これはがっかり――『話術』

僕は脳出血で倒れる4年ほど前から、東京大学の情報学環というところで、出版について講義を始めた。前期のみで13回、これを3年間やった。
 
人前でまとまった時間、出版について話をする。こんなことは初めてだったが、話してみると、実に滑らかに言葉が出てくる。僕はちょっと自信を持った。

もちろん、話す内容に独創性があるというのとは違う。それは100のうち1、2パーセントしかない。

しかしとにかく、話術に関しては、一応自信を持ってもよさそうだった。

そして、ここからは何度も書くが、5年前に脳出血で倒れた。半年間、病院にいたが、最初の3か月は、妻や子供の名前が言えなかった。イヌという単語は言えても、ネコは言えなかった。

4か月目にパソコンを与えられたが、キーボードが一字も打てなかった。高次脳機能障害である。
 
5年たって、いくらか言葉は回復したが、まだ自分としては歯がゆい。自分で自分に焦燥することがある。
 
そんな時に、徳川夢声の『話術』が復刊された。期待しないでおく方が、無理というものである。
 
で、結論から言うと、これは高次脳機能障害の患者とは、まったく関係のない、アサッテの方向の本だった。
 
最初は1947年に、秀水社から出版され、2年後には白揚社から、版を改めて出版され、その後、何度となく版を重ねた。
 
つまりこれは、戦後すぐの本なのである。だから独特の言い回しにあふれている。

「仮名文字ばかりで読みやすい文章が書けるとき、ローマ字でスラスラとよどみなく、日本文が読めるときであろう。文字を記憶するという、馬鹿げた労力を、それだけ有用な他の方面に向けられる。これだけでもわが国文化の向上に偉大なる効果を及ぼすであろう。」
 
志賀直哉が、日本人は日本語をやめて、フランス語を話せばいいんじゃないか、ということを、真面目に説いていた時代だ。そうすれば日本人も、理性的に議論できるようになるだろう。戦後すぐとは、そういう時代なのだ。
 
あるいはこういう、敢えて言えば、紋切り型の啖呵の切り方。

「文化国家の一員として生きて行くためには、宗教的な信念、道徳上の意見、芸術的な主張など、随時随所に演説し得るだけの、心得があってしかるべきでしょう。黙って引込んでいるのが、結局はトクだ、なんて考えは至極封建的であります。」
 
ちょっと前までは、何も言えなかった時代だということが、よくわかる。
 
でもそれを「封建的」の一語で片づけるのは、徳川夢声の人品骨柄をよく示している。

「話術概論」ではあるが、外から攻めているばかりで、本質を突いた鋭い意見は、全編を通して、ただの一行もない。

(『話術』徳川夢声、新潮文庫、2019年4月1日初刷)