深いところから――『武蔵丸』(1)

脳出血のリハビリ用に、高橋順子『夫・車谷長吉』の、30数回目を朗読していると、それを聞いていた田中晶子が、「武蔵丸」を読んでみたいと言った。
 
高橋順子が、車谷長吉の中で、この作品がもっとも好きだ、と述べていたからだ。
 
私も初めて読んでから、およそ15年くらい経っているので、もう一度、読んでみた。
 
すると、まったく違ったふうに読めて、面白かったし、ちょっと意外だった。
 
高橋順子の『夫・車谷長吉』を、暗記するくらい読んだので、それを経由して、車谷の文章も、深く滲み透ってきたのかもしれない。
 
この本には短篇が6本、「白痴群」「狂」「功徳」「愚か者」「武蔵丸」「一番寒い場所」が入っている。
 
最初に「武蔵丸」を読んだ。
 
面白かったが、武蔵丸という兜虫(カブトムシ)を手に入れる過程で、家を買う話が事細かに書かれているのは、すっかり忘れていた。
 
最初に読んだときには、武蔵丸と長吉・順子夫妻のやりとりが面白くて、その他のことは吹き飛んでしまったらしい。

「驚いたことに、前住者の生活の必需品、箪笥とか洋服とか、机、椅子とか、本とか、その他有りとあらゆるものがまだそっくりそのままおいてあった。台所には猫の餌まで散らばっていた。要するに、今日の東京である家族がごく普通に生活していたところ、住人と猫と佛壇の位牌だけが抜け落ちたというたたずまいだった。」
 
つまり前住者は、夜逃げしたのである。こういう家は、ふつうは買わない。

「それにこの家は変な構造になっていて、部屋が十あるのはいいとしても、玄関が五つ、階段が三つ、厨(くりや)の流しが四つ、電気メーターが四つ、便所が二つ、あるのだった。つまり、家の中が奇怪な迷宮のようになっているのだった。併(しか)しそれでも私達は買うことにした。」
 
これはおまけに、図面に不備があるというので、不動産会社どうしで争いになった。
 
その当面の持ち主、産業廃棄物処理業のS(株)の担当者も、怪しい男だった。
 
とてもじゃないが、普通の不動産の取引ではない。しかしそれでも車谷は、この家は買い得だと判断し、取引を進める。
 
結局この家を手に入れて、数日たった頃、売り主の産業廃棄物処理会社のS(株)とはどんなところだろう、「何かあやしい」と興味を持ち、訪ねていくことにする。

「ところが、行って見てびっくり、不動産売買契約書に記してあるS(株)の所番地には木工所があり、その隣りは駐車場になっているのだった。」
 
つまり産廃会社、S(株)は、登記してある場所にはなく、税金逃れの抜け穴会社だったのである。
 
それで、呆然とした車谷長吉と高橋順子は、近くの舎人(とねり)公園を散策し、木の下で兜虫を捕まえるのである。
 
ここまでで、怪しい家を買うところと、後半の兜虫との交流が、なかなか鮮やかな対比をなしている。