50年ぶりのめぐり逢い――『赤毛のアン』(4)

『赤毛のアン』は、人物描写も、自然の描写も、実に巧みだ。かなり長い小説だが、一箇所も、だれるところがない。
 
僕はもともと、外国文学で自然描写が出てくると、たいていは想像力がついていかなかった。脳出血を発症してからは、それに拍車がかかった。
 
でも、この本は違うのだ。グリーン・ゲイブルズの四季が、隅々まで、はっきり頭に入ってくる。自然の移り変わりが、目の前に見えてくる。
 
もちろん、何でもないところも、けっして飽きさせない。

「……一連の日課と勉強は愉しく、冬の日々は過ぎていった。アンにとって、一日一日は、一年という首飾りにつないだ金のビーズが糸をすべるように、いつしか過ぎていった。アンは幸福だった。」
 
この見事な呼吸は、松本侑子の翻訳の力も、与かっているだろう。
 
ただ一箇所、これはどうかと思うところがある。

「アンは、もっと気高い動機から、高得点で受かりたいと思っていた。……一番になりたいと思うことは、たとえ荒唐無稽な夢だとしても、馬鹿げているかもしれない。しかし……」
 
この「だとしても」は、おかしくはないだろうか。

ここは、「たとえ荒唐無稽な夢であり、馬鹿げているかもしれない。しかし……」と、続かなくてはいけないところではないか。
 
でもまあ、一カ所くらいは、疑問に思うところが、残っていた方がいいのである。
 
本文が終わると、先ほど挙げた「訳者によるノート」があって、そのサブタイトルは、「『赤毛のアン』の謎とき」となっている。
 
これは編集者の知恵だろう。編集者が力(りき)を入れると、装丁も含めて、本が躍動し、活性化する。
 
最後に松本侑子の、長い「訳者あとがき」が来る。これも本文と、どっこいどっこいで力が入っている。

「モンゴメリは、三十四歳までに少なくとも二百八十六作の短編と二百五十六篇の詩が印刷されたとあります。彼女はカナダで初めて原稿料で生活できた作家であり、三十三歳で初めての本『赤毛のアン』が出る前に、すでに短編作家として旺盛な執筆をしていたのです。」
 
それは全然知らなかった。

『赤毛のアン』は1906年に完成すると、マクミラン社を含む4社に郵送するのだが、いずれも本としては不採用を告げられる。そうして5社目のL・C・ペイジ社で、出版が決まったのである。
 
たしか村岡花子のあとがきでも、何社かで不採用になった話が出てきたが、それはモンゴメリが、たまたま書いたものが、愛着を持てるもので、何社かで没になった後、ようやく日の目を見た、という話だったような気がする。
 
モンゴメリが、カナダで初めて、原稿料で生活していた作家だったなんて、全然知らなかった。
 
それにしても、これを没にした編集者は、当然のことと言えば言えるだろうが、つらいだろうなあ。まあ編集者としては、それだけのものだった、というほかはないのだが。
posted by 中嶋 廣 at 08:51Comment(0)日記

50年ぶりのめぐり逢い――『赤毛のアン』(3)

はじめ、アンは男の子と間違えられて、グリーン・ゲイブルズに連れてこられる。

そのことが分かって、アンがしおたれている場面である。

「マニラはアンに目を向けた。すると子どもの顔が青ざめ、何も言えないままみじめな表情を浮かべているのを見て、情にほだされた――まるで無力な小さな生きものが、一度逃げ出した罠にまたかかったと気づいて、打ちひしがれているような様子をしていた。マリラは良心の呵責にさいなまれた。この訴えを退けたら、死ぬ日までこの子の顔がちらついて、頭から離れないだろう。」
 
マニラは、農家の手伝いになる男の子が欲しかった。そこを、意見を翻して、女の子を受け入れようとする。
 
よくある場面といえばそうなのだが、しかしうまいものだ。
 
そのアンは、いつも空想力全開で、たちまち現実から羽が生えて、想像の世界へ羽ばたいていってしまう。
 
そうした場面を次に。
 
アンは、無二の親友、ダイアナを深く愛していて、このまま大人になると、結婚して別れなければならなくなる、その時が来ることを思うと、どうしようもなくなり、ただただ激しく泣きじゃくるのだった。
 
それを見たマニラは、びっくりする。

「マニラは、あわてて後ろをむいて、おかしくて引きつる顔を隠そうとした。しかし我慢できず、近くのいすにたおれこむと、どっと吹き出してしまった。思いきり声をあげて珍しいほど大笑いしたので、庭を横切っていたマシューが、ぎくりとして、立ち止まったほどだった。この前、マリラがあんなふうに笑ったのは、いったい、いつのことだったろう。」
 
アンとマリラが生き生きと描かれた場面で、マリラが、この少女を引き取った訳が分かる。
 
アンの想像力はどこまでも延びて、マリラを虜にしてしまう。

「『いいかね、アン・シャーリー』マリラは、やっと笑いがおさまって口がきけるようになると言った。『どうしても苦労の種がいるんなら、お願いだから、もっと手近なところから持ってきておくれ。まあ、確かに、あんたには想像力があるよ、ありすぎですよ』」
 
この最後の一文に、『赤毛のアン』の、物語を推進していく、究極の原動力が秘められている。
 
またアンには、特別な友人・知人が、何人か出てくる。これは、松本侑子の訳語では、「心の同類」と呼ばれるものだ。「心の同類」がいてくれれば、世の中の少々の荒波は、越えてゆける。
 
これは車谷長吉が、人間の「貫目が合う」、と呼ぶところのものだ。長吉は、夫婦は貫目が同じでなければ続けていくのは難しい、と言った。
 
アン・シャーリーなら、「心の同類」でなければ、本当の友だちにはなれない、と言っただろう。アンは、長吉が言った勘所を、よくとらえている。
posted by 中嶋 廣 at 11:03Comment(0)日記

50年ぶりのめぐり逢い――『赤毛のアン』(2)

『赤毛のアン』で鮮明に覚えているのは、アンがマリラに、アンの綴りのことで注文を付ける場面だ。

「『……アンと呼ぶなら、最後にeの地を綴って呼んでくださいね』
 マニラの頰に、また錆びついていたような笑みが浮かんだ。」
 
ここのところはよく覚えている。英語を習い始めてすぐだから、アンには二種類あることが、鮮烈だったのである。

「『そう綴ると、何か違うのかい』
『あら、全然違うわ。その方が、断然、すてきに見えるわ。おばさんは、人の名前を聞いた時、頭の中に、まるで綴りが印刷されたように浮かんでこない? 私はいつもそうよ。ANNではひどく見えるけど、ANNEにすると見違えて上品だわ。……』
 
百年以上前の作品なのに、アンもマリラも、すぐそこにいて話し込んでいるようだ。
 
ここは何カ所か、訳注番号が振ってあり、それは最後に、まとめて出ている。例えばこんな具合だ。

「アン……キリスト教では、聖母マリアの母親アンナの英語名。宗教画では赤い服に緑色のマントの婦人として描かれる。グリーン・ゲイブルズの三人の名は十二使徒マタイ、聖母マリア、マリアの母アンナに由来し、マシュー、マリラ、アンは親子ではなくともキリスト教の愛で結ばれた聖家族と示唆される。」
 
なるほど、背景にそういうキリスト教のバックボーンがあるのか。1世紀前の作品なので、こういうところは、解説なしでは、理解することが難しい。
 
また、アンの綴りに関しては、こんな訳注がついている。

「ANNEにすると見違えて上品……Eの付いたアンはスコットランドのスチュアート王家のアン女王の他、イングランドでも同じ綴りの王女や王妃がいる。」
 
まったく至れり尽くせりだ。こういう註を読むと、本文を読んでいくとき、こちらの目の届く深みが違う。
 
もちろん、かつての村岡花子訳には、付けられていなかったものだ。
 
ただ僕は、右半身が麻痺しているので、本文を読むとき、同時に訳注までは読めない。訳注は訳注で、後でまとめて読むしかない。しかしそれでも、十分に深みがあって、面白い。
posted by 中嶋 廣 at 09:09Comment(0)日記

50年ぶりのめぐり逢い――『赤毛のアン』(1)

中学生になったばかりの一学期に、加古川駅前の下司(げし)書店で、生まれて初めて文庫を買った。

『赤と黒』(スタンダール、小林正・訳)、『月と六ペンス』(モーム、中野好夫・訳)、『赤毛のアン』(モンゴメリ、村岡花子・訳)という組み合わせで、3冊とも新潮文庫だつた。

このとき、なぜ文庫を読もうと思ったのか、どうしてこういう組み合わせになったのかは、わからない。海外文学など、まったく知らない頃だ。
 
そのころ、兵庫・加古川の書店には、文庫といっても、新潮文庫と角川文庫だけが置いてあり、岩波文庫はなかった。岩波は買い切りだったからだろう。角川文庫は、海外のものは少なくて、しかもいま思えば、組みも古かった。
 
きっと中学生になったばかりで、背伸びして文庫を読んでみよう、と思ったのだろう。

その後、狂ったように文庫を読みまくる、といったこともなかった。
 
しかしこのときの3冊は、どれもみな面白かった。

『月と六ペンス』は、ゴーギャンをモデルにした、チャールズ・ストリックランドという画家の性格に、思いきりひねりが効かせてあり、『赤と黒』は、重厚な中にも、ジュリアン・ソレルの一途な情熱が沸騰し、こちらに伝染するようだった。
 
その2冊に比べると、『赤毛のアン』は少女小説だけれども、何というか親しみがあり、グリーン・ゲイブルズのマシューとマリラの兄妹も、まるで生きて、隣りで呼吸しているようだった。
 
アンの数々の失敗も、十代の女の子らしく、最後にギルバートと仲直りし、恋人同士になってゆくのも、いかにも心に沁みる話だった。
 
こんどそれを、松本侑子訳で読もうと思ったのは、カバーにこんな文章が載せられていたからだ。

「笑いと涙の名作は英文学が引用される芸術的な文学だった。お茶会のラズベリー水とカシス酒、スコットランド系アンの民族衣装も原書通りに翻訳。みずみずしく夢のある日本初の全文訳……」
 
帯にはまた、こうも書かれている。

「児童書でも、少女小説でもない/大人の文学」(オビ表)

「全文訳で初めて明らかになる、心豊かな名作の真実」(オビ裏)
 
特に「初めて明らかになる、名作の真実」、というところに痺れてしまった。
 
しかし、とはいっても実は、村岡花子訳は名作だった、という印象を除いて、僕の頭の中では、文章を全然覚えていないのだった。

これは、50年以上昔のことだから、考えてみれば、当たり前のことかもしれない。
posted by 中嶋 廣 at 13:12Comment(0)日記

ちゃんと校閲しなさい!――『夏の栞ー中野重治をおくるー』(4)

佐多稲子はまた、小林多喜二の死にも出会っている。
 
小林多喜二は1933年2月20日に、赤坂の路上で逮捕され、築地警察署で拷問死させられたのである。
 
佐多は小林多喜二に、ほんの数日前に会っていた。

「私なども、その三日前に、料亭の並ぶ赤坂の、小林の逮捕された同じ通りで小林に連絡をとっていたようなつながりにいたから、小林のその死は私の主観を一層尖敏にした。」
 
佐多稲子も戦前の、暗い歴史の表舞台の、中心に存在していたのだ。
 
しかしそれにしても、この引用で、「私の主観を一層尖敏にした」という、「私の主観」は、やはりおかしい。

「牛込柳町のひっそりした片側通りの一軒の二階で、非合法化の活動家たちと落ち合って、小林多喜二の死に黙禱をしたとき、私の胸には、二十一日の夜、阿佐ヶ谷の自宅に戻された小林多喜二の遺体をあらためたときの私自身の感覚と、小林の母、せきさんの痛恨の姿があった。……遺体の両股は紫色に腫れ上っていた。小林の母が多喜二の喉の傷を撫でて『どこ、息詰まった。殺さねえでもいいこと……』と云うとき、母のその息も喘いだ。この黙禱の席にいた六人のうちで、小林の遺体に接したのは勿論私一人であった。」
 
歴史の教科書で、一行ですまされる、小林多喜二の拷問による死が、突然生々しく迫ってくる。
 
それにしても佐多稲子という人は、人の五生分くらい有為転変を経ながら、なおそういう舞台に、召喚されなければならないのだ。
 
しかしそうであればあるほど、佐多の文章には、注意が払われてしかるべきだろう。もはや、いちいち例を挙げるのはやめるが、『夏の栞』は、後半に行けば行くほど、文章が危うい。
 
おそらく中野重治が死んで、佐多稲子の胸中に甦ったとき、そのとき歴史の中で、二人の関係は、深いところで、ますます微妙なものになったのであろう。
 
校正者はしかし、それを、意味あるものとして、忖度して読んではいけないのではないか。
 
まあ難しいやねえ。表面の、上っ面の意味を、すんなりと通るようにしなければ、当然疑問を出すだろうが、しかし佐多稲子の文章である。
 
しかし私は、ここでもう一段階、多く疑問が出ていたならば、『夏の栞』は、比類ない傑作になったと思うのだ。

(『夏の栞ー中野重治をおくるー』佐多稲子
 新潮社、1983年3月5日初刷、1986年3月15日第16刷)
posted by 中嶋 廣 at 12:14Comment(0)日記