体で作り上げた文体――『時に佇つ』(1)

青木正美の『古本市場が私の大学だった』を読んだとき、「佐多稲子覚え書」が強烈に印象に残った。
 
佐多稲子は、なにも読んだことがなかったので、青木正美の取り上げた『時に佇つ』を読んでみた。
 
これは12の短編が載っており、「その十一」で、別れた元夫の、死んでゆく様を描いて、川端康成賞を受賞した。
 
全体を読んだ印象を一言でいうなら、こういう作品は、一度も読んだことがない。
 
人生の晩年に回想して、あのときはこうだったと、点描してゆくのだが、それが、その場その場で、小さな劇的効果を上げている。
 
しかも驚くべきことに、中心にあることは書き込まずに、まわりの描写だけで、中心にある事柄を際立たせる。
 
佐多稲子は小学校を中退し、そこからは有為転変、一人で五生分くらいの人生を生きてきた。
 
結婚も繰り返したし、戦争中は共産党の組織で働いている。

そして戦争末期には、そこから転向し、中国にいる兵士の慰問にまで行っている。しかし、転向は擬装に近い。
 
そういう場面を振り返って、激的な一点に集中して書くのだ。面白くないわけがない。
 
ただし問題は、文体である。これがなかなか大変なのだ。

「恒子に夫がいる、というそのこと自体に触れながら、私の観念は、するりと実体を取り落としていた。それは、当時の私たちの何かを、象徴することかもしれなかった。」(その二)
 
このうち、「私の観念は、するりと実体を取り落としていた」というところが、新鮮である。自分に対して単刀直入、鋭敏だが、しかし気負ったところはない。
 
次の場面は長崎の、自分が生まれた場所で。

「いつもの私なら、ここに立つのは、ひたすら、母恋いなのだ。この二階を見上げて私の目に浮かべるものは、十五歳の女学生の必死な出産の姿であり、前後のその少女の胸中なのである。生まれてきた嬰児などはどうでもいい。」(その三)
 
文体がすっくとしていて、まったくブレがない。書かれている重い事柄に比して、これは本当に見事だ。
 
しかしそれにしても、15歳の母親から生まれてくるのは、自分ではないか。
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エロな話――『ペルーの異端審問』

これは筒井康隆『不良老人の文学論』に、「大らかで根源的な笑い」として、挙げてあった。聖職者のエロ話集である。

「禁欲の中で肉欲が燃えあがり、あまりの欲望ゆえに時には早漏気味の盛大な射精に至る聖職者たち。それらはまさに禁忌であるが故にこそ、あまりにも快美なのだ。」
 
さすがにうまいものです。さらに、

「異端審問官とて、夢魔や悪魔や聖職者たちと寝たという女を尋問する際の、全裸の彼女たちの陰部をいじりまわしたりもした上での、その供述を大いに楽しんでいる。」
 
読んでみたくなるじゃありませんか。

「巻頭言」として、筒井康隆の、この文章が載っている。
 
さらにその次に、マリオ・バルガス・リョサの「序文」までついている。

「『ペルーの異端審問』にはいずれの分野にも訴えるだけの素材が備わっている。その結果、読み手を楽しませつつも学ばせる一冊の本ができあがった。読者を幻想の世界へと誘うと同時に、恐怖と束縛が支配していた忌まわしい時代の現実にも直面させてくれることだろう。」
 
すみません、バルガス・リョサの懇切な導きにもかかわらず、エロな話のみ、探して読みました。
 
全部で17の掌篇が入っていて、全体を通して、筋はあると思うのだけど、よくわからなかった。
 
そのかわり、どういうところを読んだかというと、

「なかでも目を引くのは熟年クリオーリャの例だ。あろうことか無敵の解放者ボリーバルの手で恥毛を剃りあげられ、桃の実のような状態にされたという。」
 
クリオーリャは、中南米生まれのスペイン人女性のこと。
 
こういうところばかりを読んでいたので、筋はあるのかないのか……。
 
しかし、ペルーの聖職者がこの時代、暇に飽かせて、次から次へと貪欲に女を漁るのだけはよくわかった。
 
最後に、「エピローグ」から引いておく。

「彼らの不幸はテレビの時代ではなく、異端審問の嵐が吹く時代に生まれたことにある。もし今の時代に生まれていたら、拷問を受け、異端審問判決式でさらしものになる代わりに、有名人としてインタビューに応じ、世界じゅうから講演依頼が殺到し、自身の神秘体験を語ることで生計を立てられたかもしれないのに。それほどまでに僕らが暮らす二一世紀は、不信人が横行し、物質主義や技術革新にまみれた半ば異常な社会だとも言えよう。」
 
最後のこの部分を読むと、フェルナンド・イワサキも、半ば笑って艶笑譚を書いたような気がする。

(『ペルーの異端審問』フェルナンド・イワサキ、訳・八重樫克彦/八重樫由貴子
 新評論、2016年7月31日初刷)
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これはがっかり――『話術』

僕は脳出血で倒れる4年ほど前から、東京大学の情報学環というところで、出版について講義を始めた。前期のみで13回、これを3年間やった。
 
人前でまとまった時間、出版について話をする。こんなことは初めてだったが、話してみると、実に滑らかに言葉が出てくる。僕はちょっと自信を持った。

もちろん、話す内容に独創性があるというのとは違う。それは100のうち1、2パーセントしかない。

しかしとにかく、話術に関しては、一応自信を持ってもよさそうだった。

そして、ここからは何度も書くが、5年前に脳出血で倒れた。半年間、病院にいたが、最初の3か月は、妻や子供の名前が言えなかった。イヌという単語は言えても、ネコは言えなかった。

4か月目にパソコンを与えられたが、キーボードが一字も打てなかった。高次脳機能障害である。
 
5年たって、いくらか言葉は回復したが、まだ自分としては歯がゆい。自分で自分に焦燥することがある。
 
そんな時に、徳川夢声の『話術』が復刊された。期待しないでおく方が、無理というものである。
 
で、結論から言うと、これは高次脳機能障害の患者とは、まったく関係のない、アサッテの方向の本だった。
 
最初は1947年に、秀水社から出版され、2年後には白揚社から、版を改めて出版され、その後、何度となく版を重ねた。
 
つまりこれは、戦後すぐの本なのである。だから独特の言い回しにあふれている。

「仮名文字ばかりで読みやすい文章が書けるとき、ローマ字でスラスラとよどみなく、日本文が読めるときであろう。文字を記憶するという、馬鹿げた労力を、それだけ有用な他の方面に向けられる。これだけでもわが国文化の向上に偉大なる効果を及ぼすであろう。」
 
志賀直哉が、日本人は日本語をやめて、フランス語を話せばいいんじゃないか、ということを、真面目に説いていた時代だ。そうすれば日本人も、理性的に議論できるようになるだろう。戦後すぐとは、そういう時代なのだ。
 
あるいはこういう、敢えて言えば、紋切り型の啖呵の切り方。

「文化国家の一員として生きて行くためには、宗教的な信念、道徳上の意見、芸術的な主張など、随時随所に演説し得るだけの、心得があってしかるべきでしょう。黙って引込んでいるのが、結局はトクだ、なんて考えは至極封建的であります。」
 
ちょっと前までは、何も言えなかった時代だということが、よくわかる。
 
でもそれを「封建的」の一語で片づけるのは、徳川夢声の人品骨柄をよく示している。

「話術概論」ではあるが、外から攻めているばかりで、本質を突いた鋭い意見は、全編を通して、ただの一行もない。

(『話術』徳川夢声、新潮文庫、2019年4月1日初刷)
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深いところから――『武蔵丸』(6)

他にはあと二篇、「功徳」と「一番寒い場所」が入っている。

「功徳」は、大学を出て、最初に就職をしたころの話。「一番寒い場所」は、三島由紀夫が自殺した頃、それに関連した右翼だか何だかわからん男と、関わり合いになる話である。
 
どちらも読みごたえが、あると言えばあるし、一篇の小説という点から言えば、どうにもまとまらない話ではある。

「功徳」には、大学を出たには出たが、何にもする気のない「私」の内面が、よく描けている。

「会社の仕事には何の興味も関心も持てなかった。会社での仕事は、TVのCMや新聞・雑誌広告の企画書を持ち歩いての、広告取りである。広告とは何か。その本質は資本主義社会の尖兵としての、誘惑と脅しと巧言令色である。」
 
学校で『論語』の「巧言令色鮮(スクナ)シ仁ト」を習いながら、それに逆らって、生きていくのは、学校を真面目に務めた人間には厳しいことだ。
 
この点では私も、出版という、自分の最良を生かす職業以外には、考えられなかった。
 
しかし「私」は、出版ではなく、広告会社を選び取る。

「日々、誘惑と脅しと騙しという悪をなしていた。そういう悪の上に築かれているのが現代社会だった。けれども、その悪を善と考えているのが会社というところだった。」

「私」は、周りから見れば困った人であり、むつかしい人であった。

「一番寒い場所」には、小説の筋に直接の関係はないが、編集者論が出てくる。車谷は、ここで、思いの丈をぶちまける。

「編輯者の原稿の催促は、恰かも債鬼の借金の取り立てにも似て、情け容赦のないものである。自分の都合だけを考えているから、そういうことが平気で出来るのだが、一つ終ればまた次と、こちらの生命のリズムのことなど一顧だにせず、次ぎ次ぎと『次ぎの原稿』を求めて来る。こちらの生命の井戸の水が涸れるまで、徹底的に汲み尽くそうという腹だ。」
 
新潮社や文春の編集者は、そういうふうに見られていたということだ。特に直木賞を取った著者の場合は、しょうがないなと思う。

「去年の夏の直木賞受賞以来、神経性の胃潰瘍に苦しめられ、隔週、浦和の精神病院で精神安定剤、抗鬱剤、胃潰瘍の薬をもらって服用しているものの、胃痛は治まらず、毎日、不機嫌な怒りに囚われている。編輯者という債鬼は、こちらの心の中の『一番寒い場所』を無神経につついて来るのである。」
 
でも著者のこういう不安なり、不満を読むと、元編集者としては、著者が頑張っているということを知って、なんとなく安心する思いがある。これも編集者の側の、歪んだ心根といえばいえると思うけど、どうしようもないことだ。
 
全体を読んでみて、高橋順子と同じく、やっぱり「武蔵丸」が一番いいと思う。
 
みんな私小説でありながら、「武蔵丸」だけは、広い世界、普遍的な世界の高みに達している。私は何となく、島木健作の「赤蛙」を思い出した。

(『武蔵丸』車谷長吉、新潮文庫、2004年5月1日初刷)
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深いところから――『武蔵丸』(5)

立花得二先生は東京大学を出て、三菱商事本社に入社したが、上司によって陥れられ、その上司を殴って、辞表を叩きつける。

そうして、飾磨高校の教師になったのである。
 
だから立花先生は、「受け入れたくはない現実をある苦痛とともに受け容れ、生の底で教師になった人である。この男の中には失意という烈しい精神の劇が生きている。異彩を放った。が、当然、周囲からは不可解な人として見られた。」
 
立花先生は飾磨高校で、毎週一回、朝6時から8時まで、「立花塾」を開いた。初めは15、6人が参加し、先生は毎週、ガリ版でプリントを作成された。

「そこで私たちは、西洋のプラトン、アリストテレス、マルクス・アウレリウス、モンテーニュ、F・ベーコン、デカルト、パスカル、スピノザ、ヘーゲル、ニーチェ、また支那の孔子、老子、荘子などの思想の核心について講義を受けた。」

「立花塾」は、3年の夏が過ぎるころには、「私」ともう一人の、二人だけになった。
 
立花先生は毎週、二人だけのために、ガリ版を切り、プリントを用意されていた。
 
それは、のちに慶応大学で聞いた、アリストテレス研究の第一人者、松本正夫教授の哲学概論の講義よりも、はるかに分かりやすく、緻密で、奥深く、程度が高かった。

「約二年間、あの早朝の『立花塾』で聞いた先生の『言葉。』が、その後の私の基いをなした。『精神。』というものの輝きに魅せられたのである。」

「私」が大学を出るころには、全共闘運動が熾烈を極め、それは播州片田舎の飾磨高校にも及んだ。
 
立花先生は、少数の教師とともに、生徒側に立って論陣を張り、泥沼的闘争を経て、教師の職を辞した。
 
その後、いつのころか、こんな話が伝わっている。

「その後、立花先生の生活はすさみ、ともに辞職した濱野正美氏といっしょに姫路OSミュージック・ホールのストリップ・ショウの特出しを見に行くような生活をしていたが、ある日、腹に帝王切開した傷痕のある、すでに老嬢となった女が、両手で懸命に女陰(ほと)を開いて見せるのを、舞台の袖で見ていて、先生は『あの女の哀れさは、わしの哀れさや。』と洩らされたとか。」
 
姫路のOSミュージックは、私が最初にストリップを見た場所だ。まだ高校3年生で、あと数日で、高校を卒業するという日だった。
 
大学生の間は、姫路で同窓会があるので、OSミュージックもその流れで、帰省すればよく行った。
 
ある年の正月にО・Y嬢が出ていて、その人は去年の同じ時期にも出ていた。かぶりつきで見ていた私が、去年も正月に出ていたね、と言うと、彼女はびっくりして、動きを止めた。そして両方の足で、女陰をわずかに閉じた。しかしそれは一瞬のことで、すぐに笑顔に戻り、高々と陰部を見せた。それはいかにも、プロの踊りだった。
 
О・Y嬢とはその後、一度だけお茶を飲んだ。これも考えてみれば、あり得ない話だ。でもそれは、まったく逸脱してしまうので、ここまでにする。
 
車谷長吉は、『鹽壺の匙』が出版されると、人づてに、立花先生に献本した。

「立花先生は咽喉癌で舌がもつれるようになっておられ、病床で泪を流して喜んで下さったとか。」

「狂」の最後は、こうである。

「私は先生の意に反し、無能者(ならずもの)の文士になった。文士なんて、人間の屑である。」

「狂」はこういう話である。気が狂っているのが、「狂」ではなくて、己れが狂うというのを、冷静に見据え、それでもなお狂っていくのが、「狂」という話だ。
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深いところから――『武蔵丸』(4)

「私」は昭和36年春、姫路西高校の入試に失敗し、そのあげく飾磨高校に回された。姫路地方には、公立私立合わせて14の高校があったが、世間の評価では、姫路西は一番上、飾磨高校は一番下であった。
 
私は、長吉の少しのちに、姫路の中学・高校に通ったのだが、私立の中・高一貫校だったので、高校入試に失敗したときのことは知らない。
 
しかし姫路西を失敗したものが、自動的に飾磨に入ることになるとは、面妖ではないか。
 
それはともかく、そういうふうになってしまったのだ。

「私は烈しい屈辱を覚えた。一つの苦痛が軀の中にうずくまった。受け容れたくない現実を、受け容れざるを得ないところへ追い詰められたのである。」
 
これは、かなり強烈な経験だったようだ。
 
とんなに嫌な経験でも、慣れるということがあるが、長吉の場合は高校入試の失敗が、ついに終生のトラウマになった。

「何か悪夢の中に自分が生きているような気がした。十五歳の春である。のちになって考えて見ると、私は現実剥離を起こしていたのである。」
 
この現実剥離は、大学を出てもついて回った。

「その時、ただ一つ信じることの出来た現実は、いまにおいてもなお、生々しく私の中に息をしている苦痛だった。これだけが、私のただ一つの生きるよすがとなった。無論、苦痛は七年前の苦痛だけではない。幼少期以来、私の身に沁みたすべての苦痛が、絶えざる現在として、立ち上がって来た。この精神過程は今日においても、基本的には何も変っていない。」
 
こう見てくると、高校入試の失敗は、必然的なものだ、という気にもなる。
 
またこの本で言えば、「白痴群」で、なぜ子供時代を書かねばならないか、が分かる。
 
近親者に5人の自殺者を出した車谷長吉は、文学によって以外は、救われない人だったのである。
 
しかし「私」は、その高校で、「立花得二先生」に出逢った。

「他に類を見ない、鬱然たる魂を秘めた、魅力的な人だった。魅力の魅は、魑魅魍魎の魅である。生きながらにして、すでに死者となった人の魅力である。」
 
そんな人が現実にいたのだ。

「似たような人としては、夏目漱石の小説『こゝろ』の『先生』以外には思い当たらない。」
 
そこで、まったく類を見ない人だということが、読者の頭に刻み込まれる。
posted by 中嶋 廣 at 10:12Comment(0)日記

深いところから――『武蔵丸』(3)

この短篇集はどれも優れている。
 
最初の「白痴群」は、子どものとき、親戚にもらわれていったことを、書いたものだ。
 
ここに出てくる「佐伯の伯母」と、その子供で同年代の「久美ちゃん」というのが、いかにも都会じみていて、おかしい。
 
もちろん、嫌な親子ではあるのだが、しかし突き放しては書いていない。
 
というかここでは、「私」も含めて、「白痴群」なのだ。
 
あるとき、久美子が「私」に、風船を膨らましてくれ、と頼む場面がある。

「『もうええかあ?』
『いや、久美子がいいって言うまで、って言ったでしょ、もっと大きく』
 私はやけ糞になって空気を入れた。
 ……
『まだよ、もっともっと大きく』
 私はもう死んでもいいような気になって、もう一度ぐーんと吹いた。自分の頭蓋骨の方が爆発しそうだった。久美ちゃんは両の耳に栓をしていた。」
 
いかにも私小説といった具合に進んでゆくのだが、それでも、「自分の頭蓋骨の方が爆発しそうだった」というところは、久美ちゃんの両方の耳に栓、というところがあるので、よけい引き立っている。
 
もちろん、伯母の家に貰われていっても、自分の主張は、そこで人知れずおこなっている。

「伯母の、『は、まあなんですか、よく存じ上げませんけれども、わたくしどもでは……』という風な隠微な言葉遣いの裡に含まれる、人に敬語を強制するような生活態度には、自分の体温の芯が冷えて行くような、どうしても馴染めないものがあった。」
 
日本の伝統小説である私小説の、王道を行く感じだ。
 
特に言葉の問題で、「自分の体温の芯が冷えて行くような」、と体温に換算しているところ、たまりません。
 
しかし、あまりに私小説、それだけのものと言えば、言える。
 
それよりも、次の「狂」が面白い。
 
まず書き出しの1行が読ませる。

「平成二年七月二十四日朝、私の父・車谷市郎は播州飾磨の家で狂死した。」
 
その経緯を事細かに書く。

「……昭和六十年夏、長い間、軀の中にひそんでいた結核菌がふたたび活動を開始し、肺結核に罹病、喀血、青野ヶ原結核病院に収容された。が、医者に見捨てられ、自宅療養中、結核菌が脳に上って、気が狂うたのだった。」
 
これが公式の記録だが、家族の者は、人間の裏側までも見せられるような思いをしている。

「狂気してのちの父は、一日十八時間、家の中で毛物(けもの)のような声で喚き、みずからの糞尿を壁に投げ付け、……私が東京から見舞いに帰ると、無論、倅が帰って来たことには気づかず、母の間男が家の中に入って来たと思うて怒り、泣き、そのざまはまことに無慙を極めた。そういう日が六年続いた。」
 
ちょっと言葉がない。

しかし、書き出しの一ページで、すでに山場を迎えると思いきや、これは導入で、「狂」の主人公は、狂い死にした父のことではない。
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深いところから――『武蔵丸』(2)

兜虫を図鑑で見てみる。この日本昆虫図鑑は、どういう出版社のかは知らないが、文章がなかなか良くできている。そういうふうに車谷が思うのでなく、私が思う。

「兜虫はこがね虫科の昆虫で、別名、さいかち虫、自分の体重の百倍ものものを引く力を持っており、もぐり、けとばし、ぶちかまし、おしあい、つのあて、はねとばし、かかえあげ、てこあげ、などの技で遊び、併し目はほとんど見えず……」。
 
これはひょっとすると、車谷の創作昆虫図鑑ではないだろうな。「かかえあげ、てこあげ、などの技で遊び」というところが、いかにもおかしく、奥ゆかしい。
 
また車谷の文章で、こういうところもある。

「……その黒褐色の翅(はね)の輝きは、まるでストラディヴァリウスのヴァイオリンのようだった。」
 
私が兜虫を飼っていたのは、もう50年をはるかに遡る昔だが、ストラディヴァリウスのヴァイオリンのようだと言われると、その翅の輝きが、まざまざと蘇ってくる。

もちろん、ストラディヴァリウスと言われても、具体的に何を思い浮かべていいのかはわからないのだが。

途中に高橋順子の「兜虫の家」という詩が入っている。これが非常に良くて、思わず全文を引いてしまいそうになる。

考えてみれば、「武蔵丸」という車谷長吉の短篇に、高橋順子の詩を全編引くのはどうかとも思うが、夫婦だからいいのか。

しかしそれを、私が全編引くのは、さらにどうかと思われるので、ここでは最後の部分を引いておく。

「兜虫のしずかな時間が
 つれあいの強迫神経症の時間をひたす
『寿命はあと一カ月なんだ
 武蔵丸はそれを知らない』
『少し大きくなったみたい』

 兜虫がねむっている家で
 つれあいとわたしもねむる
                ――蟲息山房にて」
 
いつの間にか、夫婦はお互いを、「お父さん」「お母さん」と呼ぶようになっている。
 
そんなとき、江藤淳が自殺した。

「私達は子のない五十過ぎの夫婦である。子のない夫婦の悲劇は、平成十一年七月二十一日夜に自殺した江藤淳の死で思い知らされた。江藤淳は九ヶ月前に、妻・江頭慶子さんに先立たれ、妻恋い自殺のしたのだった。思えば、七月二十一日は武蔵丸がこの『蟲息山房』へ来て、三日目のことである。」
 
長吉・順子夫婦に、もう子はできない。そのかわりに、武蔵丸が発情した。ここも面白いけれども、引用はしない。
 
武蔵丸は盛んに発情し、精液を出し尽くすが、メスの兜虫がいないので、ただただ虚しいばかりだ。
 
武蔵丸は、6本の足のうち、5本の足先を失い、ぼろぼろになり、それでも11月20日まで生きて、死んだ。
 
車谷は、武蔵丸のことを、最後にこう書く。

「恐らく生涯独身、童貞であったであろう。」
posted by 中嶋 廣 at 09:49Comment(0)日記

深いところから――『武蔵丸』(1)

脳出血のリハビリ用に、高橋順子『夫・車谷長吉』の、30数回目を朗読していると、それを聞いていた田中晶子が、「武蔵丸」を読んでみたいと言った。
 
高橋順子が、車谷長吉の中で、この作品がもっとも好きだ、と述べていたからだ。
 
私も初めて読んでから、およそ15年くらい経っているので、もう一度、読んでみた。
 
すると、まったく違ったふうに読めて、面白かったし、ちょっと意外だった。
 
高橋順子の『夫・車谷長吉』を、暗記するくらい読んだので、それを経由して、車谷の文章も、深く滲み透ってきたのかもしれない。
 
この本には短篇が6本、「白痴群」「狂」「功徳」「愚か者」「武蔵丸」「一番寒い場所」が入っている。
 
最初に「武蔵丸」を読んだ。
 
面白かったが、武蔵丸という兜虫(カブトムシ)を手に入れる過程で、家を買う話が事細かに書かれているのは、すっかり忘れていた。
 
最初に読んだときには、武蔵丸と長吉・順子夫妻のやりとりが面白くて、その他のことは吹き飛んでしまったらしい。

「驚いたことに、前住者の生活の必需品、箪笥とか洋服とか、机、椅子とか、本とか、その他有りとあらゆるものがまだそっくりそのままおいてあった。台所には猫の餌まで散らばっていた。要するに、今日の東京である家族がごく普通に生活していたところ、住人と猫と佛壇の位牌だけが抜け落ちたというたたずまいだった。」
 
つまり前住者は、夜逃げしたのである。こういう家は、ふつうは買わない。

「それにこの家は変な構造になっていて、部屋が十あるのはいいとしても、玄関が五つ、階段が三つ、厨(くりや)の流しが四つ、電気メーターが四つ、便所が二つ、あるのだった。つまり、家の中が奇怪な迷宮のようになっているのだった。併(しか)しそれでも私達は買うことにした。」
 
これはおまけに、図面に不備があるというので、不動産会社どうしで争いになった。
 
その当面の持ち主、産業廃棄物処理業のS(株)の担当者も、怪しい男だった。
 
とてもじゃないが、普通の不動産の取引ではない。しかしそれでも車谷は、この家は買い得だと判断し、取引を進める。
 
結局この家を手に入れて、数日たった頃、売り主の産業廃棄物処理会社のS(株)とはどんなところだろう、「何かあやしい」と興味を持ち、訪ねていくことにする。

「ところが、行って見てびっくり、不動産売買契約書に記してあるS(株)の所番地には木工所があり、その隣りは駐車場になっているのだった。」
 
つまり産廃会社、S(株)は、登記してある場所にはなく、税金逃れの抜け穴会社だったのである。
 
それで、呆然とした車谷長吉と高橋順子は、近くの舎人(とねり)公園を散策し、木の下で兜虫を捕まえるのである。
 
ここまでで、怪しい家を買うところと、後半の兜虫との交流が、なかなか鮮やかな対比をなしている。
posted by 中嶋 廣 at 10:39Comment(0)日記

ついふらふらと――『払ってはいけないー資産を減らす50の悪習慣ー』

こういう実用書の類は、めったに買わない。というか、初めて買った。
 
そこで、あーあ、買って馬鹿を見ちゃったよ、で終わらせずに、正面から書評することにする。
 
そもそも僕は、もう稼ぐことができない。障害年金で生活する以外に方法がない。
 
丁度そのとき、巷では年金以外に、老後の資金として、あと2000万円は要るということを、政府の諮問機関が答申した。
 
そんなことを言われても困る、というのが、日本人の大多数の意見だろう。
 
そういう議論をテレビ・新聞で喧しくやっているときに、八幡山の啓文堂に入ったら、この新書が一番目につくところに置いてあった。
 
この著者、荻原博子はテレビで見たことがあるぞ。そのときは、安倍首相の経済政策である「3本の矢」に対して、かなり強硬な反対意見を述べていた。

「世界がグローバル化するということは、私たちの生活にどんな影響を与えるのか、日銀の大規模金融緩和の失敗は、私たちの生活にどんな悪影響を与えるのか。生活を支える年金や社会保障システムは、どうなっているのか。
 こうした大きなテーマを背景に、私たちは、日々、どうやって暮らしていけばいいのか、何を考え、何に注意していけばいいのかを、ここに網羅したつもりです。」
 
そういうことだ。でも実は、そういうことはほとんど書いてない。

はじめに大病院と、薬の処方箋の話が来る。読者は年寄りで、体のどこかが悪いに違いない。そこでまず体のことから入り、読者をワシづかみにしてしまおう、という編集者と著者の蓮っ葉な打ち合わせが、目に浮かぶようだ。

そういうどうでもいい話が延々続いて、「投資、資産運用」の項目では、金融機関が勧める商品は、すべて相手にとって都合の良いはずのものだから、手を出してはダメ、という話が来る。

よく考えると、それを1行貼っておけば、こんな本を読む必要はない。
 
しかしながら、ところどころ考えさせられることもある。

「マイナス金利政策の結果、それまで銀行を支えていた『お金を貸して利息を稼ぐ』というビジネススキームは完全に崩壊してしまいました。」
 
そのくらい銀行は困っているのだ。もはや銀行に打つ手はない。

それで種々の手数料を稼がねばいけないのだが、これもよほどの愚か者以外は、カモにはなるまい。銀行で売る投資信託などは、まったく論外だ。
 
また株式投資も、からくりを知ってしまえば、とてもまじめにはできない。これには公的資金が介入しすぎているのだ。

「日銀が株を買いまくってきた結果、ファーストリテイリング(ユニクロ)をはじめとしたかなりの会社の筆頭株主が日銀になったというとんでもない状況が生まれています。」
 
だから株主は、世界の経済情勢や、地球規模の気候変動に気を配る前に、安倍首相と黒田日銀総裁の、もうこれ以上、株は買い支えできない、というサインを、見逃してはいけないのだ。
 
でもそれって、「忖度(そんたく)」の世界そのものだけどね。
 
どっちにしても、だから株というのは、いい歳をした大人のやるものではない。
 
どちらにしても、この本は、頭から終わりまで、全く役に立たない。その役に立たなさの根本は、文章にある。

「もし投資がよくわからないとか、投資の必要性をあまり感じないというなら、金融機関にはあまり近づかないほうがいいかもしれません。」
 
文章の最後、こんなところでシュリンクしてどうする、逡巡してどうする。「金融機関には近づかないほうがいいのです」とするのが、当たり前ではないか。そういうところが、むやみやたらに目についた。

(『払ってはいけないー資産を減らす50の悪習慣ー』
 荻原博子、新潮新書、2018年10月20日初刷、2019年1月20日第8刷)
posted by 中嶋 廣 at 15:34Comment(0)日記