「獣姦」、または「動物性愛」――『聖なるズー』(3)

著者は、ミヒャエルという名のズーと知り合う。ミヒャエルは、恥ずかしいことや、間違ったことはしていないから、自分のことを書くときは、実名でかまわないという。
 
彼は結婚していたが、10年でその結婚を解消する。

「離婚後、ミヒャエルは初めてオス犬のパートナーを得て、初めて動物とのセックスをした。そして、自分を偽ることに苦しみ切って、疲れ果て、ドイツでも初めてに近い、ズーであることをカミングアウトする人間になった。彼はブログを運営し始め、動物性愛に関する情報発信を行った。現在のゼータのメンバーで、彼のブログに救われた若い世代は多い。」
 
なんにでも先駆者はいるものである。
 
濱野ちひろの、ミヒャエルの描き方を見ていると、実に誠実そうな男性で、繊細で好感が持てる。

「ミヒャエルの家は、庭もリビングもキッチンもベッドルームも、いたるところに動物の気配が充満している。リビングにこもり、ミヒャエルと話しているとき、私はなぜか犬や猫たちとも相対しているような感覚を受ける。ここでは犬や猫が人間と同じ『力』を持っていて、常にそこに『いる』。
 その空間を生み出しているのは、視線の交差の量と質ではないかと思う。」
 
ここは、ズーの家を描いて秀逸だ。いわゆるペットがいる家の中とはまったく違う。

「ミヒャエルと犬と猫たちは頻繁に目を合わせるし、しばしば誰かが誰かを見ている。
 その視線のやりとりをもしもすべて糸にして表したなら、数十分で濃い網の目が部屋のなかに出現するだろう。私はその網のなかにいるから、まるで犬や猫たちとも絡み合っているような気がしてくるのだ。
 この空間のあり方は独特なものだ。ズーの家では、人間と動物がともに、まったく同等の強さで存在している。」
 
自分で経験したことはなくても、ズーの家が髣髴できると思わないだろうか。
 
またエドヴァルドとは、動物とのセックスについて話し合う。

「犬のセックスって、人間と全然違うんだよ。人間はずっと激しく腰を動かすでしょ。でも、犬が腰を動かすのは最初だけなんだ。その後は不思議なくらいじっとしているんだよ。そのまま動かないで、何度も射精する。犬は背後から僕のお尻の穴に挿入しているんだけと、完全にリラックスして僕の身体にもたれかかっているんだ。僕の頭のすぐ後ろに犬の顔があって、あたたかくて、それはもう素晴らしい感覚としか言いようがない。なんと言ったらいいかな……、そうだな……、神秘的なんだ。」
 
著者はここでは、ズーに限りなく共感している。その根本はどこにあるか。

「問題をすっきりさせる鍵は、やはり対等性にある。対等性とは、相手の生命やそこに含まれるすべての側面を自分と同じように尊重することにほかならない。対等性は、動物や子どもを性的対象と想定する性行為のみに問われるのではなく、大人同士のセックスでも必要とされるものだ。」
 
その大人同士のセックスで、濱野ちひろは徹底的に暴力をもって、相手にいたぶられたのだ。著者が、ズーの語るセックスを羨む気持ちは、分かるような気がする。
posted by 中嶋 廣 at 11:48Comment(0)日記