私もまた、さようならを言う――『本の雑誌 二〇二〇年四月号ー特集 さようなら、坪内祐三ー』(2)

追悼を書いているのは、重松清、福田和也、中野翠、嵐山光三郎、南伸坊、目黒孝二、亀和田武、泉麻人、四方田犬彦、川本三郎といった方々から、身近にいたライターやイラストレイター、飲み屋の仲間、各社の編集者まで、実に幅広く集めている。
 
その追悼も、個人の文章だけではなく、それぞれ複数の対談あり、鼎談ありで、すぐに引き込まれる。
 
そんな中で、坪内さんと距離を置いて書いたものがあって、おっと思った。
 
一つは四方田犬彦の文章である。

「わたしは、こいつはちょっといいなと思った。ひょっとしたら今の世の斎藤緑雨になれるかもしれない。そう期待してみた。」
 
でも坪内さんは、そうはなれなかった、という。

「わたしは彼が同業者を何人か集めて、タクシー会社の宣伝のような雑誌を拵えたとき、これはダメだと思った。群れなどなしていては、いい批評など書けるわけがないからだ。」
 
これは『en-taxi』(エンタクシー)のことだな。2003年に創刊され、福田和也、坪内祐三、柳美里、リリー・フランキーが共同で責任編集していた。私は雑誌を読まないのでよくわからないが、けっこう評判になっていたと思う。
 
それにある時期、協同で同人誌をやるというようなことは、小林秀雄のみならず、多くの場合に運動としてあったものだ。

「ちょっと可哀想なことを書くようだが、新宿の狭い『文壇』とやらに入り浸って、英語の本を読む習慣を忘れてしまったのは、彼の凋落の始まりだったような気がしている。」
 
果たして坪内祐三が、英語の本を読む習慣を無くしていたかどうかは分からない。また「新宿の狭い『文壇』とやらに入り浸って」というのは、ちょっと違うと思う。
 
坪内さんは中心にいる人で、あけっぴろげで、相手を区別はしても、差別はしなかった。むしろ「文壇」という言葉を、半分は尊重し、半分はからかって、使っていたんじゃないかと思う。
 
しかし四方田犬彦の、批判的な文章があることは、いいと思う。場合によっては、そういう目で坪内さんを見ている人も、いたかもしれない。

私は、それは間違っていると思うけど、でも、そういう見方をする人がいたって、もちろんかまわない。
 
もう一つは、瀬尾佳菜子さんである。佳菜子さんはバー「猫目」のマダムだった人である。
 
私は6年前に脳出血で倒れて以来、酒を一滴も飲んだことがないから、新宿のバーの様子など、皆目分からなかった。
 
佳菜子さんの文章を読むと、ある日坪内さんは、「猫目」にはもう来ないと言って、実際にその通りにしたという。

「坪内さんが『もう俺はこんな新宿にはこないかもしれない』とおもむろに私に言った。
 これまでもこんなことは何度もあったはずなのに、私はその日『そうですか、それはもう仕方ないですね』と坪内さんの目を見返して言ってしまった。」
 
ある時期、「猫目」は、坪内さんにとって、いってみれば夜の仕事の中心であった。あまりにも中心になり過ぎていた。
 
それはたぶん、佳菜子さんにも分かっていただろう。
 
だからその日、お互いに、さようならをしたのだ。こういう男と女の別れ方もある。