また、自殺直前の芥川龍之介にからむ話も面白い。
芥川と中野重治は交流があり、芥川が求めて中野に会ったのである。
「芥川が自ら求めて中野重治に逢うというのは、中野たちの展開した、階級思想による文学運動についての関心なのだということは、窪川の話などから感じ取っていた。」
中野が芥川のもとを訪ねたのは、1927年6月のことである。翌7月には、佐多稲子も、中野や堀辰雄、佐多の夫である窪川鶴次郎とともに、田端の芥川のところに出向いている。
「芥川が私に逢おうとしたのは、七年前に上野池之端の料亭の女中として知っていた女のその後を見ようとしてではなく、自殺未遂をした人間の、今日の顔を見ておこうとしたことだったろう、と、これは芥川の死のあとに私の気づく判断であった。」
芥川龍之介が睡眠薬を飲んで自殺するのは、その三日後のことである。
ほとんど劇的な場面に遭遇しながら、佐多の文章は、ブレなく、すっくと立っていて、しかも奥が深い。
もちろん見るべきところは、細かく見ている。
「白っぽい麻を着た芥川の、私のコップにサイダーをついでくれる手がこきざみに慄えて、芥川の神経の疲労を見るようだったのを覚えている。」
自殺する直前の、芥川龍之介がどのようであったか、息を呑むようだ。
もう一つは、中野重治らの同人誌「驢馬」の前に、女給の佐多稲子が登場したとき。このときを十全に語って、余すところがない。
「『驢馬』における私は、私そのものが、経てきた道筋に異常とも多様とも云えるじぐざぐを背負って、彼らの前にあらわれたのでもある。それについて敢えて云えば、私のその複雑さは『驢馬』同人を刺戟しなかったろうか。私として云えば、その過去は、彼らの文学的態度によって受けとめられ、私を救ったものである。その関係の上で、私は彼らを刺戟したと思う。」
こういう文体を、何と言えばいいか。佐多稲子は、小学校を途中までしか通わず、その後有為転変あって、結婚し、そして心中し損ね、夫と別れ、女給として、中野重治らの前に現われた。
それを、わずか数行の文章に凝縮し、しかもそこには、ほんのりとツヤまである。
こういう文章は、まったく見たことがない。ほかの作家の文章と、何が違うのだろうか。少なくとも、自分の置きどころが、違うことだけは確かである。
しかし、では、その自分の置き場所が、他とどう違うのかといえば、私にはよく分からない、と答えるしかない。
しかしそれでも、「私として云えば、その過去は、……」の、「私として云えば、」は、微妙に安定を書いていると思うが、どうか。
ちゃんと校閲しなさい!――『夏の栞ー中野重治をおくるー』(2)
しかし次のような場面は、ただただ感心し、唸るしかない。
中野重治が病院にいるとき、病人の周囲に紐が張ってあり、タオルが掛けてあった。その紐が、何かの拍子にほどけ、中野の顔の上に垂れた。
佐多稲子は、それを上にあげた。すると、眠っていたと見えた中野が、気配を感じて、「稲子さんかァ」と、弱々しく声を発した。
それに対して、中野の妻の原泉が、「あら、稲子さんってこと、どうしてわかるんだろう」と「ぴしりと聞える調子で云った」。
そこからが、クライマックスである。
「原さんの言葉に対して中野が答えたのである。
『ああいうひとは、ほかに、いないもの』
そう聞いた一瞬、私は竦んだ。それは私の胸で光りを発して聞えた。ゆっくりと云った中野のそれは原さんへの答えだが、ひとりでうなずく言葉とも聞え、私にとってそれは、大きな断定として聞えた。中野自身は、自分のその言葉を、云われた当人が聞いている、と知っていたであろうか。その意識は無いように見えた。私だけが中野のその言葉を強烈に聞き取った。」
そこから、原泉の佐多に対する微妙な感覚と、佐多が中野のセリフを記す「偽善的」な感覚を、俎上に載せるところがくる。
「私が今、自分へのほめ言葉と受け取った中野重治のその言葉をここに書くのには、神経への抵触を感じる。しかしまた書かないなら、それはつつしみではなく自分にとって偽善になるという感じをどうしようもない。」
だから結論としては、次のようになる。
「それは、自分に引きつけて受け取れば私について云われた、私の、誰からも云われたことのない最上の言葉であった。それも、長年のつきあいのうえで云われたのであってみれば、私がどうして書かずにいられよう。こんな私の感情自体も、この長いつきあいの間の、中野重治に対する私の立場をあらわしていようか。」
新宿・番衆町の女将が、感心していたように、ここは本当にうまい。とくに最後の一文は、誇張して言えば、中野重治と佐多稲子を、同時に対象化しており、書き手の視点が突然、遠距離にフォーカスされていて、まるでフランスの古典派心理小説のようである。
中野重治が病院にいるとき、病人の周囲に紐が張ってあり、タオルが掛けてあった。その紐が、何かの拍子にほどけ、中野の顔の上に垂れた。
佐多稲子は、それを上にあげた。すると、眠っていたと見えた中野が、気配を感じて、「稲子さんかァ」と、弱々しく声を発した。
それに対して、中野の妻の原泉が、「あら、稲子さんってこと、どうしてわかるんだろう」と「ぴしりと聞える調子で云った」。
そこからが、クライマックスである。
「原さんの言葉に対して中野が答えたのである。
『ああいうひとは、ほかに、いないもの』
そう聞いた一瞬、私は竦んだ。それは私の胸で光りを発して聞えた。ゆっくりと云った中野のそれは原さんへの答えだが、ひとりでうなずく言葉とも聞え、私にとってそれは、大きな断定として聞えた。中野自身は、自分のその言葉を、云われた当人が聞いている、と知っていたであろうか。その意識は無いように見えた。私だけが中野のその言葉を強烈に聞き取った。」
そこから、原泉の佐多に対する微妙な感覚と、佐多が中野のセリフを記す「偽善的」な感覚を、俎上に載せるところがくる。
「私が今、自分へのほめ言葉と受け取った中野重治のその言葉をここに書くのには、神経への抵触を感じる。しかしまた書かないなら、それはつつしみではなく自分にとって偽善になるという感じをどうしようもない。」
だから結論としては、次のようになる。
「それは、自分に引きつけて受け取れば私について云われた、私の、誰からも云われたことのない最上の言葉であった。それも、長年のつきあいのうえで云われたのであってみれば、私がどうして書かずにいられよう。こんな私の感情自体も、この長いつきあいの間の、中野重治に対する私の立場をあらわしていようか。」
新宿・番衆町の女将が、感心していたように、ここは本当にうまい。とくに最後の一文は、誇張して言えば、中野重治と佐多稲子を、同時に対象化しており、書き手の視点が突然、遠距離にフォーカスされていて、まるでフランスの古典派心理小説のようである。
ちゃんと校閲しなさい!――『夏の栞ー中野重治をおくるー』(1)
そのころ、といっても、もう40年近く前だが、よく行っていた、新宿・番衆町の呑み屋の女将が、『夏の栞』を読みながら、佐多稲子さんはいいねえ、と言っていたのが、耳に蘇ってきて、続けて読んでみた。
「中野重治をおくる」というのが大きなテーマで、それに絡めて、いろいろなことを思い出す。そういう随筆集である。
中野重治が、癌で入院し、死んでゆくまでと、それ以後の、墓に納骨するまでが、表面的な時間の流れで、そこを掘っていけば、佐多稲子の物書きとしての半生が、浮かび上がってくる。
佐多は喫茶店の女給をしているとき、中野重治に見いだされて、作家の道に入ったのである。だから中野重治をおくることは、他のどんなことよりも、重要であった。
「私は実際、中野に、その口髭を立てた心境を訊ねたことはなかった。中野の方からもそれについて何か云おうとしたこともない。お互いの間には、こういうことがしばしばあったように思う。」
こういうことがしばしばあった例として、口髭を立てることが出される。これは微妙だ。特に男と女の場合には、みんな分かっていることとして、話題にしないということなのだけれど、一方、男女が距離を取った場合に、最初から、問題にしないということもありうる。
ここでは佐多は、もちろん男女の親密な関係ということを、前提にしている。
そういう佐多稲子の、文体の微妙さを前提にしつつ、私はここでは、疑問を投げかけたい。
「どうぞ、もう一度無事退院を、という言葉の浮ぶのは、こういうことにつづく怖れだったとおもう。一九七九年七月十四日、中野の入院がすんだことを聞いてこの言葉をつぶやき、そして、そうつぶやいたことを、消えてゆく余韻としてまたおもい返すのは、わずかな数日後であった。」
「わずかな数日後であった」というところ、「わずかな」という言葉はないでしょう。当然、「わずか数日後であった」、としなければいけない。
またこういうところもある。
「私は中野が、全集の著者うしろ書を一冊にまとめて出す本の題名を気にしていたのをおもい浮べた。わが生涯と文学、と一応決められている題の、わが生涯、という表現が中野の感じ方にしっくりしないらしいのを、入院まもないとき編集者の松下裕の話で聞いている。本の題名ではなかろうか、という私の受取り方は中野の感覚についての私の同感であった。」
こういうのは、新潮社の校閲または編集者は、そのまま見逃すのかね。もちろん、「私の受取り方は中野の感覚についての私の同感であった」の部分である。およそ日本語になっていない。
「私の受取り方は中野の感覚と同じであった」ではいけないのだろうか。私には分からない。
「中野重治をおくる」というのが大きなテーマで、それに絡めて、いろいろなことを思い出す。そういう随筆集である。
中野重治が、癌で入院し、死んでゆくまでと、それ以後の、墓に納骨するまでが、表面的な時間の流れで、そこを掘っていけば、佐多稲子の物書きとしての半生が、浮かび上がってくる。
佐多は喫茶店の女給をしているとき、中野重治に見いだされて、作家の道に入ったのである。だから中野重治をおくることは、他のどんなことよりも、重要であった。
「私は実際、中野に、その口髭を立てた心境を訊ねたことはなかった。中野の方からもそれについて何か云おうとしたこともない。お互いの間には、こういうことがしばしばあったように思う。」
こういうことがしばしばあった例として、口髭を立てることが出される。これは微妙だ。特に男と女の場合には、みんな分かっていることとして、話題にしないということなのだけれど、一方、男女が距離を取った場合に、最初から、問題にしないということもありうる。
ここでは佐多は、もちろん男女の親密な関係ということを、前提にしている。
そういう佐多稲子の、文体の微妙さを前提にしつつ、私はここでは、疑問を投げかけたい。
「どうぞ、もう一度無事退院を、という言葉の浮ぶのは、こういうことにつづく怖れだったとおもう。一九七九年七月十四日、中野の入院がすんだことを聞いてこの言葉をつぶやき、そして、そうつぶやいたことを、消えてゆく余韻としてまたおもい返すのは、わずかな数日後であった。」
「わずかな数日後であった」というところ、「わずかな」という言葉はないでしょう。当然、「わずか数日後であった」、としなければいけない。
またこういうところもある。
「私は中野が、全集の著者うしろ書を一冊にまとめて出す本の題名を気にしていたのをおもい浮べた。わが生涯と文学、と一応決められている題の、わが生涯、という表現が中野の感じ方にしっくりしないらしいのを、入院まもないとき編集者の松下裕の話で聞いている。本の題名ではなかろうか、という私の受取り方は中野の感覚についての私の同感であった。」
こういうのは、新潮社の校閲または編集者は、そのまま見逃すのかね。もちろん、「私の受取り方は中野の感覚についての私の同感であった」の部分である。およそ日本語になっていない。
「私の受取り方は中野の感覚と同じであった」ではいけないのだろうか。私には分からない。
鍛え上げられた文体――『時に佇つ』(3)
ここまで僕は、短篇の筋をなぞって、あらすじを書く、ということをしていない。この作品の場合には、そういうことをしても、意味はないと思うのだ。
まわりを埋めることによって、書かれていない中心を際立たせる、ということを、どういうふうにすれば、わかってもらえるだろうか。
書かれない中心を、書くことによってわかってもらう、ということは不可能だ。
だからその不可能を、不可能であるということにおいて、納得してもらう以外に、方法がない。
講談社文芸文庫には、巻末に懇切な「解説」がついている。ここでは小林裕子という人が、「解説 沈黙の論理と恥の倫理」と題して、力編を寄せている。
「いくつかの短編の表現を検討してみると登場人物の沈黙、あるいは寡黙さだけではなく、文体自体が或る意味で寡黙なのに気が付く。或る意味で、というのは全体的に万遍なく寡黙というわけではなく、部分部分において、その寡黙さが目立つような文体、語られなかった空白の部分を、読者に強く意識させるような文体なのだ。」
そういうことなのである。
あるいはまた、こうも言える。
「作者のもっとも言いたいことが、地の中に図として明示される。というよりも、むしろ周辺から地を埋めていき、最後に中心に空白として残る何かとして示される。そのような凝縮された空白、凝縮された沈黙がここには見られるのである。」
佐多稲子を読んだことのない人には、最初からちんぷんかんぷんだと思うが、しかしこれでも、分かる人には分かってもらえるか、という気もする。
こういう作品を書くときの佐多稲子は、「解説」を書いた小林裕子によれば、こんなふうだ。
「時の流れのまっただ中に佇みながら、『記憶』という、水底に沈む石を重石として、自分を過去に繫ぎ、過去にさかのぼろうとする者。この小説の女主人公『私』は、こんなイメージで読者の前に浮かび上ってくる。」
佐多稲子は、それにしても、いつごろから、こういう手法を身につけたのだろう。
まさか処女作のころから、こういう手法で書いていたわけではあるまい。
なによりも、中心を描かずに、それを浮き彫りにするには、中心に沿って、そこへ、圧倒的な文体をもって、迫っていかなければならない。
佐多稲子の、佐多稲子らしいところが、いつごろから表われてくるのか、これは自分で確かめるほかはあるまい。
(『時に佇つ』佐多稲子
講談社文芸文庫、1992年8月10日初刷、1998年11月13日第2刷)
まわりを埋めることによって、書かれていない中心を際立たせる、ということを、どういうふうにすれば、わかってもらえるだろうか。
書かれない中心を、書くことによってわかってもらう、ということは不可能だ。
だからその不可能を、不可能であるということにおいて、納得してもらう以外に、方法がない。
講談社文芸文庫には、巻末に懇切な「解説」がついている。ここでは小林裕子という人が、「解説 沈黙の論理と恥の倫理」と題して、力編を寄せている。
「いくつかの短編の表現を検討してみると登場人物の沈黙、あるいは寡黙さだけではなく、文体自体が或る意味で寡黙なのに気が付く。或る意味で、というのは全体的に万遍なく寡黙というわけではなく、部分部分において、その寡黙さが目立つような文体、語られなかった空白の部分を、読者に強く意識させるような文体なのだ。」
そういうことなのである。
あるいはまた、こうも言える。
「作者のもっとも言いたいことが、地の中に図として明示される。というよりも、むしろ周辺から地を埋めていき、最後に中心に空白として残る何かとして示される。そのような凝縮された空白、凝縮された沈黙がここには見られるのである。」
佐多稲子を読んだことのない人には、最初からちんぷんかんぷんだと思うが、しかしこれでも、分かる人には分かってもらえるか、という気もする。
こういう作品を書くときの佐多稲子は、「解説」を書いた小林裕子によれば、こんなふうだ。
「時の流れのまっただ中に佇みながら、『記憶』という、水底に沈む石を重石として、自分を過去に繫ぎ、過去にさかのぼろうとする者。この小説の女主人公『私』は、こんなイメージで読者の前に浮かび上ってくる。」
佐多稲子は、それにしても、いつごろから、こういう手法を身につけたのだろう。
まさか処女作のころから、こういう手法で書いていたわけではあるまい。
なによりも、中心を描かずに、それを浮き彫りにするには、中心に沿って、そこへ、圧倒的な文体をもって、迫っていかなければならない。
佐多稲子の、佐多稲子らしいところが、いつごろから表われてくるのか、これは自分で確かめるほかはあるまい。
(『時に佇つ』佐多稲子
講談社文芸文庫、1992年8月10日初刷、1998年11月13日第2刷)
鍛え上げられた文体――『時に佇つ』(2)
次は「私」が、中国に出兵した兵士を、慰問する話。
「ここが自分の墓になるところだから、と云った兵隊が、故郷へ帰ったときの職業を案じていた。それは当人も気づかぬ、自然に出る話であって、矛盾を見出す私こそ、真実に距離を持つことにちがいなかった。」(その四)
佐多稲子は戦争中、転向して、そして兵士の慰問をしている。しかしそういうところでも、見るべきものは、透徹して見ている。
「兵隊たちのそれは、切実に、生と死であり、覚悟、あるいは諦めと希望の同居するものであった。ここにおかれた人間の本心が出て、ようやくその夜の話を表裏合わさったものにしてゆく。」(その四)
そういうふうに、話を表裏合わさったものにしてゆくのは、佐多稲子の目である。
戦後、戦争協力ということで、散々苦しむことになるのは、すでにこの時代から、たぶん分かっていたのではないか。
しかしそういうこととは別に、作家の目はどこまでも、冴え返っている。それを文章にするのに、水際立っているという言い方では、まったく足りない。それほど、何とも言いようがないほど、優れている。
「私の、戦後に自分を追及せねばならなかった戦争協力の責任は、私の思想性の薄弱と、理念としての人間への背信として負わねばならぬものだった。が同時に私は、あの戦争の場所で逢った人たちと自分の関係に負い目を感じていた。殊に宜昌〔ギショウ〕における経験は、私のこの負い目の真ん中にあった。その人たちが無事だという。」(その四)
二重、三重に屈折した、戦後の負い目を、実に鮮やかに描き切っている。
夫婦が心中する話も、全体を少し引いたところから、一気呵成に書き切る。
「あのときの、夫婦で薬をあおった行為は、発見されるのが早くて未遂に終っていた。周りに人が駆けつけたあとは、夫婦の片方は別の部屋におかれたはずだ。そのときもしかしまだ完全に命をとりとめると云える状態ではなかったと聞く。尚、この夫婦の心中行為の内容を云えば、それは心中の定義からそれていた。愛し合っているからではなくて、不信と絶望にもとづいて、それは行われた。この哀れな夫婦の、婦は私である。」(その五)
不信と絶望にもとづく心中、という言い方も、なにかを抉り出すような言葉遣いだが、最後の一文、「この哀れな夫婦の、婦は私である」というのは、息を呑む。
しかし問題は、描くべき中心は、実は描かれていない、という点である。
そもそも、そんなことが可能なのか。
「ここが自分の墓になるところだから、と云った兵隊が、故郷へ帰ったときの職業を案じていた。それは当人も気づかぬ、自然に出る話であって、矛盾を見出す私こそ、真実に距離を持つことにちがいなかった。」(その四)
佐多稲子は戦争中、転向して、そして兵士の慰問をしている。しかしそういうところでも、見るべきものは、透徹して見ている。
「兵隊たちのそれは、切実に、生と死であり、覚悟、あるいは諦めと希望の同居するものであった。ここにおかれた人間の本心が出て、ようやくその夜の話を表裏合わさったものにしてゆく。」(その四)
そういうふうに、話を表裏合わさったものにしてゆくのは、佐多稲子の目である。
戦後、戦争協力ということで、散々苦しむことになるのは、すでにこの時代から、たぶん分かっていたのではないか。
しかしそういうこととは別に、作家の目はどこまでも、冴え返っている。それを文章にするのに、水際立っているという言い方では、まったく足りない。それほど、何とも言いようがないほど、優れている。
「私の、戦後に自分を追及せねばならなかった戦争協力の責任は、私の思想性の薄弱と、理念としての人間への背信として負わねばならぬものだった。が同時に私は、あの戦争の場所で逢った人たちと自分の関係に負い目を感じていた。殊に宜昌〔ギショウ〕における経験は、私のこの負い目の真ん中にあった。その人たちが無事だという。」(その四)
二重、三重に屈折した、戦後の負い目を、実に鮮やかに描き切っている。
夫婦が心中する話も、全体を少し引いたところから、一気呵成に書き切る。
「あのときの、夫婦で薬をあおった行為は、発見されるのが早くて未遂に終っていた。周りに人が駆けつけたあとは、夫婦の片方は別の部屋におかれたはずだ。そのときもしかしまだ完全に命をとりとめると云える状態ではなかったと聞く。尚、この夫婦の心中行為の内容を云えば、それは心中の定義からそれていた。愛し合っているからではなくて、不信と絶望にもとづいて、それは行われた。この哀れな夫婦の、婦は私である。」(その五)
不信と絶望にもとづく心中、という言い方も、なにかを抉り出すような言葉遣いだが、最後の一文、「この哀れな夫婦の、婦は私である」というのは、息を呑む。
しかし問題は、描くべき中心は、実は描かれていない、という点である。
そもそも、そんなことが可能なのか。
鍛え上げられた文体――『時に佇つ』(1)
青木正美の『古本市場が私の大学だった』を読んだとき、「佐多稲子覚え書」が強烈に印象に残った。
佐多稲子は、なにも読んだことがなかったので、青木正美の取り上げた『時に佇つ』を読んでみた。
これは12の短編が載っており、「その十一」で、別れた元夫の、死んでゆく様を描いて、川端康成賞を受賞した。
全体を読んだ印象を一言でいうなら、こういう作品は、一度も読んだことがない。
人生の晩年に回想して、あのときはこうだったと、点描してゆくのだが、それが、その場その場で、小さな劇的効果を上げている。
しかも驚くべきことに、中心にあることは書き込まずに、まわりの描写だけで、中心にある事柄を際立たせる。
佐多稲子は小学校を中退し、そこからは有為転変、一人で五生分くらいの人生を生きてきた。
結婚も繰り返したし、戦争中は共産党の組織で働いている。
そして戦争末期には、そこから転向し、中国にいる兵士の慰問にまで行っている。しかし、転向は擬装に近い。
そういう場面を振り返って、激的な一点に集中して書くのだ。面白くないわけがない。
ただし問題は、文体である。これがなかなか大変なのだ。
「恒子に夫がいる、というそのこと自体に触れながら、私の観念は、するりと実体を取り落としていた。それは、当時の私たちの何かを、象徴することかもしれなかった。」(その二)
このうち、「私の観念は、するりと実体を取り落としていた」というところが、新鮮である。自分に対して単刀直入、鋭敏だが、しかし気負ったところはない。
次の場面は長崎の、自分が生まれた場所で。
「いつもの私なら、ここに立つのは、ひたすら、母恋いなのだ。この二階を見上げて私の目に浮かべるものは、十五歳の女学生の必死な出産の姿であり、前後のその少女の胸中なのである。生まれてきた嬰児などはどうでもいい。」(その三)
文体がすっくとしていて、まったくブレがない。書かれている重い事柄に比して、これは本当に見事だ。
しかしそれにしても、15歳の母親から生まれてくるのは、自分ではないか。
佐多稲子は、なにも読んだことがなかったので、青木正美の取り上げた『時に佇つ』を読んでみた。
これは12の短編が載っており、「その十一」で、別れた元夫の、死んでゆく様を描いて、川端康成賞を受賞した。
全体を読んだ印象を一言でいうなら、こういう作品は、一度も読んだことがない。
人生の晩年に回想して、あのときはこうだったと、点描してゆくのだが、それが、その場その場で、小さな劇的効果を上げている。
しかも驚くべきことに、中心にあることは書き込まずに、まわりの描写だけで、中心にある事柄を際立たせる。
佐多稲子は小学校を中退し、そこからは有為転変、一人で五生分くらいの人生を生きてきた。
結婚も繰り返したし、戦争中は共産党の組織で働いている。
そして戦争末期には、そこから転向し、中国にいる兵士の慰問にまで行っている。しかし、転向は擬装に近い。
そういう場面を振り返って、激的な一点に集中して書くのだ。面白くないわけがない。
ただし問題は、文体である。これがなかなか大変なのだ。
「恒子に夫がいる、というそのこと自体に触れながら、私の観念は、するりと実体を取り落としていた。それは、当時の私たちの何かを、象徴することかもしれなかった。」(その二)
このうち、「私の観念は、するりと実体を取り落としていた」というところが、新鮮である。自分に対して単刀直入、鋭敏だが、しかし気負ったところはない。
次の場面は長崎の、自分が生まれた場所で。
「いつもの私なら、ここに立つのは、ひたすら、母恋いなのだ。この二階を見上げて私の目に浮かべるものは、十五歳の女学生の必死な出産の姿であり、前後のその少女の胸中なのである。生まれてきた嬰児などはどうでもいい。」(その三)
文体がすっくとしていて、まったくブレがない。書かれている重い事柄に比して、これは本当に見事だ。
しかしそれにしても、15歳の母親から生まれてくるのは、自分ではないか。
エロな話――『ペルーの異端審問』
これは筒井康隆『不良老人の文学論』に、「大らかで根源的な笑い」として、挙げてあった。聖職者のエロ話集である。
「禁欲の中で肉欲が燃えあがり、あまりの欲望ゆえに時には早漏気味の盛大な射精に至る聖職者たち。それらはまさに禁忌であるが故にこそ、あまりにも快美なのだ。」
さすがにうまいものです。さらに、
「異端審問官とて、夢魔や悪魔や聖職者たちと寝たという女を尋問する際の、全裸の彼女たちの陰部をいじりまわしたりもした上での、その供述を大いに楽しんでいる。」
読んでみたくなるじゃありませんか。
「巻頭言」として、筒井康隆の、この文章が載っている。
さらにその次に、マリオ・バルガス・リョサの「序文」までついている。
「『ペルーの異端審問』にはいずれの分野にも訴えるだけの素材が備わっている。その結果、読み手を楽しませつつも学ばせる一冊の本ができあがった。読者を幻想の世界へと誘うと同時に、恐怖と束縛が支配していた忌まわしい時代の現実にも直面させてくれることだろう。」
すみません、バルガス・リョサの懇切な導きにもかかわらず、エロな話のみ、探して読みました。
全部で17の掌篇が入っていて、全体を通して、筋はあると思うのだけど、よくわからなかった。
そのかわり、どういうところを読んだかというと、
「なかでも目を引くのは熟年クリオーリャの例だ。あろうことか無敵の解放者ボリーバルの手で恥毛を剃りあげられ、桃の実のような状態にされたという。」
クリオーリャは、中南米生まれのスペイン人女性のこと。
こういうところばかりを読んでいたので、筋はあるのかないのか……。
しかし、ペルーの聖職者がこの時代、暇に飽かせて、次から次へと貪欲に女を漁るのだけはよくわかった。
最後に、「エピローグ」から引いておく。
「彼らの不幸はテレビの時代ではなく、異端審問の嵐が吹く時代に生まれたことにある。もし今の時代に生まれていたら、拷問を受け、異端審問判決式でさらしものになる代わりに、有名人としてインタビューに応じ、世界じゅうから講演依頼が殺到し、自身の神秘体験を語ることで生計を立てられたかもしれないのに。それほどまでに僕らが暮らす二一世紀は、不信人が横行し、物質主義や技術革新にまみれた半ば異常な社会だとも言えよう。」
最後のこの部分を読むと、フェルナンド・イワサキも、半ば笑って艶笑譚を書いたような気がする。
(『ペルーの異端審問』フェルナンド・イワサキ、訳・八重樫克彦/八重樫由貴子
新評論、2016年7月31日初刷)
「禁欲の中で肉欲が燃えあがり、あまりの欲望ゆえに時には早漏気味の盛大な射精に至る聖職者たち。それらはまさに禁忌であるが故にこそ、あまりにも快美なのだ。」
さすがにうまいものです。さらに、
「異端審問官とて、夢魔や悪魔や聖職者たちと寝たという女を尋問する際の、全裸の彼女たちの陰部をいじりまわしたりもした上での、その供述を大いに楽しんでいる。」
読んでみたくなるじゃありませんか。
「巻頭言」として、筒井康隆の、この文章が載っている。
さらにその次に、マリオ・バルガス・リョサの「序文」までついている。
「『ペルーの異端審問』にはいずれの分野にも訴えるだけの素材が備わっている。その結果、読み手を楽しませつつも学ばせる一冊の本ができあがった。読者を幻想の世界へと誘うと同時に、恐怖と束縛が支配していた忌まわしい時代の現実にも直面させてくれることだろう。」
すみません、バルガス・リョサの懇切な導きにもかかわらず、エロな話のみ、探して読みました。
全部で17の掌篇が入っていて、全体を通して、筋はあると思うのだけど、よくわからなかった。
そのかわり、どういうところを読んだかというと、
「なかでも目を引くのは熟年クリオーリャの例だ。あろうことか無敵の解放者ボリーバルの手で恥毛を剃りあげられ、桃の実のような状態にされたという。」
クリオーリャは、中南米生まれのスペイン人女性のこと。
こういうところばかりを読んでいたので、筋はあるのかないのか……。
しかし、ペルーの聖職者がこの時代、暇に飽かせて、次から次へと貪欲に女を漁るのだけはよくわかった。
最後に、「エピローグ」から引いておく。
「彼らの不幸はテレビの時代ではなく、異端審問の嵐が吹く時代に生まれたことにある。もし今の時代に生まれていたら、拷問を受け、異端審問判決式でさらしものになる代わりに、有名人としてインタビューに応じ、世界じゅうから講演依頼が殺到し、自身の神秘体験を語ることで生計を立てられたかもしれないのに。それほどまでに僕らが暮らす二一世紀は、不信人が横行し、物質主義や技術革新にまみれた半ば異常な社会だとも言えよう。」
最後のこの部分を読むと、フェルナンド・イワサキも、半ば笑って艶笑譚を書いたような気がする。
(『ペルーの異端審問』フェルナンド・イワサキ、訳・八重樫克彦/八重樫由貴子
新評論、2016年7月31日初刷)
これはがっかり――『話術』
僕は脳出血で倒れる4年ほど前から、東京大学の情報学環というところで、出版について講義を始めた。前期のみで13回、これを3年間やった。
人前でまとまった時間、出版について話をする。こんなことは初めてだったが、話してみると、実に滑らかに言葉が出てくる。僕はちょっと自信を持った。
もちろん、話す内容に独創性があるというのとは違う。それは100のうち1、2パーセントしかない。
しかしとにかく、話術に関しては、一応自信を持ってもよさそうだった。
そして、ここからは何度も書くが、5年前に脳出血で倒れた。半年間、病院にいたが、最初の3か月は、妻や子供の名前が言えなかった。イヌという単語は言えても、ネコは言えなかった。
4か月目にパソコンを与えられたが、キーボードが一字も打てなかった。高次脳機能障害である。
5年たって、いくらか言葉は回復したが、まだ自分としては歯がゆい。自分で自分に焦燥することがある。
そんな時に、徳川夢声の『話術』が復刊された。期待しないでおく方が、無理というものである。
で、結論から言うと、これは高次脳機能障害の患者とは、まったく関係のない、アサッテの方向の本だった。
最初は1947年に、秀水社から出版され、2年後には白揚社から、版を改めて出版され、その後、何度となく版を重ねた。
つまりこれは、戦後すぐの本なのである。だから独特の言い回しにあふれている。
「仮名文字ばかりで読みやすい文章が書けるとき、ローマ字でスラスラとよどみなく、日本文が読めるときであろう。文字を記憶するという、馬鹿げた労力を、それだけ有用な他の方面に向けられる。これだけでもわが国文化の向上に偉大なる効果を及ぼすであろう。」
志賀直哉が、日本人は日本語をやめて、フランス語を話せばいいんじゃないか、ということを、真面目に説いていた時代だ。そうすれば日本人も、理性的に議論できるようになるだろう。戦後すぐとは、そういう時代なのだ。
あるいはこういう、敢えて言えば、紋切り型の啖呵の切り方。
「文化国家の一員として生きて行くためには、宗教的な信念、道徳上の意見、芸術的な主張など、随時随所に演説し得るだけの、心得があってしかるべきでしょう。黙って引込んでいるのが、結局はトクだ、なんて考えは至極封建的であります。」
ちょっと前までは、何も言えなかった時代だということが、よくわかる。
でもそれを「封建的」の一語で片づけるのは、徳川夢声の人品骨柄をよく示している。
「話術概論」ではあるが、外から攻めているばかりで、本質を突いた鋭い意見は、全編を通して、ただの一行もない。
(『話術』徳川夢声、新潮文庫、2019年4月1日初刷)
人前でまとまった時間、出版について話をする。こんなことは初めてだったが、話してみると、実に滑らかに言葉が出てくる。僕はちょっと自信を持った。
もちろん、話す内容に独創性があるというのとは違う。それは100のうち1、2パーセントしかない。
しかしとにかく、話術に関しては、一応自信を持ってもよさそうだった。
そして、ここからは何度も書くが、5年前に脳出血で倒れた。半年間、病院にいたが、最初の3か月は、妻や子供の名前が言えなかった。イヌという単語は言えても、ネコは言えなかった。
4か月目にパソコンを与えられたが、キーボードが一字も打てなかった。高次脳機能障害である。
5年たって、いくらか言葉は回復したが、まだ自分としては歯がゆい。自分で自分に焦燥することがある。
そんな時に、徳川夢声の『話術』が復刊された。期待しないでおく方が、無理というものである。
で、結論から言うと、これは高次脳機能障害の患者とは、まったく関係のない、アサッテの方向の本だった。
最初は1947年に、秀水社から出版され、2年後には白揚社から、版を改めて出版され、その後、何度となく版を重ねた。
つまりこれは、戦後すぐの本なのである。だから独特の言い回しにあふれている。
「仮名文字ばかりで読みやすい文章が書けるとき、ローマ字でスラスラとよどみなく、日本文が読めるときであろう。文字を記憶するという、馬鹿げた労力を、それだけ有用な他の方面に向けられる。これだけでもわが国文化の向上に偉大なる効果を及ぼすであろう。」
志賀直哉が、日本人は日本語をやめて、フランス語を話せばいいんじゃないか、ということを、真面目に説いていた時代だ。そうすれば日本人も、理性的に議論できるようになるだろう。戦後すぐとは、そういう時代なのだ。
あるいはこういう、敢えて言えば、紋切り型の啖呵の切り方。
「文化国家の一員として生きて行くためには、宗教的な信念、道徳上の意見、芸術的な主張など、随時随所に演説し得るだけの、心得があってしかるべきでしょう。黙って引込んでいるのが、結局はトクだ、なんて考えは至極封建的であります。」
ちょっと前までは、何も言えなかった時代だということが、よくわかる。
でもそれを「封建的」の一語で片づけるのは、徳川夢声の人品骨柄をよく示している。
「話術概論」ではあるが、外から攻めているばかりで、本質を突いた鋭い意見は、全編を通して、ただの一行もない。
(『話術』徳川夢声、新潮文庫、2019年4月1日初刷)
深いところから――『武蔵丸』(6)
他にはあと二篇、「功徳」と「一番寒い場所」が入っている。
「功徳」は、大学を出て、最初に就職をしたころの話。「一番寒い場所」は、三島由紀夫が自殺した頃、それに関連した右翼だか何だかわからん男と、関わり合いになる話である。
どちらも読みごたえが、あると言えばあるし、一篇の小説という点から言えば、どうにもまとまらない話ではある。
「功徳」には、大学を出たには出たが、何にもする気のない「私」の内面が、よく描けている。
「会社の仕事には何の興味も関心も持てなかった。会社での仕事は、TVのCMや新聞・雑誌広告の企画書を持ち歩いての、広告取りである。広告とは何か。その本質は資本主義社会の尖兵としての、誘惑と脅しと巧言令色である。」
学校で『論語』の「巧言令色鮮(スクナ)シ仁ト」を習いながら、それに逆らって、生きていくのは、学校を真面目に務めた人間には厳しいことだ。
この点では私も、出版という、自分の最良を生かす職業以外には、考えられなかった。
しかし「私」は、出版ではなく、広告会社を選び取る。
「日々、誘惑と脅しと騙しという悪をなしていた。そういう悪の上に築かれているのが現代社会だった。けれども、その悪を善と考えているのが会社というところだった。」
「私」は、周りから見れば困った人であり、むつかしい人であった。
「一番寒い場所」には、小説の筋に直接の関係はないが、編集者論が出てくる。車谷は、ここで、思いの丈をぶちまける。
「編輯者の原稿の催促は、恰かも債鬼の借金の取り立てにも似て、情け容赦のないものである。自分の都合だけを考えているから、そういうことが平気で出来るのだが、一つ終ればまた次と、こちらの生命のリズムのことなど一顧だにせず、次ぎ次ぎと『次ぎの原稿』を求めて来る。こちらの生命の井戸の水が涸れるまで、徹底的に汲み尽くそうという腹だ。」
新潮社や文春の編集者は、そういうふうに見られていたということだ。特に直木賞を取った著者の場合は、しょうがないなと思う。
「去年の夏の直木賞受賞以来、神経性の胃潰瘍に苦しめられ、隔週、浦和の精神病院で精神安定剤、抗鬱剤、胃潰瘍の薬をもらって服用しているものの、胃痛は治まらず、毎日、不機嫌な怒りに囚われている。編輯者という債鬼は、こちらの心の中の『一番寒い場所』を無神経につついて来るのである。」
でも著者のこういう不安なり、不満を読むと、元編集者としては、著者が頑張っているということを知って、なんとなく安心する思いがある。これも編集者の側の、歪んだ心根といえばいえると思うけど、どうしようもないことだ。
全体を読んでみて、高橋順子と同じく、やっぱり「武蔵丸」が一番いいと思う。
みんな私小説でありながら、「武蔵丸」だけは、広い世界、普遍的な世界の高みに達している。私は何となく、島木健作の「赤蛙」を思い出した。
(『武蔵丸』車谷長吉、新潮文庫、2004年5月1日初刷)
「功徳」は、大学を出て、最初に就職をしたころの話。「一番寒い場所」は、三島由紀夫が自殺した頃、それに関連した右翼だか何だかわからん男と、関わり合いになる話である。
どちらも読みごたえが、あると言えばあるし、一篇の小説という点から言えば、どうにもまとまらない話ではある。
「功徳」には、大学を出たには出たが、何にもする気のない「私」の内面が、よく描けている。
「会社の仕事には何の興味も関心も持てなかった。会社での仕事は、TVのCMや新聞・雑誌広告の企画書を持ち歩いての、広告取りである。広告とは何か。その本質は資本主義社会の尖兵としての、誘惑と脅しと巧言令色である。」
学校で『論語』の「巧言令色鮮(スクナ)シ仁ト」を習いながら、それに逆らって、生きていくのは、学校を真面目に務めた人間には厳しいことだ。
この点では私も、出版という、自分の最良を生かす職業以外には、考えられなかった。
しかし「私」は、出版ではなく、広告会社を選び取る。
「日々、誘惑と脅しと騙しという悪をなしていた。そういう悪の上に築かれているのが現代社会だった。けれども、その悪を善と考えているのが会社というところだった。」
「私」は、周りから見れば困った人であり、むつかしい人であった。
「一番寒い場所」には、小説の筋に直接の関係はないが、編集者論が出てくる。車谷は、ここで、思いの丈をぶちまける。
「編輯者の原稿の催促は、恰かも債鬼の借金の取り立てにも似て、情け容赦のないものである。自分の都合だけを考えているから、そういうことが平気で出来るのだが、一つ終ればまた次と、こちらの生命のリズムのことなど一顧だにせず、次ぎ次ぎと『次ぎの原稿』を求めて来る。こちらの生命の井戸の水が涸れるまで、徹底的に汲み尽くそうという腹だ。」
新潮社や文春の編集者は、そういうふうに見られていたということだ。特に直木賞を取った著者の場合は、しょうがないなと思う。
「去年の夏の直木賞受賞以来、神経性の胃潰瘍に苦しめられ、隔週、浦和の精神病院で精神安定剤、抗鬱剤、胃潰瘍の薬をもらって服用しているものの、胃痛は治まらず、毎日、不機嫌な怒りに囚われている。編輯者という債鬼は、こちらの心の中の『一番寒い場所』を無神経につついて来るのである。」
でも著者のこういう不安なり、不満を読むと、元編集者としては、著者が頑張っているということを知って、なんとなく安心する思いがある。これも編集者の側の、歪んだ心根といえばいえると思うけど、どうしようもないことだ。
全体を読んでみて、高橋順子と同じく、やっぱり「武蔵丸」が一番いいと思う。
みんな私小説でありながら、「武蔵丸」だけは、広い世界、普遍的な世界の高みに達している。私は何となく、島木健作の「赤蛙」を思い出した。
(『武蔵丸』車谷長吉、新潮文庫、2004年5月1日初刷)
深いところから――『武蔵丸』(5)
立花得二先生は東京大学を出て、三菱商事本社に入社したが、上司によって陥れられ、その上司を殴って、辞表を叩きつける。
そうして、飾磨高校の教師になったのである。
だから立花先生は、「受け入れたくはない現実をある苦痛とともに受け容れ、生の底で教師になった人である。この男の中には失意という烈しい精神の劇が生きている。異彩を放った。が、当然、周囲からは不可解な人として見られた。」
立花先生は飾磨高校で、毎週一回、朝6時から8時まで、「立花塾」を開いた。初めは15、6人が参加し、先生は毎週、ガリ版でプリントを作成された。
「そこで私たちは、西洋のプラトン、アリストテレス、マルクス・アウレリウス、モンテーニュ、F・ベーコン、デカルト、パスカル、スピノザ、ヘーゲル、ニーチェ、また支那の孔子、老子、荘子などの思想の核心について講義を受けた。」
「立花塾」は、3年の夏が過ぎるころには、「私」ともう一人の、二人だけになった。
立花先生は毎週、二人だけのために、ガリ版を切り、プリントを用意されていた。
それは、のちに慶応大学で聞いた、アリストテレス研究の第一人者、松本正夫教授の哲学概論の講義よりも、はるかに分かりやすく、緻密で、奥深く、程度が高かった。
「約二年間、あの早朝の『立花塾』で聞いた先生の『言葉。』が、その後の私の基いをなした。『精神。』というものの輝きに魅せられたのである。」
「私」が大学を出るころには、全共闘運動が熾烈を極め、それは播州片田舎の飾磨高校にも及んだ。
立花先生は、少数の教師とともに、生徒側に立って論陣を張り、泥沼的闘争を経て、教師の職を辞した。
その後、いつのころか、こんな話が伝わっている。
「その後、立花先生の生活はすさみ、ともに辞職した濱野正美氏といっしょに姫路OSミュージック・ホールのストリップ・ショウの特出しを見に行くような生活をしていたが、ある日、腹に帝王切開した傷痕のある、すでに老嬢となった女が、両手で懸命に女陰(ほと)を開いて見せるのを、舞台の袖で見ていて、先生は『あの女の哀れさは、わしの哀れさや。』と洩らされたとか。」
姫路のOSミュージックは、私が最初にストリップを見た場所だ。まだ高校3年生で、あと数日で、高校を卒業するという日だった。
大学生の間は、姫路で同窓会があるので、OSミュージックもその流れで、帰省すればよく行った。
ある年の正月にО・Y嬢が出ていて、その人は去年の同じ時期にも出ていた。かぶりつきで見ていた私が、去年も正月に出ていたね、と言うと、彼女はびっくりして、動きを止めた。そして両方の足で、女陰をわずかに閉じた。しかしそれは一瞬のことで、すぐに笑顔に戻り、高々と陰部を見せた。それはいかにも、プロの踊りだった。
О・Y嬢とはその後、一度だけお茶を飲んだ。これも考えてみれば、あり得ない話だ。でもそれは、まったく逸脱してしまうので、ここまでにする。
車谷長吉は、『鹽壺の匙』が出版されると、人づてに、立花先生に献本した。
「立花先生は咽喉癌で舌がもつれるようになっておられ、病床で泪を流して喜んで下さったとか。」
「狂」の最後は、こうである。
「私は先生の意に反し、無能者(ならずもの)の文士になった。文士なんて、人間の屑である。」
「狂」はこういう話である。気が狂っているのが、「狂」ではなくて、己れが狂うというのを、冷静に見据え、それでもなお狂っていくのが、「狂」という話だ。
そうして、飾磨高校の教師になったのである。
だから立花先生は、「受け入れたくはない現実をある苦痛とともに受け容れ、生の底で教師になった人である。この男の中には失意という烈しい精神の劇が生きている。異彩を放った。が、当然、周囲からは不可解な人として見られた。」
立花先生は飾磨高校で、毎週一回、朝6時から8時まで、「立花塾」を開いた。初めは15、6人が参加し、先生は毎週、ガリ版でプリントを作成された。
「そこで私たちは、西洋のプラトン、アリストテレス、マルクス・アウレリウス、モンテーニュ、F・ベーコン、デカルト、パスカル、スピノザ、ヘーゲル、ニーチェ、また支那の孔子、老子、荘子などの思想の核心について講義を受けた。」
「立花塾」は、3年の夏が過ぎるころには、「私」ともう一人の、二人だけになった。
立花先生は毎週、二人だけのために、ガリ版を切り、プリントを用意されていた。
それは、のちに慶応大学で聞いた、アリストテレス研究の第一人者、松本正夫教授の哲学概論の講義よりも、はるかに分かりやすく、緻密で、奥深く、程度が高かった。
「約二年間、あの早朝の『立花塾』で聞いた先生の『言葉。』が、その後の私の基いをなした。『精神。』というものの輝きに魅せられたのである。」
「私」が大学を出るころには、全共闘運動が熾烈を極め、それは播州片田舎の飾磨高校にも及んだ。
立花先生は、少数の教師とともに、生徒側に立って論陣を張り、泥沼的闘争を経て、教師の職を辞した。
その後、いつのころか、こんな話が伝わっている。
「その後、立花先生の生活はすさみ、ともに辞職した濱野正美氏といっしょに姫路OSミュージック・ホールのストリップ・ショウの特出しを見に行くような生活をしていたが、ある日、腹に帝王切開した傷痕のある、すでに老嬢となった女が、両手で懸命に女陰(ほと)を開いて見せるのを、舞台の袖で見ていて、先生は『あの女の哀れさは、わしの哀れさや。』と洩らされたとか。」
姫路のOSミュージックは、私が最初にストリップを見た場所だ。まだ高校3年生で、あと数日で、高校を卒業するという日だった。
大学生の間は、姫路で同窓会があるので、OSミュージックもその流れで、帰省すればよく行った。
ある年の正月にО・Y嬢が出ていて、その人は去年の同じ時期にも出ていた。かぶりつきで見ていた私が、去年も正月に出ていたね、と言うと、彼女はびっくりして、動きを止めた。そして両方の足で、女陰をわずかに閉じた。しかしそれは一瞬のことで、すぐに笑顔に戻り、高々と陰部を見せた。それはいかにも、プロの踊りだった。
О・Y嬢とはその後、一度だけお茶を飲んだ。これも考えてみれば、あり得ない話だ。でもそれは、まったく逸脱してしまうので、ここまでにする。
車谷長吉は、『鹽壺の匙』が出版されると、人づてに、立花先生に献本した。
「立花先生は咽喉癌で舌がもつれるようになっておられ、病床で泪を流して喜んで下さったとか。」
「狂」の最後は、こうである。
「私は先生の意に反し、無能者(ならずもの)の文士になった。文士なんて、人間の屑である。」
「狂」はこういう話である。気が狂っているのが、「狂」ではなくて、己れが狂うというのを、冷静に見据え、それでもなお狂っていくのが、「狂」という話だ。