初めて読む内田樹――『私家版・ユダヤ文化論』(2)

まず最初に、ユダヤ人というのは、国民の名ではない。

「ユダヤ人は世界中に散らばっていて、イスラエルから日本まで世界各地に棲みついている。もちろん場所によって、国籍も、ライフスタイルも、用いている言語も違う。」
 
言われてみればその通りだが、それでも実情を無視して、架空の「ユダヤ人」なるものを作り出そうとしがちだ。
 
第二に、ユダヤ人は人種ではない。
 
うーん、これは虚を突かれる。

「欧米に広く分布しているユダヤ人図像には二種類がある。一つは浅黒い肌に巻き毛の黒髪、鉤鼻ででっぷり太った欲深そうな中年男性の像。もう一つは痩せて鉤鼻で残忍そうな老人の像である。」
 
ベニスの商人、シャイロックは、偏見を象徴した、架空の人物像なのだ。

「ユダヤ人を他の民族集団と差異化できる有意な生物学的特徴は存在しない。」
 
鉤鼻で背の高い、知的な風貌のユダヤ人は、まぼろしなのだ。
 
三番目に、ユダヤ人はユダヤ教徒のことではない。ユダヤ人がユダヤ教徒であったのは、近代よりも前のこと、現代では宗教共同体ではない。
 
以上の三点から、その先に奇妙なことが分かる。

「そのようなたしかな実体的基礎を持たないにもかかわらず、ユダヤ人は二千年にわたって、それを排除しようとする強烈な淘汰圧にさらされながら、生き延びてきた。この事実から私たちが漠然と推理できる結論は、危ういものだけれど、一つしかない。
 それは、ユダヤ人は『ユダヤ人を否定しようとするもの』に媒介されて存在し続けてきたということである。」
 
なるほど、すばらしい。そういうことか。

「言い換えれば、私たちがユダヤ人と名づけるものは、『端的に私ならざるもの』に冠された名だということである。」
 
ユダヤ人は、ユダヤ人の方に実体があるのではなく、それをことばにしている「私たち」の方に、ユダヤ人なるものが棲みついているのだ。

「私たちの語彙には、『それ』を名づけることばがなく、それゆえ私たちが『それ』について語ることばの一つ一つが私たちにとっての『他者』の輪郭をおぼつかない手つきで描き出すことになる。私たちはユダヤ人について語るときに必ずそれと知らずに自分自身を語ってしまうのである。」
 
最後の一行は、あまりにカッコよく決めすぎたので、ちょっと上滑りしているけれども、しかしこういうふうに言われると、思わず頷いてしまう(あるいは、もののわかった西洋人なら、まったくその通りだわい、と深く同意するのかもしれない)。

「『ユダヤ人』という概念で人間を分節する習慣のない世界にはユダヤ人は存在しない。ユダヤ人が存在するのは『ユダヤ人』という名詞が繰り返し同じ何かを指すと信じている人間がいる世界の中だけである。
 私たちはユダヤ人の定義としてこの同語反復以外のものを有していない。」
 
すさまじく鮮やかなものである。

初めて読む内田樹――『私家版・ユダヤ文化論』(1)

内田樹は初めて読む。

この人は、ずいぶんいろんな本を書いているが、タイトルを見て、なんとなく虫が好かなかった。たとえば『「おじさん」的思考』、『寝ながら学べる構造主義』などなど。
 
ところが養老孟司先生が、『身体巡礼』(僕の音読本)の中で、『私家版・ユダヤ文化論』をべた褒めしておられたのである。僕が内田樹を初めて読むには、一番いいのではないか。

「私が本書で論じたのは、『なぜ、ユダヤ人は迫害されるのか』という問題である。そのことだけが論じられている。」
 
きっぱりとした言い方だ。いかにも養老先生が、好みそうな書き出しである。
 
ユダヤ人問題には、ややこしい「罠」がある。それを回避しながら、核心に迫っていくには、問題の設定を変えるほかない。

「『ユダヤ人迫害には理由がある』と思っている人間がいることには何らかの理由がある。その理由は何か、というふうに問いを書き換えることである。
『反ユダヤ主義には理由がある』ということと、『反ユダヤ主義には理由があると信じている人間がいることには理由がある』ということは似ているようだけれど、問題の設定されている次元が違う。」
 
なかなか鮮やかですな。
 
しかしそこから出発したとしても、著者の示す道筋を辿ることは、容易ではない。

「私がみなさんにご理解願いたいと思っているのは、『ユダヤ人』というのは日本語の既存の語彙には対応するものが存在しない概念であるということ、そして、この概念を理解するためには、私たち自身を骨がらみにしている民族誌的偏見を部分的に解除することが必要であるということ、この二点である。」
 
これは難しい。昔、『日本人とユダヤ人』という、イザヤ・ベンダサンこと山本七平のベストセラーがあったが、内田樹は、そういう対比は成り立たない、と言っているのだ。
 
後段の「私たち自身を骨がらみにしている民族誌的偏見を部分的に解除する」というのは、どういうことを言っているのか、僕には分からない。
 
しかし著者は、強くこういうふうに言うのだ。

「この論考を読み終えたあとに、みなさんがその二点について同意くださってさえいれば(結局「ユダヤ」というのが、何のことか解らなかった、ということになったとしても)、この論考を書く目的の半ば以上は達成せられたことになる。」
 
こういうのを最初にもってくるのは、良くないんじゃないか。ここからの議論は、厄介いですよ、とあらかじめ振っているのだが、そういうことを言う前に、これからの議論を嚙み砕く用意をすべきではないだろうか。
 
ということはさておき、では「ユダヤ人」とは、いったい何者であるのか?
 
著者はここで、アクロバティックに、問いを逆転させる。

「それは『ユダヤ人は何ではないのか』という消去法である。これが私が読者の間に立てることのできる、さしあたり唯一の『共通の基盤』である。」
 
そう来るか、というところだけれど、しかしこれは、中身を見ればかなり衝撃的だ。

ただもう情けない――『出家への道ー苦の果てに出逢ったタイ仏教ー』

僕が中学1年のとき、笹倉明は、同じ学校の高校2年だった。姫路の私立淳心学院中・高等学校に通っていたころだ。
 
僕はもちろん、学校にいるときは、5年離れていることもあって、彼のことは全然知らなかった。
 
1988年に、『漂流裁判』でサントリーミステリー大賞を受賞して、その略歴に姫路の淳心学院とあって、びっくりした。
 
さっそく読んでみると、なかなか面白い。
 
89年には『遠い国からの殺人者』で直木賞も取った。それ以外にも『東京難民事件』『女たちの海峡』『推定有罪』など、かなり読んだ。
 
しばらく名前を見ないなと思っていたら、突然、笹倉明という名を捨てて、というかそれは俗名で、プラ・アキラ・アマローという名で出家していた。ただもう、吃驚である。
 
オビの文句は、「異国へと/落ちていった/直木賞作家は/ついに/俗世を捨てた。/なぜだった/のか?」。これは買わずにはいられません。
 
この本は、これでもかと言わんばかりの、みずからの愚行と、タイ仏教における、自分の克明な出家式が、交互に挟まれている。
 
タイ仏教の出家式には、ほとんど興味がないので、そこは斜めに読んで、笹倉明の、我が懺悔の章を、克明に読む。
 
結論からいうと、本人も言うとおり、ただもう実に情けない。

「諸々の弱点と失敗が招いた経済的窮地を、手早く生活がラクになる国への移住でもって切り抜けようとした、そのことがさらなる没落への道を敷くことになってしまいます。が、命だけは持ちこたえるという最低限の幸いはあったのだと、自分を慰めてもいたのです。」
 
最初に書いてある、自分の半生の総括が、すべてを物語っている。
 
金儲けにも失敗し、女でも失敗する著者は、一昔前の無頼派の文士そのものだ。場合によっては、自分を主人公にして、ケッサクが書けたかもしれない。

ところが驚くべきことに、著者は究極のところ、その数々の失敗を、戦後教育のせいにする。
 
まったく信じられない。自分の不始末を、自分ではなく、時代のせいにするとは、文士の風上にも置けない。というか、この人、文士にもっとも向いてない。
 
これをまとめることになった編集者も、成りゆきで関わったものの、本当に嫌だったろうなあ。
 
直接の関係はないのだが、こんな先輩ですみませんと、つい言いそうになってしまう。

(『出家への道ー苦の果てに出逢ったタイ仏教ー』
 プラ・アキラ・アマロー(笹倉明)、幻冬舎新書、2019年11月30日初刷)

私もまた、さようならを言う――『本の雑誌 二〇二〇年四月号ー特集 さようなら、坪内祐三ー』(3)

この追悼文集は、何度でも、いつまでも、読むことができる。それはたぶん坪内さんが、誰を相手にしても、生(なま)の神経を曝して、付き合っていたからではないかと思う。
 
その中でも一篇、橋本倫史の「神経のふれかた」を挙げておく。ちなみに著者は、まったく知らない人である。
 
坪内さんには、気難しい点があった。

「……誰かの訃報に言及することも多かったが、坪内さんより年配の独特な気配をまとった人がこの世を去っていくことに対し、坪内さんはどこか寂しそうだった。そのことと、坪内さんの怒りは、関係しているような気がしていた。」
 
それは当たっていたんじゃないだろうか。

「どうして僕はこんなことを書き綴っているのだろう。それはきっと、これを書いておかなければ、坪内さんの振る舞いが『酒癖が悪かった』と片づけられてしまうからだ。それはあまりにも残念だ。」
 
そういうことを述べたうえで、核心に触れる。

「その神経のふれかたに、坪内さんらしさが詰まっているような気がする。坪内さんは、神経をふるわせながら、最後まで街を歩いていた。」
 
だから神保町や新宿で、振り向けば今も、坪内さんが歩いているような気がする。
 
私は坪内さんとは、会えば必ず挨拶をした。もっぱら夜の酒場だったから、たいていはお互い酔っていて、だから話し込んだことは、一、二度しかない。
 
一度は「風花」のカウンターだった。
 
どんなことを話していたか、あらかたは忘れたが、一点だけ覚えていることがある。

そのころ文庫には、新潮文庫でも角川文庫でも、独特の匂いがあって、それは見なくても、棚の前に行くと、分かった。
 
私がそういうふうに言うと、坪内さんは、そうなんだよ、匂いでわかるんだよ、と言った。
 
そういう話を、人に向かってしたのは、初めてで、それ以後もない。
 
中学生のとき、兵庫の加古川駅前の下司書店で、新潮文庫の棚に向かうと、心が何とはなしに落ち着く、という話をしたのだ。
 
坪内さんは朗らかに笑いながら、そうだよなあという具合に、大きく相槌を打った。

(『本の雑誌 二〇二〇年四月号ー特集 さようなら、坪内祐三ー』
 本の雑誌社、2020年4月1日発行)

私もまた、さようならを言う――『本の雑誌 二〇二〇年四月号ー特集 さようなら、坪内祐三ー』(2)

追悼を書いているのは、重松清、福田和也、中野翠、嵐山光三郎、南伸坊、目黒孝二、亀和田武、泉麻人、四方田犬彦、川本三郎といった方々から、身近にいたライターやイラストレイター、飲み屋の仲間、各社の編集者まで、実に幅広く集めている。
 
その追悼も、個人の文章だけではなく、それぞれ複数の対談あり、鼎談ありで、すぐに引き込まれる。
 
そんな中で、坪内さんと距離を置いて書いたものがあって、おっと思った。
 
一つは四方田犬彦の文章である。

「わたしは、こいつはちょっといいなと思った。ひょっとしたら今の世の斎藤緑雨になれるかもしれない。そう期待してみた。」
 
でも坪内さんは、そうはなれなかった、という。

「わたしは彼が同業者を何人か集めて、タクシー会社の宣伝のような雑誌を拵えたとき、これはダメだと思った。群れなどなしていては、いい批評など書けるわけがないからだ。」
 
これは『en-taxi』(エンタクシー)のことだな。2003年に創刊され、福田和也、坪内祐三、柳美里、リリー・フランキーが共同で責任編集していた。私は雑誌を読まないのでよくわからないが、けっこう評判になっていたと思う。
 
それにある時期、協同で同人誌をやるというようなことは、小林秀雄のみならず、多くの場合に運動としてあったものだ。

「ちょっと可哀想なことを書くようだが、新宿の狭い『文壇』とやらに入り浸って、英語の本を読む習慣を忘れてしまったのは、彼の凋落の始まりだったような気がしている。」
 
果たして坪内祐三が、英語の本を読む習慣を無くしていたかどうかは分からない。また「新宿の狭い『文壇』とやらに入り浸って」というのは、ちょっと違うと思う。
 
坪内さんは中心にいる人で、あけっぴろげで、相手を区別はしても、差別はしなかった。むしろ「文壇」という言葉を、半分は尊重し、半分はからかって、使っていたんじゃないかと思う。
 
しかし四方田犬彦の、批判的な文章があることは、いいと思う。場合によっては、そういう目で坪内さんを見ている人も、いたかもしれない。

私は、それは間違っていると思うけど、でも、そういう見方をする人がいたって、もちろんかまわない。
 
もう一つは、瀬尾佳菜子さんである。佳菜子さんはバー「猫目」のマダムだった人である。
 
私は6年前に脳出血で倒れて以来、酒を一滴も飲んだことがないから、新宿のバーの様子など、皆目分からなかった。
 
佳菜子さんの文章を読むと、ある日坪内さんは、「猫目」にはもう来ないと言って、実際にその通りにしたという。

「坪内さんが『もう俺はこんな新宿にはこないかもしれない』とおもむろに私に言った。
 これまでもこんなことは何度もあったはずなのに、私はその日『そうですか、それはもう仕方ないですね』と坪内さんの目を見返して言ってしまった。」
 
ある時期、「猫目」は、坪内さんにとって、いってみれば夜の仕事の中心であった。あまりにも中心になり過ぎていた。
 
それはたぶん、佳菜子さんにも分かっていただろう。
 
だからその日、お互いに、さようならをしたのだ。こういう男と女の別れ方もある。