ユニーク、大谷崎――『陰翳礼讃・文章読本』(2)

谷崎は、女性の肉体に対しても、独特の見方、はっきり言えば、一つの「偏見」を持っている。

「私は母の顔と手の外、足だけはぼんやり覚えているが、胴体については記憶がない。それで想い起すのは、あの中宮寺の観世音の胴体であるが、あれこそ昔の日本の女の典型的な裸体像ではないのか。あの、紙のように薄い乳房の附いた、板のような平べったい胸、その胸よりも一層小さくくびれている腹、何の凹凸もない、真っ直ぐな背筋と臀の線、そう云う胴の全体が顔や手足に比べると不釣合いに痩せ細っていて、厚みがなく、肉体と云うよりもずんどうの棒のような感じがするが、昔の女の胴体は押しなべてああ云う風ではなかったのであろうか。」
 
そんなことはなかったと思うよ。それにしても女の身体については、はっきり言って、もう無茶苦茶ですわ。棒のような女性のずんどうに、暗い光を当てて、何でもないところに、陰翳を生じさせる。これ、かなり変態でっせ。
 
谷崎自身の女人の好みは、どうだったんだろうか。大いに気にかかるところだ。

「陰翳礼讃」の最後は、こういう文章である。

「私は、われわれが既に失いつつある陰翳の世界を、せめて文学の領域へでも呼び返してみたい。文学という殿堂の檐(のき)を深くし、壁を暗くし、見え過ぎるものを闇に押し込め、無用の室内装飾を剝ぎ取ってみたい。それも軒並みとは云わない、一軒ぐらいそう云う家があってもよかろう。まあどう云う工合になるか、試しに電灯を消してみることだ。」
 
こういう結びの一文があって、収まるところに収まっているが、途中は、あまり教科書にはふさわしくないものだ。つまり、変に面白おかしいところがあるのだ。

「文章読本」は、以下の二点をもって、名文とする。

「長く記憶に留まるような深い印象を与えるもの
 何度も繰り返して読めば読むほど滋味の出るもの」
 
とはいっても谷崎も言うとおり、そういうお題目を並べても、「名文」を知らない者は、どうしようもない。
 
はっきり言って僕なども、「長く記憶に留まるような深い印象を与えるもの、何度も繰り返して読めば読むほど滋味の出るもの」と言われても、それを具体的に、読者の目の前に、これでどうかとご覧に入れることはできない。
 
せいぜいが、養老孟司先生の書くものは、名文の一例だ、というくらいのものだ。
 
そこで谷崎は、あの手この手を駆使して、どんなものが名文であるかを、委細を尽くして詳述しようとする。そこはどうか実際に読んでいただきたい。
 
この「文章読本」は、作家が実地に言葉と格闘をして作り上げているので、独特の迫力がある。凡庸な文法、語法の教科書とは、天と地ほど違う。
 
そして「陰翳礼讃」と「文章読本」の間に、三本の随筆、「厠のいろいろ」「文房具漫談」「岡本にて」が挟んである。これは、うめぐさのようだが、そうではないのだ。
posted by 中嶋 廣 at 09:09Comment(0)日記