ぱらぱらと捲っていけば――『古本市場が私の大学だったー古本屋控え帳自選集ー』(4)

「佐多稲子覚え書」は、強く印象に残る章だ。
 
佐多稲子は、はじめ窪川いね子。家庭が貧しくて、小学校のときから工場勤めをはじめ、キャラメルの包装作業に従事する。
 
このときのことは「キャラメル工場から」に詳しいが、僕は読んでいない。というより佐多稲子は、読んだことがない。
 
むかし新宿の番衆町に、Hという飲み屋があり、そこの女将があるとき、佐多稲子の『夏の栞ー中野重治をおくるー』をやたらに誉めるので、絶対に読むものかと思ったが、そのタイトルだけは強く印象に残った。
 
そこの女将とは、喧嘩をするわけではないが、なんとなく張り合う感じがあった。それなら飲まなければいい、というのは、酒飲みの心を知らない人の言い草であり、そういうものではない。
 
佐多稲子はその後、上野の青凌亭に座敷女中として入り、18歳で日本橋丸善の洋品部店員となる。
 
その間、何度も自殺を考えるが、大正12年の関東大震災に逢って、そういう考えは吹き飛んだ。
 
翌年、資産家の息子と結婚し、長女を生むが離婚する。
 
もうここまでで波乱万丈の人生だが、ここまでは言ってみれば前座である。
 
大正15(昭元)年、23歳のとき、本郷動坂のカフェー、紅緑に勤める。
 
紅緑は、「驢馬」創刊の打ち合わせで、中野重治、堀辰雄、窪川鶴次郎らが出入りしたことから、佐多はこの人たちと知り合う。

まもなく佐多は、浅草のカフェー、聚楽に移り、窪川鶴次郎と同棲、結婚する。

佐多はそこで、中野や窪川の影響でエンゲルス、レーニンの著作を読み、昭和3年、処女作「キャラメル工場から」を書く。
 
ここまでで佐多稲子は、小学校5年生の途中までしか行っていない。これは、のちの仕事を考えてみれば、なかなかすごいことだ。
 
佐多はそのことを、「学歴なしの履歴書」に書いている。

「出生地などの次に必ず学歴の欄があって、最終出身校を書き入れるようになっている。私の場合その出身校というものがない。出身校というからには、少なくともその学校を卒業していなくてはならないだろうが、私はついに一度も卒業ということをしたことがない。蛍の光、窓の雪というあの歌をうたったことがないのである。」
 
なかなかすさまじいことではある。

はじめ佐多は、「驢馬」の仲間から、女優になることを勧められ、その稽古に通い始めたが、その途中で中野重治に、小説を書くことを勧められ、そこで書いたのが、「キャラメル工場から」だった。

なお佐多は、昭和20年に窪川と離婚している。

ちなみに青木正美の最後の文章は、こうなっている。

「たった一つ年上だった窪川の死は昭和四十九年。その悲惨とも言えなくはない窪川の晩年は、佐多の川端康成文学賞を受賞した短篇連作の『その十一』に詳しく哀惜をこめて書かれている。」
 
川端賞を受賞したのは『時に佇つ』、これを読まずにはおられようか。
 
青木正美のこの本には、そういう話が詰まりきっている。

(『古本市場が私の大学だったー古本屋控え帳自選集ー』
 青木正美、日本古書通信社、2019年6月20日初刷)

ぱらぱらと捲っていけば――『古本市場が私の大学だったー古本屋控え帳自選集ー』(3)

この本は言ってみれば、精選コラム集なので、あっちこっちへと話が飛ぶ。

「老年文学の時代」と題する一篇は、伊藤整の老人小説についてである。

「私は『変容』を伊藤の最高傑作と再確認した。テーマは『老年の性』で、一夫一婦制からの解放をも意図している。既に妻を亡くし、六十間近の『私』は若い女とも交渉がある。一方過去の繫がりからとは言え、六十半ばの老婦人二人とも、憧れをもって近づき交わりを持つ話だ。」
 
青木正美は、「丁度この小説の執筆(「世界」に連載)時、伊藤は現在の私と同じ六十三歳」と書いている。
 
ちなみにこの章が書かれたのは、1996年9月。このとき伊藤整は、小説に登場する六十間近の「私」を、老人と考えていたのだ。
 
青木正美も1996年には、伊藤整と同じく、自分を老人と考えている。
 
それから20年ちょっと経って、いま僕は66歳だが、あまり自分が年寄りという感じはしない。「老人」という概念は、それに相当する年代が、時代によって変わってくる。しかも今は、それが劇的に変化している。
 
いずれにしても、63歳で『変容』を執筆した伊藤整は、この当時は、「老年文学の先駆的作品」を書いたのだ。
 
一夫一婦制からの解放をも意図した『変容』は、伊藤整の最高傑作であるという、青木正美の断定の仕方が面白い。一夫一婦制は、男にとって永遠の束縛なのか。

「『流れゆく日々』」の章で、石川達三の日記が挙げられている。これは『新潮』に連載されたのち、全7冊の単行書になった。全部で古書価1500円。
 
青木正美は、これは「正直さ」という点で、面白いところがあるというが、読んでみると、面白いどころではない。

「スタンダールも読み切れないが、大江健三郎も私には読み切れない。『万延元年のフットボール』など、二度読みかけて二度とも投げ出した。何を書こうとしているのか、それすらも解らないのだ。私が悪いのか、大江が悪いのか。(昭45)」

『万延元年のフットボール』を書いたころの大江健三郎を、なんだかわからんと『新潮』に書くのは、よっぽどの度胸だと思うが、このころはそんなことを、明け透けに書けたのか。それとも石川達三だけが、あまりに鈍感だったのか。あるいは石川は、何を言っても許されるという、大御所的存在だったのか。

「去る六月末ごろ保高徳蔵氏が亡くなった。(略)或る大きなパーティの席で、私は全く理不尽なからみ方をされて、途方に暮れたことがある。所詮私とは無縁の人であった。そういう人はほかにも居る。谷崎潤一郎、太宰治、志賀直哉。……(昭46)」
 
おいおい、これではほとんど、文学の世界とは無縁ではないか。

「志賀直哉氏死去。八十八歳。(略)名作と言われる『城の崎にて』を読んでみた。(略)私はやはり、ちっとも感心しなかった。(昭46)」

『城の崎にて』を、いまごろ読むのもどうかと思うが、それにしても、「小説の神様」も形無しである。

石川達三は、自分の作品については、どう思っていたのか。菊池寛と比べて論じているところがある。

「私には菊池寛に無い別のものがあるはずだ。それを読者がどう受け取ってくれるかは解らない。/いずれにせよ自分の生涯の仕事が印刷物になって残っているということは、普通の勤め人の仕事とくらべて、有難いようでもあり、また逆にそれだけ業が深いような気がする。」
 
これ自体、いい気なものだという気がしないでもない。

青木正美の最後の一行は、こうなっている。

「石川はどの作家に対するよりも、自分にだけは甘かったようだ。」

ぱらぱらと捲っていけば――『古本市場が私の大学だったー古本屋控え帳自選集ー』(2)

その後、「文芸列車」については、梶山李之の出していた『噂』や、昭和26年2月号の『オール讀物』が、資料として出てきた。
 
特に『オール讀物』2月号は、「文芸列車」の出発から帰着までを、口絵写真で特集していて、これを見ると、眞杉静枝も加わっている。古書価は1000円。
 
口絵写真は4頁6点あって、その最後の方のネームは、「長途の疲労から横になった久米氏を、尊敬と親愛の情をこめて眺めるファンの女性達」であったり、「小諸城阯に第一回文芸列車訪問の記念柱を建てる浜本氏とサービスガール達」という具合。
 
これを見ると、この頃の作家は芸能人も兼ねていた、と思わざるを得ない。昔は、そういう位置取りであったのか。
 
話変わって、『実業之日本』昭和8年1月1日号というのが面白い。ちなみにこのとき、『実業之日本』は月刊誌ではなく、月2回刊である。
 
新年号だから、それにふさわしい特集がある。総タイトルは「これからの成功法新研究」。昔も今も、雑誌というのは変わらないものだ。

その中に「現代オール代表百人」の特集があり、政界、財界、学界、音楽界、官界、陸海軍人、運動界、新進美術家、演劇界に混じって、「文学十人男」というのが、ゴシップ交じりの短評で紹介されている。
 
それを、ゴシップは省略して紹介すると、まず一人目は、
「朱鞘の大親分・直木三十五」、
以下順に、
「金の大好きな・浅原六朗」
「文壇人気株・菊池寛」
「大宅壮一」(ここは、青木正美はキャッチフレーズを挙げていない。大宅壮一はよほど嫌いなのか。)
「重苦しい先生・横光利一」
「チャンバラ小説技師・大佛次郎」
「当世股旅男・龍膽寺雄」
「モダン大馬鹿・林房雄」
「時の勝者・吉川英治」
 そして最後が、
「お経もいいがお布施もいい・島崎藤村」
 
この文壇十人男を読んだ感想を、青木正美はこう述べる。

「何はともあれ、文学者以外の他の各界『十人男』が、今では全く話題にもされない忘れられ方なのに、『文学十人男』は少くとも全く忘れられた人というのはいない。それどころか、この『十人男』中五人が、直木賞、菊池寛賞、大宅壮一ノンフィクション賞、吉川英治文学賞、藤村記念歴程賞と、先の『藤村神社』ならぬ賞の教祖として半ば永久に名を残している。」
 
たしかにちょっと前までは、そうだった。
 
しかしこれからは、そうは行かないのではないか、と思わざるを得ない。

「文学十人男」は、雑誌や新聞だから著名なのであって、そのほかの者と比べれば、媒体と密接に結びついている。
 
しかしそれは、昭和の世までであって、平成の、特に後半になってくると、かなり怪しくなってくる。これが令和に代われば、「文学十人男」などとんでもない、ということにならないだろうか。
 
雑誌と新聞がほとんど潰えた後は、そういうことになりそうな気がする。

ぱらぱらと捲っていけば――『古本市場が私の大学だったー古本屋控え帳自選集ー』(1)

青木正美の本は、たぶん4、5冊は読んだことがある。ちくま文庫で出た『古本屋五十年』という本が最初だった。

それが面白かったので、『古書肆・弘文荘訪問記』を続けて読んだ。これはもっと面白かった。

続けて『ある古本屋の生涯』『肉筆で読む 作家の手紙』『文藝春秋作家原稿流出始末記』を読んでいる。
 
最後の『文藝春秋作家原稿流出始末記』は、古本屋商売の生々しさ、裏表がよく出ていて、何とも言えなかった。単純に、面白かったというのではない。しかしもちろん、生々しいけれど、嫌な後味が残るというのではない。

今度の本は、1986(昭和60)年から2018(平成30)年まで、『日本古書通信』に「古本屋控え帳」として連載したものから、ピックアップしたものである。

同じく私も、『古書通信』に連載しているので、これは面白いだろうというので、編集長の樽見博さんが送ってくれたものである。

ぱらぱらと読んでいくと、なるほど面白い。
 
昭和25年に、「文芸列車」という特別に編成された列車を、東京駅から出発させている。文藝春秋が招請した作家は、丹羽文雄、浜本浩、亀井勝一郎、有島生馬、久米正雄、井伏鱒二、石川淳。
 
こういう面々が、読者と一緒に列車で旅をする。時代が違うといってしまえば、それまでだが、それにしてもちょっと想像できかねる。きっと担当編集者以外は、楽しかったんだろうなあ。あるいはこの頃は、編集者も楽しんでいたのか。
 
国鉄、交通公社、文芸春秋(新)社、小諸観光協会の共催で、参加者を募集していて、総勢151名である。

一体、何両だったのか、それは、倉本彦五郎という人の残したスクラップ帳には書いてない。
 
行き先は秋の信濃路。上山田温泉、戸倉温泉、島崎藤村ゆかりの小諸懐古園を訪ね、夕方、上野駅に到着する四泊五日の旅で、費用は1200円だった。
 
これは、大人気の企画、というほどのことはなかったろう。あるいは、担当編集者が疲れてしまったのか。文芸列車はこのとき、ただ一度だけ企画されたという。

大谷崎をどう読むか――『卍』

これは筒井康隆の『不良老人の文学論』を読んで、読みたくなったのだ。筒井康隆は、谷崎を全部読んだ上で、こんなふうに言う。

「今まで読んだ中でのぼくの一番のお気に入りはというと、これはもうはっきりと『卍』であろう。こんなに複雑な話を饒舌体でもって面白おかしく語ってしまえるというのは天才としか言いようがない。」
 
これは読まなくてはなるまい、と思うじゃないですか。
 
若い人妻、園子は、技芸学校で出会った光子と、禁断の恋に落ちる。一方、奔放な光子は、異性の綿貫とも逢引きを繰り返す。園子は、光子に対する情欲と独占欲に苛まれていく。そこへ園子の夫、柿内が絡んで、最後は園子、柿内、光子が、なんと心中するが、園子だけは生き残る。
 
筒井康隆の言う、「こんなに複雑な話を饒舌体でもって面白おかしく語ってしまえる」というのは、その通りであるが、「面白おかしく語」るというところに、筒井の、実作者としての何とも言えない複雑な保留がある。
 
仮に、現代作家が今のこととして書けば、どろどろした性は全面的に、明け透けに出てくるだろう。それなくしては、地に足がついてないと思わざるを得ない。
 
しかし谷崎が『卍』を書いたときには、これでも小説になったのだ。

『卍』は昭和3年から5年にかけて、断続的に『改造』に掲載された。この時代に性的な話が、どこまで許されるものだったかは、私には分からない。
 
また谷崎が、登場する女と男が、いずれも性的に関係があるのは、当たり前と考えていたかどうか、これも私にはわからない。
 
しかし生々しい性の側面が、描かれていないという点は、間違いないのであり、そのことを考えると、小説は「進歩」したのである、と言えるのではないか。
 
だから谷崎の『卍』は、今では読まれなくなり、それは当たり前のことだ。
 
では『卍』は、全く読むに値しない小説なのだろうか。そこは微妙である。
 
この文庫の解説は、中村光夫が書いている。その言うところを読んでみれば、

「大阪の『良家の奥さん』の『変な色気』を彼女自身の『言葉』または『声』を通して描きだそうとすること、ここに作者が移住後まもなくでありながら全部大阪言葉の小説を書くという大胆な試みをあえてした理由があると思われます。」
 
なるほどそういうことか。

しかし例えば、「先生の御宅い寄せてもらうようになりましてから」という、「先生の御宅い」というのは、おかしい。

「先生の御宅へ」というつもりだが、関西に移り住んで間もない谷崎には、「御宅い」と聞こえたのである。そういうところは、他にもいっぱいある。
 
再び中村光夫の言うところを聞こう。

「ここにこの小説の過渡的な性格が見られるので、当時の潤一郎にとって、関西の人情風俗は、それまでの彼にとって中国や横浜の山の手本牧などと同様に、一種の異国趣味の対象であったことを物語っています。」
 
だから谷崎を、点ではなく線として読まなければならない、と中村は言う。

「関西という土地が、彼にとってたんに好奇心の対象から、血肉化した日本の伝統への眼覚めの契機として、彼の心のなかで熟して行くにつれ、同じ大阪の『良家の奥さん』を描いても、柿内園子のような異常な女性から、蒔岡幸子のように平凡健全な女性に、作者の興味は移って行ったので、潤一郎が青年時代の『恋愛派』の作家から、現在の我国最大の国民作家と云えるような地位に達したのは、この変化によるものです。」
 
谷崎潤一郎の『卍』は、そういうふうに読まなければいけない本なのだ。
 
けれども、私に残された時間を考えれば(といっても、どれだけ残されているかは分からないのだが)、谷崎を、ずっと後をたどって読むことはできない。

(『卍』谷崎潤一郎
 新潮文庫、1951年12月10日初刷、 2012年11月30日第110刷)

ただ懐かしい――『書評稼業四十年』(3)

それにしても、五木寛之、野坂昭如に象徴される、新しいエンターテインメントが登場する前、北上次郎は、どんなものを読んでいたのだろうか。
 
そこにあるのは、前後する作品の、凄まじい落差である。たとえばその前に、熱中して読んでいた源氏鶏太。北上は、そんなものを熱心に読んでいたことが、信じられないと言う。

「『堂々たる人生』の主人公中部周平は、発表から五十年近くたってみると、信じがたい男といっていい。ヒロインの眼に映る主人公は『男らしい男』なのだが、どう読んでも単純ばかにしか見えないのは辛い。」
 
これは、ただただ笑うしかない。一刀両断、切られて終わりですなあ。

「この『堂々たる人生』は中部周平の勤める玩具会社が資金繰りに困り、その会社の危機を救うために主人公が奮闘する物語だが、真剣に対応すれば必ず道は開ける、というのはたしかに一面の真理かもしれないものの、それしか言わないのでは困ってしまう。」
 
こんなものを、なぜ熱中して読んでいたのだろう、と北上は言う。でもこういう小説が、確かに売れていた時代があった。つまり、娯楽のない時代である。
 
五木・野坂とは別に、空前のミステリーブームというのもあった。

「ほとんど小説を読んだことのない十五歳の少年〔北上次郎のことです〕が、前期の清張作品、たとえば『点と線』や『ゼロの焦点』や『砂の器』、そして梶山李之『黒の試走車』をいきなり読むのだから驚くのは当然だろう。」
 
これは「書評稼業四十年」の、前の段階であるが、それにしても書評家というのも、一朝一夕にはできあがらないものだ。
 
北上次郎はこんなふうに述べている。

「私が書きたかったのは、昭和四十年前後に中間小説誌の黄金時代があったこと、この時期に日本のエンターテインメントの質が飛躍的に向上したこと――この二点である。」
 
僕はこれに、北上次郎の読書欲が最も旺盛だった、十代後期に当たっていたことを、申し添えたい。
 
この本はほかに、書評原稿のギャラの内実が書いてあったりして面白い。

「だいたい一篇三千円から六千円くらい(一部例外もあるが基本)。だから五十篇やると十五万から三十万。それを六社やれば総額が百万から二百万。増減もあるかもしれないが、これが一般的な相場になっているようだ。『理想の仕事』ではあってもそれだけで生活するのは少し辛い。難しいものである。」
 
よく考えてください。全部で、一年間に300本ですよ。「理想の仕事」とはいっても、内実は、本を読む「奴隷」ではないか。
 
もっとも、本だけ読んでいたかった北上次郎としては、理想かもしれないが。
 
一番最後にこういうことが書いてある。

「いちばんいいのは、本を外から見ていることだろう。本を手に取って、これは面白そうだなあと外から見ているときがいちばん幸せである。」
 
それはもう、僕も本当にそうだなあと思う。

(『書評稼業四十年』北上次郎、本の雑誌社、2019年7月30日初刷)

ただ懐かしい――『書評稼業四十年』(2)

野坂昭如は「小説現代」に、「ああ水銀大軟膏」というのが載っていて、それを読んだのが最初だと、北上次郎は言う。
 
これは「毛虱に悩む若者たちの日々を軽妙に描いたもので、『さらばモスクワ愚連隊』と同時に読むと、あまりのスケールの小ささに脱力するが、逆にそれが新しく見えてくるから不思議であった。」
 
野坂は「小説中央公論」に「エロ事師たち」を書いて、すでに文名は高かった。

これは、田舎の高校生だった僕も読んで、面白いなあと、友だちに宣伝しまくった記憶がある。
 
野坂昭如は、昭和44年7月号の「小説現代」に、「骨餓身峠死人葛」を載せた。
 
これは「近親相姦を主題にした作品で、亡びゆく鉱山の暗さと、卒塔婆に寄生する死人葛の暗い色調が妙にマッチして忘れがたい作品である。……土着的な味わいの短編ではあるのだが、なんだかとてつもなく新しい風がそこにはあったのである。」
 
大学生がそれをめぐって侃々諤々やり合う。ちょうど今の大学生が、村上春樹を巡ってやり合うようなものだ。
 
しかし北上次郎は、それともちょっと違うのだ。
 
五木寛之に「鳩を撃つ」という短編がある。テレビのディレクターが住む団地に、野性のドバトが現われ、その鳩に夫婦で怯える話だ。
 
北上次郎は「私たちの生活の足もとが揺さぶられる不安がここにはある」という。

「さらばモスクワ愚連隊」や「蒼ざめた馬を見よ」は、その新しさが理解しやすいが、本当に新しいのは、むしろ「鳩を撃つ」の方だったのではないか。そういう気がしていると、北上次郎は言う。

「五木寛之が登場してくる以前にこういう小説はなかったことを考えれば、ここにこそ五木寛之という作家の新しさが秘められていたと思う。」
 
こういう五木論は読んだことがない。五木寛之が、万人に分かりやすい方に行き、ベストセラー作家になる前に、分かれ道があったのだと思う。
 
しかしもちろん、北上次郎はそのころ、批評家の端くれですらない。
 
これは野坂昭如の場合も、同じことだ。

「名作『アメリカひじき』『火垂るの墓』が別冊文藝春秋とオール讀物に載ったのは同年〔昭和42年〕だが、初めて読んだ『ああ水銀大軟膏』、ひまわり〔=喫茶店の名〕で話題になった『骨餓身峠死人葛』、簡易製本した『好色の魂』、野坂昭如に関してはこの三作のほうが個人的には印象深い。」
 
これが、北上次郎の信頼するに足るところだし、いつでも、個人が揺るぎなく立っている。あんまり見栄も切らず、大上段に振りかぶったりもしないけれど、でも、だからこそ信頼できるのだ。
 
それにしても、1960年代後半の「小説新潮」「オール讀物」「小説現代」の部数は、三誌で100万を超えていたと思われるから、すごい時代があったものだ。と、これは北上次郎に追随して思わざるをない。

ただ懐かしい――『書評稼業四十年』(1)

書評家・北上次郎は、またの名を「本の雑誌」初代社長、目黒考二、たぶんこちらの方が有名だろう。
 
目黒考二の本も何作か読んだ。『発作的座談会』『いろはかるたの真実』『沢野絵の謎』等々。いずれも本の雑誌社から出ていた。
 
藤代三郎というペンネームでも書いていて、『戒厳令下のチンチロリン』というのを読んだことがある。こちらは情報センター出版局刊。
 
ペンネームは異なっていても、いずれも面白かった。
 
今回は、著者も古希を超えたので、40年余にわたる書評家人生を、振り返ってみようというわけ。
 
著者は学生時代から、「週刊読書人」のミステリー時評を読んできた。

「将来のビジョンも何もなく、錦華公園のそばの喫茶店で怠惰に本を読んでいるだけだったが、可能ならば『週刊読書人』でミステリー時評を書くような人になりたいと考えていた。」
 
そういう人になりたいというのが、著者の夢だった。
 
変わった方だなと思う。そのころ、というのはおよそ50年前、「週刊読書人」はすでに読む人も少なく、ましてやそこで、ミステリー時評が楽しみだというのは、奇特な読者という以外にない。
 
北上次郎はこの後、どんな本を読んでいたか。
 
1976年に「本の雑誌」が創刊されるから、もちろんミステリーは読み続けている。
 
しかしもっと前から、読み続けていたものがある。それは中間小説誌御三家と呼ばれる、「小説新潮」「オール讀物」「小説現代」である。
 
なぜこういうものを、読むようになったかというと、60年代後半に、五木寛之と野坂昭如が登場して、それで20代の人にも読者が広がったのだ。
 
五木寛之の「さらばモスクワ愚連隊」や「蒼ざめた馬を見よ」には、決定的に新しいところがある、と北上次郎は言う。

「日本の現代エンターテインメントにグローバルな視点を導入したことだ。私たちがどれだけちっぽけな存在であったとしても、世界の一員であることを否応なく感じざるを得ない時代が到来しつつあり、そういう来るべき政治の季節の予見とも言うべきものが、五木寛之の小説にはあった。だから五木寛之の小説にみんなが魅了されたのである。つまり私たちが初めて持ちえた同時代の作家だった。」
 
なるほど五木寛之の小説には、そういう新しさがあったのか。
 
しかし僕は、あまり感心しなかった。五木寛之の小説は、感動するところに乏しかったのだ。

編集上の工夫で売れるのか?――『仏教抹殺ーなぜ明治維新は寺院を破壊したのかー』

この文春新書は八幡山の啓文堂で、3か月で5刷になっているのを見て、いわば「吃驚して」買ってしまった。
 
著者の鵜飼秀徳はジャーナリストで、僧侶の顔も持つ。著書に『寺院消滅』『無葬社会』があると聞けば、宗教ジャーナリストとして、第一線で活躍中の人であることが分かる。
 
もっとも僕は、どちらも読んでいない。読まなくてもわかると言えば、傲慢かな。
 
本書は「廃仏毀釈」を取り上げ、それがどんなふうであったか、各地を回って僧侶や郷土史家、学芸員などに、取材して回ったものだ。

「廃仏毀釈」は、明治政府が打ち出した神仏分離令を拡大解釈し、仏教を排撃した事件を扱ったものだ。
 
ただそうはいっても、1870年(明治3)頃から76年(明治9)頃までと、その期間は短い。
 
全体は八章に分かれていて、「新日本紀行・廃仏毀釈の旅」というのが、掛け値なしのところだ。
 
でも「新日本紀行・廃仏毀釈の旅」では、文春新書にはならないだろう。

『仏教抹殺ーなぜ明治維新は寺院を破壊したのかー』とやれば、教科書では一見当たり前のことが、「抹殺」って何のことだ、と興味を覚醒したのではないか。そうとでも考えるよりほかに、考えようがない。

「廃仏毀釈」と一言で片づけるが、その様相は全国各地で異なっている。
 
仏教排撃が盛んだったのは、比叡山、水戸(第一章)、薩摩、長州(第二章)、宮崎(第三章)、松本、苗木(第四章)、隠岐、佐渡(第五章)、伊勢(第六章)、東京(第七章)、奈良、京都(第八章)など。

そしてこれ以外は、神仏分離政策を粛々とやっただけで、特に目立つ事例はない。
 
著者は、「当時行われた仏教迫害というタブーの痕跡を、全国的に現場を歩いて調査した事例はこれまでほとんどない」というが、それは仏教が、もうそれほど人の関心を呼ばなかった、ということではないのか。
 
もちろん僧侶や仏教関係者にとっては、関心のあるテーマだとは思うが、しかし「廃仏毀釈」はそれ自体、強烈なマイナス・イメージを持った言葉だ。できれば僧侶も、口にしたくはあるまい。
 
こういう新書が売れるについては、編集上の工夫で何とでもなるということか。ただただ参りましたというほかはない。

(仏教抹殺ーなぜ明治維新は寺院を破壊したのかー』
 鵜飼秀徳、文春新書、2018年12月20日初刷、2019年3月1日第5刷)

教科書通りのミステリー――『罪の轍』

オリンピックの前年、1963年に、北海道から東京に出てきた若い男が、誘拐事件を起こす。
 
これを犯人、警察、山谷で働く若い女の、三点から活写したミステリーである。
 
これには下敷きになった事件がある。1963年3月、東京・下谷で起きた「吉展ちゃん誘拐殺人事件」である。
 
奥田英朗は、その事件とは微妙にズラしながら、犯人の、孤独で、人格的に障害を持った、人となりを描いていく。
 
落合刑事を中心とする警察の描き方も、山谷で宿屋と食堂を営む町井ミキ子の描き方も、それぞれ手慣れたものだ。
 
電話が普及してきたころで、この誘拐劇でも、重要な役割を果たす。それも含めて、小道具や風俗は懐かしいものだ。
 
著者は極力、自分の意見を、表だって表明しない。これは全体が社会派ミステリだから、そういうものだ。
 
それでも、600ページを書き継いでゆけば、本音はチラリと漏れてくる。

「戦後十余年、日本は新興宗教が花盛りだった。駅前で、繁華街で、いつも怪しげな僧侶が経を唱えている。戦争で三百万人も死ねば、誰だって神にすがりたくなるのだろう。」
 
あるいはこんなところ。

「先日も日教組が浅草署に押しかけ、署長は辞職せよと門前でシュプレヒコールを上げていた。学校の教師が、そういう真似をする。すべて戦前の全体主義の反動なのである。」
 
この辺は、奥田英朗の本音が漏れていておかしい。
 
もっともこれは、警察の側から描いた場面なので、そういう側面から、意見を言ったものかもしれない。

でも僕は、著者の本音が、思わず出てきたものだと思う。

この本では、犯人の宇野寛治が、いかにもわびしく寂しいけれど、でも個性豊かに描かれていて、忘れ難い。
 
小学生のとき、継父に、交通事故を装った「当たり屋」をやらされ、その時の、最も大事なことの記憶が抜けている。それは殺人においても、そうなのだ。
 
その記憶を最後に取り戻す。そして言う。

「悪さっていうのは繫がってるんだ。おれが盗みを働くのは、おれだけのせいじゃねえ。おれを作ったのは、オガやオドだべ」。
 
しかしもちろん、自分の罪が、それによって軽減されるとは思っていない。自分は、生まれてこなければよかったのだ。そんなことを思っている。
 
奥田英朗は、『最悪』『邪魔』と読んできて、『無理』で、今度ばかりは底が浅いと思ってやめた。
 
それからまた精神科医・伊良部のシリーズ、『イン・ザ・プール』『空中ブランコ』『町長選挙』を読んで、それ以後、同じシリーズが出ないのでやめた。
 
途中、妻が面白いと言っているので、『ララピポ』を読んだ。これは、荒廃した時代を先取りしていて、とても面白かった。

『罪の轍』は、いってみれば教科書通りのミステリーだが、しかしそういうものも、いろんな読書の合間には欲しくなるのだ。

(『罪の轍』奥田英朗、新潮社、2019年8月20日初刷)