「獣姦」、または「動物性愛」――『聖なるズー』(2)

動物性愛については、大きく分けて二つの見方がある。

一つは性的倒錯だとする精神医学的な見方、もう一つは、同性愛などと同じく性的指向のひとつだとする、性科学的・心理学的な見方に立つものだ。
 
とはいっても、動物性愛について、僕がどう感じるかが大事なのだが、僕は肝心の動物性愛の現場を知らない。だからとにかく読んでみよう。

「『獣姦』と『動物性愛』は、似て非なるものだ。獣姦は動物とセックスすることそのものを指す用語で、ときに暴力的行為も含むとされる。そこに愛があるかどうかはまったく関係がない。一方で動物性愛は、心理的な愛着が動物に対してあるかどうかが焦点となる。」
 
この区別はよくわかる。が、動物への愛着と、その相手とセックスをする関係は、いったいどうなっているのか。それは簡単に、一線を超えられるものなのだろうか。

「私にとっての愛とセックスの問題は、絡み合ったまま、すでに二十数年の月日がたっている。動物性愛者の愛とセックスを知ることは、私の奥底に凝り固まるもつれた問いを解くための鍵になり得るのではないか、と私は感じ始めていた。」
 
なるほど、そういうふうに入っていくのか。
 
しかし、よく考えれば、一人の男をつかまえて(あるいは一人の女でもいい)、それで胸の裡に凝り固まったしこりを、時間をかけて溶かしていった方がよい、とは考えなかったのだろうか。
 
というふうにこの作品の、そもそもの動機というか基盤を、つい壊したくなってしまうが、それを言っちゃあおしまいだよ。というわけで著者は、ドイツにある世界で唯一の動物性愛者の団体、「ゼータ(ZETA=寛容と啓発を促す動物性愛者団体)」のメンバーと連絡を取る。
 
ゼータは2009年から活動している団体だが、活動内容が「良俗に反する」という理由で、今も法人格は備えていない。今現在、ゼータに所属するメンバーは、30人ほどである。
 
彼らは自分たちを、「ズー」と称する。これは動物性愛者を意味する、ズーファイル(zoophile)の略語だ。書名の『聖なるズー』は、この意味だ。
 
彼らは、「動物への愛着や性的欲求は、自分ではどうにもできない。あらかじめ備わっていた感覚だ」と、口をそろえる。
 
僕はここで、非常に突飛な連想だが、アニル・アナンサスワーミーの『私はすでに死んでいるーゆがんだ〈自己〉を生みだす脳ー』の中の一章を、思い出してしまった。
 
そこでは、ものごころつくころから、自分の足がどうにも邪魔で、切り落としたくて、どうしようもなくなっている人を取材している。
 
この人は、闇の医者による手術で、脚を一本、切り落とした。そしてインタビューで、ああ、清々した、よけいなものがなくなって、ほんとに晴れ晴れする、と答えている。
 
これは動物性愛とはまったく違うけど、しかしたとえば、犬と死ぬほどセックスがしたくて、そしてついにやったあと、心は満たされているというのと、同じような気持ちではないだろうか。
 
どちらも、「良俗に反する」ということでは、後ろめたさを感じると思うけど、しかし、他人に迷惑をかけない、という点では同じことだ。
posted by 中嶋 廣 at 17:11Comment(0)日記