私もまた近似値、か?――『時間は存在しない』(8)

カルロ・ロヴェッリは、極微の世界こそ、本質的な世界だというけれど、それは今現在での議論だ。それがあまりに最先端の議論だから、極微の世界に見とれるだけなのだ。私はそう思う。

何百年か何千年かたって、極小の世界が明らかにされたなら、そのときは極小の世界と、今いる私たちの近似の世界は同等になって、極小から近似まで、統一された世界が開けてくるのではないか。

そうなれば、「場の統一理論」は、物理学を飛び越えて、本当に、究極の「場の統一理論」として、あらゆるところに顔を出すだろう(という言い方でいいのかな?)。
 
そうなれば、学問の世界では、根本的な組み換えが起こって、たとえば物理学的・化学的・生命科学といったものが、考えられるのではないか。
 
そしてそうなれば、丸山真男の世界までは、ほんのひとっ跳びの距離だ。
 
しかしそのときにも、なお残る問題がある。

この問題を考える「私」は、近似の立場に立っているけれども、それでいいのか。

「私」の本質は、「物」ではなくて「関係」である。だから「私」は、あるときポコンと現われて、あるとき音もなく去ってゆく。これはいかにも、「関係」と呼ぶにふさわしい。
 
しかしそれでも、「私」は近似値で、そういう「私」が、なぜ本質的な極微の世界までを、想定できるのか、というのは、問題にならないのだろうか。
 
それと関連して、究極的な問題として、いつもの、例の、「私」が、最終的に浮上してくる。

「私」を、微細なところまで切り刻んでいくとして、量子の世界では、「私」はどんなふうに存在しているのだろうか。
 
あるいはもう存在していないのか。
 
でもそんなふうになったら、「私」は存在していないのだから、問いを立てることもできなくなってしまう。
 
仮に「私」が存在するとして、量子の「私」が、同じ量子を見て、あるいは実験によって、そういうものが体感できるとして、その段階で、自他の区別はつくのだろうか。まあ、無理だろうねえ。
 
ここまで来ると、あのノーベル賞のジョン・C・ エックルスの、「心は脳を超える」か、といういつもの問い、というか結論に戻る。
 
エックルスによれば、魂はいつの間にか、神の手によって、人間の体にそっと植え付けられる、というわけだ。
 
でもそこまで行ったら、思考の後戻りはできないから、いまはカルロ・ロヴェッリの、時間のない、極小の量子的世界を前にして、ただ茫然と佇んでおくことにしよう。

(『時間は存在しない』カルロ・ロヴェッリ、冨永星・訳
 NHK出版、2019年8月30日初刷、12月5日第6刷)

私もまた近似値、か?――『時間は存在しない』(7)

カルロ・ロヴェッリの世界を見る見方は、おぼろげにわかってきたと思うが、そこから驚くべきことが分かる。

量子の世界では、事物は「存在する」のではなく、「起こる」のだ。世界とは、固定した物ではなくて、変化する関係なのだ。
 
これは、ただただ鮮やかで、息を呑む。理屈はよくわからないけれど、物事の本質が、ブランク時間とプランク長なら、この世界は物ではなく、出来事の集まりなのである。
 
だから「この世界について考える際の最良の語法は、不変性を表す語法ではなく変化を表す語法、『~である』ではなく『~になる』という語法なのだ。」
 
いやあ、こんなところで丸山真男に会おうとは、思わなかったよ。丸山の『日本の思想』のある章は、「『である』ことと『する』こと」で、文章の正確な文言は違うが、カルロ・ロヴェッリの、事物は固定したものではなくて関係だ、というのとよく似ている。
 
丸山真男は、日本人の固定化した枠組みを、戦後に鮮やかな一撃を加え、揺さぶったのだが、それは物理学者が、「基本的な量子の世界に降りたとき」、よく似たことが起こったのである。
 
著者はまた卓抜な比喩で、「事物」と「関係」の真相を解き明かす。

「物の典型が石だとすると、『明日、あの石はどこにあるんだろう』と考えることができる。いっぽうキスは出来事で、『明日、あのキスはどこにあるんだろう』という問いは無意味である。この世界は石ではなく、キスのネットワークでできている。」
 
あまりに卓抜すぎて、ちょっと面食らったかな。

時間や空間がそのありようを変える、極小規模の世界は、子細に見ていくと、その本質が徐々に分かってくる。

「いかにも『物』らしい対象でも、長く続く『出来事』でしかない。もっとも硬い石は、化学や物理学や鉱物学や地理学や心理学の知見によると、じつは量子場の複雑な振動であり、複数の力の一瞬の相互作用であり、崩れて再び砂に戻るまでのごく短い間に限って形と平衡を保つことができる過程であり、惑星上の元素同士の相互作用の歴史のごく短い一幕であり、新石器時代の人類の痕跡であり、横町のわんぱくギャング団が使う武器であり、時間に関する本に載っている一つの例であり、ある存在論のメタファーなのだ。」
 
硬い石は、実は量子場の複雑な振動であり、ある存在論のメタファーだというところが、本質を突いた議論である。
 
こういうところから、物理学を超えて、人文科学の方へ飛び越してくるのは、ほんのわずかのことではないか。私には、そういうふうに思われる。

私もまた近似値、か?――『時間は存在しない』(6)

ふーん、でもねえ、アリストテレスとニュートンを、アインシュタインが統合して、その理論をカルロ・ロヴェッリが先まで推し進め、それを私が、ああだこうだと論評するというのは、なんとなく、というか、そうとう無理があるような気がする。
 
しかし、やってしまったものは、やってしまったもので、ともかく終わりまで行くことにしよう。

「時空は重力場である。〔中略〕世界はキャンバスの上に描かれた絵ではなく、キャンバスや層が重ね合わされたもので、重力場もそれらの層の一つなのである。重力場もほかの場と同様、絶対ではなく、一様でもなく、固定されているわけでもない。しなやかで、伸びたり、ほかのものとぶつかったり、押したり引いたりする。」

「時空は重力場」というのがよく分からないが、しかしこれでとにかく、伸び縮みする時空については、無理やりにでも、イメージが摑めたことと思う。分からなくても、分かったことにして、その先へ進もう。

「こうして時間は、空間の幾何学と織り合わされた複雑な幾何学の一部となる。これこそが、アインシュタインがアリストテレスの時間の概念とニュートンの時間の概念の間に見いだした統合なのだ。アインシュタインはその巨大な翼で一気に飛翔し、アリストテレスとニュートンがともに正しいことを理解した。」
 
そういうことだ。でも、この「そういうこと」の中に何が入るかは、よく分からない。
 
よく分からないなりに先へ進むと、今度は、これまでの相対論的な物理学の奇妙な風景に、空間や時間の「量子的な性質」を、考慮に入れることにする(なぜそういう性質を考慮に入れるかについては、特に注記はないのでちょっと不親切だ)。

「空間や時間の量子的な性質を調べる分野は『量子重力』と呼ばれていて、わたし自身もこの分野を研究している。科学者の共同体に広く受け入れられた量子重力理論はまだ存在しておらず、実験で裏付けられたわけでもない。わたしは科学者としての人生のほぼすべてをかけて、この問いの答えになり得るものを構築しようとしてきた。」
 
カルロ・ロヴェッリが、人生を賭けた探求がこれなのだ。

しかしそうすると、風景は謎めいてきて、ますます分からなくなってくる。
 
時間が量子化されると、それは粒状になって、「いくつかの値だけを取って、その他の値は取らない。まるで時間が連続的ではなく、粒状であるかのように。」
 
その粒である「量子」の最小の時間は、「プランク時間」と呼ばれていて、これはさまざまな定数を組み合わせれば、その値を簡単に計算できる、のだそうだ。
 
その計算の結果は、1秒の1億分の1の10億分の1の10億分の1の10億分の1の10億分の1の時間である。
 
別の言い方をすれば、計算によって、10のマイナス44乗秒という時間が得られる。

「プランク時間はひじょうに短い。今日実際の時計で計り得る時間よりはるかに短く、ここまで小さな規模になると、もはや時間の概念があてはまらなくとも驚くには当たらない。」
 
おいおい、そういうことかよ。「プランク時間」においては、あまりに短すぎて、時間の概念が成立しないのだ。
 
それなら過去と未来も、同じ理由で、存在できなくなる。

そしてこれが、物事の究極的な本質なのだ、とカルロ・ロヴェッリは言う。
 
ちなみに、プランク時間に見合う空間は、「プランク長」で、「この最小限の長さより短いところでは、長さの概念が意味をなさなくなる」のだそうだ。
 
そのプランク長は、1センチメートルの10億分の1の10億分の1の10億分の1の100万分の1である。
 
これも別の言い方をすれば、約10のマイナス33乗センチメートルになる。

「大学時代、まだ若かったわたしは、この極端に小さな規模でいったい何が起きるのか、という問いに夢中になった。」
 
まあなんにせよ、夢中になるのは、悪いことではない。

「この規模の世界で何が起きているのかを理解すること、それを自分の目標にすると決意した。時間や空間がそのありようを変える極小規模の世界、基本的な量子の世界に降りたときに、いったい何が起きるのか。以来今日までずっと、わたしはこの目標を達成しようと努めてきた。」
 
この極小の時間、極小の長さで、何が起こるか、それを見てみたい、あるいは見るのが無理であれば、体感してみたいというのが、著者の願いなのだ。
 
人はいろいろなことを望むものだ。でも正直、ちょっと言葉がない。

私もまた近似値、か?――『時間は存在しない』(5)

時間とは何か、という問いを立てたのは、著者の知る限りでは、あのアリストテレスである。
 
アリストテレスは、「時間とは変化を計測した数である」と言った。
 
これはどういうことかというと、「事物は連続的に変わっていくのだから、その変化を計測した数、つまり自分たちが勘定したものが『時間』なのだ。」
 
これではどうもわかりにくい。そこで問いの立て方を変えてみる。

「では、今かりに何も変わらなければ、何も動かなければ、時間は経過しないのか。」
 
これに対して、アリストテレスは、驚くべきことに、「何も動かなければ、時間は経過しない」と考えている。

「何も変わらなければ、時間は流れない。なぜなら時間は、わたしたちが事物の変化に対して己を位置づけるための方法、勘定した日にちと関連づけて自分たちの位置を定める手段なのだから。時間は変化を計測したものであって、なにも変化しなければ、時間は存在しない。」
 
こういうことなのだが、これでもなお分かりづらい。

そこでもう一方の、計るものが何であれ、時間はそんなことと関係なく存在している、という考え方を取り上げてみよう。
 
これはニュートンが考え出した方法である。
 
ニュートンは日にちなどを計測した時間とは別に、どんな場合も全く無関係な「本物の」時間が存在すると考えた。
 
それは私たちが、どこでどんなことをしていても、あるいはしてなくても、一定の長さで流れているはずのものだ。

「この概念は、徐々にわたしたち全員の見方となった。世界中の学校の教科書を通じてわたしたちに浸透し、やがて広く時間を理解する術となり、ついには常識となった。だが、事物やその動きから独立した一様な時間が存在するという見方が、いくら今日のわたしたちにとって自然なことに思えたとしても、それは、太古からの人類の自然な直感ではなかった。ニュートンが考えたことだったのだ。」
 
それは本当に知らなかった。一人、ニュートンの考えたことが、地球上を覆うなんて、考えてみれば、なかなか凄いことだ。
 
アリストテレスとニュートンは、時間に関しては、まったく逆のことを主張したのだ。そして軍配は、この数百年の間、ニュートンに上がっているように見えた。

「なぜなら『事物とはまったく無関係な時間』という概念にもとづくニュートンのモデルのおかげで近代物理学を構築することができたからで、その物理学はひじょうにうまく機能した。こうして、時間は揺るぎなく一様に流れる実体として確かに存在する、と考えられるようになった。」
 
ところが、そうではなかったのだ。
 
時間は伸び縮みし、そして最新の成果では、存在しない!
 
しかしその前に、アリストテレスとニュートンの時間を統合した、アインシュタインの話がある。

私もまた近似値、か?――『時間は存在しない』(4)

著者はまた、こんなことも言う。私たちに、普遍の「今、現在」はない、それは宇宙全体に広がっているものではない、と。
 
そういうことを問うのは、意味がない、と言うのだ。

「バスケットボール・リーグでどのサッカーチームが優勝したのかを尋ねるようなもの、ツバメがいくら稼いだか、音符の重さはどれくらいかを尋ねるようなものなのだ。」
 
すごい例えではある。

「現在」というのは、自分たちを取り囲む泡のようなものだ、その泡にどれくらいの広がりがあるのか、というと。

「それは、時間を確定する際の精度によって決まる。ナノ秒単位で確定する場合の『現在』の範囲は、数メートル。ミリ秒単位なら、数キロメートル。」
 
なるほど、時間によって「現在」の範囲が変わるわけだな。なぜ時間によってなのかは、わからないが。

「わたしたち人間に識別できるのはかろうじて一〇分の一秒くらいで、これなら地球全体が一つの泡に含まれることになり、そこではみんながある瞬間を共有しているかのように、『現在』について語ることができる。だがそれより遠くには、『現在』はない。」
 
うーん、全体がちょっとアホダラ経だが、字面を追って読めることは読める。しかし中身には、全然ついていけない。
 
はっきりしているのは、私たちが見ているものは、何も見ていないということだ。

「じつは、何らかの形態の宇宙が『今』存在していて、時間の経過とともに変化しているという見方自体が破綻している」、ということだ。
 
なるほどねー、……でも、そんなことがあるのかい。
 
だいたい私たちが、時間に関して、どこでもいつでも、同じ速さで流れている、と思い込んでいたのはなぜだろう、と著者は言う。
 
そういえば日本でも、江戸時代までは、昼と夜の長さによって、時間は伸び縮みしていたのではなかったか。

「自分たちが直接経験している時間の経過にもとづいて、時間がどこでも常に同じ速さで経過する、と考えるようになったのでないことは確かだ。では、このような考えはどこから生まれたのか。」
 
そもそも時間観念は、最初は昼と夜の交代だけだった。

「日周リズムは自然界の至る所に存在する。このリズムは生命に欠かせないもので、わたし自身は、地球上に生命が発生する際にも重要な役割を果たしたのではないかと考えでいる。おそらく、ある仕組みを動かすための振動の役割を果たしたのだろう。」
 
なんだ、よくわかっているじゃないか。それなら、時間は存在しないなどと、ふざけたことを言わないように。

「生命体には時計がたくさん詰まっている。分子の時計、ニューロンの時計、化学時計、ホルモンの時計と、その種類もじつに多様で、これらすべてが大なり小なりほかの時計と調和している。単一細胞の生化学にすら、二四時間のリズムを刻む化学的なメカニズムがある。」
 
そういういろんな時間があるけれど、いろんな時間を経験することと、「時間とはなんぞや」と問うのは、ぜんぜん違うことだ。
 
その最初の問いを立てたのはだれか。

私もまた近似値、か?――『時間は存在しない』(3)

ところが唯一、熱に関しては、時間の矢、つまり時間の向きが登場するのだ。
 
どういうことかというと、「その核心は、熱は熱い物体から冷たい物体にしか移らず、決して逆は生じないという事実にある。」
 
これは「熱力学の第二法則」と呼ばれるものである。ちなみに「第一法則」は、あの有名な「エネルギー保存の法則」で、変化した前後でもエネルギーの総量は変わらない、というものだ。

つまり、時間の矢が現われる非可逆的な方程式は、これのみである、ということだ。
 
熱は熱いものから冷たいものへ移る、というのを、わざわざ法則として顕在化する、というのが、凡人には分からない閃きなのだろう。
 
だって冷たいお茶が、何もしないのに、熱いお茶に変わっていたら、どうしますか。台所に入るのは、ちょっとおっかなびっくりですな。
 
その後、エントロピーの話が出てくるが、ここまでくると、私にはうまく要約できない。

「熱という概念やエントロピーという概念や過去のエントロピーのほうが低いという見方は、自然を近似的、統計的に記述したときにはじめて生じるものなのだ。」
 
ここで言いたいのは、自然を近似的に見たときに、つまり正確に見ないで、ぼやけて見るときに、はじめて過去と未来が現われるということだ。

「事物のミクロな状況を観察すると、過去と未来の違いは消えてしまう。(中略)よく、原因は結果に先んじるといわれるが、事物の基本的な原理では『原因』と『結果』の区別はつかない。この世界には、物理法則なるものによって表される規則性があり、異なる時間の出来事を結んでいるが、それらは未来と過去で対称だ。つまり、ミクロな記述では、いかなる意味でも過去と未来は違わない。」
 
ミクロな世界とは、いかなるものなのか。著者は、「未来と過去で対称」なミクロの世界こそ、物理法則にのっとった真の世界だという。
 
でも、そうかなあ。

「重要なのは、熱、温度、お茶からスプーンへの熱の移動といった概念を使って記述すると、実際に起きていることを曖昧に見ることになるという点なのだ。そして、このような曖昧な見方をしたときにだけ、過去と未来が明確に異なるものとして立ち現れる。」

過去と未来が、違うものとして現われるのは、「曖昧な見方をしたときにだけ」、原因と結果が区別できるのは、そういう曖昧な見方をしたときだけである、と著者は言う。
 
そもそも、事物の基本的な原理に立ち返って考えたときには、というのは、つまりミクロの世界では、過去・未来など問題にならない。
 
ここでは、目に見える曖昧な世界と、事物の基本的な原理に立ち返った、ミクロの世界が対照されている。
 
そしてもちろん、目に見える曖昧な現実よりも、基本的な原理に立つミクロの世界が、より本質的で、重要である。
 
そういうことなんだ。これは養老孟司さんの言う、人によって、どちらに脳の重みを感じるか、ということだ。
 
私はもちろん、「目に見える曖昧な現実」の方が、「基本的な原理に立つミクロの世界」よりも、はるかに大事だと思う。それはたぶん、大半の読者も同じであろう。
 
ただ、「基本的な原理に立つミクロの世界」を重んじる物理学者は、ここからさらに、驚異的なところを突き抜けていく。

だからもう少し、お付き合い願いたい。

私もまた近似値、か?――『時間は存在しない』(2)

まず簡単な事実から始めよう。

「時間の流れは、山では速く、低地では遅い。」
 
ここでは書いていることを、そのまま仰せのとおりとして、読み進めるほかない。ここで眉に唾をつけると、そこから先へ進めなくなる。

「二人の友が袂を分かち、一人は平原で、もう一人は山の上で暮らし始めたとしよう。数年後に二人が再会すると、平原で暮らしていた人は生きてきた時間が短く、年の取り方が少なくなっている。」
 
ほんとかね、と思わず言いたくなってしまう。でもこの話は、聞いたことがあるぞ。

「鳩時計の振り子が振れた回数は少なく、さまざまなことをする時間も短く、植物はあまり成長しておらず、思考を展開する時間も短い。低地では、高地より時間がゆっくり流れているのだ。」
 
これは今では、精度の高い時計で、正確に測定できる!
 
この話は、今を去ること50余年前に、学校の図書館で借りたガモフ全集のある巻に、こんなようなことが載っていた。
 
ロケットを飛ばして宇宙旅行をすると、信じられないことだが、そこに乗っている間だけ、時間はゆっくり進む。
 
だからロケットに乗って帰ってくると、まわりの人間は自分よりも、ずいぶん年を取っている。つまり私は、浦島太郎の状態になってしまう。

ところがどっこいそのときは、地球に帰ってくると、自分の肉体は、地球上の時間に合わせたものになるので、浦島太郎にはならない、そういう話だったような気がする。
 
時間が、場所と行為によって違うことを発見したのは、ガモフによれば、アインシュタインである。
 
この本にも、正確に測定する前に、時間の加減に気づいた人は、アインシュタインである、と出てくるが、一つだけ違う点がある。
 
50年前の本と違うのは、地球に戻ってくれば、時間のプラス・マイナスはチャラになる、ということだったが、今では地球上の基になる時間は、もうない。時間はそれぞれ、山の上と地上では、別個の時間を歩むのだ。

「この世界は、ただ一人の指揮官が刻むリズムに従って前進する小隊ではなく、互いに影響を及ぼし合う出来事のネットワークなのだ。」
 
恋人と待ち合わせをしているとき、お互いの腕時計の針は、ぴったり一致していないから、待ち合わせの時間に、ドンピシャで一緒になることはない、みたいな感じかね。
 
まあしかし、物理学の話を日常生活にたとえれば、すべからく頓珍漢な話になるのだが。
 
もう一度、過去と未来の話に戻そう。

「この世界のメカニズムの襞(ひだ)の何が、かつて存在した過去とまだ存在していない未来を分かつのか。わたしたちにとって、なぜ過去はこれほどまでに未来と違うのか。」
 
こういう疑問の立て方は、おかしいでしょう、どうにかならんかね。ということは、さておき、一応の結論を見てみよう。

「途方もないことが明らかになったのだ。過去と未来、原因と結果、記憶と期待、後悔と意図を分かつものは、じつは、世界のメカニズムを記述する基本法則のどこにも存在しない。」
 
時間が過去から未来へと、一直線に伸びているというのは、物理学の「基本法則」の中には、存在しなかったのだ。
 
しかしそれなら、「基本法則」の方を、書き改めるべきであって、物理学者の方こそ、改心すべきだ……とは、物理学者は絶対に考えない。
 
数学者が数学の理論を、机上の空論ではなく、現実に存在していると考えるのと同様、物理学者は、導き出された方程式の方を信じ、その結果、信じられないことに、現実の方をねじ曲げる、というか改変する。
 
そしてそういうことが、たとえば素粒子の世界では、現実に起こっているのだ。

私もまた近似値、か?――『時間は存在しない』(1)

これは朝日新聞のウェブ論座の「神保町の匠」で、幻冬舎の小木田順子さんと、角川書店の堀由紀子さんが、それぞれ「今年の収穫3点」に挙げていた。

『時間は存在しない』というのは、なんとなく古臭いタイトルだと思い込んでいたが、信頼する目利き二人が推薦するのであれば、読まないわけにはいかない。
 
それに書評もいくつも見た。そのどれももう一つ、というか、バシッと分かるものはなかったのだか。
 
それでは早速読んでいこう。と、意気込むと、たちまち腰砕けになる。

「なぜ、過去を思い出すことはできても未来を思い出すことはできないのか。」
 
そんなムチャ、言わんといてなあ。

過去と未来は、そもそもそういうふうにできている。過去を思い出せて、未来も思い出せれば、過去と未来は、ごっちゃになるではないか。

「時の流れに耳を澄ますとき、わたしはいったい何を聞いているのか。」
 
そりゃ、決まってまんがな、「時の流れ」でっしゃろ、と関西弁で茶々を入れたくなるほど、荒唐無稽な高みに立った、深い詠嘆を含む疑問文である。
 
しかし3ページ目まで読んだとき、こちらの頭を思いっきり殴られる。

「ふつうわたしたちは、時間は単純で基本的なものであり、ほかのあらゆることに無関係に過去から未来へと一様に流れ、置き時計や腕時計で計れると思っている。この宇宙の出来事は、時間の流れのなかで整然と起きる――過去の出来事、現在の出来事、未来の出来事。そして、過去は定まっていても、未来は定まっていない……ところが、これらはすべて誤りであることがわかった。」
 
これら全部が誤りだとすると、いったいどうすればよいのか。どこから、最初に考えればよいのか。何を考えればよいのか。

「時間に特有とされている性質が一つまた一つと、じつは近似だったり、わたしたちの見方がもたらした間違いであることが明らかになったのだ――ちょうど、地球は平らだとか、太陽が地球のまわりを回っているといった見方が間違いであったように。」
 
ああそうか、そういうことか。地球の自転も公転も、地球の表面にいる我々には、まったくわからないことだ。でも、現代の人間は、地球の自転も公転も、それはそういうものだとして、そのまま受け入れている。
 
ところで「過去は定まっていても、未来は定まっていない」とは、どういうふうに、逆転させればいいのか。見当もつかないではないか。

「わたしたちが『時間』と呼んでいるものは、さまざまな層や構造の複雑な集合体なのだ。そのうえさらに深く調べていくと、それらの層も一枚また一枚と剝がれ落ち、かけらも次々に消えていった。」
 
そういうことであるらしい。時間という概念は崩壊する。でもそこは、どんな世界なのか。著者のカルロ・ロヴェッリに聞いてみよう。

「わたしが取り組んでいる量子重力理論と呼ばれる物理学は、この極端で美しい風景、時間のない世界を理解し、筋の通った意味を与えようとする試みなのだ。」
 
いやあ、本当にゾクゾクするぜ、と言っておくしかないな。

書物快楽主義者の幸福な伝記――『龍彦親王航海記ー澁澤龍彦伝ー』(7)

編集者による伝記は、澁澤龍彦への批判に対しても、目配りが効いている。

本当は、そんなことはどうでもいいことなのだが、せっかく取り上げてあるから、一、二、話題にしておく。
 
澁澤文学が、いわゆる人間の内面を欠落させたものである、という批判である。

人間の内面を追求することをやめると、代わりに、「ディレッタントの文学」、「たんなるメルヘン」、「現実遊離の文学」、「遊びの文学」、といったレッテルが用意される。

「そもそも、澁澤自身が、『人間の魂の領域を扱う作家は、私にはどうも苦手なのである』などと堂々と書きしるしているが(「ヴァルナーの鎖」)、……この『澁澤の内面のなさ』も、それ自体を単純に批判として否定的にとらえるか、あるいは反対に賛辞として肯定的にとらえるかで、一八〇度くらい違った評価がとうぜん出てきてしまう。」
 
人間の心の葛藤や深淵を見つめるのは、もちろん文学の本筋である。

しかし、本筋以外に道はないとなると、それは違うだろう。それ以外の方法やテーマも、もちろん認めるべきなのだ。それを認めなければ、文学は痩せ細ってしまう。

もし澁澤なかりせば、と考えるならば、現代文学は、どんなにつまらなくなっていたか、考えるまでもないであろう。
 
ただ一つ、浅田彰の発言だけは耳目を引く。
 
浅田は、澁澤の三島追悼エッセー、「絶対を垣間見んとして……」を題材に、次のように話している。

「信じがたく単純なこのエッセイを読んで感じるのは、澁澤龍彦というのがたかだか高度成長期までの文学者だったということだ。近代社会のタテマエがそれなりにしっかりしていたから、それにちょっと背を向けて見せれば『異端の文学者』を気取ることができた。それに、ヨーロッパがまだまだ遠く、洋書を手に入れるのも難しかったから、あの程度でも素人は眩惑できたという事情もある。」
 
なるほど、そうか。でも、プロである浅田彰はともかく、「素人」である私は、澁澤の文章を読んで、充分に眩惑されたのである。
 
1987年8月5日、都内の病院で頸動脈流が破裂し、澁澤は死んだ。享年59歳。

澁澤は十年以上も前に、同人誌のアンケートで、「あと一日で死ぬとしたら」という問いに、「いつものように本を読みます」と書いたが、まさにその通りだった。
 
著者は最後に述べている。

「不治の病いにおかされた体で執筆した『都心ノ病院ニテ幻覚ヲ見タルコト』と『穴ノアル肉体ノコト』に二編は、たんにそれが傑作であるばかりでなく、澁澤龍彦という人間を考える際に重要な作品となっている。」
 
そういうわけで、この2作品は必ず読むことにする。

(『龍彦親王航海記ー澁澤龍彦伝ー』
 礒崎純一、白水社、2019年11月15日初刷、12月5日第2刷)

書物快楽主義者の幸福な伝記――『龍彦親王航海記ー澁澤龍彦伝ー』(6)

礒崎純一の『龍彦親王航海記』には、いかにも編集者から見た澁澤像があって、面白い。

澁澤は生きているときは、「人気有名作家なるカテゴリーからはほど遠い人物で、まだまだ世間的には、知る人ぞ知るマイナー作家のチャンピオンとでもいった存在だった。著書の文庫本などは一冊もない。実際、〈ビブリオテカ澁澤龍彦〉の各巻の初版部数も、三千部から四千部といった程度である。澁澤本人の口からも『普通の単行本はだいたい三千部くらいなもの』と聞いた記憶があるけれども、この数字は、当時私が編集者としてつくっていたマイナーな外国文学の翻訳書の部数と比べても、どんぐりの背くらべなのである。」
 
これはそういうものだと思う。1990年代の前半くらいまでは、まともに作った単行本は、どんなに売れなくとも、3000部は捌けると言われていた。考えてみれば、牧歌的ないい時代だったわけだ。
 
そういう時代に、桃源社や、現代思潮社や、青土社といったところの出版人、編集者と、心行くまで本づくりを楽しむことができたのは、やはり著者として、無類の魅力があったのだろう。
 
澁澤のほとんどの本が文庫になり、それが何万、何十万と売れ、さらに海外で翻訳が出版されている今とは、隔世の感がある。
 
澁澤も、「そりゃあ大手出版社の方が原稿料はいいけどさあ、自分の作品をよく知ってくれている編集者がいる、小さな出版社と仕事する方がやっぱりいいよね」、と話していた。
 
著者は編集者として、次のような疑問も浮かんだ。澁澤家の家計は、正直なところ、どうであったのか。
 
この質問を、龍子夫人にしてみた。

「澁澤の場合、雑誌なんかに書いた原稿が必ず単行本にもなるので、私が結婚して以降なら、同年代のサラリーマンの平均なんかに比べても多いくらいの収入があったわよ。そういう意味で、経済的に困ったということはないわね。」
 
そもそも澁澤は、贅沢な人ではなかった。
 
種村季弘は、出口裕弘との対談で語っている。

「澁澤は『根本的にはやはりストイックに人だったと思いますよ』、『お金ってものはいらない人じゃないですか』と言い、一方の出口も『あの人はいわゆる遊びをしない人だしね』と答えている。」
 
このあたりは、脳出血から後の、二度目の生をおくる私と、ほとんど同じである。お金は、半身不随なので全然使わない、というか使えない。キャッシュレスの最先端を行く。もちろん本を読む以外に、遊びも全然やらない。
 
ただ澁澤の場合は、生活全体が、隅々まで遊びに満ちていた、とも言えるのである。