ただ、そこから先へ進むとどうだろうか。
「『ユダヤ人』というシニフィアンを発見したことによって、ヨーロッパはヨーロッパとして組織化されたのである。ヨーロッパがユダヤ人を生み出したのではなく、むしろユダヤ人というシニフィアンを得たことでヨーロッパは今のような世界になったのである。」
むちゃくちゃ、という気がしないでもない。
「シニフィエ」とは、ソシュール言語学における「意味されるもの」「表わされるもの」。内田樹は仏文の出だから、そういう少しキザッたらしい言葉遣いになる。
それにしても、かなり大胆な仮説ではある。
「無謀な着想であることはよく分っているが、多少は無謀なことをしないと、あえて『私家版』を称してユダヤ文化を論じる甲斐がない。」
完全に居直ってますな。面白い。
ただここから先は、あまり面白くない。
「『ユダヤ人』という概念で人間を分節する習慣のない世界にはユダヤ人は存在しない」というのだから、私の世界には、ユダヤ人は存在しない。そういうところで、これ以上ユダヤ人問題を論じてみても、虚しいではないか。
たとえば19世紀末に、ドリュモンの『ユダヤ的フランス』が、爆発的に売れた。その中身はというと、
「ユダヤ人はペストに罹らない、カトリック信者の七倍の生殖能力を有する、タルムードには『異教徒を殺し、その財産を奪え』という教えが書いてある、ユダヤ人は体臭がきつい、自分の子供を売り飛ばす、売春と高利貸しが天職であるとか、悪だくみばかりめぐらせているので脳の解剖学的組成が変化しているとか……そういう人種差別的な妄言である。」
「ユダヤ人が存在しない」、私のまわりの世界なら、こういう人種差別的な妄言に、これ以上つきあう必要はないだろう。
著者は「新書版のためのあとがき」で、最後にこんなことを言っている。
「私のユダヤ文化論の基本的立場は『ユダヤ人問題について正しく語れるような言語を非ユダヤ人は持っていない』というものである。」
これは、最後にきて、全部をひっくり返すようなものだが、一方では、非常に正直に、己れのうちを語ってもいるのだ。
ではなぜ、一般の日本人に向けて、ユダヤ人問題を語れるような言語を持っていないのに、内田樹はこのような本を書いたのだろうか。
それは、「ユダヤ人読者が読んだときに、『なるほど、ユダヤ人のことを「こんなふうに」見ている日本人もいるのか……』という『データ』として有用であることを目指して書いている」からだ。
ではなぜ、著者は、ユダヤ人の読者を必要とするのだろう。それはこの「私家版」を、そもそも一人の人に宛てて書いているからだ。
「……レヴィナス老師の骨格をなしているユダヤ的な思考をどれくらい理解できるようになったのか、私には判断できない。でも、この一冊は私が老師の墓前に捧げる何度目かの『手向けの花』である。先生は私の『ユダヤ文化論』を読んで、どう思われるだろう。」
そういうことなのである。
「『三十年やってきて、これですか……やれやれ。もう少し書きようがあるんじゃないかね』とおっしゃるだろうか。それとも『ふうん。だいぶ、わかってきたじゃないか』とおっしゃるだろうか。」
昔、老師から頂いた一通の手紙を、額に収めて掛けてあるその書斎で、ただ一人の、今はもういない人に宛てて、この『私家版・ユダヤ文化論』は書かれたのである。
(『私家版・ユダヤ文化論』内田樹、文春新書、2006年7月20日初刷)