そのころ、といっても、もう40年近く前だが、よく行っていた、新宿・番衆町の呑み屋の女将が、『夏の栞』を読みながら、佐多稲子さんはいいねえ、と言っていたのが、耳に蘇ってきて、続けて読んでみた。
「中野重治をおくる」というのが大きなテーマで、それに絡めて、いろいろなことを思い出す。そういう随筆集である。
中野重治が、癌で入院し、死んでゆくまでと、それ以後の、墓に納骨するまでが、表面的な時間の流れで、そこを掘っていけば、佐多稲子の物書きとしての半生が、浮かび上がってくる。
佐多は喫茶店の女給をしているとき、中野重治に見いだされて、作家の道に入ったのである。だから中野重治をおくることは、他のどんなことよりも、重要であった。
「私は実際、中野に、その口髭を立てた心境を訊ねたことはなかった。中野の方からもそれについて何か云おうとしたこともない。お互いの間には、こういうことがしばしばあったように思う。」
こういうことがしばしばあった例として、口髭を立てることが出される。これは微妙だ。特に男と女の場合には、みんな分かっていることとして、話題にしないということなのだけれど、一方、男女が距離を取った場合に、最初から、問題にしないということもありうる。
ここでは佐多は、もちろん男女の親密な関係ということを、前提にしている。
そういう佐多稲子の、文体の微妙さを前提にしつつ、私はここでは、疑問を投げかけたい。
「どうぞ、もう一度無事退院を、という言葉の浮ぶのは、こういうことにつづく怖れだったとおもう。一九七九年七月十四日、中野の入院がすんだことを聞いてこの言葉をつぶやき、そして、そうつぶやいたことを、消えてゆく余韻としてまたおもい返すのは、わずかな数日後であった。」
「わずかな数日後であった」というところ、「わずかな」という言葉はないでしょう。当然、「わずか数日後であった」、としなければいけない。
またこういうところもある。
「私は中野が、全集の著者うしろ書を一冊にまとめて出す本の題名を気にしていたのをおもい浮べた。わが生涯と文学、と一応決められている題の、わが生涯、という表現が中野の感じ方にしっくりしないらしいのを、入院まもないとき編集者の松下裕の話で聞いている。本の題名ではなかろうか、という私の受取り方は中野の感覚についての私の同感であった。」
こういうのは、新潮社の校閲または編集者は、そのまま見逃すのかね。もちろん、「私の受取り方は中野の感覚についての私の同感であった」の部分である。およそ日本語になっていない。
「私の受取り方は中野の感覚と同じであった」ではいけないのだろうか。私には分からない。