篤実な評伝だが――『江藤淳は甦える』(3)

江藤淳の「戦後」批判は、日本国憲法の制定過程から、GHQの占領下の検閲問題など、実証的な方向へ進んだ。
 
資料を発掘し、アカデミズムの批判に耐える、その著作は、「江藤淳にとっても、また今読んでも、まぎれもなく文学者の仕事でもあるのは、『戦後と私』の記述によって明らかである。」
 
そうであろうか。問題はここにある。

「文学者の仕事」を、著者はどうとらえているか。

「江藤の語る『もっとも大切なもの』とは、母・江頭廣子のかけがえのない記憶であり、その『イメイジが砕け散った』とは、母の記憶の痕跡をとどめる場所が、『痴戯』の現場になろうとしていたからだ。江藤は母の美しい記憶が無惨にも凌辱された、と感じた。ただの故郷喪失ではなかったのである。」
 
個人的な、あえて言えば、卑小な個人的体験を、戦後日本の歩みと抱き合わせ、そこで異議申し立てをする。
 
これは実にこざかしい、と言わざるを得ない。
 
それが、若くして死んだ母のことであるとしても、それを「文学」という修辞を用いて、個人的な悲しみを際立たせるのは、やめた方がいい。
 
なんだ、個人的な悲しみを、「文学的」という言葉で、オブラートでくるんであるのか、ただそれだけのことか。
 
本書とは少し話が逸れるが、私はむしろ、新大久保界隈の、「痴戯」の噴出する現場に、坂口安吾の「堕落論」に出てくるような話が、見出せそうな気がして、いっそ爽快なくらいだった。
 
しかしもちろん、江藤淳が、のちの批評家の、素晴らしい片鱗を見せたところもある。

「稲村ヶ崎の自宅近くには、漱石の次男・夏目伸六の家があった。ある日、通りで友達とキャッチボールをしていて、球が逸れた。その球を拾って投げ返してくれたのは夏目さんだった。『彼にはいわば世間一般に通用している漱石の名声の影を、暗く凝固したようなところ』があった。『この暗さには偉い親を持った息子の不幸などという月並みな判断では片附かぬ異常なものがあった』(『決定版 夏目漱石』)。」
 
こういうところは、まことに凄みがある。
 
そして、これに続くところ。

「江藤淳が処女作『夏目漱石』で執拗に追求した『漱石の低音部』を、次男の顔から感じていたというのだ。」
 
このあたり、江藤淳はさすがである。

篤実な評伝だが――『江藤淳は甦える』(2)

この「評伝」は非常に詳しく、また後で書くけれども、書きにくいところにも筆が及んでいて、飽きさせない。
 
そして、こういうところは、ちょっと息をのむ。

「この対談が終わった後、江藤淳が洩らした一言がある。松本健一は『SAPIO』の没後十年の江藤淳特集で江藤の言葉を記している。
『私は昨日の夜中、夢を見た。昭和天皇が枕元にお立ちになって「江藤、首相をやってくれ」と大命降下があった』
 松本は亡くなっているので、夢の詳細はわかりようもない。江藤なら大命を拝辞することは絶対ないだろう。」
 
ここを読めば、たいていの人は驚くんじゃないか。
 
江藤淳は、早くに亡くなった祖父の海軍大将をはじめ、海軍閥に囲まれた家柄だった。

「二・二六事件の時に襲撃された首相は岡田啓介、殺された内大臣は斎藤實だった。『〔江藤の〕祖母は彼らを個人的に知っていたのである』(「文学と私」)。江頭〔=江藤の実の苗字〕家は当主を失った後も、そうした家であった。
『祖父の生涯が、明治日本の中枢と直結し』、『戦前の日本の基礎を形成するのについやされた一生』であり、『自分と国家の距離が近いことを感じないわけにはいかな』い環境だった。」
 
特に最後の一行、「『自分と国家の距離が近いことを感じないわけにはいかな』い」、は重要である。
 
私はたぶん、こういうところが嫌で、江藤淳の書くものと、距離を取ったのだと思う。

そのころは、江藤がどんな出自か、まったく知らなかったけれど、こういうことは、自然に文章に表われるものだ。

「群像」に寄せた「戦後と私」というエッセイで、江藤淳は、20年ぶりに訪れた「故郷」、新大久保界隈のことを書いている。
 
昭和40年といえば、新大久保はすでに、連れ込みホテル街として有名になっていた。

「『戦後』とは、平和と民主主義と繁栄を獲得した時代ではない。九十九人が『戦後』を謳歌するにしても、一人の批評家の『私情』は、『深い癒しがたい悲しみ』によって満たされ、『戦後』を喪失の時代とすることを躊躇わない。『自分にとってもっとも大切なもののイメイジが砕け散ったと思われる以上』は。
『戦後』日本に対する最強の批判者が誕生した瞬間が、この『故郷』再訪であった。」
 
ばっかばかしい。江藤が「故郷」を懐かしみ、今は亡き母親との、ありし昔を思い出して、涙する。それはいい。しかしそれをもって、戦後日本に対する、「最強の批判者が誕生した瞬間」というのは、まったく笑止千万である。

篤実な評伝だが――『江藤淳は甦える』(1)

これは紛れもない労作。四六判で750頁余、四百字詰め原稿用紙でざっと1500枚。

江藤淳については、この本が基本的な資料になるだろう。

著者の平山周吉は、平成11年には、『文學界』編集長で、江藤の「幼年時代」の連載原稿の第2回目をもらった。それから4,5時間後に、江藤は、浴室で手首を切り、自殺する。
 
私は高校時代に、江藤淳の『夏目漱石』を読んだ。国語の先生が、何かの流れで、これは面白いよ、と推薦したのである。私はこの、松尾稔先生の批評眼を信頼していた。
 
読んでみると、小宮豊隆の漱石神話を、正面から木っ端微塵に粉砕していて、実に痛快だった。例の「則天去私」の「神話」である。
 
大学へ入ってからは、『漱石とその時代』(第一部)と『成熟と喪失』を読んだが、これはどうもいけなかった。しかし、なぜいけないのかは、深くは考えなかった。
 
大学のときか、出版社に入ってからか、江藤の博士論文、『漱石とアーサー王伝説』を読んだ。

これは慶應義塾大学に提出し、文学博士を取得したものだが、この本は、もっといけなかった。最後まで読むことができずに、投げた。
 
江藤淳は、これ以後、読むのをやめた。
 
今度、この本を読んだのは、推薦してくれる人があったからだ。

「君がどういうふうに読むか、そしてこの書名に対して、どういうふうに答えるのか、知りたい。」
 
そこまで見込まれては、読まずにはおられない。
 
最初にこの本の帯を読むと、なぜその後の江藤淳が、私とは合わなかったのか、わかる気がする。

「日本という国はなくなってしまうかも知れない。――「平成」の虚妄を予言し、現代文明を根底から疑った批評家の光と影。二十二歳の時、「夏目漱石論」でデビューして以来ほぼ半世紀、『成熟と喪失』『海は甦える』など常に文壇の第一線で闘い続けた軌跡を、自死の当日に会った著者が徹底的な取材により解き明かす。新事実多数。」
 
こういう姿勢で臨んでは、だめなのである。
 
いくらかでも、時代から飛び上がったところ、浮いたところがないと、そして少しでも、普遍の高みを目指さなければ、どうしようもない。私はそう思う。
 
しかし、最初の違和感は違和感として、まず読んでみよう。
 
その頃の江藤淳は、どんな具合だったか。

「慶子夫人を亡くした後の江藤さんは情緒不安定で、機嫌よく情勢判断や文壇人物月旦をしていたかと思うと、夫人のことを思い出して、急に嗚咽と滂沱の涙となる。涙がおさまると、すぐにもとの座談にけろりと戻る。」
 
ここでは著者は、ある一定の距離を保って、江藤淳のことを書こうとしている。これは希望が持てる。

老人問題は手に負えない――『老人の美学』

これは正直、つまらない本である。
 
でも、筒井康隆が書いているので、日本語を読む快感はある。だから、金返せとは言わない。
 
しかし内容は、自分の書いた本から例を引くだけで、あわよくば昔書いた本を、宣伝してやろうという、いじましい根性の本である。
 
でもそれでも、著者の日本語には、何とも言えずキレがある。
 
例として引く本は、「敵」、「わたしのグランパ」、「愛のひだりがわ」、「銀齢の果て」などである。
 
これらのうち、「銀齢の果て」を読んでなかったので、読むことにする。

「あわよくば昔書いた本を、宣伝してやろうという、いじましい根性の本」、などと言いつつ、完全に取り込まれてますな。しかし、これは面白そうだから、いいのだ。

『老人の美学』などと、ちょっとお高くとまってはいるけれど、著者にそんな気は全然ない、と思う。
 
老人になって、認知症になれば、それはもうしょうがない。

「最終的には自覚もなくなり、身の処しかたなどどうでもよくなる。どんな状態になろうがその意識が本人にないのだから仕方がない。小生も今のうちに言っておくが、それこそもう、どうにでもしてくれ、である。」
 
そういうことだ。でもどうにもならないから、まわりはみんな困っているのだ。
 
最後に一つ、大事な心得が書いてある。

「死とまともに向かい合うのが不愉快なあまり、他の人に対しても怒りっぽくなり、不機嫌を周囲に撒き散らすのはやめていただきたい。死ぬのは厭じゃとわめき散らしているようなものであって、それこそ死期を迎える老人の、最も美的でない生き方である。」
 
はい、わかりました、認知症にならない限り、気をつけます。
 
しかし、老人問題は、筒井康隆をもってしても、どうにもならないものだ、ということだけは、よくわかる本だった。

(『老人の美学』筒井康隆、新潮新書、2019年10月20日初刷)

虚をつく問い――『銃・病原菌・鉄』(上・下)(4)

この本で問題になるのは、やはり「疫病」を、どう見るかであろう。

「世界史では、いくつかのポイントにおいて、疫病に免疫のある人たちが免疫のない人たちに病気をうつしたことが、その後の歴史の流れを決定的に変えてしまっている。天然痘をはじめとしてインフルエンザ、チフス、腺ペスト、その他の伝染病によって、ヨーロッパ人が侵略した大陸の先住民の多くが死んでいるのだ。」
 
そういわれても、なかなかおいそれとは信じられない。

「たとえば、アステカ帝国は一五二〇年のスペイン軍の最初の侵攻には耐えているが、その後に大流行した天然痘によって徹底的に打ちのめされた。皇帝モンテスマを継いだばかりの皇帝クイトラワクも、やはり天然痘で死んでいる。ヨーロッパからの移住者たちが持ち込んだ疫病は、彼らが移住地域を拡大するより速い速度で南北アメリカ大陸の先住民部族のあいだに広まり、コロンブスの大陸発見以前の人口の九五パーセントを葬り去ってしまった。」
 
数値の上でも、非常に正確な描写だが、これはどこの、何に基づいているのか。
 
叙述が巧みなので、つい信用しそうになるが、それにしては、それの基づくデータを一切上げないのはなぜか。
 
読み物としては、そういうものを上げるのは、読んでいくときの流れを妨げるのだろうか。
 
この上下二巻本は、じつに読みでがある。しかし注意して見ていくと、結局これは、通常の歴史の本と、変わらない叙述になっていくことが多い。

「それは、ユーラシア大陸とアフリカ大陸の広さのちがい、東西に長いか南北に長いかのちがい、そして栽培化や家畜化可能な野生祖先種の分布状況のちがいによるものである。つまり、究極的には、ヨーロッパ人とアフリカ人は、異なる大陸で暮らしていたので、異なる歴史をたどったということなのである。」
 
そう言ってしまっては、おしまいなんじゃないか。
 
それよりも、最初に返って、著者の歴史を見る目を問題にしたい。

「本書は、煎じつめれば人類の歴史について書かれたものである。このテーマは学術的に興味深いだけではなく、その解明は現実的にも政治的にも非常に有意義なものでもある。というのも、さまざまな民族のかかわりあいの成果である人類社会を形成したのは、征服と疫病と殺戮の歴史だからである。」
 
これが著者の歴史観である。実に皮相ではないか。
 
殺戮の歴史は、民族の優劣に拠るのではない。それは大きく言って、風土によるものだ。著者の言いたいことは、せんじ詰めればそれだけ。そんなことは、わかりきったことではないか。
 
この本がアメリカで売れたのは、分かるような気がする。こういう結論は、アメリカの読者にとっては、ある意味、ショックだったのだろう。
 
レヴィ・ストロースの『悲しい熱帯』は、ついにここでは、何の影響も与えていなかったのである。

(『銃・病原菌・鉄』上・下、ジャレド・ダイアモンド、倉骨彰・訳
 草思社、上・2000年10月2日初刷、11月14日第9刷、下・2000年10月2日初刷)

虚をつく問い――『銃・病原菌・鉄』(上・下)(3)

著者の、歴史以前と歴史に対する問いが、虚を突くもので、おたおたしていると、ここでもう一つ、読者がよく知らない事実を挙げてくる。

「……直接の要因と究極の要因を結ぶ因果の鎖を詳細に探っていく。その過程でわれわれは、まず、人口の稠密な集団に特有な感染症の病原菌がどのように進化したかを考察する。」
 
これ、本当かね。そんなことが、分かるものなのかしら。

「ヨーロッパ人が持ち込んだ病原菌の犠牲になったアメリカ先住民や非ユーラシア人の数は、彼らの銃や鋼鉄製の武器の犠牲になった数よりもはるかに多かった。それとは対照的に、新世界に侵略してきたヨーロッパ人は、致死性の病原菌にはほとんど遭遇していない。この不平等なちがいはなぜ起こったのだろうか。」
 
これは面白いけれども、データを挙げてくれなければ、おいそれとは信じられない。というか、どこまで、どういうふうに、信じればよいのかが分からない。
 
病原菌に関しては、最後までデータは挙がってこない。ユーラシアとアメリカ大陸では、人間の抵抗力が違っている、というのは、叙述がそこで終わっているから、そういうものだと思って読むしかない。
 
しかし、有史以来の話としては、この著者以外は、病原菌を取り上げた例は、寡聞にして知らない。
 
これは、僕が知らないだけなのか。どう考えたらいいのか、よくわからない。
 
もう一つ仕掛けがあって、ジャレド・ダイアモンドのフィールドは、オーストラリア、ニューギニアと、ポリネシアの島々である。
 
ここから、ヨーロッパやアジアを考えると、なんとなく新鮮な感じがする。

「ポリネシア社会の多様性に貢献しているのは、少なくとも六種類の環境要因である。島ごとに異なるそれらの要因とは、気候、地質、海洋資源、面積、地形、隔絶度である。」
 
この6つの要因をよく考えてみると、ポリネシアというところにびっくりしなければ、どんなところでも考えられる、普通の地理、歴史である。
 
こういう具合で、ジャレド・ダイアモンドは、最初の方の仕掛けにごまかされなければ、そして「病原菌」というキーワードに振り回されなければ、全体としては、まあまあ面白い、通史を扱った本ということになる。

「人口の稠密なところでは、農業を営んでいない住民が農民を支援するかたちで彼らを集約的な食料生産に従事させた結果、非生産民を養うに充分な食糧が生産された。」
 
もってまわった言い方だが、要するに、農業に従事することになり、定住することになった結果、食料に余分ができ、それで族長や役人、戦士や僧侶などが生まれ、やがて国家になっていった、というおなじみの話になる。

虚をつく問い――『銃・病原菌・鉄』(上・下)(2)

その問いはもう少し詳しく、さらに巧妙に仕掛けられる。

「現代世界における各社会間の不均衡についての疑問は、つぎのようにいいかえられる。世界の富や権力は、なぜ現在あるような形で分配されてしまったのか? なぜほかの形で分配されなかったのか?」
 
これは難しい。ふつうは、今ある世界を、まず受け入れることから始まって、その歴史なり、風土なりを、つまり過去の歴史を辿ったり、あるいは現在の政治なり、文化なりを、俎上に載せる。
 
今あるそれらを俎上に載せないで、仮定の話を持ってくるのは、非常に難しい。
 
それはたとえば、こんなふうだ。

「たとえば、南北アメリカ大陸の先住民、アフリカ大陸の人びと、そしてオーストラリア大陸のアボリジニが、ヨーロッパ系やアジア系の人びとを殺戮したり、征服したり、絶滅させるようなことが、なぜ起こらなかったのだろうか。」
 
場合によっては、アフリカやオーストラリアの原住民が、ヨーロッパの原住民を、襲ってもよかったじゃないか。しかしそれは、起こらなかった。それはなぜ?
 
これはまったく、考えたこともない問いだ。
 
ジャレド・ダイアモンドは、それに先立って、民族の優劣を知るために、この研究を始めたいと考えたわけではない、ということを、くどいほど述べている。

「私が、居住地域を異にする人間社会の差異について調べようと考えたのは、ある社会が他の社会よりも優れていることを示すためではない。人類社会の歴史において何が起こったのかを理解するために、これらの差異について調べようと考えたのである。」
 
そういうふうに言っているけれども、ここは掘り下げて考える必要がある。

というのは、著者はこんなことも言っているからだ。

「さまざまな民族のかかわりあいの成果である人類社会を形成したのは、征服と疫病と殺戮の歴史だからである。」
 
つまりこれは、こういうことに的を絞った、一万数千年前からの、歴史以前の本なのである。
 
ここは、この本の中では、無条件に前提とされていることだが、はたしてそうか。最後に考えてみたい。
 
それを前提にして、なぜヨーロッパ人は、さまざまな征服を可能にしてきたのか。

それはもちろんヨーロッパで発達した銃であり、伝染病に対する免疫であり、鉄器その他の加工品によるところが大きい。
 
しかし、そういう説明だけで、よいのだろうか。

「アフリカ人やアメリカ先住民ではなく、ヨーロッパ人が銃や病原菌や鉄を持つようになった究極の要因を探求しなければならない。
 ……
 このような究極の要因の説明がなされていないため、人類史を特徴づける大きなパターンはいまだに解明されず、われわれの知識には大きな欠落部分が残されているのだ。」
 
うーん、著者は僕らを、どこへ連れて行こうとするのか。

虚をつく問い――『銃・病原菌・鉄』(上・下)(1)

ヤニス・バルファキスの『父が娘に語る経済の話』は、僕には結局、よくわからない本だったけれど、その初めの方に、ジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』を、できれば本書の前に読んでおいてほしい、と書かれていた。

『銃・病原菌・鉄』については、ちょっとばかり因縁がある。

かつて朝日新聞で、2000年から2009年にかけて、ベスト50の本を選んで、発表することにした。題して「ゼロ年代の50冊」。
 
僕は2001年4月から、トランスビューという出版社を始めており、そこでは結構、評判になる本を出していた。
 
例えばこんな本だ。池田晶子『14歳からの哲学ー考えるための教科書ー』、森岡正博『無痛文明論』、島田裕巳『オウムーなぜ宗教はテロリズムを生んだのかー』。ほかにもいくつかあった。
 
それで、ちょっと楽しみにしていたが、いよいよ発表になった本を見れば、第1位は『銃・病原菌・鉄』だった。なんだ、つまんない、翻訳本が第1位だぜ。
 
それでヘソを曲げて、この気になる本を、読むのを止めた覚えがある。考えてみれば、ほんとうに馬鹿だね。だからこの機会に、是非読んでおこうと思った。

ちなみに「ゼロ年代の50冊」に入ったのは、トランスビューの中では、松本昌次さんの『わたしの戦後出版史』だけだった。

蛇足を付け加えれば、朝日に対抗して、リブロ・ブックセンターが、やはり同じ試みをした。こちらは『14歳からの哲学』が1位だった。

ちなみに朝日もリブロも、こういう試みは、半分は洒落である。10年間で何十万点もある本から、50点を選ぶのは無理である。

でも本作りの現場にいるときは、そういう洒落っ気も、ないよりはあったほうがいい(というのは意見の分かれるところだが、僕はその方がいいと思う)。

それではさっそく、この魅力的な装丁の本を読んでみよう。

ここで著者は、最初に大きなテーマを掲げる。

「世界のさまざまな民族が、それぞれに異なる歴史の経路をたどったのはなぜだろうか。本書の目的は、この人類史最大の謎を解明することにある。」(「日本語版への序文」)

これは虚を突かれる問いだ。ふつう世界の歴史は、地域ごとに違っていて、当たり前だと思っている。なんとなく、そういうふうに思っている。
 
しかしなぜ、みんな同じように進歩発展してこなかったのか、と問われれば、はて、と立ち止まらざるを得ない。そういう問いの立て方を、してこなかったからだ。

テレビには向かない――『噂の女』

これは奥田英朗『罪の轍』の、奥付裏広告の最初に出ていた。『罪の轍』が、まあ面白かったので、つい買ってしまった。
 
奥田英朗の、教科書に載るようなミステリーを、たまに猛烈に読みたくなる。

これは少し前に、テレビのBSでも放映していたもので、一話を見たきり、あとは見なかった。

「噂の女」は中心にいるが、それが背景として、やや後ろに引っ込んでしまう。そういう作りだから、テレビで見せるときには、ひと工夫ないと、テレビ的には物足りない。
 
この本で、「女」のむっちりとした太腿、と書いてあったって、それを字面通り見せても、それだけのこと。

むっちりした太腿の先に、女にどういう役割を負わせるか。いっそ女が前面に出て、悪事の限りを、事細かに描写するという手も、あったかもしれない。

でもそれでは、黒川博行の「後妻業の女」と、区別がつかなくなってしまうか。

これは全部で10篇の連作で、「噂の女」は、あくまでも「噂の女」にとどまり、悪事を働いたようだが、真相はよくわからない。
 
目次を挙げると「中古車販売店の女」「麻雀荘の女」「料理教室の女」「マンションの女」「パチンコの女」「柳ケ瀬の女」「和服の女」「檀家の女」「内偵の女」「スカイツリーの女」の10篇である。
 
いかにも教科書に載っているような、B級タイトルである。

「柳ケ瀬の女」とあるから、地域が特定できるのだけれど、そういうこととは関係なく、地方であれば、どこでもこんなふうではないか、と思わせるような倦怠感に満ちている。
 
これは親から子へ、代々受け継がれていく。

「要するに、母には自立経験と成功体験がないのだ。だから頑張ることもしないし、目標も持たない。一人が怖いから、離婚の選択肢もない。ただテレビの前で一日を過ごし、家族の帰りを待っている。」
 
特に本筋とは関係ないところだが、奥田英朗の、ある人間観が出ている。
 
ここを普遍化すれば、亭主や、その子どもも、みんなこういうふうに描けそうだ。本当に嫌になっちゃうね。
 
でもその、地べたを這うようなところで、「噂の女」は生きている、それもかなり生き生きとして。
 
最後の方で、噂の女、糸井美幸は、亭主を3人殺した疑いで、逮捕されそうになるが、間一髪のところで姿を消す。

「美里は思った。これは糸井美幸の仕業なのではないか。噂を聞いていると、彼女ならやりかねない。と言うより、彼女ならやれそうな気がする。……そうだといいな。そうだといい!
 窓から空を見た。同じ空の下に糸井美幸がいるのかと思ったら、なんだかおかしくなった。」
 
気分は爽快、とはいかないけれど、でも、最後に空を見上げるところが出てきて、それはそれで救いになる。

(『噂の女』奥田英朗、新潮文庫、2017年6月1日初刷、2018年2月25日第3刷)

50年ぶりのめぐり逢い――『赤毛のアン』(5)

「訳者あとがき」に見る松本侑子さんの、本書に入れ込んでいく力は、すごいものだ。

「私は翻訳を依頼された一九九一年に初めて原書を読み、作中に詩のような古風な一節や芝居の台詞めいた劇的な英文が多いことに驚き、古典からの引用ではないかと考えました。」
 
それでまず名句の出典を記した、マクミランの「引用句事典」などを、海外から船便で取り寄せる。

まだインターネットのない時代の話である。電話回線のパソコン通信で、米国のネットワークにつないで、シェイクスピア全集をフロッピーディスクに入れ、それで『ハムレット』などからの引用を見ている。
 
また、90年代前半の英米では、英訳聖書や英米文学を収めた、CD‐ROMが発売され、これはロンドンなどで集めた。

「そして二年後の一九九三年、作中の英文学と聖書、カナダの衣食住を解説した訳註付きの単行本を集英社から刊行しました。」
 
これは、注釈付き『赤毛のアン』としては、世界で最初のものだったらしい。
 
しかし、松本侑子の超人的な頑張りは、実はこの後である。
 
本が出てからも、出典不明の英文が気にかかり、今度は自分で、デジタルデータを作ろうとする。

「米国ハーバード大学図書館と英国図書館で十九世紀発行の英米詩集を複写し、ロンドンの古書店では百年以上前の詩集を集め、その紙を一枚ずつスキャナで画像データに変換、画像データからアルファベットを拾い出すソフトを使ってテキストデータを作り、引用元を探しました。」
 
まだインターネットが始まる前であり、気が遠くなるような作業である。それを松本侑子は、こんなふうに懐かしんでいる。

「出典が見つかるたびに心がおどり、モンゴメリへの敬愛が増していく調査でした。」
 
作品と作者に惚れ込むとは、こういうことなのだ。
 
惚れ込んだ先には、どういう世界が広がっているか。

「モンゴメリの文章の美しさにも魅了されます。たとえばプリンス・エドワード島のすがすがしい風景描写。たしかに島にはため息のもれるような美しい景色が広がっていますが、それを描き出すモンゴメリの郷土への愛に満ちた装飾的な文体によって、魔法のようなきらめきを帯びています。」
 
魔法のようなきらめきを、文体に帯びているのは、松本侑子さん、あなたの日本語訳だよ、と思わず言いたくなる。

「モンゴメリの文体は、形容詞と副詞が多用される、凝った文法の長文であり、語彙も難しく、児童文学ではありません。モンゴメリの芸術的な文体は、夢のような風景描写と人間の真実をとらえた深みのある心理描写の確かさを支え、文学としての読み応えにつながっているのです。」
 
ここまで、読みに読み込んで翻訳をすると、もはや横のものを縦にするといった翻訳を越えて、松本侑子も、『赤毛のアン』の創作に、一緒に参加しているという、錯覚に陥ってしまう。
 
50年前の村岡花子訳は、たしかに名作だと思ったが、それでも続編は読まなかった。今度の松本侑子訳は、『アンの青春』『アンの愛情』『風柳荘のアン』……と、続けて読むことにする。

(『赤毛のアン』L・M・モンゴメリ、松本侑子・訳
 文春文庫、2019年7月10日初刷)