「獣姦」、または「動物性愛」――『聖なるズー』(4)

濱野ちひろは、ズーと知り合うことで、新しい世界へ行けただろうか。
 
しかしその前に、彼女は自分が受けた性暴力を、どんなふうに理解し、咀嚼していたろうか。
 
性暴力によって浮き彫りにされるのは、「支配する側とそれに甘んじる側が演じる役割分担のようなものだ」と濱野は言う
 
性暴力が繰り返されるたびに、決定づけられることがある。それは「間違いなくおまえは、生きる価値がない人間だ」ということだ。そう濱野は言う。
 
もちろん性暴力だって、いろんなタイプのものがあるだろう。濱野ちひろが陥ったのは、お前には生きる価値がない、というものだった。

「私はこのような関係には、全力で抵抗しなければならなかった。支配されることを拒否しなければならなかった。だが、それができなかったのは、私のなかにも暴力性があったからだ。自分への暴力。私の暴力性は、相手の暴力性によって喚起され、自分自身へと向かい、自分を縛り付けた。」
 
「私の暴力性は、相手の暴力性によって喚起され、自分自身へと向かい、自分を縛り付けた」、ここが僕には分からない。もう少し先まで読んでみよう。

「暴力を受け続けると、自分のなかにもいずれ暴力性が芽生えていく。その矛先が誰に、あるいは何に向かうかは、人それぞれなのだろう。私の場合は、まっさきに自分自身に向かった。
 私が自分自身に暴力を振るうのをやめるきっかけがあったとしたら、それは自らの欲望の有無や欲望のかたちを知ることだった。しかし、私は欲望を見失ったまま、まるで縄で縛られた動物のように、男に自分を明け渡してしまっていた。」
 
よくわからないが、でもそういうことなのか。

しかしその先の、濱野ちひろが、なぜ、「まるで縄で縛られた動物のように、男に自分を明け渡してしまっていた」のかについては、ついに分からないままだ。
 
性暴力を受けてから20数年が経ち、ようやくこの本を書くことができたのは、ズーたちの勇気を知ったからだ、と彼女は言う。

「『普通』ではない経験からくる、居心地の悪さ、それを打ち破ろうとするときには、私もズーもまったく同じ立場にいる。彼らのセックスと私のセックスは、この部分で重なり合う。」
 
著者が抱えてきた傷が、ズーたちとの交流で癒えたとはいえない。しかし少なくとも、著者が受けた性暴力の怒りや苦しみから、目をそらすことはもうない。そこでは一つ、段階を越えた、と著者は言う。
 
しかしそれでも、ズーたちの動物との愛は究極、僕にはわからない。と言って、他人の動物性愛を、否定する気は全然ない。ただ僕には、あまりに遠い世界だ。
 
最後に蛇足を一つ。濱野ちひろは結局、性暴力を媒介にした、男との10年を書かなければならないんじゃないか。僕はそう思う。

(『聖なるズー』濱野ちひろ、集英社、2019年11月30日初刷、12月24日第2刷)
posted by 中嶋 廣 at 11:34Comment(0)日記