深いところから――『武蔵丸』(5)

立花得二先生は東京大学を出て、三菱商事本社に入社したが、上司によって陥れられ、その上司を殴って、辞表を叩きつける。

そうして、飾磨高校の教師になったのである。
 
だから立花先生は、「受け入れたくはない現実をある苦痛とともに受け容れ、生の底で教師になった人である。この男の中には失意という烈しい精神の劇が生きている。異彩を放った。が、当然、周囲からは不可解な人として見られた。」
 
立花先生は飾磨高校で、毎週一回、朝6時から8時まで、「立花塾」を開いた。初めは15、6人が参加し、先生は毎週、ガリ版でプリントを作成された。

「そこで私たちは、西洋のプラトン、アリストテレス、マルクス・アウレリウス、モンテーニュ、F・ベーコン、デカルト、パスカル、スピノザ、ヘーゲル、ニーチェ、また支那の孔子、老子、荘子などの思想の核心について講義を受けた。」

「立花塾」は、3年の夏が過ぎるころには、「私」ともう一人の、二人だけになった。
 
立花先生は毎週、二人だけのために、ガリ版を切り、プリントを用意されていた。
 
それは、のちに慶応大学で聞いた、アリストテレス研究の第一人者、松本正夫教授の哲学概論の講義よりも、はるかに分かりやすく、緻密で、奥深く、程度が高かった。

「約二年間、あの早朝の『立花塾』で聞いた先生の『言葉。』が、その後の私の基いをなした。『精神。』というものの輝きに魅せられたのである。」

「私」が大学を出るころには、全共闘運動が熾烈を極め、それは播州片田舎の飾磨高校にも及んだ。
 
立花先生は、少数の教師とともに、生徒側に立って論陣を張り、泥沼的闘争を経て、教師の職を辞した。
 
その後、いつのころか、こんな話が伝わっている。

「その後、立花先生の生活はすさみ、ともに辞職した濱野正美氏といっしょに姫路OSミュージック・ホールのストリップ・ショウの特出しを見に行くような生活をしていたが、ある日、腹に帝王切開した傷痕のある、すでに老嬢となった女が、両手で懸命に女陰(ほと)を開いて見せるのを、舞台の袖で見ていて、先生は『あの女の哀れさは、わしの哀れさや。』と洩らされたとか。」
 
姫路のOSミュージックは、私が最初にストリップを見た場所だ。まだ高校3年生で、あと数日で、高校を卒業するという日だった。
 
大学生の間は、姫路で同窓会があるので、OSミュージックもその流れで、帰省すればよく行った。
 
ある年の正月にО・Y嬢が出ていて、その人は去年の同じ時期にも出ていた。かぶりつきで見ていた私が、去年も正月に出ていたね、と言うと、彼女はびっくりして、動きを止めた。そして両方の足で、女陰をわずかに閉じた。しかしそれは一瞬のことで、すぐに笑顔に戻り、高々と陰部を見せた。それはいかにも、プロの踊りだった。
 
О・Y嬢とはその後、一度だけお茶を飲んだ。これも考えてみれば、あり得ない話だ。でもそれは、まったく逸脱してしまうので、ここまでにする。
 
車谷長吉は、『鹽壺の匙』が出版されると、人づてに、立花先生に献本した。

「立花先生は咽喉癌で舌がもつれるようになっておられ、病床で泪を流して喜んで下さったとか。」

「狂」の最後は、こうである。

「私は先生の意に反し、無能者(ならずもの)の文士になった。文士なんて、人間の屑である。」

「狂」はこういう話である。気が狂っているのが、「狂」ではなくて、己れが狂うというのを、冷静に見据え、それでもなお狂っていくのが、「狂」という話だ。