篤実な評伝だが――『江藤淳は甦える』(7)

それでは江藤淳は、大学で教授としてのし上がり、戦後の保守政治にも色気を見せるだけの、その程度のものだったのだろうか。
 
私はそうは思わない。それはやっぱり、文芸批評があるからだ。

「江藤の久々の現役文芸評論家復帰作といえる『自由と禁忌』は丸谷才一、小島信夫、大場みな子、吉行淳之介、安岡章太郎といった第一線の作家の話題作を厳しく断罪しながら、中上〔健次〕の『千年の愉楽』だけを激賞した本である。」
 
これは、出たときはずいぶん話題になった。吉行が糞みそにやっつけられている、というのを聞いて、私は絶対に読むものか、と思ったが、今になってみれば、批評家がノーガードで撃ち合う図は、懐かしいものがある。

「昭和五十八年度の谷崎潤一郎賞の選評を手がかりに、江藤は文壇の『人事担当常務』吉行の選考会での采配と、吉行の判断に『正しい』と大きな掛け声を掛けた丸谷をこき下ろした。この時は古井由吉の『槿』と中上の『地の果て 至上の時』が争い、古井が受賞した。選考過程での吉行の『政治的な貫禄』と丸谷の『政治的「正しさ」の論理』を江藤は告発した。」
 
いや、これは面白い。出版という世界、特に文壇という、極度に狭く、かつ神経質な世界を、外から見ている分には、実に面白いものだ。
 
それに文学賞というのは、ぶっちゃけて言えば、正解のない、どうとでも判断を下せるものではないか。
 
江藤淳はそれでも、それに嚙みついたのだ。

「文壇がかつての相互に自由な独立性をとうに失い、出版社や新聞社によって組織・編成された一個の管理社会と化しつつある。」
 
なかなか立派な意見である。しかし、出版社や新聞社によらない自由な文壇が、かつてあったであろうか、ということも考慮に入れた方がよい。
 
私はどちらかといえば、「選考過程での吉行の『政治的な貫禄』」を、面白がるタイプの人間だ。これはこれで、なかなか味があると思ってしまう。
 
ただ、『槿』と『地の果て 至上の時』とでは、断然、『地の果て 至上の時』が受賞すべきだとは思うけど(『槿』は途中で投げ出した。実際、どれほどの人が終わりまで、興味をもって読んだのだろう)。
 
平成2年12月号の「文藝春秋」に、「昭和天皇独白録」という、「スクープ」を自称する記事が載った。
 
これを巡って、信じられないことが、江藤淳に起こった。「信じられない」とは、私がそういうふうに思える、ということだ。
posted by 中嶋 廣 at 08:42Comment(0)日記