篤実な評伝だが――『江藤淳は甦える』(9)

平成10年、慶子夫人に末期癌が見つかる。亡くなったのは、11月7日だった。
 
江藤と慶子夫人には、学生時代以来、さまざまな深い物語があるが、そしてそれは、この評伝の柱の一つを織りなすものだが、ここでは全部省略する。
 
その少し前と推測されるが、江藤と親しく付き合っていた、「タマキ」という女性が、やはり乳がんで亡くなった。

「タマキ」は銀座のバーを何軒か経て、田町にスナックを出したが、その開業資金のかなりの部分を、江藤が出した。

しかし「タマキ」は、若い男を作って、江藤を裏切る。でも江藤は別れない。
 
そういう女が、女房が死ぬ年に、あわせて死んだのだ。江藤の気持ちは、正確にはわからないが、しかしとにかく、惨憺たるものだったろう。
 
本の大詰めに来て、著者はここまでさらけ出すのだ。私は、その潔さに敬服する。

「江藤は遺書を四通書いている。三通は『江頭淳夫』と署名され、一通は『江藤淳』であった。
『 心身の不自由は進み、病苦は堪え難し。去
 る六月十日、脳梗塞の発作に遭いし以来の江
 藤淳は形骸に過ぎず。自ら処決して形骸を断
 ずる所以なり。乞う、諸君よ、これを諒とせ
 られよ。
  平成十一年七月二十一日
                江藤 淳 」
 
江藤淳の自殺を巡っては、慶子夫人の死と絡めて、いろんなことが言われたが、著者は、そこには言及しない。
 
ただ、こんなことを書いている。

「江藤が死を口走ったり、滂沱の涙を流すのは珍しくなくなっていた。それでも江藤はすぐに平静な姿を取り戻していた。」
 
ここでもう一度、題名の『江藤淳は甦える』に戻る。
 
私の結論を言えば、江藤淳は甦えらないと思う。
 
しかし、この評伝には感動した、ひどく感銘を受けた。

江藤淳は、時代にがんじがらめになっていたので、そういうところばかり文句を付けたが、しかしそれは、著者の平山周吉が、そこまで包み隠さずに書いたから、そういうことになったのだ。

その意味で、この評伝は白眉である。まごうかたなき傑作である。
 
編集者は一般的に、著者を自由に選べる。それは大原則である。しかし、いったん出版社に入れば、そこからは、出版社にもよるけれども、かなり制約がある場合もある。
 
編集者が著者と会うのは、まず最初は偶然に近い。そこを努力して、必然に変えていくのが、編集者の日々の営みの、敢えて言えば極意である。
 
著者の平山周吉は、その努力をする前に、著者によって、突然、綱を切られた。

江藤淳が生きていれば、編集者と著者の絆は、必然の太い撚糸に変わったかもしれない。しかしそれは、かなわぬことになった。
 
そこで、自死の当日に会った編集者は、1500枚を超える評伝を書いたのである。

(『江藤淳は甦える』平山周吉、新潮社、2019年4月25日初刷、9月10日第3刷)
posted by 中嶋 廣 at 15:16Comment(0)日記