また、自殺直前の芥川龍之介にからむ話も面白い。
芥川と中野重治は交流があり、芥川が求めて中野に会ったのである。
「芥川が自ら求めて中野重治に逢うというのは、中野たちの展開した、階級思想による文学運動についての関心なのだということは、窪川の話などから感じ取っていた。」
中野が芥川のもとを訪ねたのは、1927年6月のことである。翌7月には、佐多稲子も、中野や堀辰雄、佐多の夫である窪川鶴次郎とともに、田端の芥川のところに出向いている。
「芥川が私に逢おうとしたのは、七年前に上野池之端の料亭の女中として知っていた女のその後を見ようとしてではなく、自殺未遂をした人間の、今日の顔を見ておこうとしたことだったろう、と、これは芥川の死のあとに私の気づく判断であった。」
芥川龍之介が睡眠薬を飲んで自殺するのは、その三日後のことである。
ほとんど劇的な場面に遭遇しながら、佐多の文章は、ブレなく、すっくと立っていて、しかも奥が深い。
もちろん見るべきところは、細かく見ている。
「白っぽい麻を着た芥川の、私のコップにサイダーをついでくれる手がこきざみに慄えて、芥川の神経の疲労を見るようだったのを覚えている。」
自殺する直前の、芥川龍之介がどのようであったか、息を呑むようだ。
もう一つは、中野重治らの同人誌「驢馬」の前に、女給の佐多稲子が登場したとき。このときを十全に語って、余すところがない。
「『驢馬』における私は、私そのものが、経てきた道筋に異常とも多様とも云えるじぐざぐを背負って、彼らの前にあらわれたのでもある。それについて敢えて云えば、私のその複雑さは『驢馬』同人を刺戟しなかったろうか。私として云えば、その過去は、彼らの文学的態度によって受けとめられ、私を救ったものである。その関係の上で、私は彼らを刺戟したと思う。」
こういう文体を、何と言えばいいか。佐多稲子は、小学校を途中までしか通わず、その後有為転変あって、結婚し、そして心中し損ね、夫と別れ、女給として、中野重治らの前に現われた。
それを、わずか数行の文章に凝縮し、しかもそこには、ほんのりとツヤまである。
こういう文章は、まったく見たことがない。ほかの作家の文章と、何が違うのだろうか。少なくとも、自分の置きどころが、違うことだけは確かである。
しかし、では、その自分の置き場所が、他とどう違うのかといえば、私にはよく分からない、と答えるしかない。
しかしそれでも、「私として云えば、その過去は、……」の、「私として云えば、」は、微妙に安定を書いていると思うが、どうか。