内田樹は初めて読む。
この人は、ずいぶんいろんな本を書いているが、タイトルを見て、なんとなく虫が好かなかった。たとえば『「おじさん」的思考』、『寝ながら学べる構造主義』などなど。
ところが養老孟司先生が、『身体巡礼』(僕の音読本)の中で、『私家版・ユダヤ文化論』をべた褒めしておられたのである。僕が内田樹を初めて読むには、一番いいのではないか。
「私が本書で論じたのは、『なぜ、ユダヤ人は迫害されるのか』という問題である。そのことだけが論じられている。」
きっぱりとした言い方だ。いかにも養老先生が、好みそうな書き出しである。
ユダヤ人問題には、ややこしい「罠」がある。それを回避しながら、核心に迫っていくには、問題の設定を変えるほかない。
「『ユダヤ人迫害には理由がある』と思っている人間がいることには何らかの理由がある。その理由は何か、というふうに問いを書き換えることである。
『反ユダヤ主義には理由がある』ということと、『反ユダヤ主義には理由があると信じている人間がいることには理由がある』ということは似ているようだけれど、問題の設定されている次元が違う。」
なかなか鮮やかですな。
しかしそこから出発したとしても、著者の示す道筋を辿ることは、容易ではない。
「私がみなさんにご理解願いたいと思っているのは、『ユダヤ人』というのは日本語の既存の語彙には対応するものが存在しない概念であるということ、そして、この概念を理解するためには、私たち自身を骨がらみにしている民族誌的偏見を部分的に解除することが必要であるということ、この二点である。」
これは難しい。昔、『日本人とユダヤ人』という、イザヤ・ベンダサンこと山本七平のベストセラーがあったが、内田樹は、そういう対比は成り立たない、と言っているのだ。
後段の「私たち自身を骨がらみにしている民族誌的偏見を部分的に解除する」というのは、どういうことを言っているのか、僕には分からない。
しかし著者は、強くこういうふうに言うのだ。
「この論考を読み終えたあとに、みなさんがその二点について同意くださってさえいれば(結局「ユダヤ」というのが、何のことか解らなかった、ということになったとしても)、この論考を書く目的の半ば以上は達成せられたことになる。」
こういうのを最初にもってくるのは、良くないんじゃないか。ここからの議論は、厄介いですよ、とあらかじめ振っているのだが、そういうことを言う前に、これからの議論を嚙み砕く用意をすべきではないだろうか。
ということはさておき、では「ユダヤ人」とは、いったい何者であるのか?
著者はここで、アクロバティックに、問いを逆転させる。
「それは『ユダヤ人は何ではないのか』という消去法である。これが私が読者の間に立てることのできる、さしあたり唯一の『共通の基盤』である。」
そう来るか、というところだけれど、しかしこれは、中身を見ればかなり衝撃的だ。