく見えないがどうやら満員だ。
「店の中は爆発的に暑く、座ると背腹に汗がどっと流れ、すぐさま置かれた団扇の一本をとった。……目の前で必死にトリを焼く親父が団扇をバタバタと煽ぎ煙が皆、私の方に来る。たまらずこちらも煽ぎ返し両方で競争のようになった。」
うーん、この原初的なドタバタ感がたまりません。
「『だからお父さん換気扇触るなって言ったでしょ』金切声がひびく。『うるさい!』この忙しいのにと親父は意固地になってるのがおかしい。どうやら換気扇が壊れたようだ。たまらなく暑苦しく、まるで火事場で焼鳥食べてるみたいだ」。
「火事場で焼鳥」というところが、何とも面白い。しかもこの焼鳥は、ものすごくうまいのだ。
「焼きたての手羽先はウズラ卵の入る大根おろしがつき、とてもうまい。冷たいビールをングングと飲み干し店をとび出した。
『うひゃーたまらん』
煙攻めから逃がれ、両手でわが身をあおぎ振返ると、煙の中に人がぎっしり詰まり酒を飲むすごい眺めだ。」
私には焼鳥屋の、ある夏の日の情景を、こんなふうに書けるということが、凄いと思われる。
巻末の「解説」はみな優れているが、ここでは椎名誠のそれを取り上げる。
椎名誠とその御一党さんは、ビールに始まり、あとは酒盛りを繰り広げられればいいというので、酒がそこにあるからとにかく喉にぶっこめ、という飲み方をしてきた。
ところがそこに太田和彦が、いつの頃からか参入してくる。
「ふと気がつくとなんだか静かな男が一人、一座の端っこの方でひっそりとした微笑みなど浮かべながらさり気なく盃を口許に運んでいるのだ。ひと口飲むたびに、おおなんということだ、この人はそれをしみじみ味わっているように見える。」
途中で入る合いの手の「おおなんと……」が、絶妙の間合いだ。
「太田和彦の出現は、我等が酒呑み仲間の間にしずかな動揺とおののきと畏敬の念を走らせた。
『おお、あの人は酒を味わって飲んでいるぞ』
『しかもそれが表情に出ているではないか』
『あくまでも落ち着いているぞ』
『あ、こっちを見たぞ』」
最後の、「あ、こっちを見たぞ」という一句が、さりげなくおかしい。
ちなみにこの表題は、椎名誠の次のところから取った。
「東京の居酒屋だけでなくあちこちの地方都市、山の中や離れ小島など太田和彦とはずいぶんいろんな所を一緒に旅した。そこでは必ず酒を飲んだが、彼にはその土地ならではの酒の飲み方、肴の吟味の仕方、酔眼方向への正しい歩み方などといったことを沢山教えてもらった。」
つまり太田和彦という人は椎名誠に、酒のこだわった飲み方を、指南した人なのである。
それゆえ椎名誠は太田和彦を、酒飲み仲間の師範代のような人と見ている。それはちょうど、利根の河原を行く平手酒造(ひらてみき)を、見つめているようなのである。
(『自選 ニッポン居酒屋放浪記』太田和彦、新潮文庫、2010年5月1日初刷)
ここでは、もう少し砕けた、分かりやすい例を引く。
横浜はホテル・ニューグランドに宿をとった夏の暑い日、焼き鳥「若竹」の簾のスイングドアを押し、カウンターに腰を下ろす。冷房はなく、もうもうたる煙が充満し、奥はよく見えないがどうやら満員だ。
「店の中は爆発的に暑く、座ると背腹に汗がどっと流れ、すぐさま置かれた団扇の一本をとった。……目の前で必死にトリを焼く親父が団扇をバタバタと煽ぎ煙が皆、私の方に来る。たまらずこちらも煽ぎ返し両方で競争のようになった。」
うーん、この原初的なドタバタ感がたまりません。
「『だからお父さん換気扇触るなって言ったでしょ』金切声がひびく。『うるさい!』この忙しいのにと親父は意固地になってるのがおかしい。どうやら換気扇が壊れたようだ。たまらなく暑苦しく、まるで火事場で焼鳥食べてるみたいだ」。
「火事場で焼鳥」というところが、何とも面白い。しかもこの焼鳥は、ものすごくうまいのだ。
「焼きたての手羽先はウズラ卵の入る大根おろしがつき、とてもうまい。冷たいビールをングングと飲み干し店をとび出した。
『うひゃーたまらん』
煙攻めから逃がれ、両手でわが身をあおぎ振返ると、煙の中に人がぎっしり詰まり酒を飲むすごい眺めだ。」
私には焼鳥屋の、ある夏の日の情景を、こんなふうに書けるということが、凄いと思われる。
巻末の「解説」はみな優れているが、ここでは椎名誠のそれを取り上げる。
椎名誠とその御一党さんは、ビールに始まり、あとは酒盛りを繰り広げられればいいというので、酒がそこにあるからとにかく喉にぶっこめ、という飲み方をしてきた。
ところがそこに太田和彦が、いつの頃からか参入してくる。
「ふと気がつくとなんだか静かな男が一人、一座の端っこの方でひっそりとした微笑みなど浮かべながらさり気なく盃を口許に運んでいるのだ。ひと口飲むたびに、おおなんということだ、この人はそれをしみじみ味わっているように見える。」
途中で入る合いの手の「おおなんと……」が、絶妙の間合いだ。
「太田和彦の出現は、我等が酒呑み仲間の間にしずかな動揺とおののきと畏敬の念を走らせた。
『おお、あの人は酒を味わって飲んでいるぞ』
『しかもそれが表情に出ているではないか』
『あくまでも落ち着いているぞ』
『あ、こっちを見たぞ』」
最後の、「あ、こっちを見たぞ」という一句が、さりげなくおかしい。
ちなみにこの表題は、椎名誠の次のところから取った。
「東京の居酒屋だけでなくあちこちの地方都市、山の中や離れ小島など太田和彦とはずいぶんいろんな所を一緒に旅した。そこでは必ず酒を飲んだが、彼にはその土地ならではの酒の飲み方、肴の吟味の仕方、酔眼方向への正しい歩み方などといったことを沢山教えてもらった。」
つまり太田和彦という人は椎名誠に、酒のこだわった飲み方を、指南した人なのである。
それゆえ椎名誠は太田和彦を、酒飲み仲間の師範代のような人と見ている。それはちょうど、利根の河原を行く平手酒造(ひらてみき)を、見つめているようなのである。
(『自選 ニッポン居酒屋放浪記』太田和彦、新潮文庫、2010年5月1日初刷)