篤実な評伝だが――『江藤淳は甦える』(8)

それは終戦の翌年の春に、昭和天皇が側近たちに語った、著者が言うところの、「肉声の昭和史」である。
 
江藤淳は、これにショックを受けたらしく、『昭和の宰相たち』は、中途で放擲された。

「江藤はそれまで御製、詔書、詔勅などから自らの確固とした昭和天皇像を作ってきていた。それを上回る量の肉声が『昭和天皇独白録』には溢れていた。読めば読むほど、その肉声と江藤の昭和天皇像は乖離していかざるを得ない。」
 
その結果の、『昭和の宰相たち』の中断であるという。
 
しかしそもそも、「御製、詔書、詔勅など」は、どう考えても肉声ではない。それを、肉声に準じるもの、と考える江藤の方こそ、どうかしている。
 
さらに付け加えるなら、「文藝春秋」の「自称スクープ」も、何をどこまで信用するかは難しい。どこを取るか、なにを落とすかという、編集の都合ということもある。

天皇の言葉や、一国の首相の言葉は、みな完全に合作なのである。
 
その意味では、天皇直筆の日録や、首相の日記なども、一次資料として扱う場合は、かなり慎重な校合が必要である。
 
政治の言葉と、文学の言葉は、その意味では正反対なのだ。
 
江藤淳が、その程度のことも知らなかったとは、考えにくい。しかしそれでも、江藤には、政治と文学の言葉を切り分けるときに、混乱が見られるのだ。
 
平成4年4月号の「海燕」では、古井由吉と「病気について」対談をしている。
 
江藤の病名は化膿性脊椎炎で、2ヶ月余り慶應病院に入院した。古井由吉は、椎間板ヘルニアから生還したばかりだった。
 
対談は、こんなふうに行われた。

「『病気だろうが、いやなことだろうが、それに直面することに、生き甲斐を見出すというのが、われわれの生業の基礎じゃないかと思い暮ら』すのが文学者だと江藤は語っている。」
 
ここまで語っておきながら、のちの自殺の瞬間に、このときのことを、思い起こさなかったろうか。
 
昭和59年には朝日新聞が、江藤の文章の一段を、前後して組み違えた。江藤は傷ついたろうが、これは起こらぬことではない。
 
しかし、平成元年12月号の「文藝春秋」では、そうはいかなかった。

「『代役時代の主役たち』で、原稿用紙二枚分(八百字)が丸々飛ばされてしまったのだ。これはさすがにお手軽な『訂正とお詫び』ではすまされずに、大ごとになった。朝日新聞十一月十五日の第十九面(ラジオ欄)の下に全五段の大きなお詫び広告が掲載された。」
 
すでに江藤淳といえば大家であり、大ごとになっている図は想像がつく。

「掲載原稿がおかしい、とすぐに気づいたのは慶子夫人だった。編集部員も校正者も、さらに文藝春秋社内にたくさんいる江藤の新旧の担当者たちも誰一人気づかなかったのだった。『第一読者』は慶子だけなのか。江藤はそのことにさらに『深く傷ついていた』と思える。自分の原稿はきちんと読まれているのか。」
 
晩年、このようなことが重なると、人生は暗い方へ、どうしようもなく傾いてゆくものだ。
 
ただ、この原稿が脱落した件については、大きな疑問がある。江藤淳は、組み上がった原稿を、一度も読まなかったのだろうか。
 
そういうふうにしか読めないが、しかし著者校を、一度もしないのはおかしい。「文藝春秋」は、そこまでお粗末な雑誌ではあるまい。

一度でも読んでいれば、江藤自身が、読み飛ばしていたことになり、これはこれでどうしようもない。
 
いずれにしても、ここには書かれていない、謎に似たものがあったようだ。
posted by 中嶋 廣 at 16:07Comment(0)日記