まず最初に、ユダヤ人というのは、国民の名ではない。
「ユダヤ人は世界中に散らばっていて、イスラエルから日本まで世界各地に棲みついている。もちろん場所によって、国籍も、ライフスタイルも、用いている言語も違う。」
言われてみればその通りだが、それでも実情を無視して、架空の「ユダヤ人」なるものを作り出そうとしがちだ。
第二に、ユダヤ人は人種ではない。
うーん、これは虚を突かれる。
「欧米に広く分布しているユダヤ人図像には二種類がある。一つは浅黒い肌に巻き毛の黒髪、鉤鼻ででっぷり太った欲深そうな中年男性の像。もう一つは痩せて鉤鼻で残忍そうな老人の像である。」
ベニスの商人、シャイロックは、偏見を象徴した、架空の人物像なのだ。
「ユダヤ人を他の民族集団と差異化できる有意な生物学的特徴は存在しない。」
鉤鼻で背の高い、知的な風貌のユダヤ人は、まぼろしなのだ。
三番目に、ユダヤ人はユダヤ教徒のことではない。ユダヤ人がユダヤ教徒であったのは、近代よりも前のこと、現代では宗教共同体ではない。
以上の三点から、その先に奇妙なことが分かる。
「そのようなたしかな実体的基礎を持たないにもかかわらず、ユダヤ人は二千年にわたって、それを排除しようとする強烈な淘汰圧にさらされながら、生き延びてきた。この事実から私たちが漠然と推理できる結論は、危ういものだけれど、一つしかない。
それは、ユダヤ人は『ユダヤ人を否定しようとするもの』に媒介されて存在し続けてきたということである。」
なるほど、すばらしい。そういうことか。
「言い換えれば、私たちがユダヤ人と名づけるものは、『端的に私ならざるもの』に冠された名だということである。」
ユダヤ人は、ユダヤ人の方に実体があるのではなく、それをことばにしている「私たち」の方に、ユダヤ人なるものが棲みついているのだ。
「私たちの語彙には、『それ』を名づけることばがなく、それゆえ私たちが『それ』について語ることばの一つ一つが私たちにとっての『他者』の輪郭をおぼつかない手つきで描き出すことになる。私たちはユダヤ人について語るときに必ずそれと知らずに自分自身を語ってしまうのである。」
最後の一行は、あまりにカッコよく決めすぎたので、ちょっと上滑りしているけれども、しかしこういうふうに言われると、思わず頷いてしまう(あるいは、もののわかった西洋人なら、まったくその通りだわい、と深く同意するのかもしれない)。
「『ユダヤ人』という概念で人間を分節する習慣のない世界にはユダヤ人は存在しない。ユダヤ人が存在するのは『ユダヤ人』という名詞が繰り返し同じ何かを指すと信じている人間がいる世界の中だけである。
私たちはユダヤ人の定義としてこの同語反復以外のものを有していない。」
すさまじく鮮やかなものである。