私もまた、さようならを言う――『本の雑誌 二〇二〇年四月号ー特集 さようなら、坪内祐三ー』(3)

この追悼文集は、何度でも、いつまでも、読むことができる。それはたぶん坪内さんが、誰を相手にしても、生(なま)の神経を曝して、付き合っていたからではないかと思う。
 
その中でも一篇、橋本倫史の「神経のふれかた」を挙げておく。ちなみに著者は、まったく知らない人である。
 
坪内さんには、気難しい点があった。

「……誰かの訃報に言及することも多かったが、坪内さんより年配の独特な気配をまとった人がこの世を去っていくことに対し、坪内さんはどこか寂しそうだった。そのことと、坪内さんの怒りは、関係しているような気がしていた。」
 
それは当たっていたんじゃないだろうか。

「どうして僕はこんなことを書き綴っているのだろう。それはきっと、これを書いておかなければ、坪内さんの振る舞いが『酒癖が悪かった』と片づけられてしまうからだ。それはあまりにも残念だ。」
 
そういうことを述べたうえで、核心に触れる。

「その神経のふれかたに、坪内さんらしさが詰まっているような気がする。坪内さんは、神経をふるわせながら、最後まで街を歩いていた。」
 
だから神保町や新宿で、振り向けば今も、坪内さんが歩いているような気がする。
 
私は坪内さんとは、会えば必ず挨拶をした。もっぱら夜の酒場だったから、たいていはお互い酔っていて、だから話し込んだことは、一、二度しかない。
 
一度は「風花」のカウンターだった。
 
どんなことを話していたか、あらかたは忘れたが、一点だけ覚えていることがある。

そのころ文庫には、新潮文庫でも角川文庫でも、独特の匂いがあって、それは見なくても、棚の前に行くと、分かった。
 
私がそういうふうに言うと、坪内さんは、そうなんだよ、匂いでわかるんだよ、と言った。
 
そういう話を、人に向かってしたのは、初めてで、それ以後もない。
 
中学生のとき、兵庫の加古川駅前の下司書店で、新潮文庫の棚に向かうと、心が何とはなしに落ち着く、という話をしたのだ。
 
坪内さんは朗らかに笑いながら、そうだよなあという具合に、大きく相槌を打った。

(『本の雑誌 二〇二〇年四月号ー特集 さようなら、坪内祐三ー』
 本の雑誌社、2020年4月1日発行)