次は「私」が、中国に出兵した兵士を、慰問する話。
「ここが自分の墓になるところだから、と云った兵隊が、故郷へ帰ったときの職業を案じていた。それは当人も気づかぬ、自然に出る話であって、矛盾を見出す私こそ、真実に距離を持つことにちがいなかった。」(その四)
佐多稲子は戦争中、転向して、そして兵士の慰問をしている。しかしそういうところでも、見るべきものは、透徹して見ている。
「兵隊たちのそれは、切実に、生と死であり、覚悟、あるいは諦めと希望の同居するものであった。ここにおかれた人間の本心が出て、ようやくその夜の話を表裏合わさったものにしてゆく。」(その四)
そういうふうに、話を表裏合わさったものにしてゆくのは、佐多稲子の目である。
戦後、戦争協力ということで、散々苦しむことになるのは、すでにこの時代から、たぶん分かっていたのではないか。
しかしそういうこととは別に、作家の目はどこまでも、冴え返っている。それを文章にするのに、水際立っているという言い方では、まったく足りない。それほど、何とも言いようがないほど、優れている。
「私の、戦後に自分を追及せねばならなかった戦争協力の責任は、私の思想性の薄弱と、理念としての人間への背信として負わねばならぬものだった。が同時に私は、あの戦争の場所で逢った人たちと自分の関係に負い目を感じていた。殊に宜昌〔ギショウ〕における経験は、私のこの負い目の真ん中にあった。その人たちが無事だという。」(その四)
二重、三重に屈折した、戦後の負い目を、実に鮮やかに描き切っている。
夫婦が心中する話も、全体を少し引いたところから、一気呵成に書き切る。
「あのときの、夫婦で薬をあおった行為は、発見されるのが早くて未遂に終っていた。周りに人が駆けつけたあとは、夫婦の片方は別の部屋におかれたはずだ。そのときもしかしまだ完全に命をとりとめると云える状態ではなかったと聞く。尚、この夫婦の心中行為の内容を云えば、それは心中の定義からそれていた。愛し合っているからではなくて、不信と絶望にもとづいて、それは行われた。この哀れな夫婦の、婦は私である。」(その五)
不信と絶望にもとづく心中、という言い方も、なにかを抉り出すような言葉遣いだが、最後の一文、「この哀れな夫婦の、婦は私である」というのは、息を呑む。
しかし問題は、描くべき中心は、実は描かれていない、という点である。
そもそも、そんなことが可能なのか。